縁起と空



 「三吉さんとの対話」シリーズの第四弾をアップ致します。今回のメインテーマは「龍樹の空思想」です。以下の第一弾から第三弾までと合わせてご覧頂ければ、よりいっそうお楽しみ頂ける…かな??
  1.「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」http://fallibilism.web.fc2.com/z002.html

  2.「続・日蓮は広略を捨てて肝要を好む」http://fallibilism.web.fc2.com/z003.html

  3.「日蓮は広略を捨てて肝要を好む(完結編)」http://fallibilism.web.fc2.com/z005.html

2001.06.30〔2001.07.01、2001.07.02:記事追加〕
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  No.295 (2001/06/24 08:48) title:本日、大谷氏に出したメール
Name:Libra (211.132.156.123)
Email:libra@be.wakwak.com

大谷栄一様

前略

 突然このようなメールをお出しする失礼をお許し下さい。

 6月23日付『中外日報』「土曜インタビュー」における貴殿のコメントに対
して疑問を持ちましたので少し質問させて頂きます。

 貴殿は、

 駒沢大学で道元思想をめぐる宗学論争が火を吹いたが、日蓮教学ではどう
  でしょうか。

との質問に対し、

 日蓮系は、西洋的な学問の影響をふまえての教学のとらえなおしがまだ不
  十分で…

とコメントしておられますが、これは、素直に読めば、「道元系に比べて日蓮
系は、…」という意味にとれます。そういう意味で仰ったと理解してよろしい
でしょうか。だとすれば、一体いかなる根拠によってそのように仰られるのか、
是非御教示下さい。私から見れば、日蓮宗の現在の「観学院宗学」(小野文■
〔王+光〕「教団論のための教学論」、木豊他編『日蓮とその教団』、吉川
弘文館、1999年、p. 486
を参照)が駒沢大学の「批判宗学」に比べて「西洋的
な学問の影響をふまえての教学のとらえなおしがまだ不十分
」だとは到底思え
ません。
 よろしくお願い致します。

                                 草々

 2001年6月24日           藤重栄一

 追伸 私は創価学会員ですが、将来「創価学会」について研究されるご予定
    はおありでしょうか。私は創価学会の現在の教学を変革(近代化)し
    ようと内部で運動をしております。もしご興味がおありでしたら以下
    のHPをご覧下さい。

       NOTHING TO YOU
       http://fallibilism.web.fc2.com/


No.307 (2001/06/25 04:14) title:私もそう思う。
Name:三吉 (203.179.201.10)

日蓮系は、西洋的な学問の影響をふまえての教学のとらえなおしがまだ不十分で…

江戸宗学が派内でまだ力を持っているって、全体的に。。。
充分とは言えまい。
あなたのあげたそれは端緒についた程度では。
史学の高木豊氏は、一派をなしましたが、
それでも主流ではあるまい。
史学系で日蓮やっているというだけで「ふん」という空気なのでは?

第一あなたはそれらの研究で充分と思われているのか?
高木豊なんて過去説ですぜ、今や。
だからといって業績がたいしことがないというわけではない。
私は駒沢の袴谷さんも松本さんもまだ充分などと思われてない
と思うぞ。。。どこもそうだ。
まず遅れている現状を認識する。当たり前の事実からはじめるという
のは大事なことですぜ。


No.308 (2001/06/25 04:24) title:名誉片山 さんへ
Name:三吉 (203.179.201.10)

世親を少しばかりかじってきずきましたが、
部派で、「涅槃」の時の釈尊の「自性」はあるやなしやとの
議論があったみたいです。
「ない」といえば、「涅槃」する主体が不明になる。
「ある」といえば、「無我」に矛盾する。
苦肉策で有部は「人無我・法有」を立てたらしい。
竜樹は「ある」というのも「ない」というのも「実体化」で
同じだと批判し「空」と言った。
袴田さんやりぶらさんは「ない」派ですので、
竜樹の論からすれば「ない」という「実体化派」です。
伝統教学ではこれを「無の邪見」といいます。
「宇宙生命論」は「有の邪見」ですね。
裏表だが「実体化」には違いない。
世親は中期大乗を元に、この有部と竜樹の「空・無自性」の
統合を図った。
私には「法有」復活にもみえるのですがよくわからんです。
戯れ言でした。


No.309 (2001/06/25 05:02) title:三吉さんへ
Name:Libra (211.9.238.42)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

> 日蓮系は、西洋的な学問の影響をふまえての教学のとらえなおしがまだ不十分で…
>
> 江戸宗学が派内でまだ力を持っているって、全体的に。。。
> 充分とは言えまい。

 ああいう構成では、「道元系に比べて日蓮系は、…」という意味になると思うがそれは
ちょっと違うだろ、と。私が言いたいのはそういうことです。「道元系もそうだが日蓮系
も、…」というなら問題ないんです。要するに、“は”と“も”の違いを問題にしたわけ
です。

 三吉さんは江戸宗学が派内でまだ全体的に力を持っていると言われますが、私は
観学院宗学」がすでにかなりの力を持ってきていると認識しています。

> 史学の高木豊氏は、一派をなしましたが、
> それでも主流ではあるまい。

 これは三吉さんの誤解です。「観学院宗学」というのは「高木豊先生の一派」という意
味ではありません。小野文■〔王+光〕先生が言うところの「観学院宗学」ということで
す(No.224を参照されたい)。伊藤瑞叡先生は「クラスタ分析」を持ち出して『三大秘法
抄』
真撰説を唱えられましたが、これなんかは「西洋的な学問の影響をふまえての教学の
とらえなおし
」の水準としては他派に比べても相当に高いと言うべきではありませんか?

> 第一あなたはそれらの研究で充分と思われているのか?

 もちろん「観学院宗学」といえどもまだまだ不十分と言わざるを得ないでしょう。

  仏教とは何かという問題は、仏教学が常にその解決をめざしているものであり、そ
   の意味では永遠に未解決の課題であるともいえよう。
」(松本史朗)

  http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

> 私は駒沢の袴谷さんも松本さんもまだ充分などと思われてない
> と思うぞ。。。どこもそうだ。

 真宗“も”そうですよね(^_^;)。私が言いたいのはそういうことです。そう読めません
でしたか?


No.310 (2001/06/25 05:13) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.9.238.42)
Email:libra@be.wakwak.com

> 竜樹は「ある」というのも「ない」というのも「実体化」で
> 同じだと批判し「空」と言った。

 「自性はない(無自性)」=「空」なのでは?

> 袴田さんやりぶらさんは「ない」派ですので、
> 竜樹の論からすれば「ない」という「実体化派」です。
> 伝統教学ではこれを「無の邪見」といいます。

 私は「縁起する諸法は自性ではない」と言っているのであって、「な
にものも無い」とは言ってませんが、これがどうして「無の邪見」とい
うことになるのでしょうか?


No.312 (2001/06/25 07:22) title:文意は無視しました。
Name:三吉 (203.179.201.40)

飛んだ。。。(/_;)

あれの主旨は「他と比べて遅れている」にポイントがあるのではなく
「もっと研究しよう」にあるのでは?

