「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 2 ]
>>2 ペガサスさん
新スレッドを立てて下さって、ありがとうございます。有意義な議論が展開
されることを期待します。
> 共々に教学の為の教学ではなく学会を良くするが為の教学ということで頑張
> っていきたいと思います。
いっしょに頑張りましょう。前のスレッドでも書きましたが、私は、理論と
いうものは、なんらかの問題を解決するために必要とされ、生み出されるもの
であって、いかなる問題も解決しないような理論などはどうでもよい理論だと
思っています。もちろん、「教学の為の教学」というようなものは、どうでも
よい理論だと思います。
>>7 ペガサスさん
> 何故修行中心の釈迦仏教が、大乗になり祈りが根底の修行になったのか?
> 一般民衆が修行が中心とするには無理があり、拡大出来ないのはは分かりま
> すが何かを拝むというように変化したのは、最高の境涯即ち仏界(すばらし
> い生命が内在しているものを引き出す為)という事なのかと言う疑問です。
> なんか回りくどいいい方ですが、何かを拝むことによって仏界が涌源すると
> いうのはどういうことなんだろうという疑問です。
私は、仏教というのは、「智慧による自他の解放の運動」だと思っています。
ですから、絶えず今ある自己を乗り越えていこうとする精神こそが仏教の基本
精神だと思っています(このことは以下でも論じました)。
創価学会応援隊・会議室2での発言[ 1 ]
http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html
しかし、残念ながら、歴史的には、いつのまにか自己肯定的な(自閉的な)
思想に変質していってしまったわけですね。
「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/019.html
タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
http://fallibilism.web.fc2.com/022.html
空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い(藤田正浩)
http://fallibilism.web.fc2.com/023.html
私は、「梵我一如」の思想こそが、「自己肯定的な思想」の正体だと見てい
ます。
仏教の消滅(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/060.html
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
#資料の提示が多くなってしまい、本当に申し訳ありません。
>>12、>>16 リナ・インバースさん
お久しぶりです。お元気そうですね。アメリアさんにはよろしくお伝え頂け
たでしょうか?
> 反創価さん、仏教で過去世どうこうがないなんてこと、
> あるわけないでしょ? 般泥おん経に書かれてるよ。
リナさんがおっしゃる通り、釈尊滅後に創られたいろんな仏典の中で、「過
去世」が説かれています。おそらく、その源流は「ジャータカ」とよばれる讃
仏文学だろうと思います(『法華経』の「薬王菩薩本事品」も「ジャータカ」
の流れをくむものでしょう)。
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讃仏文学は、その名のとおり、釈尊への讃仰が一種の超人化を含みつつ、
文学作品として創作されたものをいい、とくにインド特有の輪廻─業の思
想と結びつき、釈尊の前生(本生ともいう、いわゆる前世)にさかのぼっ
て、尊崇してやまない超人的な釈尊は、前生に偉大な美徳を積んだにちが
いないと考え、その傑出した遺業・遺徳を物語る。それは通常「ジャータ
カ」(生前の生涯の物語である前生譚)の名で親まれ、その作品の数はす
こぶる多い。
(中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』〔小学館ライブラリー80〕、
小学館、1996年、p. 258)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
しかし、今ここで問題にしているのは、釈尊滅後に展開された讃仏文学のよ
うな神話の世界の話ではなくて、歴史上の釈尊自身がどのように考えていたの
かということなのです。
> 釈尊自身が説いてないも何も、涅槃経も釈尊が説いたものでしょう。
以前にも説明させて頂いたように、それは間違いなのです。
大乗経典の成立史に関しての誤解について
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_02.html#0110240428
>>20 ペガサスさん
> 「永遠なる釈尊あるいは永遠でいてほしいというグループ」が作成したと言
> うことでしょうか?
『法華経』は「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」を説いていると思
いますが、これはきわめて仏教的だと私は思っています。
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「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、
『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』
と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説
いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となる
のである。
(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』
〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/020.html
「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に
乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。
(岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)
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仏の入滅した後の衆生にとっては、仏はすでにこの世にないのであるから、
現実に存在するものは、経典とそれを説く法師である。この二つのものが
仏に代るはたらきをなすのであり、そこにおいてこそ仏の姿を認めねばな
らぬというのが法華経の説かんとするところであろう。法華経の最後の章
の普賢品に、「法華経を受持するものは、釈迦牟尼仏を見、供養するのと
同じである。そしてこのように経を受持する人もまた仏と同じように敬わ
れるのである」(取意)と述べているのは、法華経の結論に当るものであ
ろう。
(勝呂信静「法華経の仏陀論」、渡辺宝陽編『法華仏教の仏陀論と衆生論』、
平楽寺書店、1985年、p. 108)
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法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅
を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
(日蓮「守護国家論」、学会版全集、p. 66)
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釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字
を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし
(日蓮「四条金吾殿御返事」、学会版全集、p. 1122)
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より詳しくは、例えば、以下を参照して頂ければ幸いです。
仏身論メモ
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html
あと、寿量品が「釈尊の成仏」を「五百塵点劫」まで遡って説いている点に
ついては、私は以下のように解釈しています。
犀角独歩さんとの対話、註5
http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html#5
リナさんへ
リナさんが、学問的な成果をいっさい無視して、自分の信じたいものを好き
なように信じるといわれるのであれば、そうされればよいと思います。もっと
も、そのような態度を貫かれると、おそらく誰からも相手にされなくなるとは
思いますが、それがリナさんの生きる道だと言われるのであれば、私が口出し
する問題でもないでしょう。
> 法華経など大乗経典について神話とか言われていますけど、神話だという証
> 拠でもあるんですか?
リナさんは、『法華経』に説かれているあの巨大な多宝塔が、実際にこの地
球上に現われたと信じておられるのでしょうか。
> 法華経とか、大乗経が釈尊の説いたものでないとするならどうして、
> 釈尊の予言が当たったりしているんですか?
釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえないというこ
とは以前に説明させて頂きました。そうなると、リナさんが信じているところ
の「釈尊の予言」によれば、末法は何年からということになりますでしょうか。
釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえない
http://fallibilism.web.fc2.com/z017.html
> 竜樹の登場とか、阿育王の登場とか予言してると聞いてますけど。
> それと、竜の口の法難で、法華経行者の守護の現象が現れたのは?
後から創られた伝説・神話でしょう。
> 移ろいゆく時代時代に応じた形で発展してきただけのことで、
> 基本は釈尊の教えを継承していると捉えられると思いますけど?
もちろん「釈尊の教えを継承している」部分については問題はありません。
そうでない部分が問題なのです。今、ここでは、「釈尊の教えを継承してい
るとはいえない可能性がある部分」について、みんなで批判的に吟味してい
るのです。
リナ・インバースさん
もしも、リナさんが、「学問的な成果を無視したりはしない」といわれるの
であれば、創価大学の菅野博史先生が書かれた『法華経入門』をまず読まれて
みてはいかがでしょうか(新書なので読みやすいと思います)。
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ちなみに霊鷲(グリドラクータ)山は小高い丘で、頂上が平らになって
おり、釈尊の説法場所の一つとして有名である。歴史上の釈尊はこの霊鷲
山での説法の後、故郷を目指して旅立ち、三ヵ月後に涅槃に入った。この
旅路の様子は小乗の『涅槃経』に詳しく説かれている。『法華経』は釈尊
の臨終直前の説法という設定であるから、霊鷲山を説法の場所として選ん
だのである。もちろん、ここに本経に列挙されるような膨大な数の人が集
まれるはずはないので、大乗経典が創作であることを自ら明かしていると
もいえよう。
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、
2001年、p. 23)
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>>37 リナ・インバースさん
宗祖の時代には、ほとんどの経典は釈尊の直説と考えられていました。です
が、そのような考えは、残念ながら、現代では通用しないのです。
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たとえば、悪魔祓いとか加持祈■〔示+壽〕といったものを支える中心的
教条にたいして、こうした行為の実践者たちがどのような態度をとってい
たか、また人々はどう対応したか、要するに、時代や環境による制約を受
けつつも入手可能な知識に照らして十分批判的に行動していたかどうかと
いった点についての状況分析が、合理性評価の際の欠くべからざる要素に
なるだろう。人類の歴史には、こんにちの知的水準からすれば、非合理と
言わざるをえないものが数多く存在する。西欧の科学技術文明を尺度とし
たときには特にそうであろう。この尺度によれば、過去に人々が信じてい
た言明のほとんどすべては誤りであったとされるかもしれない。しかし、
非合理として非難されるべきは、そうしたある知的段階で産み出された信
念とか言明──たとえば、雨乞いの祈■〔示+壽〕を支えている信条──
そのものであるというよりも、そうした信念とか言明にたいする人々の側
の、たとえば、無批判的にして教条的な態度であろう。
(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、
1993年、pp. 165-166)
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「無批判的にして教条的な態度」は、「狂人の精神に近い」と私は思います。
精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
> リブラさん。
> では、どうしろと言われるんです?
