Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言[ 1 ]

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  現・創価学会の教義は事実上崩壊している   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月17日 午後 9時45分
    メッセージ: 11459
 私は創価学会員(三世)ですが、現・創価学会の教義は事実上破綻している
と思います。
 詳しいことは以下のHPで展開しておりますので、みなさまのご意見をお伺い
できれば幸甚です。

  NOTHING TO YOU
  http://fallibilism.web.fc2.com/

  自己レス─学会の「言論戦」は質が問題─   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月18日 午前 9時29分
    メッセージ: 11475
 創価学会は根本的なところで教義が破綻しているにも関わらず、びくともし
ませんね。これは、「外からまともな(教義上の)批判がない」せいもあるの
ではないでしょうか(もちろん、学会側の「聞く耳」にも大いに問題があると
は思いますが)。日蓮宗も少なからず教義が破綻している(荒行などをやって
いる)ので、真っ向から創価学会と対決する勇気もないのでしょう。
 日本社会全体の体質(真の意味での「論争」の欠如)そのものに問題の根が
あるようにも思います。

  相対主義批判(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

 そういう意味では、「言論戦」を前面に押し出している創価学会の思想性(
批判精神)は大いに評価されてよいのかもしれません。問題は、その「言論戦」
の質ですね。肝腎なところで(理論的に破綻しそうになると)結局「体験主義」
に逃げ込んで(「議論の世界」を離脱して、「実践の世界」へと引き返して)
しまうのではダメですね。

  議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

  「自立」を抑制する要素(島薗進)
  http://fallibilism.web.fc2.com/043.html

 『聖教新聞』にもいいことが書いてあるんだけどなぁ(ため息)。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。
  沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑わ
  れるだけだ。

  (『聖教新聞』(2000年11月12日、8面)の「羅針盤」より)
  ─────────────────────────────────

  頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/014.html

  法華経の女人成仏   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月18日 午前10時00分
    メッセージ: 11478
 私も横から失礼します。

> 法華経は、「女性も成仏できる」と説いているのでなく、「女性も、男性にな
> って、成仏できる」と説いているのではありませんか。

> 法華経の提婆達多品では、竜女が成仏しますが、女性のまま成仏するのではなく、
> 男性に変わってから(変成男子)、成仏すると説かれているはずです。

 しかも、提婆品はかなり後から編入されたものとも言われていますね(勝呂信静
『法華経の成立と思想』、大東出版、1996年(改訂発行)、pp. 65-72を参照)。

 しかしながら、『法華経』には比丘尼に対する授記が説かれていますので、「女
性も成仏できる」と説いていると言ってもよいと思います。

  ───────────────────────────────────
   主要な仏教経典で唯一女人の即身成仏を説くお経であるが、現在の仏教学で
  は後分とされているようである。ただし、『妙法蓮華経勧持品第十三』には比
  丘尼(女性僧侶)の授記が説かれており、『妙法蓮華経提婆達多品第十二』が
  欠落しても女性成仏は説かれていることになる。

  (鳩摩羅什と『法華経』、http://www.kosaiji.org/hokke/rajyu.htm
  ───────────────────────────────────

p.s. 初期経典に女性差別の記述があるにしても、私は釈尊が女性を差別したとは
   思っていません。

  釈尊が女性を差別したとは考えられない   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月18日 午前11時41分
    メッセージ: 11482
 横レス失礼します。

> シャカムニもまた人間ですから、間違いをおかします。その間違いがこの女性
> 蔑視の部分だといえると思います。

 釈尊は次のように言ったとされています。

  「人は生まれによって、賎しい人となるのではない。生まれによってバラモン
   になるのではない。行いによって賤しい人にもなり、行いによってバラモン
   となるのである」

ここで言われている「バラモン」とは「バラモン教」の「バラモン」ではなくて、
「真の聖者」という意味でしょう。「仏」と言い換えてもいいと思います。このよ
うな考えの持ち主であった釈尊が、「女性として生れた者は成仏できない」などと
言うわけがありません。そもそも、そのような考えは仏教の根本思想である「縁起」
の考えにも反するでしょう。

