Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言[ 2 ]
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reitou_tyoujin
さんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
1時28分
メッセージ: 11618
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こんにちは、reitou_tyoujin
さん。横レス失礼いたします。
───────────────────────────────── 今までの経典は「釈尊が効果がなくなるよん」 って言ったと「法華経」に書いてあるからだそうです。
(reitou_tyoujin
さんの発言、本掲示板、No.
11615) ─────────────────────────────────
たしかに『法華経』には以下のような記述があります。
───────────────────────────────── 薬王よ、今、汝に告ぐ 『わが説ける所の諸の経あり しかも、この経の中において 法華は最も第一なり』と。
(「法師品」、岩波文庫『法華経(中)』〔坂本幸男他訳注、1964年〕、 p.
152)
─────────────────────────────────
───────────────────────────────── 薬王よ、多く人ありて、在家にもあれ、出家にもあれ、菩薩の道を行ず るに、若しこの法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養すること能得わざ るものは、当に知るべし、この人は、未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。
(同上、p.
154)
─────────────────────────────────
───────────────────────────────── 諸余の衆生の類にして 能く解を得るもの有ること無し。 諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く。
(「方便品」、岩波文庫『法華経(上)』〔坂本幸男他訳注、1962年〕、 p.
70)
─────────────────────────────────
『法華経』(を含む一切経)が釈尊本人によって説かれたと信じられていた 時代には、これらを文証として「法華経最勝・爾前無得道」と主張することが 可能だったと思います。
ただし、日蓮は
───────────────────────────────── 法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり (「一代聖教大意」、全集、p.
397) ─────────────────────────────────
とも言っております。
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reitou_tyoujin
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
1時31分
メッセージ: 11619
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『法華経』は釈尊本人によって説かれたものではないということがすでに明 らかになっている現代において『法華経』の優秀性を主張しようとすれば、そ こに説かれている内容(思想)の優秀性・正統性を主張するしかないでしょう。
最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗) http://fallibilism.web.fc2.com/007.html
「選択」とは(小川一乗) http://fallibilism.web.fc2.com/090.html
例えば、日蓮は、以下のように言っております。
───────────────────────────────── 爾前の経に二つの失あり、一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」 と申して迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説 かざる過なり、二には「始成を言う故に尚未だ迹を発わず」と申して久遠 実成の寿量品を説かざる過なり、此の二つの大法は一代聖教の綱骨一切経 の心髄なり
(「寿量品得意抄」、全集、pp.
1210-1211) ─────────────────────────────────
つまり、『法華経』以前の経には二つの欠点があるというのです。一つ目は 「二乗は成仏できない」と言って「万人が平等に成仏できる教え」を説いてい ないこと。もう一つは「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」を説いてい ないこと、です。『法華経』以前の経にはこれら二つの「心髄」が説かれてい ないのでダメなんだと、そういう考えです。 私も、「万人が平等に成仏できる教え」と「永遠に生き続け、衆生を導き続 ける釈尊」というのは、やはり仏教の「心髄」だと思います。
生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳) http://fallibilism.web.fc2.com/020.html
ブッダ、因果を超える(友岡雅弥) http://fallibilism.web.fc2.com/080.html
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reitou_tyoujin
さんへ(3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
1時32分
メッセージ: 11620
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また、日蓮にとっては、
「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」=『法華経』
です。
───────────────────────────────── 法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅 を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。
(「守護国家論」、全集、p.
66) ─────────────────────────────────
だから、
「(生き続ける釈尊を説く)寿量品の一品ニ半」=「南無・妙法蓮華経」
となります。
───────────────────────────────── 堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを法華 経にまいらせんとをもし、三世の仏は皆凡夫にてをはせし時命を法華経に まいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す南無と申 すは月氏の語此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く 「命を以て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、 日蓮今度命を法華経にまいらせて。
(「南無御書」、全集、p.
1299)
─────────────────────────────────
以下も参照して頂ければ幸いです。
───────────────────────────────── 「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、 『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』 と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説 いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となる のである。
(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』 〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p.
155)
─────────────────────────────────
「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄) http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
仏身論メモ(Libra) http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html
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reitou_tyoujin
さんへ(4)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
1時33分
メッセージ: 11621
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ちなみに、リナさんは、
───────────────────────────────── また釈尊の仏法もすでに隠没し、 残されたその経典には効果がない☆
(リナ・インバースさんの発言、本掲示板、No.
11606) ─────────────────────────────────
などと言っておられますが、日蓮はそのようなことは説いておりません(その ような考えは日蓮滅後に創られた邪義なのです)。
寿量品は末法のために説かれた(池田大作) http://fallibilism.web.fc2.com/097.html
以上、長々と失礼いたしました。
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reitou_tyoujin さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
3時29分
メッセージ: 11627
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>
どうも補足ありがとうございます。
こちらこそ、長文失礼いたしました。
> しかし、 >
>法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり >
ということは、他の経典もちゃんと調べないとダメということなのですね。
“『法華経』は一切経の中心であり、そこには「仏教のエッセンス」とな る教理がすべて漏れなく収まっているけれども、各教理についていちい ち事細かく解説しているわけではない。個別の教理についての詳しい解 説は、『法華経』の為に、「爾前一切の諸経」のそれぞれに説かれてい るので必要に応じて参照すべきである”
というようなことを言われているのだと私は理解しています。先の引用の後に は以下のように言われています。
───────────────────────────────── 法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種 の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説 くと申す文なり。
(「一代聖教大意」、全集、p.
397-398) ─────────────────────────────────
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gakkaiseinen
さんへ(1/2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
5時14分
メッセージ: 11630
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こんにちは、gakkaiseinen
さん。
ご質問ありがとうございます。
> それとも、上記言葉(畜生・盗人・邪師)は >
> 「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞に > て候けるぞ」 >
> 「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自賛気なる体・人目に見 >
すべからず浅ましき事なるべき、弥身口意を調え謹んで主人に向うべし主人に > 向うべし」 > >
とは、関係の無い事象なのですか?