まずは、菅野先生の『法華経入門』などを読まれて、じっくりとお考えにな
られてみてはいかがでしょうか。
>>44 ペガサスさん
> 「法華経」のいわんとする精神は、「智慧による自他の解放の運動」
> ということでよろしいんでしょうか。
私はそのようにとらえています。
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
私は、>>26 に書いた「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」という教え
を、とても大切な教えだと思っています(私の書いた内容では納得して頂けな
いでしょうが)。
#用事で出掛けなければなりませんので、これから3、4日、ネットから離れ
#ます。レスがおくれることを申し訳なく思います。
ペガサスさんへ【1/6】
レスがおくれてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。
> 法華経がPohさんのいわれるとおり我正統なりというグループで作成され
> たのは間違いないようです。
《『法華経』は、ただ「我正統なり」と主張しているだけで、肝心の中身が
全くない》というような内容の批判が昔から(遅くとも江戸時代から)あるよ
うですが、私はそのような批判はあたらないと思います。たしかに『法華経』
は、仏教の教理を散文的にいちいち詳しく解説したりはしていませんが、仏教
の教理に触れていないわけではないと思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一
言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよいであろうか。こ
の問いを前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出
さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを
尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはみ
な菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語
りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践
をしたのであった。ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そ
ればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、
彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩という名の
菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」は、
この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きた
いと痛切に祈った人物である。
この、あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという、きわめてシンプ
ルではあるけれども混迷する現代の諸問題を解決に導くための基本的な視
点、人としての振舞いの原点を指し示した思想と実践が『法華経』の真実
の核心であると思う。
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、
pp. iii-iv)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言(Libra)、No. 11619
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_02.html#0110231331
本尊論メモ(Libra)、「経題釈」との関係
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#kyoudaisyaku
Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言(Libra)、No. 11627
http://fallibilism.web.fc2.com/Yahoo_02.html#0110231529
ペガサスさんへ【2/6】
> それにしても人間を解放すべき「法華経」を学会、宗門とも」根本としてい
> るのは何故でしょうか?
宗祖の教えを継承している《つもり》だからでしょう。しかし、残念ながら、
実際には、胸をはって「学会は『法華経』を師匠としている」とは、まだまだ
いえないだろうと思います。
法華経を師匠と御憑み候へ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html
創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z018.html
もっとも、昔から「『法華経』を師匠としている」ハズの日蓮宗でも、宗祖
のように《『法華経』の精神を生きる》のは、なかなか難しいようです。
真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html
宗門の学は、法華経に対する信心の欠落の状態にある(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/010.html
ペガサスさんへ【3/6】
○法華経のラジカルさについて
『法華経』は、いい意味でラジカルだと私も思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
常不軽菩薩の説話、勧持品の偈頌を見ると、『法華経』の主張(一仏乗
の思想)に反対する部派教団の宗教的権威と、その権威を支持する多数の
在家信者の存在がクローズアップされる。『法華経』の中に、部派教団と
の厳しい対立、緊張関係を見いだすことはそれほど難しいことではない。
たとえばサンガ(仏教教団)に対する供養の否定という思想も見られるほ
どである。分別功徳品第十七には、「善男子、善女人よ。私のためにもは
や塔寺を起てたり僧坊を作ったり、四事(衣服・寝具・飲食物・医薬)を
サンガに供養する必要はない。なぜならば、この善男子、善女人が経典(
『法華経』を指す)を受持・読誦するなら、すでに塔を起て僧坊を造立し
サンガを供養したことになるからである」と述べている。『法華経』の信
仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必
要としないという、見方によってはきわめてラディカルな思想を説いてい
る。
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、
p. 50)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ペガサスさんへ【4/6】
○天台教学と梵我一如について
「梵我一如」の根本論理は、松本史朗先生がいわれるところの「基体説」だ
と私は思います。そして、「基体説」を否定したのが仏教だと思います。
如来蔵思想は仏教ではない(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/001.html
「如来蔵思想」の根本論理も、同じく「基体説」だと思いますが、智ギ(天
台大師)は「如来蔵思想」に対して批判的でした。私は、智ギは、「基体説」
に対して批判的だったと解釈しています。
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智ギ(豈+頁)の思想が吉蔵の「有の思想」と相対立するものであったこと
は、弟子の灌頂の『観心論疏』巻二の次の言葉からも明らかであろう。
もし定んで、一念の心に万法を具含するをこれ如来蔵と謂ふ者は、即
ち迦毘羅外道の因中にまづ果ありと計するに同ず
(Libra「『如来蔵思想批判』の批判的検討」、
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html)
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本覚思想とは、基本的には『大乗起信論』に説かれる思想である。智ギ
(豈+頁)はこの本覚思想をどのように見ていたであろうか。智ギ(豈+頁)
には『起信論』の引用例が一箇所もないが、地論師の真識縁起説を批判し
ていることから、地論教学の基盤となった『起信論』の思想は当然知って
いたであろう。智ギ(豈+頁)は地論教学を批判して次のように述べる。
「或は言わく、阿黎耶は是れ真識にして一切法を出だすと。……若し定ん
で性実に執せば、冥初は覚を生じ、覚より我心を生ずる過に堕せん」(
『法華玄義』六九九c)。智ギ(豈+頁)は地論教学を真識縁起説として批
判しているが、それは『起信論』に説かれる真如縁起説に他ならない。
『起信論』に説かれる真如縁起説は、真如(真識・真心)に無明(妄識・
妄心)が熏習して、生滅の万法を生ずというものであり、智ギ(豈+頁)は
このような真如縁起説を評して、性(真如・真識)を実体視して執着する
のは、根本原質たる冥初より覚を生じ、覚より我心を生ずとする外道の誤
ちに堕す、と批判しているのである。
(花野充道「智ギ(豈+頁)と本覚思想」、
『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、p. 153)
