「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)


いや、ところがここに一人の人間がおつて正しいことを口にしている、したがつてそれを理解しているはずでありながら、さていよいよ行動せねばならぬときには不正なことをする、すなわち彼がそれを理解してはいなかつたことが曝露されるとすればこれこそ無限に喜劇的である。真理のために生命を捧げる高貴な自己否定の話を読んだり聞いたりして涙を流すほど感動した人間が、いや涙だけではなく汗までたらたらと流した人間が、すぐ次の瞬間にほとんどまだ眼に涙をためながら、ワン・ツー・スリー・ドンとたちまち一転して虚偽に勝利を()させるために額に汗して全力を尽すとしたら、これこそ無限に喜劇的である。

(キェルケゴール『死に至る病』(斉藤信治訳・岩波文庫)、岩波書店、1939年〔1957年改版〕、p. 148)


 ソクラテス、ソクラテス、ソクラテス! そうだ、我々はお前の名前をもう三度も呼ばなければならない。もしそれが何かの役に立ちうるというのでさえあれば、それを十度呼ぶことも多すぎはしないであろう。人々は世界はひとつの共和国を、ひとつの新しい社会秩序と新しい宗教とを必要とすると考えている、けれどもほかならぬ知識の過剰によつて混乱せしめられた我々の世界が必要としているのは一人のソクラテスであるということには誰も気がつかない。だが無論、誰かがそれに気がついていたとすれば、或いは多くの人がそれに気がついているというのでさえもあれば、ソクラテスはあまり必要でなかつたかもしれない。見当違いをしている者が最も必要とするものは彼がそれに思い及ぶことの最も少ないものである、これは当然のことである、──でなかつたら見当違いをしているとはいえない。
 こういうわけで我々の時代はそのような皮肉な倫理的な矯正(きょうせい)をきわめて必要としているということができよう。おそらくそれは我々の時代が必要とする唯一のものである、なぜならそれは明らかに我々の時代がそれに思い及ぶことの最も少ないものだからである。ソクラテスよりももつと先に出ることではなく、このソクラテス的なるもののもとにもどつてきて理解と理解とは同一ではないことを学ぶことが我々にはきわめて必要なのである、大切なことはひとつの結論としてのソクラテス的なるもののもとにやつてくることなのではない、結論というものは理解と理解との間の区別を消し去つてしまつて結局人間を深刻きわまる悲惨のなかにおとしこむことになる。大切なことは日常生活の倫理的把握としてのソクラテス的なるもののもとにやつてくることなのである。
 さてソクラテス的な定義は次のような具合にやつてゆく。誰かが正しいことをしない場合には、彼はそれをまた理解していなかつたのである、彼は理解したと思い込んでいただけであつた、自分はそれを理解したという彼の断言は要するに見当違いであつた、──彼がもし更にくりかえして、畜生、理解したといつたら理解したんだと断言することでもあれば、それは彼が本当の理解から途方もなく遠く隔つているということなのである。さてこうしてみるとこの定義はたしかに正確である。誰かが正しいことをすれば、無論彼は罪を犯したことにはならない。彼が正しいことをしないとすれば、彼はそれを理解していなかつたのである。彼が本当にそれを理解していたとすれば、それは直ちに彼を動かしてそのことを実行せしめ、彼と理解との間に一致が実現することになる、──故に、罪は無知である。

(同上、pp. 150-151)

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