戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」
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三月の初め、まだ寒さも消えやらぬ日、彼はまた、あらためて四回目の法華経を読みはじめていた。法華経の開経である、無量義経からである。
其身非有亦非無彼は、この偈の部分が、十二行からなることを知り、「……に非ず」という否定が、三十四もあることを確かめた。
非因非縁非自他
非方非円非短長
非出非没非生滅
非造非起非為作
非坐非臥非行住
非動非転非閑静
非進非退非安危
非是非非非得失
非彼非此非去来
非青非黄非赤白
非紅非紫種種色
──戸田城聖は、この十二行の偈を心から納得したいと願った。さもなければ、もう一歩も先へ進まぬと決めた。彼は、法華経に対して背水の陣を張ったのである。その決意は、いわゆる観念の決意ではない、生命の対決であった。
戸田城聖が不可解とした十二行は、冒頭の「其の身」が、いったい何を指しているのかにかかっていた。
彼は、この十二行の意味するものの、確実な実体が存在することを直観していた。
彼は唱題を重ねていった。そして、ただひたすらに、その実体に迫っていった。三十四の「非」を一つ一つ思い浮かべながら、その三十四の否定のうえに、なおかつ厳として存在する、その実体はいったい何か、と深い、深い思索に入っていた。時間の経過も意識にない。いま、どこにいるかも忘れてしまった。
彼は突然、あっと息をのんだ。──「生命」という言葉が、脳裡にひらめいたのである。
彼はその一瞬、不可解な十二行を読みきった。
「生命」は有に非ず亦無に非ず──ここの「其の身」とは、まさしく「生命」のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは生命のことなのだ!
因に非ず縁に非ず自他に非ず
方に非ず円に非ず短長に非ず
…………………………………
紅に非ず紫種種の色に非ず
法華経には「生命」という直截な、なまの言葉はない。それを戸田は、不可解な十二行に秘沈されてきたものが、実は、真の生命それ自身であることをつきとめたのである。
仏というものの本体が解った。三世にわたる生命の不可思議な本体が、その向こうに遠く、はっきりと輪郭を現わしてきた思いがしたのである。
〔01.10.06 引用者付記〕
かつて私は、戸田城聖氏の“悟達”について以下のように論じた。
1.小説『人間革命』第四巻によれば、戸田先生の“悟達”(=宇宙生命論)は、『法華経』によるものではなく、『無量義経』の「十二行の三十四の否定」によるものである。
2.『無量義経』は中国で作られた偽経である。
3.『無量義経』の「十二行の三十四の否定」は内容的には「外道の我論」そのものである。
4.よって、戸田先生の“悟達”は仏教の“悟達”などではなく、外道の“悟達”である。
〔01.10.22 引用者付記〕
前回の付記(〔01.10.06 引用者付記〕)に対して、以下のようなご質問をタツノコ氏から頂戴した。
『無量義経』は中国で作られた偽経(菅野博史)
http://fallibilism.web.fc2.com/050.html
ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭)
http://fallibilism.web.fc2.com/049.html
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このご質問に対する私の回答については、以下を参照されたい。
タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html