「自由座談会」の「口汚い悪口」について前回議論した時にも、別の方から同 じようなご質問をお受けしたことを思い出します。
まず、一般論で言わせて頂きますと、『聖教新聞』は明らかに「公場」ですが、 御書の場合は必ずしもそうではないということがあろうかと思います。私信の中 では、自分の思いの強さを相手に伝えるために多少汚い言葉を使ったとしても許 されるのではないかと個人的には思います。
「自由座談会」等の問題について言えば、その「表現の汚さ」にも少なからず 問題があるだろうと思いますが、むしろ、もっと問題なのは(読者の方々を不快 にさせているのは)、「内容の汚さ」の方なのではないかと思います。批判すべ き「悪事」とは直接関係のないような個人攻撃(「色魔」云々、「生れが…」云 々)等には大変問題があるのではないかと思います。
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gakkaiseinen
さんへ(2/2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月23日 午後
5時17分
メッセージ: 11631
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> そして「適切ではない語彙を使用した意見の中にも、正統な主張は包含される場 >
合もあり得る」との立場です。
現在の法律で考えますと、たとえ事実を述べるものであったとしても、それが "公然"の場でなされ、特定の人物等の社会的評価を低下させるような内容である 場合には「名誉毀損」になりえます。 しかしながら、それらの主張を「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その 目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真 実であることの証明があったときは、これを罰しない」とされています。よって、
「適切ではない語彙を使用した意見の中にも、正統な主張は包含される場合 もあり得る」
というお立場(一般論)には、私も賛成いたします(「適切ではない語彙」で表 現されるにふさわしい「事実」というのもおそらくあり得るでしょうから)。
しかし、だからと言って、『聖教新聞』に含まれる問題発言までをも容認する ものではありません。 仮に『聖教新聞』という"公然"の場において、ある特定の人物の社会的評価を 低下させるような表現がなされるような場合、そのような言動が「公共の利害に 関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認め」られ るかどうかが問われることになりましょう。 少なくとも、「色魔」云々、「生れが…」云々などという部分は「公共の利害 に関する事実に係」るものではないし、「個人的恨みを晴らす目的」でなされて いると思われても仕方がない表現だと思います。
私としては遠慮すべきはずだった「聖教新聞の論調を使用したバックボーンと、 大聖人の御書を使用するバックボーンを比較するような、御例証」を用いてしま った気も致しますので、以上が果してgakkaiseinen
さんへの答えになっている かどうか、自分でも全く自信がありませんが、私からの一応の回答とさせて頂き たいと思います。
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gakkaiseinen
さんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
1時10分
メッセージ: 11638
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こんばんは、gakkaiseinen さん。
>
ですから、大聖人は多少不適切とも受け取られる語彙を「公私共に使用してい >
る」と考える事は、上記文献から見ても、何ら問題は無いと思います。
巨大な発行部数を誇る『聖教新聞』と、宗祖の「諌暁の書」及び「門下一門に 宛てた文献」とではかなりその性質(公然性、特定の人物等の社会的評価に対し て持つ影響力等)が全く異なるように思います。しかしながら、そのことは今は おいておくことにして、議論を先にすすめてみます。
>
また、それが「公私」と言う定義によって左右されるものでは無い事を、私は >
上記文献にて論証しました。
仮に、宗祖の「諌暁の書」及び「門下一門に宛てた文献」等での御発言を(荒 っぽく単純化して)「"公然"の場」であると仮定したとしても、
「主人の曰く 後鳥羽院の御宇に法然といふもの有り。選択集を作る矣。則 ち一代之聖教を破し遍く十方之衆生を迷はす」(立正安国論)
「天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて」 (開目鈔)
等のご発言はすべて「『法華経』のため」、「十方之衆生のため」等という目的 から発せられている(「個人的恨みを晴らす目的」でなされているわけではない) 御発言であることは読者には明白でしょう。 これに対して、『聖教新聞』の「問題の部分」について言えば、
>
少なくとも、「色魔」云々、「生れが…」云々などという部分は「公共の利害 >
に関する事実に係」るものではないし、「個人的恨みを晴らす目的」でなされて >
いると思われても仕方がない表現だと思います。 (本掲示板、No.
11631)
『聖教新聞』では過去に「戸籍を見れば云々」というような話まで持ち出してい たように記憶しております(私の記憶違いであればご訂正下さい)。 そもそも、gakkaiseinen
さんは、「現在の聖教新聞の論調」というように大 雑把にひとくくりにしてその是非を論じておられるように見えますが、それは少 し議論が荒っぽくはないでしょうか? 私は『聖教新聞』の記述のすべてを「正 当でない」と言っているわけではありません。「とても正当とは言えない」よう な記述を少なからず含んでいることを問題視しているのです。
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gakkaiseinen
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
1時13分
メッセージ: 11639
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>
不適切と思われる語彙の用法における「定義」の確認のみです。
何をもって「不適切と思われる語彙」と判定するか、ということでしょうか? また、その場合の「不適切」というのは、
文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に「他人を「罵 る為」に使う言葉」であるという印象を読み手に与える
という意味でしょうか? 正直申し上げまして、そのような「問い方」に意味があるのかどうか、私には 全く疑問です。
私としては、前回のレスで申し上げましたように、
>
現在の法律で考えますと、たとえ事実を述べるものであったとしても、それが >
"公然"の場でなされ、特定の人物等の社会的評価を低下させるような内容である >
場合には「名誉毀損」になりえます。 >
しかしながら、それらの主張を「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その >
目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真 >
実であることの証明があったときは、これを罰しない」とされています。よって、 > >
「適切ではない語彙を使用した意見の中にも、正統な主張は包含される場合 > もあり得る」 >
> というお立場(一般論)には、私も賛成いたします(「適切ではない語彙」で表 >
現されるにふさわしい「事実」というのもおそらくあり得るでしょうから)。 (本掲示板、No.
11631)
> しかし、だからと言って、『聖教新聞』に含まれる問題発言までをも容認する >
ものではありません。 > 仮に『聖教新聞』という"公然"の場において、ある特定の人物の社会的評価を >
低下させるような表現がなされるような場合、そのような言動が「公共の利害に >
関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認め」られ >
るかどうかが問われることになりましょう。 >
少なくとも、「色魔」云々、「生れが…」云々などという部分は「公共の利害 >
に関する事実に係」るものではないし、「個人的恨みを晴らす目的」でなされて >
いると思われても仕方がない表現だと思います。 (同上)
と思いますので、「一般論」としては、
文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に「他人を「罵る為」 に使う言葉」であるという印象を読み手に与える≠謔、な言葉であっても、そのよ うに表現されるにふさわしい「公共の利害に関する事実」があって、「専ら公益を 図る」ためにそのような表現が用いられるというような場合には「正当」でありえ ると思います。
というようにお答えする他はありません。
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daisyonin_sama
さんへ(1/3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
2時10分
メッセージ: 11640
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こんばんは、daisyonin_sama さん。レスありがとうございます。
>
が、組織としては教義について、どのよう >
に指導されているのでしょうか?
少しずつではありますが指導も変化してきているように私には見えます。し かしながら、その「変化」のすべてが「正しい方向への変化」であるとも思え ません。むしろ「密教化」がさらに進んでいるという一面もあるように思いま す(現・創価学会では「宇宙のリズム」とか「宇宙即我」を強調しています)。
宇宙生命論は仏教ではない(Libra) http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html
もちろん、中には正しい方向への変化もあると思います。
大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄) http://fallibilism.web.fc2.com/067.html
>
上層部の方は、まさか事実を知らずに間 >
違いを教えている訳ではないはずです。
私も上層部に対して問題提起をしたのですが、「無視」というのが現状です (完全な「無視」ではありませんでしたが)。
秋谷会長への手紙(Libra) http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html
やはり、下から着実に変革していくしかないのかもしれません。
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daisyonin_sama
さんへ(2/3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
2時11分
メッセージ: 11641
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> 教義だけでなく、そういう体質自体を正し >
い方向に改革頂ければと切に希望します。
「自らに間違いがあれば、素直にそれを認めて正していく」というのが「釈 尊の弟子」としてとるべき当然の態度であると私は思います。 ───────────────────────────────── 一度発せられた意志命令は、仮令それが間違つて居ることが解つたにして も、それを引込ますことは官の威信に関はるという理由の下に、無理横暴 を通すといふのが専制政治の常套手段で、これでなければ人民は治るもの でないといふのが其の信条である。何ぞ知らん。眼前一部分の威信はこれ によつて保つことは出来ても、永久全体の信用は全く失墜して仕舞ふこと を、毫も心付かぬのは可憐無智といつて仕方がないとしても、時勢の進歩 に従ひ、気が付いて居ながらこの見易い道理を公然言ふ者がないといふの は甚だ意気地のない仕業ではないか。尤も気付いては居ても、うつかり云 はうものなら、忽ち忌憚に触れて一身の生活を破壊される懼れがある事情 から、結局は「長いものには巻かれろ」との気休めの諺にあきらめねばな らなかつたのではあるまいか。
(斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、 pp.