  ○参考資料:ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
        http://fallibilism.web.fc2.com/080.html

  「仏教とは批判である」   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月18日 午後12時08分
    メッセージ: 11484
 横レス失礼します。

> それを見ていたら通常の学会員の方にももう少し他宗の批判を止めて欲しい物
> ですが。

 他宗を批判すること自体は悪いことではないと私は思います。ただし、「クー
ル・ロジックでやるならば」という条件付きではありますが。

  真の知性人とは(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

  宗門の学は、法華経に対する信心の欠落の状態にある(伊藤瑞叡)
  http://fallibilism.web.fc2.com/010.html

  相対主義批判(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/039.html

 袴谷先生は「仏教とは批判である」と主張されていますが、私もそれに賛成で
す(http://fallibilism.web.fc2.com/003.html#1)。


 現在創価学会でやられている人格攻撃は「悪口」であって「批判」ではないと
も思います。

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

  感謝します > gakkaiseinenさんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月18日 午後 1時04分
    メッセージ: 11488
 はじめまして、gakkaiseinenさん。

 レイトウさんやt98c302d_apoさんにご紹介下さいましたこと、心よりお礼申
し上げます。

> でも、現在のBBSは会員制みたいですね・・・残念です。

 本当に申し訳ありません。私の人徳のなさから、荒らしにあってしまいまし
て、それをきっかけに、思いきって会員制にしてしまいました。それまでずっ
とオープンなところでばかり議論してきたので、一度身内だけでやってみるの
も本音が出て面白いかなという発想でもあります。もしもご意見などがござい
ましたら、このトピで発言して頂くか、メールして頂ければ幸いです。

  申し訳ございませんでした   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月19日 午前 4時16分
    メッセージ: 11519
 はじめまして、hemataro さん。

 ご迷惑をおかけしてしまったようで、本当に申し訳ございませんでした。

> http://fallibilism.web.fc2.com/
>
> これ地雷じゃないんだ。
>
> これ踏んだら、パソコンしばらくいかれた。
>
> 何だったんだろう。

 動画と音楽が流れる仕組みになっているハズなのですが、hemataro さんの
環境ではおかしくなってしまったようですね。申し訳ございませんでした。

> なりすまし君かと思っちゃいました。

 「なりすまし君」ではありませんので、その点はご安心下さい。

> 思われた人、普通に入れるようにしてください。

 別の入り口を作ってみましたので、こちらから入って頂ければ幸いです。

  NOTHING TO YOU
  http://fallibilism.web.fc2.com/index2.html

p. s. また不都合がございましたら仰って下さい。

  子どもを入信させていいのか   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月19日 午後 6時19分
    メッセージ: 11542
>  しかし、同様に「自分が良いと思っている宗教を子供にさせて、その是非は
> 大人になってから決めさせよう」と言う親がいても良い事になります。

 そういえば昔、このトピでそういう話をしたっけ。もうあれから二年近くなる
のか…。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&
board=1835217&tid=ao2a3x2qa4hffcoa1c05bda1&sid=1835217&mid=1597

  t98c302d_apo さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月20日 午前 1時30分
    メッセージ: 11556
 こんばんは、t98c302d_apo さん。こちらこそよろしくお願いいたします。

> しかし信者が無信心の人間を勧誘するときのストラテジーとしては批判によっ
> て勧誘行為を行うというのは果たして得策でしょうか?
>
> ということで、私は識者同志では「仏教とは批判である」で宜しいかと思いま
> すが、識者、信者対無信心な人々では批判は難しいのではないかと、そう思い
> ます。

 私は

  折伏は慈悲が根本(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

という信念を持っております。「折伏」は「批判」でしょうが、「慈悲のある
批判」というものもありえると思います(私などのレベルでは「難しい」のは
もちろん認めます)。以下の資料も参照して頂ければ幸いです。

  なるほど法話 海 潮 音、仏教 第2話 救われるということ
  http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/hw-bukkyou2.htm
  