勧学院が世間に対してどれだけ、学界に対してどれほどの承認されて
いる成果をもっているといいうるのか。。。
まだ一部で五ちゃこぢゃしているだけでしょう。
方法論が目あたらしかっても三大秘法真説などは学会・正宗教義では
ないか。そこになんの新しさがあるというのだろうか。

先輩や偉い先生方が不自由分だと思うのであなたも私も勉強しなくて
はという気になったのではないでしょうか。


No.313 (2001/06/25 07:53) title:無自性・空。
Name:三吉 (203.179.201.40)

小川一乗「平成元年安居次講 五如理論−中論の要諦」から

「六十頌如理論」からp23
有によって解脱せず、無によってこの迷いの生存より(解脱)しな
(4゜a〜b)
有と無を遍知することによって、偉大な人は解脱する(4゜c〜d)

「空性七十論」p33
すべての存在は自性として空であるから、諸々の存在が縁起している
のであることを、無比なる如来は教示された
(68゜)

「無自性」は有部批判の時、「自性はない」と表現されますので、
一概に間違いと言えませんが、「無自性」は「自性がない」のではな
く「自性が空である」ということです。「無自性・空」です。
「ある」「ない」ともに実体化です。
根本中論偈で、
自性と他性をとをよく知っている世尊によって「カーティヤーヤナの
教え」
の中で「有」と「無」との二つはともに否定されると語られた

本性が現に無であるとき、変異することは何ものにありえようか。ま
た本性が現に有であるときも、変異することが何ものにありえようか

有とは常住に執着する見解であり、無とは、断滅に執着する見解であ
る。それゆえに、賢者は有と無に依止しない

ちなみに如来を説明して、「根本中論偈」

自性として空であるお方(如来)について、「仏は入滅後に存在す
る」とか、「存在しない」と考えることは合理的ではない

およそ如来の自性であるそれらがこの世界の自性である。如来は自性
なきものであり、この世界も自性なきものである

この「自性としての空」「如来の自性」は竜樹の別の用語では「空性」
です。「自性が無い」とは「固定的な実体として存在しない」ことが
真実の姿であるというほどの意味です。ですから「空」です。

あなたは<すなわち、私にとって、“日常的時間”とは、私が“私は存
在する”という“我慢”にまとわれているときであり、“宗教的時間”
とは、“私は全く存在しない”と実感できる時間であると。
>という
松本氏の<“私は全く存在しない”と実感できる時間>を追認されてお
られるが、<私が全無なる時間>とは「無見」でしょうと思います。
<私が空なる時間>とは違いますし、日常から切り離された宗教的時間
なるものが果たして仏教の心髄なのであろうか。。。


No.314 (2001/06/25 10:24) title:無自性・空 > 三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.132.158.48)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

 やはり三吉さんも龍樹の思想を十分には理解されていないようです。

> 根本中論偈で、
> 自性と他性をとをよく知っている世尊によって「カーティヤーヤナの
> 教え」の中で「有」と「無」との二つはともに否定されると語られた

> 「本性が現に無であるとき、変異することは何ものにありえようか。ま
> た本性が現に有であるときも、変異することが何ものにありえようか」
> 「有とは常住に執着する見解であり、無とは、断滅に執着する見解であ
> る。それゆえに、賢者は有と無に依止しない」

 上で言われている「有」とか「無」とかいう言葉は、あくまでも「自性
として」という前提のもとで語られているのです。

  “諸法の無”であれ、“諸法の不生”であれ、厳密には常に“自性と
   して”という限定語を付して理解されなければならない

   http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2

   ここでは、カートヤーヤナが、パーリ語のカッチャーヤナとなって
  いますが、ともかくも、この中で釈尊は、有という存在、無という非
  存在、その二つともを否定しているわけです。龍樹は、実体的な「自
  性」の存在として有と、それが非存在となった無という考えを、釈尊
  が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定しているわけです。
  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 251)

 どうやら三吉さんは『大乗仏教の根本思想』は読まれてないようですね。


No.315 (2001/06/25 10:24) title:無自性・空 > 三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.132.158.48)
Email:libra@be.wakwak.com

> この「自性としての空」「如来の自性」は竜樹の別の用語では「空性」
> です。「自性が無い」とは「固定的な実体として存在しない」ことが
> 真実の姿であるというほどの意味です。ですから「空」です。

 「自性」という言葉は多義的ですから注意が必要ですね。しかし、そも
そも、上の発言はこれまでの私の主張に対しての批判になっているのでし
ょうか?
 私は最初から「空性」を以下の詩に従って理解し、発言しておりますが、
何か問題がありましたでしょうか?具体的にご指摘下さい。

  ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれは
  いうのである。他による存在に実体はない。
  (『廻諍論』第二二詩節)
   ※梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 138-139を参照。

 松本先生は『廻諍論』は龍樹の作ではないと言われていますが、それで
中観派の空思想が説かれていることは確かであると言われています。

> 松本氏の<“私は全く存在しない”と実感できる時間>を追認されてお
> られるが、<私が全無なる時間>とは「無見」でしょうと思います。

 以下を読まれたい。

  http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2


No.316 (2001/06/25 10:50) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra (211.132.158.48)
Email:libra@be.wakwak.com

> あれの主旨は「他と比べて遅れている」にポイントがあるのではなく
> 「もっと研究しよう」にあるのでは?

 あの構成だと、「道元系に比べて日蓮系は、…」という意味に読まれ
ますよ。たとえ本人にそういう意識がなかったとしてもね。だから、そ
こをはっきりさせるために本人に質問のメールを送ったのです。それと、
大谷氏があの手の質問に対してどう対処されるのかということにも興味
があるのですよ。無視しちゃうのかどうなのか。

> 方法論が目あたらしかっても三大秘法真説などは学会・正宗教義では
> ないか。そこになんの新しさがあるというのだろうか。

 別に「観学院宗学」というのは『三大秘法抄』真撰説に尽きるもので
はないでしょう。それに、たとえ最終的な主張そのものは新しくなくて
も、その論証に新しさがあれば学問的研究としては立派なものではあり
ませんか?

 三吉さんが、こういう場所で、よく知りもせずに適当なことを口走ら
れるのはある程度仕方がないことだとしても、大谷氏のようなプロに、
『中外日報』のようなところでいいかげんな発言をしてもらっては困る
のですよ。分かりませんか?