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
智ギ(豈+頁)は『摩訶止観』その他に、如来蔵思想の説かれる堅慧造の
『宝性論』(勒那摩提訳)を引用しているので、如来蔵思想は当然知って
いたと思われる。しかし智ギ(豈+頁)の思想的基盤は竜樹の空思想にあり、
直接的には羅什の諸法実相の思想を承けているので、如来蔵思想の用語も
諸法実相の立場から改変して用いている。
(同上)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ペガサスさんへ【5/6】
○智ギの思想的基盤は龍樹の空思想である
智ギは「龍樹に違う」(『摩訶止観』巻五上、大正蔵第46巻、p. 56b)と言
って他派を批判したり、自ら「龍樹師に稽首(=帰命)したてまつる」(『觀
心論』、同上、p. 585c)と言ったりしているので、思想的にはたしかに中観派
(龍樹の空思想)の流れを汲んでいると思います。「空思想」と「基体説」と
は相容れませんので、やはり、智ギの思想は「基体説」とは相容れないと私は
思います。
タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
http://fallibilism.web.fc2.com/022.html
「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/019.html
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
波と海のたとえ─たとえ話の危険性(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/073.html
ペガサスさんへ【6/6】
○『無量義経』について
『無量義経』については、以下を参照して頂ければ幸いです。
戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」(池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/054.html
>>89 ペガサスさん
> 学術的にとらえるならば、造られた経緯とか必然性とかに比重が傾くかも知
> れません。
ちょっと脱線してしまいますが、その昔、渡辺照宏先生が、《『法華経』に
は「社会的特異性」が認められる》と論じられたことがありました(『日本の
仏教』、岩波新書、1958年、p.184)。で、岩本裕先生が、岩波文庫の『法華経
(上)』(1962年)の「解題」の中で、その渡辺先生のご説を肯定的に引用さ
れました(pp. 432-433)。ところが、渡辺先生は、遅くとも1970年の時点では、
そのご説を修正されています。
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私は以前に長者窮子の喩から法華経の成立した社会を類推したことがあり、
私以外にもこれらの喩から法華経社会の経済事情について論じた学者があ
ったが、これらの喩は最初から寓話として創作されたことは明らかであり、
子と別れて五十年、さらに再会してから二十年という年数からみても最初
から現実の記述でないことは明らかであるので、これにもとづいて社会事
情等を類推すべきではないという考え方に傾いてきた。良医とその子たち
の喩にしても現実としては考えられないことである。喩は喩として別に考
察しなくてはなるまい。
(渡辺照宏「法華経原典の成立に関する一考察」、金倉圓照編『法華経の
成立と展開』、平楽寺書店、1970年、p. 108)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
実は、岩波文庫の『法華経(上)』は、1976年に一度改版されているのです
が、岩本先生は渡辺先生が自説を修正されたことをご存じなかったのでしょう
か(「改版に際して」というコメントの中では、「改版に際しては、種々の都
合で、最近における仏教学者諸氏の和訳あるいは研究を網羅することができず」
〔p. 443〕といわれています)、残念ながら、問題の引用部分は削除されず、
現在に至っています。
○偽書の話
宗祖は、佐後においても、まだ台密の表現を用いられているようです。「忘
持経事」の以下の部分は、おそらく台密の「八葉蓮華説」と無関係ではないと
思われます(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、pp. 50
-51を参照)。
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心性の妙蓮忽ちに開き給うか
(「忘持経事」〔建治二年、真蹟存、原漢文〕、全集、p. 978)
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文献学的・書誌学的に明らかに偽書であると判断してよいものは問題ないと
しても、内容から真偽を判断せざるをえないような場合には、やはり、末木先
生がいわれるように、グレーの領域が出て来ると思います。結局、真蹟(や信
頼できる写本)が残っているものや五大部等の中心遺文を基本に置きながら、
そして、どこまでグレーの領域をカバーできるかという点にも目を配りながら、
日蓮思想について考えていくしかないだろうと私は思います(もちろん、日蓮
思想そのものに対しても批判的視点を持ちながら)。
○最蓮房について
末木文美士先生は、「日蓮─現世を撃つ思想」『福神』第7号の中で、「最
蓮房という人がいたということは確実になっているようですし」といわれてい
ました。以前、先生にそのことを質問させて頂いたところ、先生は、《最蓮房
宛消息以外に最蓮房の実在を証明する史料は特にないが、最蓮房宛消息が整合
性を持っており、時代状況から見ても、十分にありうることで、事実と認めら
れるということだと思う(趣意)》といわれていました。末木先生のご教示に
よれば、最蓮房に関する最近の研究としては、中條暁秀『日蓮宗上代教学の研
究』(平楽寺書店、1996年)がいちばん詳しいそうです。私はまだこの本を読
んでいませんので、もしも読まれた方がおられましたら、フォローして頂けれ
ば幸いです(下に引用する、中條先生の「最蓮房あて御書の一考察」から、何
か進展が見られますでしょうか?)。
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それから本覚思想との関係も、田村先生が言われるように単純化できな
い。本覚思想的な要素があるというだけで簡単に偽書とは断定できないも
のがあります。その境界線に立つあたりが最蓮房宛の消息で、このあたり
は微妙で、はたしてどこまでを日蓮のものと認めて、どこで線を引いて除
外すべきか、どうもすっきりいかない。最蓮房という人がいたということ
は確実になっているようですし、そうであればその消息はなるべく認めて
いくべきですが、そうすると従来偽撰とされて、昭和定本でも続編に入れ
られているものとの間も線引きが曖昧になって、連続性が出てきてしまう。
そのあたりをどう見直していくかというのは、なかなか解決がつきません。
(末木文美士「日蓮─現世を撃つ思想」、『福神』第7号、2001年11月、
p. 130)
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最蓮房は京都に生まれ、十七才で出家、天台の学僧で、生来病弱にもか
かわらず極めて道念堅固の人であつたという。日蓮より先に何らかの原因
で佐渡に配流になつていたようである。その佐渡で日蓮に値遇して弟子と
なり、日浄と法号をいただき、日蓮が文永十一年春赦免の後、翌建治元年
に赦されて、京都あるいは身延に帰つたものという。
周知のように、明確な史料が少ないため、諸説入り混じつて未詳の部分
が多い。よつて、古来から架空の人物、あるいは、実在の人と論議の喧し
かつたところであるが、立正大学名誉教授影山堯雄先生の『大崎学報』九
八号・『日蓮宗布教の研究』、立正大学教授宮崎英修先生の『不受不施派
の源流と展開』・『日蓮宗の祈■〔示+壽〕法』中において指摘されるご
とく、実在の人物であることは間違いないところである。
(中條暁秀「最蓮房あて御書の一考察」、『印仏研』29-T、1980年、
p. 212)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
>>81 さかなこさん
> Libraさんの嫌いな教学試験があるので是非是非一緒に勉強させて
> くださいませ。
こんな感じ(>>94-95)のレスでよろしいでしょうか。もちろん試
験には出ませんよ。にやり。
さかなこさんへ【1/4】
> 最蓮房さんって実在した人物なのですか??
さぁ、どうでしょうかね。末木先生が「最蓮房という人がいたということは
確実になっている」といわれていたり、影山先生、宮崎先生、中條先生らが
「実在の人物であることは間違いない」とまでいわれていたりするのを見ると
(といっても、影山先生と宮崎先生のご論文については未読なのですが)、現
在の学問的状況においては《実在した》と考えておいても別に問題はないよう
にも思えてきますが。
> ってことは諸法実相抄も本物の可能性が高いのでしょうか??
かりに最蓮房が実在の人物だったとしても、そのことからただちに、「すべ
ての最蓮房宛消息は本物(真撰)である」ということがいえるわけではありま
せんね(もちろん、諸法実相抄も例外ではありません)。
> 最蓮房に送られた御書って偽作の疑いが高いものが多いですよね。内容的に
> いってLibraさんはどう思いますか??