361-362) ─────────────────────────────────
───────────────────────────────── ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。 「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に 固執して生きること」という儚(はかな)き夢から「常に目覚める者」がブ ッダなのです。
(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、 pp.166-167) ─────────────────────────────────
真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://fallibilism.web.fc2.com/011.html
頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より) http://fallibilism.web.fc2.com/014.html
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daisyonin_sama
さんへ(3/3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
2時12分
メッセージ: 11642
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> 又、後ほど、libraさんの他の書き込みも > 拝見させて頂きます。
ありがとうございます。daisyonin_sama
さんのご意見をお伺いできれば幸い です。間違いなどにお気付きになられましたら、是非ご指摘下さい。よろしく お願いいたします。
───────────────────────────────── しかし、失敗も罪も、たとえ隠し通すことに成功したとしましても、決し て消えてなくなることはありません。記憶が文字通り零になるのでもない 限りは、失敗や罪も、更には無知も、隠そうとすればするほど益々鮮明に なってくるものであります。しかし、決して消えるものではないからこそ、 むしろ自ら進んで言葉によって明瞭に失敗や罪や無知を認めて正しい方へ 変っていこうとする以外に道はないのだと思います。そして、そういうこ とを認めることが、知慧にほかならないわけでありますから、知慧を重ん じる人が、孔子に対する老子のように大形に振舞ったり、道元に対する中 国の禅師たちのように払子を振ったり怒鳴り散らしたりするようなことは、 理論上決してありえないことなのであります。
(袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』、 大蔵出版、1992年、p.
98) ─────────────────────────────────
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リナさんの仏滅年代に関しての誤解について
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
4時21分
メッセージ: 11645
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横レス失礼いたします。
まずは、リナさんの「仏滅年代に関しての誤解」について述べさせて頂きま す。
リナさんは、
───────────────────────────────── 釈尊は、周の昭王二十四年、四月八日に インドにて生誕☆ (中略) そして西紀前949年に、沙羅双樹の 間にて、入滅したのです☆
(リナ・インバースさんのご発言、本掲示板、No.
11643) ─────────────────────────────────
などと言われていますが、これは事実に反します。
『法華経の智慧』では、
───────────────────────────────── 遠藤 釈尊滅後百年ごろのアショカ王が残した碑文に、堕落した僧侶 は教団から追放せよ≠ニ刻まれているのは有名です。
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p.
68) ─────────────────────────────────
───────────────────────────────── 遠藤 釈尊が入滅して百年後(二百年後説もある)と言われているアシ ョカ王の時代でも、すでに僧侶の堕落が指摘されています。
(池田大作他『法華経の智慧』第三巻、聖教新聞社、1997年、p.
135) ─────────────────────────────────
と言われており、『仏教哲学大辞典』の「アショーカおう【アショーカ王】」 の項目には、
───────────────────────────────── 生没年不明。在位は紀元前ニ六八年─紀元前ニ三ニ年ごろとされる。
(『仏教哲学大辞典
第三版』、創価学会、2000年、p.
28) ─────────────────────────────────
とあります。 どのように計算しても、「西紀前949年に、沙羅双樹の間にて、入滅」と いうことにはなりません。
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大乗経典の成立史に関しての誤解について
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
4時28分
メッセージ: 11647
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次に、リナさんの「大乗経典の成立史に関しての誤解」について述べさせて 頂きます。
リナさんは、
───────────────────────────────── 釈尊は、周の昭王二十四年、四月八日に インドにて生誕☆ 三十で成道して、仏法を説き始めます☆ まず、最初に華厳経を説いて、 衆生の機根が未熟なのを知り、 阿含経(小乗)を説きます☆ その後、方等、般若と説いていって 衆生の機根を整え、最後に、出世の本懐 たる法華経を説いたのです☆
(リナ・インバースさんのご発言、本掲示板、No.
11643) ─────────────────────────────────
とも言われていますが、これも事実に反します。
『大白蓮華』でも、「大乗経典」は「釈尊滅後、時間をかけて熟成された後 に登場してきた」と言われています。
───────────────────────────────── あれほど豊かな内容をもった膨大な大乗経典が、この時期に突如として 創作されたというより、釈尊滅後、時間をかけて熟成された後に登場し てきたと考える方が自然かもしれない。
(「仏教入門[41]〜大乗仏教の興起2」、 『大白蓮華』No.
593〔1999年11月号〕、p.
91) ─────────────────────────────────
『法華経の智慧』にも以下のような記述があります。
───────────────────────────────── 須田 学問的には、法華経が釈尊の入滅後、数百年を経た紀元一世紀ご ろに成立したことは、現在、多くの学者に支持されています。
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p.
91) ─────────────────────────────────
───────────────────────────────── それにしても、法華経編纂者の編集能力は素晴らしい。文字や暗誦で伝 えられてきた仏説の中から、釈尊の思想の核心を選び取り、見事に蘇らせ ている。
(名誉会長のご発言、同上、p.
93) ─────────────────────────────────
───────────────────────────────── 法華経は、ある意味で、紀元一世紀の釈尊論≠セとも言えるのではない でしょうか。
(斉藤さんの発言、同上、pp.
93-94) ─────────────────────────────────
創価大学教授で「国際仏教学高等研究所」の所長でもあられる菅野博史先生 の御論考をもう一度引用しておきますので、是非参照されて下さい。
中国における教判の形成の必然性(菅野博史) http://fallibilism.web.fc2.com/021.html
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納得する能はざる理由をご説明ください
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
4時31分
メッセージ: 11648
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以上のような私の指摘に対して、もしもリナさんが「納得する事が出来ない とい」われるのであれば、「納得する能はざる理由」をきちんとご説明頂きた く存じます。「論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑われるだ け」だということを肝に銘じて頂きたく存じます。
───────────────────────────────── 斯くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと同時に、 如何に賤しい無名の人の言でも、苟くも自分の経験と合致し、若しくは実 験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に 承認し、それに服従しなければならぬこととなつた。是又理性の然らしめ る所である。 万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心か らしても、納得する能はざる理由を意識しなければならない。異議を挾む 余地のあつてこそ、初めて不承知の理由となるのである。
(斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、p.
78)
─────────────────────────────────
───────────────────────────────── 本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万 人普遍の「理性」。権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。 沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑わ れるだけだ。
(『聖教新聞』(2000年11月12日、8面)の「羅針盤」より) ─────────────────────────────────
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saguriya
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午前
4時53分
メッセージ: 11649
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>
ここは理知的で冷静な議論ができる場なのに、なんで君は追い出されたんだい?