> 先輩や偉い先生方が不自由分だと思うのであなたも私も勉強しなくて
> はという気になったのではないでしょうか。

 ええ。ですから、そういうことは最初から否定してないのです。


No.317 (2001/06/25 13:47) title:「自性」の否定 > 三吉さんへ
Name:Libra (211.9.239.130)
Email:libra@be.wakwak.com

 以下を「資料集」にアップしましたのでご覧下さい。

 「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html


No.322 (2001/06/25 20:44) title:ども
Name:三吉 (203.179.201.34)

私はとても「龍樹の思想を十分に理解」しているとはいえません。
それは認めます。ところでそうLibraさんが私を断定されるという
ことは私よりはるかに竜樹を理解されているということと拝察しま
す。オバカな私のために解説していただきますればありがたく思い
ます。さて何点か質問させていただきます。Libra先生。

1小川一乗氏への疑問。
「大乗仏教の根本思想」は、平成4年7月から2年に亘って岡崎別院
で開かれた講義を纏めたものです。同じ別院で平成8年に暁天講座を
してますが、それを纏めたものに法蔵館「仏教から見た後生の一大事」
があります。その中で「後生の一大事」=「死後」と語り(p3)
この世の生死の縁が尽きたら、私を私たらしめくださった命の世界
へと帰らせてもらうのです
(p28)
私たちがどんなに命のふるさとを忘れていても、捨てようとしても、
命のふるさとは待っていてくれます。それへの目覚めが「帰命無量寿
如来」ということです。無量なる命としての如来に帰命します。そうい
う如来の命に帰ります。帰命というのは、命に帰るということです。無
量なる命に帰らせてもらいます。これが「帰命無量寿如来」。
(p27)
私を私たらしめくださった広い命の世界にこの命をお返ししていく。
それが「後生の一大事」「後世を知る」ということです
(p38)

あなたの引用部分で小川氏は、
ともかくも、そういった死後の存在というものを、実体的に考えるこ
とを明確に否定しているのが仏教の基本であって、それは精神的ななに
かが残るということも否定するし、物質的なものが残るということも否
定する。
とおっしゃてますが、宗派内で、門徒に向けて自派の祖師の
蓮如の後生の一大事を語る時は一転して、学会の生命論にも似た「無量
なる命
」「広い命の世界」を仮設されてます。
小川さんの頭の中では「竜樹の無自性・空」も「広い命の世界」も併存
するのです。
さてLibra先生もこの併存を竜樹の「無自性・空」と矛盾しないという
お立場でしょうか?理由をご教示くだされ。
(小川さんとは面識があります。一方的にお世話になってますので、あ
まり批判的なことは言いたくないのでここまでにしておきます。)


No.323 (2001/06/25 20:45) title:2.松本史朗氏への疑問
Name:三吉 (203.179.201.34)

上で言われている「有」とか「無」とかいう言葉は、あくまでも
「自性として」という前提のもとで語られているのです

そうそう私もそう思います。
で、<(自性として)有とは常住に執着する見解であり、(自性と
して)
無とは、断滅に執着する見解である。それゆえに、賢者は
(自性として)有と(自性として)無に依止しない」
>となります。

松本氏の論は<“自性”は、(a)「作られないもの」、(b)「他のもの
に依存しないもの」と定義され
>と解釈され<つまり“自立的存
在”あるいは端的に“実在”を意味する
>と結論されている。
故に、
(実在として)有とは常住に執着する見解であり、(実在と
して)
無とは、断滅に執着する見解である。それゆえに、賢者は
(実在として)有と(実在として)無に依止しない」
>となります。

龍樹は、実体的な「自性」の存在として有と、それが非存在となった無と
いう考えを、釈尊が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定している

とのこと。

(実在として)有とは常住に執着する見解であり依止しない>と
実体的な「自性」の存在として有を否定している>と言えます。

(実在として)無とは、断滅に執着する見解であり依止しない>と
それが非存在となった無という考え否定している>とも言えます。

さて<すなわち、私にとって、“日常的時間”とは、私が“私は存
在する”という“我慢”にまとわれているときであり、“宗教的時間”
とは、“私は全く存在しない”と実感できる時間であると。
>という
松本氏の<“私は全く存在しない”と実感できる時間>とは、ここで
言う「実在としての<無>、つまり煩悩<我・我慢>が<実在として
無>であるとイコールの様に私には読めるのですが、Libra先生はどう
弁護されるのですか?あなたはそれを追認されている。


No.324 (2001/06/25 20:45) title:つづき
Name:三吉 (203.179.201.34)

私はかつて一度も、そのような厳然たる存在を自分のうえに自覚した
ことも、実感したこともない。
>松本氏は、有を批判される。しかし
無は<私は全く存在しない>という形で肯定されいるように私には
思えます。
“唯一の世界”が根源的に、また“厳然として存在している>とする
<有見>の津田氏と<”私は全く存在しない”とリアリティを感得でき
る時、それは”宗教的時間”
>といわれる<無見>の松本氏。松本氏を
追認されるLibra先生、あるいは<広い生命の世界>を論じられる小川
氏。。。竜樹を充分に理解するとはまことにけっこうなことである。。。
これは<自性として><実体として>ではないのであろうか。
津田さんの論だけ<自性として>だが、松本氏や小川氏は<自性として>
ではないということなのか?私には謎です。


No.325 (2001/06/25 20:46) title:3.自性の多義性とは?
Name:三吉 (203.179.201.34)

「自性」という言葉は多義的ですから注意が必要ですね
これは某所で某氏も云われておったが、具体的になにをかを論じられて
ない。(某氏は部派分裂の時、自性が起因の一つといわれてはいた)
竜樹が論じた<自性の多義性>とは何か?
自性とは“自立的存在”あるいは端的に“実在”を意味する>と松本
氏は云われ、あなたは引用し追認している。それ以外の如何なる多様・
多彩なる意味を竜樹は自性に認めているのか論じていただきたい。

何か問題がありましたでしょうか?
松本氏の追認です。論じました。


No.326 (2001/06/25 20:47) title:4.では「も」について。
Name:三吉 (203.179.201.34)

なぜ「も」だとLibraさんは問題にかんずるかです。
あなたは、日蓮系も頑張っていると見ている。
しかし著者も私も世間もそー思ってない。
そういうことです。
例えば真宗は親鸞の著作ならば、「字」によって何歳の時に書いたかまで
書誌学は進んでいます。伝真筆はすべてオープンにされてます。
教行信証の西本願寺本は、科学によって真筆ではないとされました。
そういう基礎的な部分がまだまだ日蓮系はオープンではない。
信仰を理由に隠すわけです。
あるいは駒沢系の松本・袴田両氏は派外にも影響を与えたが(批判的にせ
よ)、日蓮宗系は派外に影響を与えた業績は比較するとさほどない。
これからでしょう。

学問的研究としては立派なものなのでしょう。読んでませんからなんとも言
えませんが、そうなのだと思います。
ただ松本氏たちの業績に比すると派外になんら影響を与えてないのも事実です。
主旨は他宗や一般の学者も巻き込むほどの研究をということではないでしょう
か。。。

『中外日報』が真っ当な新聞社だと私は思ってませんが(一方的立場に立つ習
性のあるところです)、「いいかげんな発言」だと全く思いません。
あなたのメールしか読んだ限りでは私は尤もな話しだと思います。


No.332 (2001/06/25 22:04) title:大谷氏からの回答
Name:Libra (211.132.158.116)
Email:libra@be.wakwak.com

 大谷氏から丁寧な回答を頂きました。

 全文を引用することはできませんが、回答の中で氏は、

  インタビューの中では批判宗学との比較で日蓮教学について言及した
   わけではなく、あくまでも近現代の日蓮教学自体の問題としてお答え
   しました。

とおっしゃっておられます。私としては、氏の真意を確認でき、十分に納得
がいきました。

 氏の誠実なる対応に感謝の意を表します。


No.333 (2001/06/25 22:05) title:三吉さんへ
Name:Libra (211.132.158.116)
Email:libra@be.wakwak.com