〔中略〕

> 良風を興して風に倣わせろ、の一文を読んで頂きたいのです。

 おっしゃることはよく分かります。
 実際の行動がともなっていないのであれば、いくら「菩薩行」などと口で偉
そうなことを言っていても、そこには何の説得力もないでしょう。キルケゴー
ルの言葉で言えば、「無限に喜劇的」だと思います。

  「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
  http://fallibilism.web.fc2.com/095.html


> ですから最初に私が聖教新聞に日顕氏の下半身疑惑や批判記事を書くのを批判
> しました。

 前回の「仏教とは批判である」でも申し上げましたとおり、私は聖教新聞紙
上で展開されている人格攻撃の類は、およそ「批判」以前のものだと思ってい
ます。そのことは、随分前(約二年前)に、このトピでも議論したことがあり
ます。
  
  僕もああいうのはやめて欲しいな(No. 1577)〜
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m
&sid=1835217&tid=ao2a3x2qa4hffcoa1c05bda1&mid=1577&board=1835217

 現・創価学会(少なくとも、人格攻撃に賛成、あるいはそれらを黙認してい
る多くの会員の方々)はまさに「無限に喜劇的」なのではないかと私は思って
います。

  shishishinchu_no_mushi さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月20日 午後 6時31分
    メッセージ: 11572
 はじめまして、shishishinchu_no_mushi さん。

> Libraさんのホームページは反創価連盟さんがよく紹介されていますので、私も
> 時間があるときに少しずつ読んでいます。

 ありがとうございます。ご意見等をお伺いできれば幸いです。
 反創価連盟さんにはいつも貴重なご意見を頂いておりまして、大変お世話にな
っております。


> 2chで名誉片山さんが急に「縁起説」を使って学会員を論破しはじめたので、な
> ぜかと思っていたら、どうもLibraさんが教えたようですね(笑い)。

 名誉片山さんってかなりの有名人なんですね(笑)。私も名誉片山さんからは
いろいろと教わることが多かったです。しかしながら、あることをきっかけに、
もう名誉片山さんとはお付き合いいたしておりません。


> しかし、Libraさんのように冷静に意見を書きこむ人でさえ、見事に攻撃されて
> いますね・・・。

 当時、こことは別の掲示板で学会員の方々から袋叩きにあいました。私にとっ
てはそっちの方がショックでした(苦笑)。

  折伏は慈悲が根本
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html


> なにかを批判するということが、たとえそれが「事実」であったとしても、そ
> の動機が憎悪に基づいている限りよろしくないという意味のことが加藤諦三の
> 心理学の本に書いてあり、確かにそうだと思ったものです。

 以下の『ダンマパダ』の教えを想起いたします(自戒の念を込めて)。

  ──────────────────────────────────
  三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち
    勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨
    みはついに息むことがない。

  四 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち
    勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、
    ついに怨みが息む。

  五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに
    怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理であ
    る。

  (中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫)、岩波書店、
   1978年、p. 10)
  ──────────────────────────────────

  kimagureboshi さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月21日 午後12時21分
    メッセージ: 11580
 はじめまして。kimagureboshi さん。

 こちらこそ、レスをつけていただきまして、ありがとうございました。

> 実は、前のSF研の掲示板で、libraさんの投稿は、ときどき読ませていただい
> ていました。

 見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。

> 他の学会員は「理屈を言わないで実践してみなさい」というようなかんじで反
> 論していたように記憶しています。

 悪しき「体験主義」だと思います。

  「自立」を抑制する要素(島薗進)
  http://fallibilism.web.fc2.com/043.html

  創価学会では教団内に権威主義が保持されている(島薗進)
  http://fallibilism.web.fc2.com/056.html

> 間違っているかもしれませんが、私は、libraさんは、「仏教であること」、
> そして「仏教徒であること」を非常に重視している方なのだろうと見ています。
> それが「創価学会員であること」と矛盾した場合には、「仏教徒であること」
> を選びたいと思うほどに。