私はあそこを「理知的で冷静な議論ができる場」だとは思っておりません(今現 在はどうなのか知りませんが)。
>
君があまりに独善的で排他的な議論をするからでしょ
私の議論のどのあたりが「独善的で排他的な議論」なのか、是非、具体的にご説 明頂きたく存じます。貴殿のそのご説明に納得がいきましたら、その「独善的で排 他的」な部分については態度を改めることに致します。
>
姿勢を改めたなら、ヤフーのような素人の集まりの場で説を展開せずに、↑のペ >
ージでやればいいじゃない。
「ヤフーのような素人の集まりの場」というように、「他人を見下す発言」を平 気でなされる貴殿のような方に、「君があまりに独善的で排他的な議論をするから」 だなどと断定されましても、私としてはとうてい納得できるものではありません。
>
自分の説を正当化するために、無知な人々を誘導するのは、破和合僧の行為だよ
今度は、「無知な人々」ですか…。そのような方に「破和合僧の行為」だと言わ れましても、私としてはとうてい納得できるものではありません。
>
過去の君への反論をすべて論破してから他人を勧誘してね
まともな反論が一つでもあったでしょうか? 少なくとも私は、そのようなもの があったとは記憶しておりません。それは私の記憶違いで、もしも貴殿がそのよう なものを記憶されていると言われるのでしたら、ここで改めてその反論を展開して 頂いても結構です。
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t98c302d_apo
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日
午前10時31分
メッセージ: 11655
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おはようございます、t98c302d_apo さん。
>
私は全くの無信心でありながら、libraさんのお話は素直な気持ちで伺うことが > できます。 >
> 少なくても私はlibraさんに「独善的で排他的な議論」は無いと思いますよ?
ご理解頂きまして、そして、わざわざこうやってレスまでして下さいまして本 当にありがとうございます。心より感謝いたします。
私自身は「創価学会の未来」のために動いているつもりなのですが、当分の間 は創価学会員の方々からは理解して頂けないのかもしれません。
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リナ・インバースさんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日
午後12時52分
メッセージ: 11660
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こんにちは、リナさん。
> 東洋古来の説では、周の昭王24年、 >
(前1029年)の4月8日に生誕、 > とあり、 > >
同穆王の52年、2月の15日に入滅、 > (西紀前949年入滅)と定められ、 > >
「周書異記」という書物にそれが >
出ていたそうですね☆
現存もしていない中国撰述の書物など全く根拠たりえません。そもそも、リ ナさんは以下を読まれて、仏教史を理解した上で、なおそのような説を支持さ れると言われるおつもりなのでしょうか?
中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
http://fallibilism.web.fc2.com/021.html
>
天台、伝教大師もこれを基準とし、 > 日蓮大聖人もお用いになられたのは >
「開目抄」に明らかだそうです☆
確かに、当時の中国・日本ではそれが常識化していました。しかしながら、 今日では、すでにそのような説は学説として全く通用していません。
現に『法華経の智慧』でも、
───────────────────────────────── 遠藤 釈尊が入滅して百年後(二百年後説もある)と言われているアシ ョカ王の時代でも、すでに僧侶の堕落が指摘されています。
(池田大作他『法華経の智慧』第三巻、聖教新聞社、1997年、p.
135) ─────────────────────────────────
と言われているではありませんか?
創価大学・国際仏教学高等研究所長の菅野先生も、
──────────────────────────────────── 『法華経』は初期大乗経典の中の代表的な経の一つである。インド仏教の大ま かな流れを簡潔に説明すると、何といっても仏教は釈尊=ゴータマ・ブッダ(生 没年代は紀元前六世紀から五世紀、または五世紀から四世紀と推定される)の悟 りから出発する。
(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p.11) ────────────────────────────────────
と言われているではありませんか?
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リナ・インバースさんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日
午後12時52分
メッセージ: 11661
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> また教学の基礎や辞典などでも > 「五重の相対」という大聖人の >
教義でも、仏教の成立の過程は > 私の言った通りのコトが >
掲載されています☆
では、「教学の基礎」も「辞典など」(どういう辞典か不明なので正式名称を教え て下さい)も誤っていたということになりますね。それらの発行年を教えて頂けませ んでしょうか?
「大乗経典の成立史に関しての誤解について」(No.
11647)にもコメントして頂 きたく存じます。
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gakkaiseinen
さんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
6時16分
メッセージ: 11666
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こんばんは、gakkaiseinen
さん。
まず最初に、私は、今回のあなたの一連の御文章の一部を日本語として「解読」 できなかったことを告白しておきます。
>
従って、上記見解「その性質(公然性、特定の人物等の社会的評価に対して持 >
つ影響力等)が全く異なるように思います」との見解は「私信」に対する説明 >
にはなっていないと考えます。
あなたが「上記見解」と言われているものは、そもそも「私信」に対する説 明≠ニして述べたものではありません。
────────────────────────────────── まず、一般論で言わせて頂きますと、『聖教新聞』は明らかに「公場」で すが、御書の場合は必ずしもそうではないということがあろうかと思います。 私信の中では、自分の思いの強さを相手に伝えるために多少汚い言葉を使っ たとしても許されるのではないかと個人的には思います。
(No.
11630) ──────────────────────────────────
という発言の「私信の中では〜」の部分は、「少なくとも私信の中では〜」とい うくらいの意味だとご理解下さい。すなわち、「多少汚い言葉を使ったとしても 許されるのは、私信の場合だけに限られる」というような強い意味で言ったわけ ではありません(「汚い」という言葉は、「その表現の対象になっている人物の 評価をひどく下げる」くらいの意味だとお考え下さい)。また、ここでは「多少」 という言葉を用いていますように、たとえ私信においてであったとしても、「無 制限にどんな汚い言葉でも使ってよい」とまでは言っていません。
その上で、私は、
────────────────────────────────── 巨大な発行部数を誇る『聖教新聞』と、宗祖の「諌暁の書」及び「門下一門 に宛てた文献」とではかなりその性質(公然性、特定の人物等の社会的評価 に対して持つ影響力等)が全く異なるように思います。
(No.