 今から読みますのでレスはちょっと待って下さい。


No.334 (2001/06/25 23:18) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.132.158.116)
Email:libra@be.wakwak.com

 こんばんは、三吉さん。お待たせしました。

> オバカな私のために解説していただきますればありがたく思い
> ます。さて何点か質問させていただきます。Libra先生。

 そういう「イヤミ」はお互いに何のメリットももたらしませんので止めま
しょう。私は三吉さんを「永遠のライバル」だとずっと思っています。一度
たりとも三吉さんを見下して発言したことはないはずです。

> 小川さんの頭の中では「竜樹の無自性・空」も「広い命の世界」も併存
> するのです。

 前者は「龍樹の思想」、後者は「浄土教の思想」なのでは?私は後者まで
肯定的に論じてはおりません。私から見れば両者は矛盾するように見えます。
あるいは、「矛盾」ではなく「方便」と言うべきでしょうか。

> 小川さんとは面識があります

 では小川先生に直接質問されて下さい。少なくとも私自身は「宇宙生命論」
をキッパリと否定しております。

> 松本氏の<“私は全く存在しない”と実感できる時間>とは、ここで
> 言う「実在としての<無>、つまり煩悩<我・我慢>が<実在として
> 無>であるとイコールの様に私には読めるのですが、Libra先生はどう
> 弁護されるのですか?

 以下は読まれましたか?

 http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2

 松本先生が言われる“私は全く存在しない”というのは“私は自性として
存在するわけではない”と言うことでしょう。もっと簡潔に言えば“私は自
性(自立的存在、実在)ではない”ということです。もともと自性(実在)
ではないものは「実在としての<無>」にはなりえません。

  龍樹は、実体的な「自性」の存在として有と、それが非存在となった無
  という考えを、釈尊が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定してい
  る

  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html


No.335 (2001/06/25 23:19) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.132.158.116)
Email:libra@be.wakwak.com

><広い生命の世界>を論じられる小川氏

はやはり矛盾しているのではないでしょうか?

 例えば、龍樹作と言われている『因縁心論』では、

  この世よりかの世に微塵ほどの事物も移り行きはしない。そうであれば
  輪廻の輪は誤った分別の習気によって生じさせられたものである。
  (梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、p. 191を参照)

と言われています。

> 竜樹が論じた<自性の多義性>とは何か?

 「“自性として”存在する〜」→この場合は、“自立的存在”。

 「或ものが“自性をもって”〜」→この場合は、常住不変の“本質”。

> しかし著者も私も世間もそー思ってない。

 大谷さんは他宗はとの比較で言われているわけではないそうです。


No.337 (2001/06/26 06:58) title:1. 小川一乗の生命論的「後生」解釈について
Name:三吉 (203.179.201.8)

Libraさん、おはよ。

小川さんの後生解釈は、前生、現生、後生とあるのだから、
後生だけが単独であるのではない後生というのを現世正定聚
となって、信心をえた後の生活を後生という方がいるが、それだ
現生正定聚と後生がごっちゃになるという批判なので、浄土
教理解釈においてであるのはそのとおりです。
例えばその小川氏が批判される解釈は曽我量深の前念命終。後念
即生
から来る解釈なのだと思いますが、それを批判して生命論を
説くわけです。小川さんは竜樹の専門家ですので、その解釈は、竜
樹を通して見たゆえではないでしょうか。
あるいは「方便」というならばそうかもしれません。
ならば、学会の「生命論」も「方便」であり、「宇宙生命」=「空性」
ならば、批判している我らが「間抜け」ということになりはしないで
しょうか?

やはり矛盾している>とのこと。あなたは「有論的解釈」には
敏感ですね。


No.338 (2001/06/26 06:59) title:2. 松本氏の「無見的宗教時間」について
Name:三吉 (203.179.201.8)

http://fallibilism.web.fc2.com/086.htmlを読んだから引用している
のではと思いますが。。。あなたとの解釈に差異はありますが。。。
あなたの引用箇所は、
<竜樹は、実体的な「自性」の存在として有という考えを釈尊を根拠に
否定している>
これが津田さんの論であるとはあなたは追認される。
竜樹は、実体的な「自性」の存在としてが非存在となった無という考
えを釈尊を根拠に否定している
>と小川さんは解説しているのです。
しかしそれがパラレルで出され、<それでも私は存在している>を否定し
だされる<私がまったき無の時間>は<自性としてが言外に含まれて>と
弁護される。
その論中、松本氏は一度足りとも<自性として>は出されてない。
さて、しかしながら、<私は自性として存在するわけではない>とは、
実体的な「自性」の存在としてが非存在となった無という考え>と、
私はイコールに見えるのだが、どう違うのか両者の差異をご説明くだされ。
小川氏の解釈ではそれも竜樹は否定しているとなります。

あなたの解釈は「無論的解釈」には親和的で「空論的解釈」と混同されて
いるようなかんじがします。といって私にも「空」は難解なのですが。


No.339 (2001/06/26 07:01) title:「自性の多義性」及び些事
Name:三吉 (203.179.201.8)

3. 自性の多義性

「或ものが“自性をもって”〜」→この場合は、常住不変の“本質”
を竜樹は肯定しているのでしょうか?私の理解では、自性を<常住不変>
を持つと理解して展開する論を竜樹は否定しているような気がします。
それと、<自立的存在>は<常住不変>とイコールではないのですか?
あるいは<常住不変>は<自立的存在>なのでは?
そこになんの差異があるのですか?

4. 大谷さんについて

返事があったとのこと。此の話題は終了しましょう。

5. イヤミ云々

ライバル視していただくのはありがたいことですが、
真面目な話し、私は竜樹を十全に理解しいるとは思ってません。
充分に理解をしてないといわれた時、おぉぉあなたは知らぬ間に、
勉強されたのだな。常々感じておった私の疑問を解きほぐしていただこうと
思った次第でございます。
この話題が深化した時、「自他不二」が仏教である。空に矛盾しないとされる
見解も読み解くことができるのではないかと思っております。


No.341 (2001/06/26 08:13) title:三吉さんへ
Name:Libra (211.9.239.57)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

 私の“自性”理解は、松本先生の『縁起と空─如来蔵思想批判─』
にほとんど依存しています。当該箇所(pp. 347-350)をこれから打
ち込んで「資料集」にアップしようと思いますのでレスはそれまで
待って下さい。


No.342 (2001/06/26 12:03) title:三吉さんへ
Name:Libra (211.132.156.59)
Email:libra@be.wakwak.com

 以下をアップしましたので、ご覧頂ければ幸いです。読まれる方も大変
だとは思いますが、よろしくお願い致します。

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 少し疲れましたので、レスはまた後で書きます。ごめんなさい。


No.346 (2001/06/26 21:20) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.132.159.189)
Email:libra@be.wakwak.com

 こんばんは、三吉さん。おまたせしました。

> 小川さんは竜樹の専門家ですので、その解釈は、竜樹を通して見たゆえ
> ではないでしょうか。

 必ずしもそのようには言えないと思います。

 例えば、梶山雄一先生も「竜樹の専門家」を代表する学者のお一人と言
っていいと思いますが、先生は唯識思想を「アーラヤ識という潜在意識を
導入することによって、説一切有部の業論・輪廻の固定的・実体的な理論
をみごとに解消した
」「仏教最高の哲学」と言われています。