 実際、私は現・創価学会には非仏教的な部分が多いと思っています。しかし、
そういうものは変革可能であると考えています。

 御書には、

  師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理
  によるべきなり
  (「曾谷殿御返事」、学会版御書全集、pp. 1055-1056)

  釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を
  尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何
  (「撰時抄」、同上、p. 259)

  仏教には経論にはなれたるをば外道と云う
  (「蓮盛抄」、同上、p. 152)

  仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をも
  って其の法を軽んずる事なかれ
  (「聖愚問答抄」、同上、p. 481)

とあります。

 『聖教新聞』も以下のように教えています。

  頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/014.html

 また、創価学会の研究機関である「東洋哲学研究所」の研究員であられる友
岡雅弥氏も次のように言っておられます。

  ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するということがな
  かったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづけることが
  できたのです。
  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、p.188)

 初代牧口会長も以下のように言われています。

  一度発せられた意志命令は、仮令それが間違つて居ることが解つたにして
  も、それを引込ますことは官の威信に関はるという理由の下に、無理横暴
  を通すといふのが専制政治の常套手段で、これでなければ人民は治るもの
  でないといふのが其の信条である。何ぞ知らん。眼前一部分の威信はこれ
  によつて保つことは出来ても、永久全体の信用は全く失墜して仕舞ふこと
  を
  (斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、
    pp. 361-362)

 今こそ「徹底的の討議」(牧口常三郎)が必要な時なのだろうと思います。

  公明正大の方法によつて、最も自由に徹底的の討議を(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/055.html

  shishishinchu_no_mushi さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月21日 午後12時25分
    メッセージ: 11581
 こんにちは、shishishinchu_no_mushi さん。

 こちらこそ、レスありがとうございます。

> ただ、私が思うに、Libraさんが指摘の、宇宙生命論という教義の結果として
> 権威主義が生まれる、という主張は相関性がなく、飛躍していると思います。

 私は、言葉による説明を否定する態度(「神秘主義」や「体験主義」)は
「権威主義」を帰結すると考えています。宇宙生命論は「神秘主義」だと思い
ますので、「宇宙生命論という教義の結果として権威主義が生まれる」と言っ
ていいと思います。


> 岩波書店の「密教」を読めば早いのでしょうが、できれば、Libraさんが「宇
> 宙生命論という神秘的教義の結果、権威主義が生まれる」と思われた根拠を教
> えてください。

 以下、リンクを列挙してしまって恐縮ですが、

  神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
  http://fallibilism.web.fc2.com/046.html

  ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/049.html

  戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」(池田大作)
  http://fallibilism.web.fc2.com/054.html

および、

  曽我逸郎さんとの対話(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html

の註1を参照して頂ければ幸いです。

 以下も参考になろうかと思います。

  「自立」を抑制する要素(島薗進)
  http://fallibilism.web.fc2.com/043.html

  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/003.html

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html


 以上、資料の列挙になってしまいましたことを深くお詫び致します。

  shishishinchu_no_mushi さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午前 2時35分
    メッセージ: 11590
 こんばんは、shishishinchu_no_mushi さん。

 とても論理的にご意見を述べて下さいましてありがとうございます。

> しかし、私は「言葉による説明を否定すること」全てが「権威主義」であると
> は思いません。

 「「議論の世界」を離脱して、「実践の世界」へと引き返して」「立場の「真
理」性は唯一実践においてのみ立証されると断言する」ことから「マキャヴェリ
ズム的概念」への「頽落」が生じるという、小河原先生の以下の議論を私は妥当
だと考えています(今問題になっている「権威主義」とは多少ズレるかもしれま
せんが)。

  議論の世界からの離脱は、たんなる逃亡にすぎない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/017.html

 で、私は、創価学会の「権威主義」の根本的な原因というのは、「立場の「真
理」性は唯一実践においてのみ立証される」という思考形態(「神秘主義」から
帰結される「体験主義」)にあるのではないかと考えています。なぜ、「唯一実
践においてのみ立証される」ということになるのかと言えば、それは「我々の日
常的な言語表現によっては把握不可能」な「唯一絶対の実在」を信仰の対象とし
ている(「神秘主義」)からではないかと私には思えます。

  ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/049.html


 私は、現・創価学会で言われている「師弟不二」というのは、牧口先生が言わ
れている意味での「依法不依人」とは真っ向から対立するものではないかと考え
ています。そして、私にとっては、現・創価学会の「権威主義」とは「師弟不二」
思想なのです。

  依法不依人(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/025.html

  信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

 「理性を権威とするのもまた権威主義ではないか」と言うことも可能かとは思
いますが、今問題になっている創価学会の「権威」というのは「理性」といった
ものではなくて、「(実践において立証したと宣伝されている)人」なのだろう
と理解しています。

  shishishinchu_no_mushi さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午前 2時37分
    メッセージ: 11591
 しかしながら、私は「実践など重要ではない」と言いたいわけではもちろんあ
りません。言うまでもなく、「実践」は重要です。口でいくら論理的に正しいこ
とを言っていても、行動が伴っていなければ全く説得力に欠けるということは言
うまでもないことです。

  「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
  http://fallibilism.web.fc2.com/095.html

  一切は現証には如かず
  (「教行証御書」、全集、p. 1279)

 とは言っても、やはり、「実践のみが重要だ」という考え(「体験主義」)で
は、「権威主義」に堕してしまうだろうと思います。

  師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理
  によるべきなり
  (「曾谷殿御返事」、学会版御書全集、pp. 1055-1056)

  釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を
  尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何
  (「撰時抄」、同上、p. 259)

  仏教には経論にはなれたるをば外道と云う
  (「蓮盛抄」、同上、p. 152)

  仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をも
  って其の法を軽んずる事なかれ
  (「聖愚問答抄」、同上、p. 481)

  仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/069.html

  shishishinchu_no_mushi さんへ(3)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午前 2時40分
    メッセージ: 11592
> なぜなら、これが成り立ってしまえば、どのような宗教であっても神秘主義的
> 傾向を持っているのだし、初期仏教を除く全ての宗教が「権威主義」に陥って
> いることになるからです。このようなことはありません。

 もちろん「神秘主義的傾向」の程度の差によって、「権威主義的傾向」にも差
があろうかと思いますが、やはり、原理的には「神秘主義は権威主義を帰結する」
ように私には思われます。

  「自立」を抑制する要素(島薗進)
  http://fallibilism.web.fc2.com/043.html

において、島薗先生は「これらの要因が存在するのは、宗教であれば、避けがた
いものなのかもしれません。」と言われていますが、shishishinchu_no_mushi さ
んの言われるように、もしも「どのような宗教であっても神秘主義的傾向を持っ
ている」のだとすれば、島薗先生が仰られているように、権威主義的傾向は「宗
教であれば、避けがたい」ものなのかもしれません。しかしながら、少なくとも
仏教はそのようなものではないと私は思います。


> ただし、神秘主義にもとづかない権威主義があるのも事実です。

 私は、「神秘主義」は「権威主義」の十分条件だと考えておりますが、「権威
主義」が「神秘主義」の十分条件だとまでは言っていません。つまり、「すべて
の権威主義は必ず神秘主義にもとづいている」とまで言っているわけではありま
せん。

> 創価学会の権威主義的傾向は、生命論から来るものではなく、むしろ組織論か
> らくるもののような気がします。

 繰り返しになりますが、現・創価学会の「師弟不二」思想(=権威主義)の根
っこのところには、「神秘主義」(から帰結する「体験主義」)があるように私
には思えます。そのような思考形態に基づいて、「権威主義を実現するための組
織論」が展開されてしまっているのではないでしょうか。

  リナ・インバースさんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午前10時51分
    メッセージ: 11595
 はじめまして、リナ・インバースさん。

> 「今末法に入りぬれば余経も
> 法華経もせんなし」
> 「ただ南無妙法蓮華経なるべし」
> と大聖人も仰せですしね☆

  ─────────────────────────────────
  法華経釈迦多宝十方の諸仏菩薩諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華
  経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり

  (「妙一尼御前御返事」、全集、p. 1255)
  ─────────────────────────────────

 詳しくは以下の拙文を参照されて下さい。

  法華経を師匠と御憑み候へ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html


> 第一、仏教的・非仏教的って
> どーいう定義で言っているわけですか?