最蓮房宛消息は《中古天台と宗祖の思想対決》を考えるための恰好の材料だ
ろうと思います。といっても、それを本格的に考えるだけの力は、今の私には
とてもありません(キッパリ)。いずれにせよ、そう単純な問題ではないとい
うことだけは確かだろうと思います。
> 開目抄は偽書の疑いは低いのですよね。
身延曾存ですから「偽書の疑い」はゼロでしょう。しかし、真蹟が残ってい
ないので、全く問題がないというわけではありません。例えば、以下の山中さ
んのご論考を参考にされて下さい。
開目抄に対する誑惑を破す(山中講一郎)
http://www.ginpa.com/column/20000617.html
> 今日持ってきてもらった大白には開目抄は「人本尊開顕の書」であり日蓮こ
> そが末法のご本仏と書いてあります。
「末法のご本仏」という表現にはかなり注意が必要ですね。
初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html
さかなこさんへ【2/4】
> 自ら主師親の三徳を言っていたとか。。
宗祖はたしかに自らが三徳者であることを宣言されています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし
(「一谷入道御書」、全集、p. 1330)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり
(「撰時抄」、全集、p. 265)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ただし、宗祖は、あくまでも「釈子」という立場に立ちながら自らが三徳者
であることを宣言されているという点を、きちんと押さえておく必要があると
思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
釈子 日蓮 述ぶ
(「撰時抄」、全集、p. 256)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
しゃくし【釈子】(『仏教哲学大辞典』)
http://fallibilism.web.fc2.com/058.html
宗祖は、最終的には、ご自分だけではなく、法華経を実践しているすべての
人を三徳者と考えておられたのだろうと思います(「法華経を心得る者は釈尊
と斉等なり」)。それと同時に、《自分こそがもっとも忠実に法華経を実践し
ているのだ》という自負もお持ちだったのだろうと思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申
す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是
を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師
子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾
子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かる
べからず
(「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
さかなこさんへ【3/4】
> ざっと読んだ感じ念仏批判も激しいし法華経の行者の難とか三類の強敵とか
> かなり自己正当化で被害者意識強いように見えるしえらそうだしさっぱりど
> こら辺が凄いと言われてるのか分かりません。
もしも、いくら読んでも「凄い」と思われないのであれば、別に無理して
「凄い」と思わなくてもいいのではないでしょうか。思想とか生き方というも
のは、最終的には自分で選びとるものだと思います(ただし、いったん自分で
選びとった思想や生き方であっても、それをつねに他者の批判にさらして、必
要なら改めていこうとする態度はとても大切だと思います)。
最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/007.html
> 開目抄を読む醍醐味を教えていただけたらと。。。思います。
宗祖の時代に入手可能であった知識(や時代や環境によるさまざまな制約)
というものを少し意識して読まれてみてはいかがでしょうか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
たとえば、悪魔祓いとか加持祈■〔示+壽〕といったものを支える中心的
教条にたいして、こうした行為の実践者たちがどのような態度をとってい
たか、また人々はどう対応したか、要するに、時代や環境による制約を受
けつつも入手可能な知識に照らして十分批判的に行動していたかどうかと
いった点についての状況分析が、合理性評価の際の欠くべからざる要素に
なるだろう。人類の歴史には、こんにちの知的水準からすれば、非合理と
言わざるをえないものが数多く存在する。西欧の科学技術文明を尺度とし
たときには特にそうであろう。この尺度によれば、過去に人々が信じてい
た言明のほとんどすべては誤りであったとされるかもしれない。しかし、
非合理として非難されるべきは、そうしたある知的段階で産み出された信
念とか言明──たとえば、雨乞いの祈■〔示+壽〕を支えている信条──
そのものであるというよりも、そうした信念とか言明にたいする人々の側
の、たとえば、無批判的にして教条的な態度であろう。
(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、
1993年、pp. 165-166)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
さかなこさんへ【4/4】
宗祖は『法華経』の思想に惚れこまれていたわけですから、その当時に入手
可能であったあらゆる知識を駆使して『法華経』を擁護しようとされたのは当
然のことだろうと思います。その中には、現代においてはとても合理的とはい
えないような根拠にもとづいた主張もあるとおもいますが、そのようなものも、
宗祖の時代には「合理的な批判」たりえたのかもしれません(もちろん、宗祖
も人間ですから、中には、時代の制約ということをいくら考慮に入れたとして
も、とても合理的とはいえないような主張があるかもしれません)。もっとも、
それらを「現代においても全くそのまま通用する」と思い込んでしまうとすれ
ば、そのような精神は「狂人の精神に近い」と私は思います。
精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html
他のスレッドで「四箇格言」のことが話題になっているようですが(詳しく
読んだわけではありませんが)、これについても同じようなことを思います。
私は、宗祖の時代においては、「四箇格言」は「合理的な批判」だったと思っ
ているのですが、もちろん、それが「現代においても全くそのまま通用する」
などとは思っていません。それでも、その批判精神それ自体は高く評価してい
ますし、現代でも立派に通用すると思っています。
真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html
掲示板「Pay It Forward」での発言(Libra)、No.599〜
http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#599
さかなこさんへ
> 自分なりに「いいな」って思うところは学会が重要視しなくても
> 赤線を引っ張っておきたいとおもいましゅる。
そうそう。そういう感覚で自由に読まれるといいと思います。
> ポパー哲学って何ですか???
ポパーというのは哲学者の名前です。ポパーの考え方については、例えば、
以下などを参照されてみて下さい。
ポパーの倫理思想(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/083.html
ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://fallibilism.web.fc2.com/114.html
私は、ポパーの哲学と釈尊の教えにはかなり似たところがあるのではないか
と思っています。以下も参照して頂ければ幸いです。
対話主義と可謬主義(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html
創価学会応援隊・会議室2での発言(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/kaigishitu2.html
> 教学試験にLibraさんに教えてもらったこと書いたら落ちるかなあ。。。と
> 考えてみました。。。。
大丈夫です。答案用紙に書けるようなことは何ひとつ教えてません(笑)。
>>103、>>105 ペガサスさん
貴重なコメント、どうもありがとうございました。
「空気孔を閉めろという命令に反し開けていた兵士」のように私も生きたい
と思っていますが、はたして自分にそれができるのかどうか…。そういうこと
を改めて考えさせられるお話でした。
> 釈尊回帰の運動が法華経になったのでしょうか。
「釈尊回帰の運動」は『法華経』の中心テーマの一つだと思います。《釈尊
への回帰》は《仏教(ブッダ・シャーサナ)への回帰》でなければならないと
思います。
「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
先日、松戸行雄先生(元・東洋哲学研究所欧州研究部長)から、拙文「本仏
と真仏」に対するコメントを頂戴したのですが、本日、やっとHPにアップす
ることができました。ご覧頂ければ幸いです。
拙文「本仏と真仏」、〔02.08.25 付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z022.html#fuki020825
松戸先生からは、以下のご論文をHPにアップする許可も頂戴しました。
日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/119.html
>>152 さかなこさん
> 福神って大きな書店じゃないと立ち読みできないですよね〜(>_<)
そうみたいですね。今度、大きな書店に行った時には、お忘れなく。
> 今日末木文美士さんの本を読み終えました。すっごくおもしろかったです〜。
だったら、末木先生の「日蓮──現世を撃つ思想」(『福神』第7号)も読
まないといけませんね。
> 後でちょこっとLibraさんのページみにいきましゅる。。。。。
松戸先生のご論文だけは、ぜひ読んでみて下さい。
>>157 さかなこさん
末木先生の「日蓮──現世を撃つ思想」(これは「論文」というよりも「講義」です)
は単行本にはなっていないと思います。
『福神』を置いている関東の書店は以下のようです(ただし、バックナンバーを常備し
ているというわけではないみたいです)。注文は下記の書店以外でも、どこでもできるで
しょう(あたりまえですが)。
────────────────────────
新宿 紀伊國屋書店新宿本店
紀伊國屋書店新宿南店
青山ブックセンター新宿店
青山ブックセンタールミネ2店
────────────────────────
渋谷 パルコブックセンター渋谷店
旭屋書店渋谷店
阪急ブックファースト渋谷店
────────────────────────
六本木 青山ブックセンター六本木店
────────────────────────
青山 青山ブックセンター本店
リブロ青山店
────────────────────────
日本橋 丸善日本橋店
────────────────────────
東京 八重洲ブックセンター
────────────────────────
銀座 旭屋書店銀座店
近藤書店
────────────────────────
神田 三省堂書店神田本店
東京堂書店
書泉グランデ
────────────────────────
高田馬場 芳林堂書店高田馬場店
────────────────────────
池袋 芳林堂書店本店
リブロ池袋店
ジュンク堂書店池袋店
────────────────────────
吉祥寺 弘栄堂書店吉祥寺店
────────────────────────
国立 増田書店
────────────────────────
立川 オリオン書房ルミネ店
────────────────────────
横浜 有隣堂イセザキ店
────────────────────────
川口 書泉ブックドーム
────────────────────────
以下、少し脱線です。
○読んだことを解釈する二つの仕方
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
人は聞きたいことだけを聞くだけでなく、読みたいものだけを読む。そのうえ、
わたくしは、ものごとを把握できるのは自分の理論の助けがあってこそだとい
つも主張しているのだから、この事実については不平をいう資格はまったくな
い。読んだことを解釈するのにはおそらく二つの仕方があるだろう。つまり読
者は、自分の解釈について無批判であるか、批判的であるかだろう。しかし、
読者が、読んだ内容についてのみずからの解釈や期待を不断に反駁しようとす
る時間と場所は、書き手の夢想のなかにしかないのだろうか。
(カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(下)』〔小河原誠・蔭山泰之・
篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 63)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
自分が読んだことをわれわれが解釈できるのは「自分の理論の助けがあってこそ」
ですから、《いっさいの先入見から完全に自由な解釈》というようなものはそもそ
もありえないでしょう。「自分の理論」とか「みずからの解釈」というようなもの
は、《牢獄》のようなものだといえるかもしれません。しかし、だからこそ、「み
ずからの解釈や期待を不断に反駁しようとする」批判的態度が必要なのだと思いま
す。
われわれは、他者との批判的討論によって、《牢獄》から脱出することができる
のでしょう(以下の資料を参照)。
フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/111.html
>>26に対する補足資料です。
日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
>>174 さかなこさん
> 試験終わりました(>_<)
お疲れさまでした。
試験が終わったから言いますが、私は学生部時代、「そもそも、試験のため
に御書を勉強するなんて何かおかしくないですか?」と主張して、先輩と論争
になったことがあります。
>>178 さかなこさん
> その話一番最初にLibraさんから聞いたようなきがしましゅ(笑)
そうでしたっけ(汗)。
> 私的には御書を読むという一つのきっかけとして試験という
> 形を取るならよいのでは?と思ってます。
そうですね。私も、任用試験は受けました。それが仏教の勉強をはじめるき
っかけだったのかもしれませんね。
> ところで法華経のダイバ品の二箇のかんぎょうって何のことでしょう??