   しかし、われわれは、アーラヤ識が無限の過去から、瞬間的な存在
  の継続的な流れを成し、変化し、発展し続ける下意識であることを忘
  れてはならない。はたして、『摂大乗論』は汚染を転回する正見とし
  ての世間を超えた心は、極めて清浄な法界から流れ出た、聞くことの
  熏習を種子として生ずること(最清浄法界等流正聞熏習種子所生)を
  語り始める。法界(dharmadha ̄tu)は法性(dharmata ̄)・真如(
  tathata ̄)、あるいは空性(s'u ̄nyata ̄)などと同義のものとして
  考えてよく、あらゆる存在の根源であり、宇宙的な真理の世界である。
  具体的には仏身あるいはその教法を意味する。それらは法界の起動し
  たものであるからである。その法界から流れ出た真理、その教えを聞
  くことが、なお汚染されているアーラヤ識のなかに、染め付けられ、
  植え込まれた種子として、あたかも乳と水とが共在するように、汚染
  と共在する。聞熏習の種子は仏陀の法身の種子である。
  (梶山雄一「アーラヤ識と業報・輪廻」『創価大学・国際仏教学高等
   研究所・年報』第2号〔1999年3月〕、p. 16)

 私には上のようなお考えが「竜樹を通して見たゆえ」のものだとはどう
しても思えません。この点では小川先生も私と同意見だと思います。

  大乗仏教が興ったときには、既成仏教の阿毘達磨仏教を否定して、釈
  尊の仏教へと立ち返ったのでありますから、大乗仏教は、釈尊の仏教
  と直結しているわけです。また、大乗仏教では龍樹の仏教が興ってき
  て、次は唯識になる。唯識はむしろ阿毘達磨仏教への逆戻り現象を内
  に含みながら成立したものといえます。
  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 40)


No.347 (2001/06/26 21:21) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.132.159.189)
Email:libra@be.wakwak.com

> あるいは「方便」というならばそうかもしれません。
> ならば、学会の「生命論」も「方便」であり、「宇宙生命」=「空性」
> ならば、批判している我らが「間抜け」ということになりはしないで
> しょうか?

 小川先生の場合は“あくまでも「方便」である”と明確に意識されてい
るのだと思います。しかし、学会の場合には「方便」ではなく「真実」と
して説かれていますし、実体的な「三世の生命論」に直結していると思い
ます。

  波と海のたとえ─たとえ話の危険性(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/073.html

> <やはり矛盾している>とのこと。あなたは「有論的解釈」には
> 敏感ですね。

 “もっと「無論的解釈」にも敏感におなりなさい”という意味でしょう
か。

> その論中、松本氏は一度足りとも<自性として>は出されてない。

 松本先生は以下のように言われています。

   このように言えば、“私は存在しない”ではなく、“実在しない”
  と述べるべきだと言われるかもしれない。確かに、そうであろう。し
  かし“実在しない”とは、“真実には存在しない”の意味であり、私
  が殊更、嘘を述べようとするのでない限り、“真実には”という限定
  は、絶対不可欠なものではない。その証拠(?)に、『中論』第一章
  第一偈
で、“諸法は存在しない”と説く偈に、龍樹はその種の限定語
  を全くつけなかったのである。

  http://fallibilism.web.fc2.com/068.html

 つまり、松本先生が言われている“私は存在しない”の中の「存在しな
い」という部分は“真実には存在しない”“実在しない”という意味であ
り、それは『中論』第一章第一偈の“諸法は存在しない”の中の「存在し
ない」と同じ意味であるということでしょう。そこで、松本先生が『中論』
第一章第一偈
の“諸法は存在しない”の「存在しない」をどのように理解
されているのか?松本先生が言うところの“実在”とはどのような意味な
のか?そういうことが問題になるわけです。だからこそ私は「引用者註2」
としてそれを解説しておいたのです。

  「引用者註2」
  http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2


No.348 (2001/06/26 21:21) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra (211.132.159.189)
Email:libra@be.wakwak.com

> さて、しかしながら、<私は自性として存在するわけではない>とは、
> <実体的な「自性」の存在としてが非存在となった無という考え>と、
> 私はイコールに見えるのだが、どう違うのか両者の差異をご説明くだされ。

 <私は自性として存在するわけではない>というのは〈私は確かなもの
として存在するわけではない〉ということです。

  私たちが死んだらどうなるかと考えるのは、どうしてかというと、確
  かな「私」が有ると思っているからでしょう。(…)もともと存在し
  ていないのだから、ないものが死んだらどうなるかと考える必要はな
  い。もともと私たちは、仮としての存在であり、確かなものとして存
  在していないのです。
  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 144-145)

> 小川氏の解釈ではそれも竜樹は否定しているとなります。

 松本先生の<私は自性として存在するわけではない>というのは、小川
先生の〈私たちは、仮としての存在であり、確かなものとして存在してい
ない
〉と同じだと思います。

> あなたの解釈は「無論的解釈」には親和的で「空論的解釈」と混同されて
> いるようなかんじがします。

 どのように混同しているのかを具体的にご説明頂ければ幸いです。

> <「或ものが“自性をもって”〜」→この場合は、常住不変の“本質”。
> を竜樹は肯定しているのでしょうか?

   もしそのような自性(常住不変の“本質”)を認めるとすれば、こ
  れこれこういうようなおかしなことになる。従ってそのようなものは
  認められない。

 そういう「帰謬論証」の過程で上のような語義を採用しているという
ことです。


No.349 (2001/06/26 21:22) title:三吉さんへ(4)
Name:Libra (211.132.159.189)
Email:libra@be.wakwak.com

> それと、<自立的存在>は<常住不変>とイコールではないのですか?
> あるいは<常住不変>は<自立的存在>なのでは?
> そこになんの差異があるのですか?

 “自立的存在”→「存在」、「現象」のレベル。

  常住不変の“本質”→「属性」、「意味」のレベル。

 詳しくは以下を参照されたい。

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 もちろん、「自性」の語義は上で論じられている2つに尽きるものでは
ないと思います。「本来具わっている性質」という程度の意味で使われる
場合もあると思います。三吉さんが前に引用された『中論』の以下の部分
は、そのケースに相当する思います。

  > 「自性として空であるお方(如来)について、「仏は入滅後に存在す
  > る」とか、「存在しない」と考えることは合理的ではない」
  > 「およそ如来の自性であるそれらがこの世界の自性である。」
  本掲示板、No. 313

 しかし、その直後の

  >「如来は自性なきものであり、この世界も自性なきものである」
  同上

の部分の「自性」は「常住不変の“本質”」という意味だろうと思います。

> この話題が深化した時、「自他不二」が仏教である。空に矛盾しないとされる
> 見解も読み解くことができるのではないかと思っております。

 「自他不二」は松本先生も認めておられませんので、私の考えにもオカ
シイところがあるのかもしれません。私の現在の考えについては以下を参
照されたい。

  曽我逸郎さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#funi001


No.351 (2001/06/27 01:51) title:(^。^)y-゚゚゚とりあえず雑談。
Name:三吉 (203.179.201.51)