 仏教とは「釈尊が説いた教え」です。その教理的な内容は「縁起・無我・空」
です。

  ─────────────────────────────────
  人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏よ
  り前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりし
  かども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてま
  しませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道
  の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大
  師とは仰ぎまいらせしか

  (「開目抄」、全集、p. 208)
  ─────────────────────────────────

 以下も参照されて下さい。

  仏教学を離れた仏教評論などはまったく成立の余地がない(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/040.html

 言うまでもなく、宗祖は釈尊の弟子(釈子)です。詳しくは、以下の拙文を
参照されて下さい。

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html


 私は、リナさんのようなお考えの方とはもうずいぶん議論を重ねてまいりま
した。その記録が以下にあります。「創価学会関連リンク集」掲示板での発言
だけでもご覧になって頂けないでしょうか。

  書写
  http://fallibilism.web.fc2.com/syosya.html


 私としましては、以前に他の場所で展開したのと全く同じ議論をまた最初か
らここで繰り返したくはありません。

  ─────────────────────────────────
  日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先
  の問題が残されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち
  消えになってゆく。そこでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に
  同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、
  すべてはそのたびごとにイロハから始まる。

  (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
  ─────────────────────────────────

  リナ・インバースさんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午後 9時14分
    メッセージ: 11603
 こんばんは、リナ・インバースさん。

 もう一度「お願い」をしておきます(同じ事はもう書きません)。

  > 私は、リナさんのようなお考えの方とはもうずいぶん議論を重ねてまいりま
  > した。その記録が以下にあります。「創価学会関連リンク集」掲示板での発言
  > だけでもご覧になって頂けないでしょうか。
  >
  >   書写
  >   http://fallibilism.web.fc2.com/syosya.html
  >
  >
  >  私としましては、以前に他の場所で展開したのと全く同じ議論をまた最初か
  > らここで繰り返したくはありません。
  (本掲示板、No. 11595)

 以下の私のレスは、上記の「書写」の内容を出るものではありません。


> 釈尊仏法にて救われる時代、
> 正法・像法はすでに過ぎました☆

  ────────────────────────────────────
  是れ程に思食したる親の釈迦仏をばないがしろに思ひなして唯以一大事と説き給
  へる法華経を信ぜざらん人は争か仏になるべきや能く能く心を留めて案ずべし。

  (「主師親御書」、全集、p. 387)
  ────────────────────────────────────

  ────────────────────────────────────
  名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れてし
   まった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であり、権威化
   です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p. 49)
  ────────────────────────────────────

  ────────────────────────────────────
  名誉会長 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、「人間
   ・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているのです。ここで
   は、このことを少し考えてみよう。

  (同上、p. 50)
  ────────────────────────────────────

  ────────────────────────────────────
  斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇める真言
   宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どのような国に出
   現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五n、趣意)と破折されて
   います。

  (同上、pp. 68-69)
  ────────────────────────────────────

  大聖人「釈尊に還れ」(『聖教新聞』寸鉄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/067.html

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

  リナ・インバースさんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月22日 午後 9時15分
    メッセージ: 11604
> 釈尊が五十年かけて
> 衆生をよーやく法華経へと
> 導いたコトと似ていますけど☆

 『法華経』は釈尊滅後に成立した経典です。

  ────────────────────────────────────
   『法華経』は初期大乗経典の中の代表的な経の一つである。インド仏教の大ま
  かな流れを簡潔に説明すると、何といっても仏教は釈尊=ゴータマ・ブッダ(生
  没年代は紀元前六世紀から五世紀、または五世紀から四世紀と推定される)の悟
  りから出発する。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p.11)
  ────────────────────────────────────