提婆達多品は、提婆達多の成仏(悪人成仏)と竜女の成仏(女人成仏)を説
いて、具体的に法華経の力を表現しようとしているわけです。そのように力の
あるすばらしい経典なのだからちゃんと弘教してねということですね。
>>178、>>180 さかなこさん
> Libraさんのお友達の真さんが超マニアックに大好きなので
> 話が合うかも〜しれないです(笑)
真はかなりのものですからね(笑)。ガンダムについては反創価学会連盟さ
んもかなり詳しいと思います。いっそのこと、ガンダムのスレッドをたててみ
たら面白いかも。『逆シャア』のシャアをどう評価するか、とか。今の学会本
部は、ガンダムで言えばティターンズなのか、とか。
> しょぼーん(>_<)
しょぼーんしないで下さい(>_<)
#あっと、月9を見なければ。あとマイクも。
>>182 反創価学会連盟さん
> しかし、やり方はザビ家(宗門)より悪質であると言わざるをえませんね(苦笑)
一時的にですが個人的なHPを無理やり閉鎖されられた宗門の方を私は知っ
ています(反創価学会連盟さんもご存知でしょう)ので、そうは思えないとこ
ろはあります。しかし、この話はやめておきましょう。当事者にご迷惑をおか
けすることになってはまずいので。
>>184 さかなこさん
> ガンダムよりスターウォーズとハリーポッターとロードオブザリングがいい
> なあ。。
いいんじゃないですか。まとめてやっちゃえば。
> Libra師匠。。任用試験受けたんですか。。知らなかった。。
中学生の時だったんでしょうかね。よく覚えていません。
> 私はテレビも見ないでMSNで英会話チャットです(>_<)偉いなあ私(笑)
偉い!!
>>190 さかなこさん
> 中学生のLibra師匠。。。想像つかない(>_<)さぞかし嫌ながきだったんだろ
> うと。。
たしかにそのころからかなり理屈っぽかったかもしれない(汗)。
> 雑談スレッドでもたてましょうか〜。ヲタク雑談スレッド。。スレイヤーズ
> もOK。。ってして(笑)
いいですね(笑)。ということで、さかなこさん、よろしく。他のスレッド
は、ちょっと私にはついていけない展開になってきていますので、しばらくは、
このスレッドとヲタク雑談スレッドに参加を限定しようかと思っています。
> 共通の趣味の話題は思想人種宗教その他を乗り越えますしね〜。
そうあってほしいですね。
> きょーがく試験2級受かりました〜(>_<)(>_<)
よかったですね。これで私よりも上ですね。
>>207 さかなこさん
> ところで日蓮さんってどうして法然批判をとことんしてたのかしらん。。
法然の「称名念仏こそが仏教の中で最も優れた教えであり、釈尊がいちばん
説きたかったことだ」(末木『日蓮入門』、p. 111)という考えが許せなかっ
たのでしょう。あと、日蓮の法然批判の根底には、娑婆即寂光という考えもあ
ったのだと思います。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ちなみに、本書では、「『法華経』の修行者はどの浄土を期したらよい
のか」という問いに対して、「本来の久遠実成の完全な仏はこの世界にい
ますのである。この土を捨てて、どの土を願うべきであろうか」(一二九)
と答えている。法然の浄土教が、現世的要素を強めつつも、なお来世の浄
土を願うという要素を強く持つのに対して、日蓮の仏教ははじめからきわ
めて強い現世的な性格を持っている。今ここの現実を別に、仏の世界はな
い。
(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、
p. 118)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
> 末木先生は同属嫌悪っていってたような。。。三吉さんも似たようなこと
> 言ってたなあ。。。
末木先生が言われているように、「ラディカルな態度」はたしかに似ている
のでしょうね。
> 日蓮さんにとっての成仏ってなんだったのかしら。。。
諸法を《有》と見る人間(六道)、《空》と見る人間(声聞・縁覚)、《仮》
と見る人間(菩薩)、《中道》と見る人間(仏)がいるという意味で、人間に
は区別(「界」)があるというのが智ギの十界論の本質だと思います(菅野博
史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、pp. 216-219
を参照)。で、《仏になる可能性はすべての人間に開かれている》というのが
『法華経』ですね。日蓮にとっての成仏というのも、基本的には、「諸法を
《中道》と見る人間」になるということだと思います。
> 題目あげるとどうして成仏するって思ったのかしら。。。。(>_<)
娑婆即寂光という考えについてもそうなのですが、唱題についても、日蓮が
《『法華経』=釈迦仏》と捉えていたということをおさえないと理解できない
と思います。日蓮にとっては、題目というのは、《永遠に生き続ける釈尊の精
神(スピリット)》そのものだったのだと私は思います(末木先生の『日蓮入
門』の147ページ以降も参照してみて下さい)。
日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持す
れば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
(「観心本尊抄」、全集、p. 246)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
#…というような説明は、さかなこさんからすれば「わけわかめ」なんでしょ
#うが、これくらいで勘弁してください(涙)。
>>214、>>215、>>216、>>217 Pohさん
今回のPohさんのコメント、とても楽しく読ませて頂きました。ありがとう
ございました。Pohさんの無我についての解釈は、三枝充悳先生のお考え(例
えば、三枝充悳『仏教入門』、岩波新書、1990年、pp. 93-97)にかなり近い
のかなという印象を持ちました(勝手なことを言ってすいません)。
> 両教典編纂当時、おそらく編纂者はある意図をもって教典に入れる詩句を
> 選び出したとも思われます。
前にも申し上げましたが、私は、『スッタニパータ』の編纂者の仏教理解
よりも、『ダンマパダ』の編纂者の仏教理解の方をより(比較的に)信頼し
ています。
> で、これはLibraさんへの反論や批判のつもりではないので誤解なさら
> ないでほしいのですが(おそらくあなたのご見識ならこんな事は当然お分か
> りと思いますから)、まず文献学的方法を経なければここまではこないとい
> うことです。
私も「文献学的方法は不要である」などとはもちろん考えていません(笑)。
せっかくですから、無我についての私の考えを少しのべさせて頂きますと、
《無我》というのは、つきつめると、《縁起》と同じことだろうと私は思って
います。《自分(を含む「執着の対象」と考えられうるあらゆるもの)はさま
ざまに条件づけられ制約されている》という意識をもつこと(しかも肯定的に
もつこと)が《無我》のポイントだと私は思っています。ちなみに、そういう
意識からは釈尊のような《開かれた精神》が生まれると思います。私は、仏教
とは「智慧による自他の解放の運動」だと考えています(>>9)。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に
固執して生きること」という儚き夢から「常に目覚める者」がブッダなの
です。
(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、
pp.166-167)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するということがな
かったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづけることが
できたのです。
(同上、p.188)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
それに対して、ウパニシャッドの《梵我一如》(創価学会の「宇宙生命論」
もそれとあきらかに同型の思想だと思いますが)というのは、《自分はさまざ
まに条件づけられ制約されている》という意識とは全く正反対の方向をめざす
思想だと思います。《なにものにも条件づけられないもの》と自分とが一体で
あると信じることからは《自閉的な精神》しか生まれないと私は思います。そ
ういう思想的な意味に着目して、「釈尊は《梵我一如》を否定した」と私は考
えています。以下も参照して頂ければ幸いです。
宇宙生命論は仏教ではない(Libra)、〔02.06.01 付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html#fuki020601
>>219、>>220 Pohさん
ご丁寧なコメントありがとうございました。
> 自己の開放のあり方として、どうも今の学会の教えている教義や指導は、バ
> リ学会員さんたちの言動や聖教をなどを見る限り、自分の目指す『開放』と
> は方向性が違うとは感じています。