その論文で、松本さんは。。。
結論として竜樹が「縁起」ではなく「空」を説くならば竜樹と決別する
といわれている。
私は「自性」は「自性」であって、二義ないと思う。
まさしく竜樹は「空」を説いたのであって「無」をといたのではない。
なぜ松本さんは「二義」と解釈したかというと、氏は「空」を「無」と
展開したいがためだと思う。それが無理ならば竜樹に立たないのだ。
彼は彼の「論理」がすべてである。それは別段問題ないが、
ただ竜樹の「空」にたてば氏は「無見」である。

梶原雄一氏が自身で専門というのは後期唯識だと私は思っていたが。
かれは竜樹の専門家ではないと私は思っているのだが。。。

なぜ竜樹の「自性」が多義性なのか。。。
多義でなければ、松本さんの論理は敗北するからではないのか。。。
それ以上の意味を松本さんの論文から私は見出させないが。
Libraさんはなにを見出されたのだろうか。


No.353 (2001/06/27 03:00) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.9.236.43)
Email:libra@be.wakwak.com

 こんばんは、三吉さん。

> その論文で、松本さんは。。。
> 結論として竜樹が「縁起」ではなく「空」を説くならば竜樹と決別する
> といわれている。

 ええ。しかし、私は「縁起」と「空」は同じ事態を別のやりかたで説明
しているだけだと思います。その点では松本先生と立場が異なります。

> 私は「自性」は「自性」であって、二義ないと思う。

 他人の論証に従わない場合にはそれなりの理由を明示すべきだと思いま
す。もしそうされないのであれば、今後は議論にお付き合いしかねます。

  万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心
  からしても、納得する能はざる理由を意識しなければならない。異議
  を挾む余地のあつてこそ、初めて不承知の理由となるのである。

  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html

> なぜ竜樹の「自性」が多義性なのか。。。

 では私の論証を追加しておきましょう。
 しかし、松本先生の論証に不足があるとも思えませんので、松本先生の
論証の不備についても是非具体的にご指摘下さい。


No.354 (2001/06/27 03:01) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.9.236.43)
Email:libra@be.wakwak.com

○「“自立的存在”」の語義の実例

 『中論』第十五章第四偈の小川先生の訳は次の通り。

  ===============================
  さらに、自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか。何と
  なれば、自性と他性とがあるとき、存在は成立するであろうからであ
  る。
(第四偈)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html
  ===============================

 自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようかと言われてい
る以上、この場合の「自性」が「存在のレベル」での語義(“自立的存在”)
で用いられているのは間違いない。
 実際、梶山先生はこの場合の「自性」を「自体的存在、自己存在」と訳さ
れている。

  ===============================
   実体にあたるスヴァバーヴァ(svabha ̄va)というサンスクリット
  語は、文字どおりには(svo bha ̄vah)「自体的存在、自己存在」を
  意味し、そこに「自の」という意味が含まれているために、「他体的
  存在、他者存在」という語を暗示いたします。いずれも実体の意味に
  変わりはないのですが。
   そこで龍樹は、実体を自己の存在(sva-bha ̄va)・他者の存在
  (para-bha ̄va)・存在そのもの(bha ̄va)。無存在そのもの(
  a-bha ̄va)という四種に分けて、議論を展開いたします。

     自己存在がないときに、どうして他者存在があるであろうか。
    というのは、他なる存在における自己存在が、他者存在といわれ
    るのであるから。(一五・三)
     自己存在と他者存在とを離れて、どうして、存在そのものがあ
    りえようか。というのは、自己存在と他者存在とがあってはじめ
    て、存在そのものが成立するのであるから。(一五・四)

  (梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 105-106)
  ===============================


No.355 (2001/06/27 03:01) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra (211.9.236.43)
Email:libra@be.wakwak.com

○「常住不変の“本質”」の語義の実例

 『中論』第十五章第八偈の小川先生の訳は次の通り。

  ===============================
  もしも或ものが自性をもって有であるならば、それは無とはならない
  であろう。何となれば、本質が変異するということは決して成立しな
  いであろうからである。
(第八偈)
  ===============================

 上の訳文中の「本質」の原語は「プラクリティ(prakr.ti)」である(梶
山前掲書、p. 104を参照)

 上の文中の「自性(svabha ̄va)」は、「プラクリティ(prakr.ti)」の
同義語として用いられているのは間違いない〔02.01.19 訂正〕。もしそうでなければ、「何と
なれば」という言葉が意味をなさない。「プラクリティ(prakr.ti)」とは
存在するものの変らない本質という意味であるから、この場合の「自性」
の語義は“本質”である。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

 このように、第八偈において、わざわざ「プラクリティ」という同義語を
持ち出して「自性」の語の意味を“本質”に限定していることそのことが、
それ以前の第一偈〜第七偈までの「自性」の語が、一貫して第一偈で限定さ
れた“自立的存在”の意味で用いられているということを意味している。

> 多義でなければ、松本さんの論理は敗北するからではないのか。。。

 三吉さんがろくに論証もせずに多義を認めないのは、それを認めたら三吉
さんが「敗北するからではないのか」。

〔02.01.19 訂正〕
 実は、この部分(「もしも或ものが自性をもって有であるならば」)は小川氏が「プラクリティ」を「自性」と訳されているのであって、原文のこの部分に実際に「自性(svabha(_)va)」という語があるわけではない。しかし、この部分の「プラクリティ」が「自性(svabha(_)va)」の同義語として用いられていることは、第八偈のすぐ後に続く第九偈〜第十一偈を参照すれば明らかである。よって、小川氏の訳は至極当然であろう。
 私としては、むしろ、第十一偈の原文に見られる「自性(svabha ̄va)」の語が「プラクリティ」と同義語で使われていること(これは第八偈〜第十偈より見て明らかである)を示すべきであった。


No.359 (2001/06/27 07:32) title:お好きにされるとよい
Name:三吉 (203.179.201.11)

さらに、自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか。何と
  なれば、自性と他性とがあるとき、存在は成立するであろうからであ

すでに論証は終わってます。ここの自性は「自立的存在」意味を意味し、
「常住不変」を意味しないとされるのが松本氏でありそれを追認される
あなたの論です。私はそこを「常住不変」と読み替えても同意味だと
主張してます。
あなたは、その箇所を同意味に読み替えるとこういう落とし穴に陥って
誤解してしまうということを論じるべきなのだがされていない。
ここは「常住不変」で、この箇所は「自立的存在」と云われているに
すぎない。
それをされた松本さんの論の結論はあなたは追認しなしいといわれる。
さて、あなたは松本さんのどこまでを良しとし、どこから悪しとされる
のかまずそこを確認したい。

さらに、常住不変な存在と無常変化する存在以外に、存在はどうしてあり
えようか。なれば常住不変な存在と無常変化する存在があるとき、存在は
成立するであろうから。

もしあるものが自立的存在をもって有であるならば、それは他律的存在と
はならない。なんとなれば「存在するものの変わらぬ本質」が変異すると
いうことは決して存在しないであろうから。