11638) ──────────────────────────────────
と言ったわけです(「全く」は「削除し忘れ」たものなので、外して読んでくだ さい)。 つまり、宗祖の「諌暁の書」及び「門下一門に宛てた文献」は、確かに「私信 ではない」かもしれないが、それらは、『聖教新聞』よりも「公然性」が相当に 低いので、仮に両者に同程度の「汚い表現」が見られたとしても、それらを直ち に同列に並べて扱うべきではないだろう、というようなことが言いたかったわけ です。
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gakkaiseinen
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
6時23分
メッセージ: 11667
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> そして「立正安国論」も「開目鈔」も「公然性、特定の人物等の社会的評価に >
対して持つ影響力」は存在すると考えます。 >
何故なら、大聖人の御生涯を拝察するに「公然性、特定の人物等の社会的評価 >
に対して持つ影響力」をもった、書物を執筆・献上した為に「時の権力者等か >
ら迫害にあった」と推察する足る事実があったからです。
それは今問題になっている「公然性・影響力」とは意味が完全にズレているよ うに思います。 私が申し上げているのは、
問題の表現が読まれることによって、そのように表現されたところの特定 の人物等の「社会的評価」が直接に影響を受ける(左右される)際の「影 響力」
のことです。ですから、どれだけ多くの人が「直接の読者」となるかがやはり問 題になりましょう。 仮に、「時の権力者」にあてた「私信」の中で、「時の権力者」自身を口汚く 罵ったとしたら、当時なら「迫害にあ」ったかもしれませんが、これは当該「私 信」の「公然性」とは何の関係もないと思います。 また、仮に、ある人への「私信」の中で、第三者を口汚く罵ったとしましょう。 で、本人の知らないところで、その「私信」の情報が二次的に広範囲にばら撒か れることになってしまって、結果として、その第三者の「社会的評価」が著しく 低下したとしましょう。この場合でも、最初の「私信」そのものに「公然性」が あったということにはならないと思います。
>
> そもそも、gakkaiseinen さんは、「現在の聖教新聞の論調」というように大雑 > >
把にひとくくりにしてその是非を論じておられるように見えますが、それは少し > >
議論が荒っぽくはないでしょうか? > >
「去年の12月、僕は、当時『聖教新聞』に連載されていた「自由座談会」の中で執 >
拗に使われていた「口汚い悪口」を批判して、ある掲示板で以下のように発言した」 > >
と、明確に聖教新聞のどの部分が不適切かを挙げられていらっしゃいます。
上の私の表現からは、「自由座談会」の中のどの部分が不適切かまでは分から ないでしょう。
>
以上の点から、私が「現在の聖教新聞の論調」を指す場合、貴方の定義された聖教 >
新聞内の発言が、その論拠の基になっている事は「既に了解済み」だと考えました。
たとえ「自由座談会」というところまで特定されるにしても「自由座談会」全体を 「ひとくくりにしてその是非を論じ」るわけにはいかないでしょう。
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gakkaiseinen
さんへ(3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
6時28分
メッセージ: 11668
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> そして、今一度断っておきますが、前レスで問題にした論点は、主に御書と聖教新 >
聞の問題となる語彙中に > > 「語彙には適切性を欠く表現が存在するのではないか?」 >
「適切ではない語彙を使用した意見の中にも、正統な主張は包含される場合もあり > 得るのではないか?」 >
>
と言う点です。
そもそも、「語彙」という言葉は、普通は「ある一つの言語体系で用いられる単語 の総体」という意味でしょう。あなたはそれを「単語」という意味で用いられている と解釈してよろしいですか? それにしても、私には、あなたが頻繁に使われる「適切性」という用語の中身が依 然として不明です。 ですから、前に、 ────────────────────────────────── また、その場合の「不適切」というのは、
文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に「他人を「罵 る為」に使う言葉」であるという印象を読み手に与える という意味でしょうか?
(No.
11639) ──────────────────────────────────
ともお尋ねしたのです。
例えば、以下の言葉をどのような関係にあるものとしてあなたは使用したり理解 したりしておられるのでしょうか?
A.語彙(単語?)として「適切」 B.語彙(単語?)として「正当」 C.語彙(単語?)として「真意を伝える」 D.文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に「他人を 罵る為に使う言葉である」という印象を読み手に与えない
上の私の質問は、「A.をD.と同じ意味で理解しておられるのですか?」と いう意味です。
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gakkaiseinen
さんへ(4)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
6時30分
メッセージ: 11669
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>
>>因みに、私は、現在の聖教新聞の論調が「適切ではない」と言う立場です。
この場合の
F.論調として適切
とはどのような意味なのでしょうか。この場合の「適切」は「正当」とは別の意 味なのでしょうか? あなたは、先に、
「適切ではない語彙を使用した意見の中にも、正統な主張は包含される場合 もあり得るのではないか?」
と言われていましたが、ここで言われている「正統な主張」というのは「正当な 主張」と同じですか?
G.主張として正統
H.主張として正当
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gakkaiseinen
さんへ(5)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
7時00分
メッセージ: 11671
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> つまり、今回の論議の論点は > >
「語彙の適切性」と「その語彙を使った文章が真意を伝える事があるか?ないか?」 > >
の二点です。
この場合の、
E.文章として「真意を伝える」
と、すでに述べた
F.論調として適切
G.主張として正統
H.主張として正当
とは、それぞれどのような関係にありましょうか? 例えば、
「真意を伝えるからと言って、ただちにそれを適切であるとは言えない」
のでしょうか、それとも、
「真意を伝えるものを適切であるという」
のでしょうか? はたまた、「真意を伝える」と「適切である」はもっと別の関係にあるのでしょう か? ここでは、一応、「真意を伝える」というのは「発信者の本当に伝えたいことを伝 える」という意味でとらえておきます。もしそうだとすれば、「真意」は「第三者に 対する憎悪」でもありえるわけですから、
「真意を伝えるからと言って、ただちにそれを正当であるとは言えない」
ということになろうかと思います(といっても、あなたが言われる「正当」の意味も まだ正確には不明ですが)。
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gakkaiseinen
さんへ(6)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
7時01分
メッセージ: 11672
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> なぜなら、語彙単独の持つ「不適切性」を論証するならば、その語彙(不適切と定 >
義されたもの)を用いなくとも、目的の文章の意を伝える事が可能である事を模索 >
する事は、次回論議する可能性のある「文章の内容における是非」にとって「意義 >
がある」と考えるからです。
正直申し上げまして、文全体としての意味がとれません。最初の部分で言われてい る「語彙単独の持つ「不適切性」を論証する」というのは一体どのような意味なので しょうか?
>
例証 > >
「あいつは馬鹿だ!」は不適切な表現だと定義します。
ここで言われている「不適切」というのは、文レベルでの「不適切」のようですが、 ある任意に取り出した文に対して、それを「不適切な表現だと定義する」というのは 一体いかなる意味なのでしょうか?
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gakkaiseinen
さんへ(7)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
7時04分
メッセージ: 11673
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> 馬鹿→ばか【馬鹿・莫迦・破家】 >
(「馬鹿」は当て字。梵moha=慕何(痴)、または梵mahallaka=摩訶羅(無智) >
の転で、僧侶が隠語として用いたことによる。また、「破家」の転義とも) >
1 (形動)知能が劣り愚かなこと。また、その人。あほう。 >
2 (形動)取るに足りないつまらないこと。無益なこと。また、常軌を逸したこ >
とやそういうさまをいう。たわけ。「ばかな話」「ばかなことはす > るな」 >
3 (形動)程度のはなはだしいこと。多く、名詞の上に付けて、接頭語的に用い >
る。「馬鹿騒ぎ」「馬鹿力」など。→ばか(馬鹿)に。 > 4 「ばかがい(馬鹿貝)」の略。 >
5 銭の数をはかる用具。二対一の長さのクランク型の金属製の棒で、長い方で一 >
〇〇文を、短い方で五〇文を数える。 > 6 釣竿よりも糸を長くすること。また、その長い部分。 >
> 上記語彙から適切性を鑑み > >
「あいつは馬鹿だ!」を「話題の人物の内容・発言は無益な事である」 > >
と変更しても、何ら意を曲解した事にはなりません。
文脈上、「馬鹿」が 2
以外の語義で使われている場合でも、「何ら意を曲解した 事にはな」らないのでしょうか?