私もそう感じています。しかし、友岡さんのようなお考えの方も学会にはお
られますので、将来的には、そっちが主流になっていくように、微力ながら私
も努力していきたいと思っています。
『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)〔友岡雅弥〕
http://fallibilism.web.fc2.com/014.html
> 「凡我一如」に関しては、僕自身人間釈迦的ではないと思っていますし、た
> だ彼が僕の勝手に想像する「すべての執着から解放された心そのもの」であ
> るなら、彼自身の中では「否定・肯定」いずれもしない=つまりこだわらな
> い=どうでもよい=興味なしだったと思います
《こだわらない》ということと、《「否定・肯定」いずれもしない》という
こととはちがうと私は思っています。《「否定・肯定」いずれもしない》とい
うことになると、ジャイナ教的相対主義とかサンジャヤの不可知論になってし
まうと思いますが、釈尊の立場はそういうものではなくて、(あえて現代思想
の文脈で言うならば)ポパーの立場に近いものだったのではないかと私は推測
しています。
ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/048.html
ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://fallibilism.web.fc2.com/114.html
> また色々語り合って頂ければ幸いです。
こちらこそ、よろしくお願いします。
> >「戦う?仏教徒」「信仰者の不思議」
> これ不愉快に思われたらゴメンなさいね。
不愉快に思うどころか、私にとっては誉め言葉です(笑)。
> 僕は、ずっと前にLibraさんと三色旗さんの豪快なやりとりを拝見して
> いて、「おお、戦う仏教徒だ!」と感心したその気分をついつい思い出して
> しまうんですよ、あなたと話していると。
ご覧になっていたのですか(汗)。あの時に比べれば、最近の私は少しまる
くなってしまったのかもしれません。
>>225-230 Pohさん
とてもご丁寧なレスをありがとうございました。やはり、私とPohさんとでは、
かなり考えが異なるようですね(笑)。今回の対話では、そのちがいが読者の
方々にもよく伝わってよかったのではないかと思います。私としてもたいへん
勉強になりました。
> 僕としては、学会が「絶対」の看板を掲げている限り(「絶対」に固執して
> いる限り)、現在の方向性はなかなか変わらないのではないかと危惧してお
> りますが・・・(汗)。
前掲の聖教新聞の記事でも「自分の考えだけが正しいとして理屈をこね、人
の意見を聞こうともしないの」は「似非宗教者」だといわれているのですが、
そういう考えが浸透するまでにはまだ時間がかかるのかもしれませんね(涙)。
学会は「対話主義」ということをいっていますが、「自分の考えだけが正しい
として理屈をこね」る人に対話などはそもそも不可能だと私は思います。
対話主義と可謬主義(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html
> 僕が勝手に解釈している、釈迦の「凡我一如」「輪廻転生」「来世」などの
> 形而上学的問題に「こだわらない」というのは、(後略)
《形而上学的問題に対する釈尊の態度》についての考えも、私とPohさんと
ではかなり異なるようですね(おそらくPohさんのお考えの方がポピュラーだ
と思います)。私の考えは以下の投稿の中で簡単に述べました。
外部・内部の人たちの苦情処理機関てあるんですか?、No. 166
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1025499189&START=166&END=166&NOFIRST=TRUE
> なぜなら形而上学的真理真理など、いくら考えたところで分かる(分かった
> つもりでも、それは証明不能で、自己満足的なものでしかない)ものではな
> い。
私は、「証明不能」なのは、別に「形而上学的真理」にかぎらないと思うん
です。どのような主張も、そもそも(厳密な意味では)正当化などできないと
思います。そして、そのことを自覚しているかどうかということがかなり重要
だと思っています。
ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/109.html
《主張は正当化されなければならない》とか《正当化可能な主張しかしては
ならない》という発想からまず脱却する必要があると私は思っています。そも
そも、正当化などできないわけですから。で、主張を「自己満足的なもの」に
しないために、《主張を他者の批判にさらす》ということが重要になってくる
と考えるわけです。
ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://fallibilism.web.fc2.com/114.html
> もしも近代哲学で僕の想像している釈迦の考え方に近いものを探せといわれ
> たら(もしも彼の理解に某かの力になるものをお勧めするとしたら)ウィト
> ゲンシュタインかな?
私はウィトゲンシュタインを信用していません(苦笑)。もっとも、ポパー
派からのウィトゲンシュタイン批判についてここで論じるつもりはありません。
ポパーとウィトゲンシュタインの関係について興味のある方は、まず入門とし
て以下を参照されることをおすすめしておきます。
小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(現代思想の冒険者たち 第14巻)、
講談社、1997年、pp. 213-212。
私もPohさんも、仏教を「智慧による自他の解放の運動」と考える点では共通
しているわけですが、「解放」の意味がそれぞれ異なるということですね。Poh
さんがいわれるところの「解放」の意味については、今回のPohさんのご丁寧な
解説で、読者の方々にもだいたい伝わったと思います。私がいう「解放」の意
味については、ポパーがいう《牢獄からの脱出》ということをイメージして頂
ければと思います。
フレームワークの神話(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/111.html
>>232 Pohさん
さっそくのレス、ありがとうございました。
たぶん、私の書き方が悪かったせいだろうと思うのですが、誤解されてしま
ったかもしれない部分がありましたので、その点についてだけ補足させて頂き
ます。
> >どのような主張も、そもそも(厳密な意味では)正当化などできないと思います。
>
> そもそも正しい間違いなど相対的なもので、また時代や社会的状況の影響によ
> って、いかようにも変わるものだと思っています。
私がいった「正当化などできない」というのは、「正しい間違いなど相対的
なもので、また時代や社会的状況の影響によって、いかようにも変わるものだ」
ということではなくて、「実証できない」というほどの意味です。仮に、時代
や社会的状況の影響によっても変わらない真理のような主張をたまたま手に入
れたとしても、われわれはそれを実証することはできないと思います。
> 僕はウイィトゲンシュタインもポパーも「心の牢獄」の住人ではないかと感
> じられて仕方がない。
前掲の資料を参照して頂ければお分かり頂けるとは思いますが、ポパーは
《永遠に自分は牢獄の中にいるだろう》ということは認めます。しかしながら、
《より広い牢獄へと永遠に脱出していける》というわけです。
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原則として、より広い監獄へ、さらには、まえもって定められた限界のな
いより広い別の監獄へ逃れ出ることによって自分自身を解放できるのであ
れば、知的監獄へ閉じ込めるという終身刑の宣告を受けていたところで、
この宣告は、耐えられるばかりでなく、自由のためにたたかうというスリ
ルに満ちた展望、つまり、われわれの知的生活にとって価値ある課題を切
り開くべしという宣告ともなる。
(カール・R・ポパー『実在論と科学の目的(上)』〔小河原誠・蔭山泰
之・篠崎研二訳〕、岩波書店、2002年、p. 22)
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>>235 Pohさん
すばやいレスに感謝します(笑)。
> ウィットくんと一緒に書いちゃったのがまずかったっすねぇ・・・(汗)。
私もウィットくんがほしい〜〜(涙)。
> でも、ポパーの決意(?)って、なんか悲壮感漂ってる感じ。
私は全くそうは思わないんですが(ウィトゲンシュタインについては思いま
すけど)、それは私自身にポパーと似たような悲壮感が漂ってるからなんでし
ょうかね(汗)。これでも、私自身は、軽やかに生きているつもりなんですけ
どね(爆)。
今回は本当に楽しい対話でした。またよろしくお願いします。
>>237 しおんさん
> いっや〜〜〜!!
> PohさんとLibraさんの対話、すんごく面白かったです(@▽@;)!!