「常住不変」と「自立的存在」でどう意味がかわるというのだろうか。

ちなみにあなたは三義だされているが論じてられるのは二義だと思うが。
実際に竜樹が文上で自性は「多義的」であると論じている箇所を私はしら
ない。松本さんの解釈は二義と論じられている。だが、それは一つの解釈
である。で、その解釈とは如何なる性格をもつタイプなのか。まず私はそ
こに関心がある。
結論を急がれるな、と私はあなたに伝えるが、勿論話に付き合う、やめる
のはあなたの自由である。強要はしない。


No.360 (2001/06/27 07:45) title:付言(独り言です)
Name:三吉 (203.179.201.11)

それと松本さんの結論部分はレトリックだと私は思う。
松本さんは空を否定しているのではなく、
松本さんの言う「時間的縁起」を意味しない「空解釈」
つまり「空間的解釈」の可能性を閉じない「空解釈」を
容認しない。もし竜樹自体をそれ意味したのならば、あるいは竜樹を
そう解釈するならば決別すると言われているのだと私は思う。

そう言わざる得ないのは「空」という語は訳語的にも、語源的にも
「空間的」解釈に親和的な語であるからだと思う。


No.362 (2001/06/27 09:17) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra@縁起と空 (211.9.237.131)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

> さらに、自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか。何と
>   なれば、自性と他性とがあるとき、存在は成立するであろうからであ
>
> すでに論証は終わってます。ここの自性は「自立的存在」意味を意味し、
> 「常住不変」を意味しないとされるのが松本氏でありそれを追認される
> あなたの論です。

 違います。やはり三吉さんは「存在(諸法)のレベル」と「存在の属性の
レベル」を混同されています。
 「常住不変な存在」と「自立的存在」は同じと言ってもいいですが、それ
は「存在のレベル」の語義であって、「(諸法に属する)常住不変の本質・
本性(プラクリティ)」という語義とは異なると言うべきでしょう。
 「常住不変の本質・本性(プラクリティ)」という語義によるなら、「自
性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか」という文章は意味が通
らなくなると私は言っているのです。


No.363 (2001/06/27 09:18) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra@縁起と空 (211.9.237.131)
Email:libra@be.wakwak.com

> それをされた松本さんの論の結論はあなたは追認しなしいといわれる。

 松本先生は「縁起の思想」と「空の思想」は「矛盾はしないが異なるもの
である」と言われていますが、私はそうは思いません。

 松本先生のお考え(「自性の二義を区別すべき」)に従えば、「自立的存
在」とは縁起しないもの=iaprati ̄tyasamutpanna)ということでしょう。

  彼は自性≠、縁起するもの=iprati ̄tyasamutpanna)とは矛盾
  する縁起しないもの=iaprati ̄tyasamutpanna)としての自立的
  存在∞実在≠ニ規定することによって自性≠ニ縁起≠ニの概念間
  の矛盾・対立を誰の眼にも明らかなものとしたうえで、縁起するもの
  は自性≠ナはない(非自性=jとしたのである。
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 「自立的存在(自性)などはどこにもない」と主張するのが「空」の思想
だとすれば、それは「縁起しないもの≠ネどはどこにもない」ということ
であり、それは「あるのはすべて縁起するもの≠ナある」「縁起するも
の≠オかない」という「縁起の思想」を含意していると私は思います。この
点において、私は松本先生と意見を異にするわけです。

 しかし、松本先生の“「縁起の思想」と「空の思想」は矛盾はしないが異
なるものである”という御主張は、「自性の二義を区別する」ことから必然
的に帰結されるようなものではないでしょう。そうである以上、私が松本先
生の上の御主張を追認しないことをもって「自性の二義を区別する」ことの
妥当性を云々されるのは間違いです。

> さて、あなたは松本さんのどこまでを良しとし、どこから悪しとされる
> のかまずそこを確認したい。

 今の議論に限って言えば、上で述べたことだけでも十分だとは思いますが、
以下もあわせて参照して頂ければ幸いです。

  「如来蔵思想批判」の批判的検討
  http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

  曽我逸郎さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html


No.364 (2001/06/27 09:19) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra@縁起と空 (211.9.237.131)
Email:libra@be.wakwak.com

> さらに、常住不変な存在と無常変化する存在以外に、存在はどうしてあり
> えようか。なれば常住不変な存在と無常変化する存在があるとき、存在は
> 成立するであろうから。

 「他性」を「無常変化する存在」と言われるのでしょうか?

  他なる存在の自性が他性と言われるからである
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

> 「常住不変」と「自立的存在」でどう意味がかわるというのだろうか。

 私や松本先生が区別すべきだと言っているのは、上のような意味です。も
う一度以下を読まれたい。

  ここで得られた本質≠ニいう語義と、先の(11)(12)における自立的
  存在≠ワたは実在≠ニいう語義との間の相違は重大である。すなわち、
  前者において自性≠ヘ諸法に属するもの≠ニして扱われるのに対し、
  後者においては諸法≠ニ同じレヴェルで用いられており、その語義に
  いわば存在のレヴェルの差が見られるのである。

  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

> ちなみにあなたは三義だされているが論じてられるのは二義だと思うが。

 そうすると矛盾がおきませんか?

 「自性(常住不変の固有の本質=“自己同一性”)を持って存在するもの
などはない」ということと「諸法は空性という自性(常住不変の固有の本質)
を持って存在する」ということは厳密には矛盾するように私には思えます。

 従って、私は後者の場合には「諸法は空性という自性(本来〔諸法に共通
に〕具わっている性質)を持って存在する」と解釈すべきであると考えるの
で、これ(「本来具わっている性質」)を自性の第三の語義として認めるべ
きだと考えているのです。


No.365 (2001/06/27 09:19) title:三吉さんへ(4)
Name:Libra@縁起と空 (211.9.237.131)
Email:libra@be.wakwak.com

> 実際に竜樹が文上で自性は「多義的」であると論じている箇所を私はしら
> ない。

 たとえ文上でそのように論じていなくても、実際に多義的に用いられてい
る以上、自性が「多義的」であることは動きません。

> 松本さんの解釈は二義と論じられている。だが、それは一つの解釈
> である。で、その解釈とは如何なる性格をもつタイプなのか。まず私はそ
> こに関心がある。

 上述しましたように、三吉さんは松本先生が言われているところの「二義
の区別(“存在のレヴェルの差”)」をまだ正確に理解されていません。ま
ずそれを正しくご理解下さい。その上で批判されるなら批判されて下さい。

> 結論を急がれるな、と私はあなたに伝えるが、勿論話に付き合う、やめる
> のはあなたの自由である。強要はしない。

 最初に「結論を急がれ」たのは三吉さんの方ではありませんか?

  袴田さんやりぶらさんは「ない」派ですので、
  竜樹の論からすれば「ない」という「実体化派」です。
  伝統教学ではこれを「無の邪見」といいます。

  本掲示板、No.308

 
 結局、上の発言は、何の論証もなく、ただ他人の立場を思い込みによって
決め付けたに過ぎなかったということでよろしいでしょうか?