>
つまり、語彙を単独で検証する行為によって、結果として、文章の内容正しく伝 >
える為の条件として、十分に検証する意味がある事だと思うのです。
おっしゃっておられることの意味が私にはさっぱり分かりません。
文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に「他人を罵る為 に使う言葉」であるという印象を読み手に与える
かどうかなどということは、上の「馬鹿」で言えば、「馬鹿」という単語が単独 で提示された時に、一般的に言って、1〜6の語義うちのどれが真っ先に想起され るかというような問題に過ぎないのではないでしょうか。私にはそのようなこと を論じることに何らかの意味(意義)があるとは思えません。
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akkaiseinen
さんへ(8)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月24日 午後
7時05分
メッセージ: 11674
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>
*「語彙の適・不適切性があるか?ないか?」
文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に、「他人を罵る為 に使われる単語である」という印象を読み手に与えるか否か、ということを考察 しても、そのような考察にはほとんど意味(意義)がないと思います。
>
*「その語彙を使った文章が真意を伝える事があるか?ないか?」
どんな単語であっても、「それを使った文章が真意を伝える事」はあるに決ま っているでしょう。「それが使われている文章は真意を伝えることはありえない」 というようなものは、およそ「単語」とは言えないでしょう。「単語」というも のは何らかの「真意を伝える」ためにこそ存在しているのでしょうから。もしも、 「真意を伝える」というのが「発信者の本当に伝えたいことを伝える」という意 味なのであれば。
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リナ・インバースさんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午前
2時49分
メッセージ: 11690
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こんばんは、リナさん。
> 現存はしていない書物だから >
全く根拠たりえないなんてコトは >
ないと思いますけど☆
「現存はしていない」という部分よりもむしろ、それが「中国」成立の文献 であるということに力点をおいて言ったつもりでしたが伝わらなかったようで すね。
私としては、言いたいことをもうほとんど言わせて頂きました。
私とリナさんのどちらの主張の方に説得力があるかということについては、 読者の方々の賢明なる御判断に委ねたいと思います。
これまで議論にお付き合い頂きましてありがとうございました。
お礼に、最後にもう一つだけ、資料を提示しておきます。
ポパーの倫理思想(小河原誠) http://fallibilism.web.fc2.com/083.html
p. s.
私はアメリアさんの大ファンなのでよろしくお伝え下さい。
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shishishinchu_no_mushi
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午前
3時22分
メッセージ: 11691
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こんばんは、shishishinchu_no_mushi さん。
>
たぶんLibraさんの主張は30年後の学会員に受け入れられるようになるのでは >
ないですか?
なんか希望が出てきました(涙)。以前、別の方からは「700年後」だと言わ れましたので。
>
世代交代も必要であると思います。 >
ただ、性急な変革は混乱の元であるような気もしますが。
ただの「破壊」に終ってしまっては絶対にダメですね。「創造」のための「破 壊」でないと。それが「価値創造」ということだと思います。
>
それでも、私はLibraさんのような人には頑張ってほしいと心から思います。
ありがとうございます。そのようなお言葉を頂けると本当に励みになります。
どうかこれからもよろしくお願いいたします。
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buu_1118
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午前
3時48分
メッセージ: 11693
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おはようございます、buu_1118
さん。はじめまして。
お声をかけて頂いてありがとうございます。
>
あなたは学会員なんですか?
学会員三世で、関西創価中学・高等学校の卒業生です。
>
奮闘お疲れ様です。
ありがとうございます。
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事実誤認に基づく誹謗中傷に抗議します
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日
午前10時40分
メッセージ: 11701
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文脈から言って、cheinenbuin
さんのご発言には、明らかに私(Libra) に対する中傷が含まれていると判断せざるを得ませんので、コメントを書か せて頂きます。
私が、No.
11646
で紹介されている掲示板を選んで議論をしに出かけた主 たる理由は、その名前から、その掲示板が、「宇宙生命論は仏教ではない」 という私の主張を訴えるのに相応しい場所であるように私には思えたからで す。というのも、その掲示板の名前には「生命哲学」という言葉が含まれて いるからです。
>
それを知ってていくんだから、よっぽど腐った反学会だね。
cheinenbuin
さんが言われている「鬱」がどうのという話は今はじめて聞 きました。
>
つまり、追い詰めたから、追い出されたんでしょ。
私は「現・創価学会の教義(宇宙生命論)は密教である」という議論をあ そこで展開いたしました。それで、いろいろとバッシングを受けることにな りました。最終的に、ある人(管理人さんではありません)が、
「みなさん、この人(Libra)にはレスしないということにしませんか?」
という意味のことを言い出されました。で、それを受けて、私は、その掲示 板への書き込みを止めることを宣言し、自らその掲示板から撤退いたしまし た。 私が「追い出された」というのは以上のような意味です。決して、「アク セス制限をかけ」られたわけではありません。自分から撤退したのです。
>
あそこは、パピちゃんもきたのよ〜
私は「パピちゃん」なる人物名を今はじめて目にしました。
>
数ある掲示板の中で、あそこを選んだんだから、あの人は欝の人か、そうじゃ >
ないなら、神経症の人に付け込んだ、悪質なアンチだね。人間失格者と言うこ >
と、学会員だと名乗るならば、即やめて欲しい会員だ。
今後、事実誤認に基づいて私を誹謗中傷することは止めて下さい。
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t98c302d_apo
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日
午後12時54分
メッセージ: 11707
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こんにちは、t98c302d_apo さん。
>
ネットでもこの状況、現実世界でもこのような奮闘をされているとしたらさぞ >
大変な思いをされているかとお察しします。
ご心配頂きましてありがとうございます。
しかし、私は、今はもう会合等には参加していません。このことははっきりと 告白しておきます。
私は、学生部の時に、先輩との論争を試みたことがあるのですが、その時もや はり私の考えは全く理解して頂けませんでした。すべて私の力不足の故だと思っ ております。今は、仏教学等を研究しながら、力をつけていく努力をしていると ころです。
>
libraさん、頑張って下さい。 > >
創価学会も貴方のような方が中心だと決して世間に誤解されるようなことはな > いのでしょうけど・・・
そのように仰って下さる方が外部におられることは、私にとっては大きな励み になります。本当にありがとうございます。
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gakkaiseinen
さんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
3時38分
メッセージ: 11715
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こんにちは、gakkaiseinen さん。
>
私は今回の論議の論点を「纏めたい」と何度も貴方に希望しております。
私はあなたのその「論点の纏め方」そのものに意義を唱えたのです。あなたのその 「纏め方」は、別に「ア・プリオリに正しい」わけではないでしょう。
──────────────────────────────────── 文脈から切り離して、その単語だけを取り出して眺めた時に、「他人を罵る為 に使われる単語である」という印象を読み手に与えるか否か、ということを考察 しても、そのような考察にはほとんど意味(意義)がないと思います。
(No.