ありがとうございます(涙)。
> LibraさんのHPなんか、初見で理解できる事なんてほとんどなくて、たいてい
> 何度も読み返し、また時間を置いてLibraさんが引用された時に読み返し・・・
> それでも、読む度に少しずつわかる部分が増えていってるような『気がする』
> のが私は楽しいです。(^^)
これはすべて、私に《分かりやすく説明する能力》が絶望的に欠如している
せいだろうと思います(汗)。これはもう、いろんな人からいわれていること
でして、自分でも意識して改善しようと努力してはいるのですが、なかなか改
善されません(涙)。
> だいじょぶです。Libraさん、ウィット君連れてらっしゃると思いますよ(^^)。
私のウィット君はかなりシャイなのかもしれません(笑)。あるいは、心や
さしい人にしか見えないとか(苦笑)。
>>238 さかなこさん
> いつもは難しく見えるLibraさんのレス
>>239を書いているまさにその時に、こういわれていたとは(涙)。しょぼーん(>_<)
>>242 Pohさん
> >>235の「ウイットくん」。実はただウィトゲンシュタインの略だけのつもり
> だったのに、妙な話の展開になっちゃって弱っております。(汗)
私がコンプレックスまるだしの勘違いをしていたのですね(滝汗)。大変失礼
しました。
>>245 さかなこさん
> 掲示板ではきっとキャラを変えてるのでしょう・・・・にやり。
そんなことはないんですが、こうやって慎重に言葉を選びながら書いている
ときと、あまり深く考えずに思いついたことをそのまましゃべっちゃってると
きのギャップが大きいのでしょう。脳のちがう部分をつかってるのかもしれま
せんね。
> 仏教の話より創価中学でLibraさんが白鳥をいぢめた話しか私の記憶にはあ
> りませんもの。。。うしし。
ちょっとからかっただけで勢いよく追いかけてくるような元気いっぱいなや
つでした。でも、私たちは仲良くケンカしてたのであって、いぢめてたわけじ
ゃないですよ(笑)。「人間だって生きものさ。白鳥だって生きものさ。」と
いう感じです。そして、追いかけられていたのはいつも人間のほうでした。い
つもいっしょに追いかけられていたH君は今ごろどうしているのかなぁ…。
> LibraさんのHPをワードにこぴぺすると文章の上の点とかが文字化けして直
> すのが一苦労。。。(>_<)
そんなことがあるのですか。どうするのが一番いいのか、ちょっと考えてみ
ます。
>>247 Pohさん
Pohさんの相方なんて大役は、私にはとてもつとまらないと思います(汗)。
しかし、寝ぼけたことはこれからもいいつづけると思いますので、そのときは
すかざずつっこんで笑いにしてやって下さい。それで私の寝言も少しは浮かば
れると思います(笑)。
>>251、>>252 しおんさんへ【1/3】
牢獄のたとえについて真剣に考えて下さったのですね。ありがとうございま
した。せっかくなので、牢獄のたとえについて、もう少し別の角度から説明し
てみたいと思います。わけわかめだったら無視しちゃって下さい(笑)。
ポパーのいう「牢獄」というのは、「完璧ではない理論」といいかえてもよ
いのかもしれません。そうすると、「より広い牢獄」というのは、「やはり完
璧ではないが、より完璧に近い理論」ということになるだろうと思います(た
とえば、アインシュタインの理論も「完璧ではない理論」だろうと私は思いま
すが、ニュートンの理論よりは「より完璧に近い理論」だと思います)。私の
この説明は、「観察の理論負荷性」ということを念頭においています。
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今日の科学哲学者のほとんどすべては、いわゆる観察の理論負荷性のテー
ゼを信じている。つまり、観察は、背後になんらかの理論──観察者がど
の程度自覚的であるか否かはどうでもよい──を背負っており、したがっ
ていかなる理論からも解き放たれた「中立的な」観察などありえないとい
うテーゼである。(中略)このテーゼは簡単に言えば、証拠というものは、
すでに解釈されたものであるということである。
(小河原誠「実証ではなく、反証を──非正当化主義の概要──」、
ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、
未來社、2001年、p. 20)
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観察は理論に負荷されると、都合のいい事例しか見えなくなる傾向がある。
実際的な現場においては、都合の悪い事例が見えなくなる傾向を生むとい
うことである。つまり、すでに見ようとしていたもの、見ると予想してい
たものだけしか見なくなる。とくに、「自分がひいきにしている理論にと
って危険かもしれないものならなんでも、それから目をそらしたり、見よ
うとはしないものなのである」
(蔭山泰之「反証可能性の理論──その意義」、
小河原誠編『批判と挑戦──ポパー哲学の継承と発展にむけて』、
未來社、2000年、p. 114)
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だが、こうなると、もはや未知の領域に向けて知識を広げることが不可
能になってしまう。ただ好ましい検証や確証を探し求めつつ、自己満足に
陥ってしまうだけである。こうなってしまっては、もはやなにも新しいこ
とは発見できないだろう。このような自己満足を防止するためには、未知
の領域に対してわれわれの態度、知識を開いておかなければならないので
ある。
(同上、p. 127)
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しおんさんへ【2/3】
《牢獄からの脱出》というのは、「知的地平が拡大される」といいかえても
よいのかもしれません。
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討論というものは実り多ければ多いほど、討論の参加者が討論から学ぶ
ことが多いといえると思う。つまり、投げかけられた問いがより興味深く、
より困難であればあるほど、討論の参加者はより新しい解答を考案するよ
うに導かれ、みずからの意見がいっそう揺さぶられ、討論の後では物事を
よりいっそう違ったふうに眺めることができるようになる。要するに、知
的地平が拡大されるのである。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
会訳〕、未來社、1998年、p. 74)
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《成仏》というのは、《完璧な理論に到達する》ということでは決してない
と私は思います。《成仏》というのは、《ある理論に安住してしまうことなく、
どこまででも自分の知的地平を拡大していけるような精神的な態度(開かれた
精神)を身につける》ことだと私は思います。
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ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。
「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に
固執して生きること」という儚き夢から「常に目覚める者」がブッダなの
です。
(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、
2001年、pp.166-167)
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何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破す
ることにあります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところ
にあります。
(同上、p.174)
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永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心
地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築してしまったことの表
れです。安らかな繭の中で、快適な惰眠を貪るのです。
(同上、p.175)
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ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するということがな
かったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづけることが
できたのです。
(同上、p.188)
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しおんさんへ【3/3】
> 『求めよ、そうすれば与えられるだろう。捜せ、そうすれば見いだすであろ
> う。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるだろう。すべて求める者は得、
> 捜す者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである。』
ご紹介ありがとうございました。この一節を拝読したとき、《仏になる可能
性はすべての人間に開かれている》という『法華経』の精神に近いものを私は
感じました。もっとも、私が背負っている理論が私にそう感じさせているだけ
で、実際にはずいぶんと勝手な解釈なのでしょうが(汗)。
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私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一
言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよいであろうか。こ
の問いを前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出
さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを
尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはみ
な菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語
りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践
をしたのであった。ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そ
ればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、
彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩という名の
菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」は、
この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きた
いと痛切に祈った人物である。
この、あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという、きわめてシンプ
ルではあるけれども混迷する現代の諸問題を解決に導くための基本的な視
点、人としての振舞いの原点を指し示した思想と実践が『法華経』の真実
の核心であると思う。
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、
pp. iii-iv)
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あと、たとえ冗談でも、自分で自分のことを「サイテー」なんていわないで