  ────────────────────────────────────
   『法華経』が初期大乗経典の一つであることはすでに述べた。その成立につい
  ては、紀元前一世紀頃から紀元後二世紀頃までの成立と推定されている。

  (同上、p.15)
  ────────────────────────────────────
    ※菅野先生は現在、「創価大学・国際仏教学高等研究所」の所長であられる。


  中国における教判の形成の必然性(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/021.html

  四阿含経までも「小乗仏教」と呼ぶのは誤り(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/029.html

  shishishinchu_no_mushi さんへ(1/2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月23日 午前 5時24分
    メッセージ: 11608
 おはようございます、shishishinchu_no_mushi さん。

> 私も、学会の「体験主義」が組織に対する従順さの源になっているのは確かだと
> 思います。

 私は、

  折伏は慈悲が根本(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z004.html

でも述べましたように、以前、「自由座談会」の「口汚い悪口」について、多く
の創価学会員を相手に、ある掲示板で論争をしたことがあります。しかしながら、
これは、厳密な意味では「論争」ではなかったように思います。実際にそれをた
またまご覧になっておられた kimagureboshi さんが、

  ──────────────────────────────────
  libraさんが御書等をひいてくわしく論じているのに対して、他の学会員は
  「理屈を言わないで実践してみなさい」というようなかんじで反論していた
  ように記憶しています。

  (kimagureboshi さんの発言、本掲示板、No. 11574)
  ──────────────────────────────────

とおっしゃっておられるように、こちらがいくら「経・論(御書を含む)」をひ
きつつ論理だてて意見を述べても、相手は「理屈を言わないで実践してみなさい」
という態度で、こちらの意見の妥当性を論理的に検証しようとはしなかったから
です。
 牧口先生は「公明正大の方法によつて、最も自由に徹底的の討議をなさしめ、
宗教それ自身の理法によつて判定せしめさへすればよいのである。」と言われて
いますが、現・創価学会の「神秘主義的(体験主義的)体質」が改善されない限
り、「徹底的の討議」などはそもそもありえないのではないかと私は思います。
そして、「徹底的の討議」のないところには、結局、「権威の押しつけ」しか残
らないように思います。

  公明正大の方法によつて、最も自由に徹底的の討議を(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/055.html

  shishishinchu_no_mushi さんへ(2/2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年10月23日 午前 5時26分
    メッセージ: 11609
> Libraさんは仏教は権威主義的傾向を持たないと言われていますが、それはあく
> まで「初期仏教」に限定するべきだと思います。なぜなら、今の仏教各派の浄
> 土宗、禅宗、天台宗などは歴史上早くから権威主義的傾向を持っているからです。

 私は、今現在「仏教教団」と呼ばれているものであったとしても、そのことに
よって直ちにそれらを「仏教である」とすることはできないと思っています。
 「仏教」とは「釈尊の説いた教え」だと思いますので、「釈尊の説いた教え」
に反することを主張したり、実践したりしている団体は、たとえ、今現在「仏教
教団」と呼ばれていたとしても、それは誤ってそう呼ばれている(あるいは自称
している)にすぎないのであって、本当は「仏教の教団」でもなんでもないのだ
ろうと思います。

 私は、「権威主義的傾向を持たない」ことは「仏教である」ための必要条件で
あると思います。つまり、

  「仏教である」ならば「権威主義的傾向を持たない」

という命題が成り立つと考えます。この対偶をとれば、

  「権威主義的傾向を持つ」ならば「仏教ではない」

となります。

 もしも、shishishinchu_no_mushi さんがおっしゃるように、「今の仏教各派
の浄土宗、禅宗、天台宗などは歴史上早くから権威主義的傾向を持っている」の
だとすれば、それらは、やはり「仏教ではない」のでしょう。しかしながら、そ
んな中でも「真の仏教者」は少なからずおられると私は思います。

  異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/006.html

  仲間が仲間にたずねるようにたずねなさい(『大パリニッバーナ経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/045.html

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html


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