11674) ────────────────────────────────────
>
>私には、あなたが頻繁に使われる「適切性」という用語の中身が依然として不明です。 >
>論調として適切とはどのような意味なのでしょうか > >「正統な主張」というのは「正当な主張」と同じですか? >
> これらは、一見もっともな問題提起(無論重要なものも含まれます)に見えます >
が、全て議論の推移や辞典等で、ある程度相手の意図が分かるものですし、
私は分らないから聞いたのです。もちろん、私は、あなたの使用された各用語 について、できうる限り前後の文脈を参照しつつ、できうる限り(私の推論能力 の許す限り)整合性を持つように解釈しようと努めました。しかしながら、それ でも整合性を持つような解釈を見い出し難かったのであえてお聞きしたのです。
>
もし、その意図する目的がその辞典等に複数記載されている場合は、貴方御自 > 身が仰っている > >
> 「馬鹿」で言えば、「馬鹿」という単語が単独で提示された時に、一般的に言っ > >
て、1〜6の語義うちのどれが真っ先に想起されるかというような問題に過ぎない > >
のではないでしょうか。 > > と言う貴方の御見解で宜しいのではないでしょうか? >
つまり、貴方御自身でも類推可能なものだと考えます。
上の「馬鹿」の話は、ある文脈上に「馬鹿」という単語がおかれている時に、 その語義を、1〜6の語義のうちのどれであると解釈すべきかということについて 述べたものではありません。「単語が単独で提示された時」の話です。従って、 今の話とは全く関係がありません。
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gakkaiseinen
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
3時40分
メッセージ: 11716
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> そして、意図的に問題提起すれば、貴方の > > >
まず最初に、私は、今回のあなたの一連の御文章の一部を日本語として「解読」 > >
できなかったことを告白しておきます。 > >
でさえ、非常に論旨を曖昧させる、反証が出来てしまいます。 > >
ーーーーー以下反証事例ーーーーーー > >
「日本語として解読できない」のであれば、何語で、解読可能だったのでしょう >
か?
私はあなたの御文章の一部を「解読」できませんでした。 あるいは、「私」でない別の人には、なんらかの言語(gakkaiseinen語?)とし て「解読」可能であったのかもしれません。あるいは、「私」でない別の人には 「日本語」として「解読」できたのかもしれません。しかし、少なくとも「私」に は、あなたの一連の御文章の一部を「日本語」として「解読」できませんでした。
>
私が日本語を使ってレスを付けている以上
あなたは「日本語を使ってレスを付けている」と自己解釈されておられるようで すが、あなたの御文章の一部は、少なくとも「私」にとっては、「日本語」として 「解読」不可能なものでありました。
>
これに貴方が異義を唱えてレスを付け、そのレスに、私が異義を唱えてレスを >
付けると、最初の論議に移るまで、膨大なやり取りが必要になります。
私も貴重な時間を無駄にしたくはありませんので、出来うるならそのような事 態は避けたいのですが、しかし、そちらがこうやって「反証事例」として御文章 をアップされた以上、こちらも異議を述べざるを得ませんでした。
>
ですから、できれば、今までのやり取りを、もう一度纏めて、新たに問題提起 >
しなおして、論議をしたいと思いますが如何でしょうか?
もしもそれをされたいのであれば、最初に申しあげたとおり、私はこれまでの 議論において、あなたの議論の「纏め方」そのものに意義を唱えたのだというこ とをきちんとご理解された上でなされて下さい。さもなくばお付き合いしかねま す。
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gakkaiseinen
さんへ(4)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
3時42分
メッセージ: 11717
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> 後の見解は貴方の返事によって、私のレスの内容が異なりますので、このレス >
に対する見解は・・・ > > *新たに問題提起しなおして、論議をする事に > >
「異義がある」「異義は無い」 > >
の何れかのみでお答え下さい。
私は私の考えに従って、以上のように見解を述べさせて頂きました。
>
今回は申し訳ありませんが、それ(「異義がある」「異義は無い」)以外の私 >
見はとりあえず、御遠慮下さい。(私からの一方的お願いなのは承知しており >
ます)
あなたの「一方的お願い」はこちらとしては承知できませんでした。ご容赦下 さい。まさか、あなただって、御自分の「一方的お願い」を「万人が必ず承知し なければならないもの」だとは思っておられないでしょう。
>
にも関わらず、貴方の私見が入っている場合は「私の意見を黙殺する方である」 >
と認識いたしますので、以後の「一連の問題提起における論議」はご遠慮させ >
て頂きます。
私は「あなたのご意見に同意できない」と申し上げているのであって、別に 「黙殺」したわけではありません。別に、あなたのご意見というものは、万人が 必ず受け入れなければならないような、ア・プリオリに正しいものではないでし ょう。それに対して私が「同意できない」と申し上げたとしても、「黙殺」した ことにはならないと思います。
あとは、よろしくご判断下さい。
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gakkaiseinen
さんへ(3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
3時46分
メッセージ: 11718
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はありません。番号をつけ間違えました。申し訳ございません。
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cqcqbya
さんへ(1)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
4時34分
メッセージ: 11720
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こんにちは、cqcqbya さん。ご意見ありがとうございました。
>
もし、あなたが、あなたの考える「仏教教団」への変革を学会に在籍したまま >
行い、学会員に広めるつもりであるなら、あなたの行為は「信徒泥棒」の行為 >
であると思います。
もしもあなたが、「Libraの考えは間違っている」とお考えなのであれば、私 に「学会を辞めろ」などという前に、信心の先輩として、学会員の先輩として、 「道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説」いて 頂きたく存じます。それが釈尊の教えではないでしょうか。
異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
http://fallibilism.web.fc2.com/006.html
さらに言えば、「伝統をそのまま鵜呑(うの)みに」したり、「長年、習慣と なった伝統を検討せずに、そのまま信じ込む」のは「真理を得ることができない」 「似非(えせ)宗教者」であるというのが釈尊の教えではないでしょうか。
頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より) http://fallibilism.web.fc2.com/014.html
それなのに、「日蓮正宗の伝統的教義を真正面から批判」された松戸さんのご 意見などはほとんど黙殺されているではありませんか?
日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄) http://fallibilism.web.fc2.com/062.html
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cqcqbya
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
4時35分
メッセージ: 11721
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>
「実践無き教学」は虚妄であり遊戯です。
私は、立場の「真理」性は唯一実践においてのみ立証される≠ニいう思考形 態を批判しているのであって、「実践」そのものを否定しているわけではありま せん。
────────────────────────────────── しかしながら、私は「実践など重要ではない」と言いたいわけではもちろ んありません。言うまでもなく、「実践」は重要です。口でいくら論理的に 正しいことを言っていても、行動が伴っていなければ全く説得力に欠けると いうことは言うまでもないことです。 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール) http://fallibilism.web.fc2.com/095.html 一切は現証には如かず (「教行証御書」、全集、p.
1279) とは言っても、やはり、「実践のみが重要だ」という考え(「体験主義」) では、「権威主義」に堕してしまうだろうと思います。
(本掲示板、No.
11591) ──────────────────────────────────
そもそも、『法華経』を「実践する」ということは、『「法を語る者」となる』と いうことなのではありませんか?
────────────────────────────────── 「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、 「法を語る者」となることを主張する。そうすることによって、「法華経」 は、呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。
(友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』第34巻第2号、1995年11月、 p.
108)
──────────────────────────────────
>
「学問的正当性」のみを追求するなら学者だけで結構です。
私は「学問的正当性」のみ≠追求しているわけではありません。
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cqcqbya
さんへ(3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
4時37分
メッセージ: 11722
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> あなたがいわれる「師弟不二」と「依法不依人」とのお話はこじつけのように >
思います。「南無法蓮華教と日蓮大聖人ではどちらが大事か」と言ってるよう >
なものです。
私の考えを批判されたいのであれば、きちんと具体的にお願いいたします。私 の発言は以下にも記録してありますので、具体的にどの部分がどのように「こじ つけ」なのか、ご説明頂きたく存じます。
書写 http://fallibilism.web.fc2.com/syosya.html
────────────────────────────────── 万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心からし ても、納得する能はざる理由を意識しなければならない。異議を挾む 余地のあつてこそ、初めて不承知の理由となるのである。
(斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、p.