下さい(>_<)。「背伸びせず、手におえそうな部分からマイペースで取り組ん
でいこう」とされているしおんさんを、私は心から尊敬いたします。
>>256-258 しおんさん
> >《成仏》というのは、《ある理論に安住してしまうことなく、
> どこまででも自分の知的地平を拡大していけるような精神的な態度(開かれた
> 精神)を身につける》ことだと私は思います。
>
> ここでつまづきました。
私としては、《空》ということを自分なりの言葉でいったつもりだったので
すが(もっとも、私がいうところの《空》というのは、《中道》ということな
のですが)、私の力不足のゆえに、《空》という考え方の《軽やかさ》をうま
く表現できなかったのだと思います(涙)。
> とりあえず手許に法華経現代語訳と、菅野先生の『法華経入門』(こちらは
> 再挑戦(^_^;)がありまして・・・そこいらから始めますです。
『法華経』を中心に仏教を学ばれることには大賛成です。入門書としては、
田村芳朗『法華経』(中公新書196、1969年)がお勧めです。この本は、《空》
についての入門書にもなっていると思います。
> 仏教者のLibraさんは仏法との共通点を見いだされた。私はキリスト者では
> もちろんないけれど、とりあえず新旧の聖書は通読していてより馴染みがあ
> ったので、聖書の語句を連想した、と。
仏教もキリスト教も、本来は《平等》を説く思想であり、だからこそ「生を
呪縛するものからの解放の運動」たりえたのだと思います。ただし、仏教の場
合は、《超越的な救済者(人格神)の下での平等》ではなくて、《法の下での
平等》を説くものだと思います。私自身は、《超越的な救済者(人格神)》と
いうものにリアリティーを全く感じないので仏教者なのだと思います。
しばらく別のことに熱中していて、今日久しぶりにここをのぞいてみたので
すが、もう完全に浦島太郎状態のようですね(汗)。
Pohさんの発言を中心にざーっと読んでみました。
2点だけコメントしてみます。
1.私は、釈尊が「形而上学的問題には一貫して「無記」「判断停止」の姿勢
をとり続けていた」(>>370)とは思いません。そもそも、「形而上学的問題」
とそうでないものとの線引きじたい、だいたいのことであらざるを得ないと私
は思います。また、例えば、「他者は存在するか?」という問題は「形而上学
的問題」と言うことができるかもしれませんが、この問題について釈尊が「判
断停止」したとは考えられません。「無記」についての私の解釈は、別のスレ
ッドで述べた通りです。
外部・内部の人たちの苦情処理機関てあるんですか?、No. 166〜
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1025499189&START=166&NOFIRST=TRUE
2.日蓮の本尊観・題目観は非仏教的なものではないと私は理解しています。
現在の多くの創価学会員の本尊観・題目観が密教的であり、非仏教的であるこ
とは残念ながら認めざるをえませんが(汗)。本尊・題目についての私の考え
については以下を参照して頂ければ幸いです。
ご本尊って紙でしょ?、No. 780〜
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1020259019&START=780&NOFIRST=TRUE
本尊論メモ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html
本尊観について(LeoさんのHPに掲載)
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
題目論メモ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html
題目は呪文ではない(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html
>>392 紫苑さん
> ご紹介のページ、これからじっくり拝読させて頂きますです。
例によって、分かりにくいことうけあいです。分かりにくい箇所は見なかっ
たことにして、先に進みましょう。
> ・・・法華経の現代語訳、なかなか読み進みません(>_<)。がむばってます。
分かりにくい箇所は、《今度分かる予定》ということにして、先に進みまし
ょう。最後までがむばって下さい。
>>394 Pohさん
> 僕も非仏教的とは思っていません。非釈迦的だとは思いますが(「否釈迦」
> ではありませんよ)。
「非釈迦的」という言葉の意味にもよるのでしょうが、私は釈迦的といって
もいいと思っています(笑)。「わたしが説いた教えが、わたしの死後にお前
たちの師となる」とか「法を見るものはわたしを見る」というような釈迦的な
考えに通じると私は理解していますので(>>26)。
> ただ僕の場合、日蓮さんの思想・教えに限らず、特に平安中期以降の日本仏
> 教から密教的要素をすべて取り除くと。もはやどの宗派も成立しないという
> ほどに、密教の思想や形式、祈祷や儀礼などが様々な形で絡まっていると思
> っています。
日蓮は密教を開会しようとしたのだと私は理解しています。
> 当時の僧侶全般は、自身の中で密教や禅的要素は区分けできないほど濃厚に
> 絡まっていたわけで、日蓮さんとてその例外でなく、密教的要素をすべて排
> 除するどころか、むしろ取り入れ利用し、当時の民衆の密教的ニーズにも応
> える教えを完成させていったと僕は思っています。
このあたりは解釈が分かれるところでしょうね(笑)。これも、密教の開会
という問題だろうと思います。曼荼羅の種子の件については、
犀角独歩さんとの対話(Libra・犀角独歩)
http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html
でも少し触れましたが、これも日蓮による密教の開会の試みの一つだと私は理
解しています。密教の開会という問題に関しては、日蓮が《(真の?)大日如
来》=《『法華経』の多宝如来》と理解していることが注目されてよいと思い
ます。つまり、「報恩抄」に、
─────────────────────────────────
月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に
居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上
座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛
界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に
教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし
(「報恩抄」、全集、p. 310)
─────────────────────────────────
とありますが、ここでは、
南の下座:両部の大日如来の主君=(真の?)大日如来=多宝仏
北の上座:教主釈尊
となっているわけです。おそらく多宝仏というのは法身仏の象徴として理解さ
れていたのではないかというのが私の推測です。ちなみに、世親の『法華論』
には「示現多宝仏身一体。摂取一切諸仏真法身故。」(大正蔵第26巻、p. 9c)
とあり、『法華文句』には「多宝表法仏。釈尊表報仏。分身表応仏。」(大正
蔵第34巻、p. 113a)とあります。法身中心の思想である密教に対して、日蓮
の思想は報身中心で、そういう考えが曼荼羅にもよく表われているのではない
かというのが私の考えです。
日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
http://fallibilism.web.fc2.com/106.html
さかなこさん&紫苑さんへ
> ・・・(^_^; えっと。見なかった事にしないとダメです?
> ここで質問とかは・・・御迷惑だったら控えます。。。
質問して頂けるというのはとてもありがたいです。
> 開会の意味がわからないです(>_<)
Pohさんが解説してくださったとおり、「止揚」というほどの意味で私は用い
ました。「止揚」という言葉の意味は国語辞典にものっていますので省略させ
て頂きます(汗)。
天台教学でいう「開三顕一」というのは、『法華経』によって開会される対
象が三乗教だということです(三乗方便・一乗真実)。三乗教というのは、声
聞乗・縁覚乗・菩薩乗のことで、ここでは要するに、《『法華経』以外の方便
諸教》ということです。具体的には、一応、声聞乗とは四諦の教え、縁覚乗と
は十二因縁の教え、菩薩乗とは六波羅蜜の教えのことです(「序品」、岩波文
庫『法華経(上)』〔坂本幸男他訳注、1962年〕、p. 40を参照)。それぞれ
の教えの中身についての解説は省略しますが、分かりやすい解説として、菅野
博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』(大蔵出版、1997年)の「第四
章 三乗方便・一乗真実について」をあげておきます。
厳密に言うと、「開三顕一」という言葉は天台智ギが使いはじめたものでは
ありません(Pohさんがいわれるとおり、「開会」は天台宗の教義用語といって
もいいだろうと思います)。例えば、智ギよりも前に、法雲という人が「開三
顕一」という言葉を使っています(『法華義記』)。ただし、同じように三乗
という場合でも、菩薩乗と一仏乗を同じものと考えるか別のものと考えるかと
いう問題があって、同じものと考える立場の人たちを三車家、別のものと考え
る人たちを四車家といいます。天台大師は四車家で、天台教義的には、一応、
菩薩乗は《『法華経』以外の大乗教(止揚される対象としての菩薩乗)》とい
うことになります。しかし、『法華経』「法師品」においては、『法華経』こ
そが真の菩薩行を説くもの(真の菩薩乗?)であるというようないい方もされ
ていますので注意が必要ですね。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
薬王よ、多く人ありて、在家にもあれ、出家にもあれ、菩薩の道を行ずる
に、若しこの法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養すること能得わざる
ものは、当に知るべし、この人は、未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。
(岩波文庫『法華経(中)』〔坂本幸男他訳注、1964年〕、p. 154)
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> Libraさんの言ってる「無記」の理解がいっつも難しいのですよお(>_<)
簡単なことですよ(笑)。釈尊がある種の問いに答えなかったのは、その問
いが形而上学的問題だったからではないと私は思うというだけの話です。もう
ひとつだけ例をあげておきましょう。釈尊は決定論を否定して自由意志を尊重
する立場ですが、「決定論対自由意志」というのも形而上学的問題の一種だろ
うと私は思います。釈尊はこの問題に対しては「判断停止」していません。
意志と業(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
http://fallibilism.web.fc2.com/015.html
《釈尊は形而上学的問題には一貫して答えず、「判断停止」の姿勢をとり続
けていた》という通念から一度離れて、以下を読んでみて下さい。きっと私の
いっていることの意味を理解していただけるはずです。
外部・内部の人たちの苦情処理機関てあるんですか?、No. 166〜
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&KEY=1025499189&START=166&NOFIRST=TRUE
Pohさん
「開会」について解説していただきましてありがとうございました。助かり
ました。バツの方はあれくらいで勘弁して下さい(笑)。
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