78) ──────────────────────────────────
>
創価学会教学に反駁するなら、学会員としてではなく、一個人として創価学会 > 本部に法論を挑んでください。
もしもあなたが本気でそのようにお考えなのであれば、本部に私を除名するよ うにお願いされて下さい。私はHPにて本名を名乗っておりますし、HPの存在も本 部に知らせてあります。
秋谷会長への手紙 http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html
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yajiyaji568457
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
5時09分
メッセージ: 11723
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こんにちは、yajiyaji568457 さん。はじめまして。
>
libra_2001jpさんは、とりあえず、 > > 「異義がある」「異義は無い」 >
> のどちらかに一言レスを付けてから、直ぐに、 >
一連の投稿をするべきだったね
もしも、私の意見を一言で表現するならば、
「条件付きで異義は無い」
ということになります。条件については「一連の投稿」の中の、「No.
11715 の最初の部分」、及び、「No. 11716の最後の部分」を参照して頂ければと思 います。
>
libra_2001jpさんのレスは、どんなにスジが通っていても、 >
結果として、gakkaiseinenさんの「お願い」を聞き入れなかった事実として、 >
のこっちゃうじゃないですか〜
gakkaiseinen
さんの「お願い」というのは正確には、
───────────────────────────────── 今回は申し訳ありませんが、それ(「異義がある」「異義は無い」)以外 の私見はとりあえず、御遠慮下さい。(私からの一方的お願いなのは承知 しております)
にも関わらず、貴方の私見が入っている場合は「私の意見を黙殺する方で ある」と認識いたしますので、以後の「一連の問題提起における論議」は ご遠慮させて頂きます。
(No.
11710) ─────────────────────────────────
というものでしたので、たとえ「条件付きで異義は無い」という「一言レスを 付けてから、直ぐに、一連の投稿を」したとしても、レスに「私見が入ってい る」ということにはなりましょうし、従って、「お願い」を聞き入れなかった ということになってしまうように思います(投稿の順番の問題ではないように 思いますので)。とは言え、やはり、
yajiyaji568457 さんがおっしゃられる ように、まず「一言レスを付けてから」の方が、gakkaiseinen
に与える印象は 良いものになったのかもしれません。そこまで配慮が至らなかったことを恥ず かしく思います。 今回は貴重なご意見を頂きまして本当にありがとうございました。今後の投 稿に生かしていきたいと思います。
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paritips
さんへ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
6時48分
メッセージ: 11726
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こんばんは、paritips さん。
>
「実践の世界を離脱して議論の世界へと引き返して」「立場の真理性は唯一議 >
論においてのみ立証されると断言する」君の議論を妥当だとは言えんな
私はそのようなことは言っておりません。
────────────────────────────────── しかしながら、私は「実践など重要ではない」と言いたいわけではもちろ んありません。言うまでもなく、「実践」は重要です。口でいくら論理的に 正しいことを言っていても、行動が伴っていなければ全く説得力に欠けると いうことは言うまでもないことです。 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール) http://fallibilism.web.fc2.com/095.html 一切は現証には如かず (「教行証御書」、全集、p.
1279) とは言っても、やはり、「実践のみが重要だ」という考え(「体験主義」) では、「権威主義」に堕してしまうだろうと思います。
(本掲示板、No.
11591) ──────────────────────────────────
No. 11721
もあわせて参照されて下さい。
>
君はほんとに仏法者か?だとしたら悩乱した仏法者やな
私が「悩乱した仏法者」であるかどうかについては賢明なる読者の方々に判断 を委ねたいと思います。
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paritips
さんへ(2)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
6時49分
メッセージ: 11727
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> 創価学会が信仰している「唯一絶対の実在」とやらを具体的な名称で答えても >
らいましょうか
「宇宙生命」です。
────────────────────────────────── 名誉会長 「其の身」とは仏の身のことです。経文を読めば、そのことは 分かる。しかし、その実体は分からない。 それは「非ず」という否定形を重ねてしか表現できない何かである。どん な「定義」をしても、そこから、はみ出してしまう面をもつ何かである。し かも、どんなに否定形を重ねても、それでもなお厳然と存在する実在である。
(『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p.
33) ──────────────────────────────────
────────────────────────────────── 宇宙全体が、一つの大生命体です。自分もその宇宙生命と一体だとわかった。
(池田大作他『法華経の智慧』第五巻、聖教新聞社、1999年、p.
25) ──────────────────────────────────
戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」(池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/054.html
タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─ http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html
ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭) http://fallibilism.web.fc2.com/049.html
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paritips
さんへ(3)
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
6時50分
メッセージ: 11728
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>
創価学会の「根本の師」は「日蓮大聖人」であり
その「根本の師」である「日蓮大聖人」は何と言われているでしょうか?
法華経を師匠と御憑み候へ http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html
────────────────────────────────── 是れ程に思食したる親の釈迦仏をばないがしろに思ひなして唯以一大事と説 き給へる法華経を信ぜざらん人は争か仏になるべきや能く能く心を留めて案 ずべし。
(「主師親御書」、全集、p.
387)
──────────────────────────────────
────────────────────────────────── 名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れ てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であり、 権威化です。
(池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p.
49) ──────────────────────────────────
────────────────────────────────── 名誉会長 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、 「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているのです。 ここでは、このことを少し考えてみよう。
(同上、p.
50) ──────────────────────────────────
────────────────────────────────── 斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇め る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どのよう な国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五n、趣意)と 破折されています。
(同上、pp.
68-69) ────────────────────────────────────
大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄) http://fallibilism.web.fc2.com/067.html
初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html
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読者の方々へ
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
7時00分
メッセージ: 11729
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私のせいで、ここも随分と荒れてきたように思います。申し訳ないので身を 引こうかとも考えています。
みなさまのご意見をお伺いできれば幸いです。
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お世話になりました
投稿者: libra_2001jp
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2001年10月25日 午後
8時55分
メッセージ: 11753
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─────────────────────────────────── [t98c302d_apo
さんへ]
> ところでもし身を引かれるなら最後にひとつ聞いてもよろしいでしょうか? >
貴方は御自身が学会3世と伺いました。学会員の親が子供に宗教に対しての >
認識が無い内から入信させることの是非についてどう思われますか?
このトピの No. 1597
からの議論をご覧になって頂ければ幸甚です。
「当時の私」と「今の私」では、意見・見解が多少変化していると思います が、「学会員の親が子供に宗教に対しての認識が無い内から入信させることの 是非」についての見解は当時からほとんど変化していないと思います。
混乱が続いているようなので、私は身を引くことに致します。
大変お世話になりました。
─────────────────────────────────── [すべての読者の方々へ]
大変お世話になりました。私はしばらくこのトピから離れます。またひょっ こり現れることがあるかもしれませんが、その時はまたよろしくお願いいたし ます。 ─────────────────────────────────── 2001.10.25 Libra拝
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