No.379 (2001/06/28 07:51)
Name:三吉 (203.179.201.47)

いや結論はそう簡単に出ないと私は思うぞ。。。
「存在(諸法)のレベル」と「存在の属性のレベル」を混同
しているのはそのとおりじゃ。そもそも同じというのが私の
論なのであるから。。。
松本さんはそのレベルとは「存在レベルの差」とおっしゃり、
注29で「諸法」と「諸法に属するもの」には「基体」と
「属性」という意味でのレベルの差と言われている。
松本仮説によれば「基体」とは実在であり本質であり、単一
である。「属性」がsuper-locusを意味するならば、非実在で
あり、本質から派生した結果であり、多である。
で、この仮説は松本さんオリジナルです。

松本さんは区別をつけた上で本質を語る時は「無自性」、実在
を論ずる時は「非自性」で、この後者の概念は、竜樹が否定的
論証を有効にするために新たに定義した概念とされている。


No.380 (2001/06/28 07:52)
Name:三吉 (203.179.201.47)

事実として大事なのは、竜樹自らが自性の意味を「多義」であ
ると明確に宣言しているわけではないということ。
これはあなたと共通認識たてたわけだ。
しかしながら、事実上二つの自性があり、「存在レベル」での差
があると解釈される松本氏の論がある。
あなたはそれを妥当と思われ、わたしは思ってない。
ここに「竜樹の自性概念」の受け止めに差があるです。

本質とは、存在レベルでは松本さんによると「実在」である。
「常住不変の本質・本性」は「こと」として実在です。
それは「個々の自性」という「モノ」の実在性の根拠を付与す
るものです。
「自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか」と言
われている以上、この場合の「自性」が「存在のレベル」での語
義(“自立的存在”)で用いられているのは間違いない。
>にもか
かわらず、本質は存在レベルでは「基体」であり、実在である。


No.381 (2001/06/28 07:52) title:課題は多い。
Name:三吉 (203.179.201.47)

松本先生の“「縁起の思想」と「空の思想」は矛盾はしないが異
なるものである”という御主張は、「自性の二義を区別する」こと
から必然的に帰結されるようなものではないでしょう。

いや、なんというか、「空」解釈は、「時間性の欠如」があるから、
「自立的存在という実在」の非実在性を批判した上で、本質として
の「自性」を残存させられる解釈になりうるからおかしいと批判さ
れている。この批判は唯識解釈・中期大乗的空論無化に対する批判
としては的を得ているのではないかと思うが、それを論理的に論ず
るために「自性」を二つに分けて、両者とも実在論批判だと「無・
非自性」を展開されているのだと思う。

つまり<「自性(常住不変の固有の本質=“自己同一性”)を持って
存在するものなどはない」ということと「諸法は空性という自性(常
住不変の固有の本質)を持って存在する」ということは厳密には矛盾
するように私には思えます。
>という解釈に死刑宣告をされている。

「諸法は空性という自性(本来〔諸法に共通に〕具わっている性質)
を持って存在する」と解釈すべきである

その感覚は私も同感だが、1.空性として語られる本質は「空性」とい
う別概念であり「自性」ではない。2.本質の自性と同義である。
3.松本氏の批判の視野で論破されている。
4.小川一乗氏も子の解釈を批判している。部派といっしょと。
(次回当該文をあっぷしましょう)


No.382 (2001/06/28 08:03) title:前掲書P54
Name:三吉 (203.179.201.47)

ところで、「縁起は無自性・空である」という竜樹の思想が誤解される
時がある。それは、すべての存在は縁起しているものであり、縁起して
いるものは常に生滅変化しているが、その縁起的存在の背景には、その
本質として生滅変化することのない不生不滅の真実(空性)が存在する
と考える誤解である。このような誤解が、竜樹が厳しく誤解してきたア
ビダルマ仏教において形成されてきた実体論となんら変わりないもので
あることは、改めてせつめいするまでもなくすでに明らかであろう。

我々はまだまだ竜樹の「空」を理解してないように思うぞ。。


No.384 (2001/06/28 10:51) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra@燃えかすなんか残りゃしない残るのは真っ白な灰だけだ (211.9.239.34)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

> いや結論はそう簡単に出ないと私は思うぞ。。。

 そうですか(^_^;)。

> 注29で「諸法」と「諸法に属するもの」には「基体」と
> 「属性」という意味でのレベルの差と言われている。

 私はこの註には納得していないのです。そういうことは先に言ってお
くべきでしたが(^_^;)。
 この註のように解釈すべきだという論拠は不明です。ただ自説(基体
説批判)に強引に結びつけようとした単なる「勇み足」にすぎないので
は?もしそうではない(そのように解釈する必然性がある)と三吉さん
が言われたいのであれば、その「論拠」を松本先生の代りに私に教えて
下さい。

> 事実として大事なのは、竜樹自らが自性の意味を「多義」であ
> ると明確に宣言しているわけではないということ。

 私はそのことをそれほど重要だとは思っていません。詩のようなもの
ですからね、『中論』は。
 少なくとも、そのことだけによって“自性の意味は「多義」ではない”
などとは言えませんので、それは「論証」のうちには入りません。

> しかしながら、事実上二つの自性があり、「存在レベル」での差
> があると解釈される松本氏の論がある。
> あなたはそれを妥当と思われ、わたしは思ってない。

 ならば、松本先生の論証や私の論証のどの部分にどういう不備がある
と三吉さんがお考えなのか、それをもっと具体的に教えて下さい。私は
そこから学びたいのですから。

  万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心
  からしても、納得する能はざる理由を意識しなければならない。異議
  を挾む余地のあつてこそ、初めて不承知の理由となるのである。

  http://fallibilism.web.fc2.com/024.html


No.385 (2001/06/28 10:52) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra@燃えかすなんか残りゃしない残るのは真っ白な灰だけだ (211.9.239.34)
Email:libra@be.wakwak.com

> 本質は存在レベルでは「基体」であり、実在である。

 “本質”はあくまでも「属性レベル」の語義であって「存在レベル」で
はありません。
 こう言ってはどうでしょうか。

  存在レベルでの“実体”→「実在」
  属性レベルでの“実体”→「本質」

 「本質」をもって存在するものが「実在」であり、存在を「実在」た
らしめるような「存在の属性」を「本質」という、と。

> 「自立的存在という実在」の非実在性を批判した上で、本質として
> の「自性」を残存させられる解釈になりうる

 もしも“本質としての「自性」が残存する”ことを許すのであれば、
それは“「自立的存在という実在」の非実在性を批判した”ことにはな
らないのではありませんか?
 “「本質」をもって存在するものが「実在」である”のであれば。

> つまり<「自性(常住不変の固有の本質=“自己同一性”)を持って
> 存在するものなどはない」ということと「諸法は空性という自性(常
> 住不変の固有の本質)を持って存在する」ということは厳密には矛盾
> するように私には思えます。>という解釈に死刑宣告をされている。

 松本先生はそれらが「矛盾しない」と考えておられるということでし
ょうか?

 「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」とい
う本質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるのではない
でしょうか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような第三の語義
で解釈せざるを得ないように私には思えます。それが「正しい理解」だ
と。


No.387 (2001/06/28 10:53) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra@燃えかすなんか残りゃしない残るのは真っ白な灰だけだ (211.9.239.34)
Email:libra@be.wakwak.com

 それと、“「空」解釈は、「時間性の欠如」がある”というのは松本
先生の「思い過ごし」だと私は思っています。
 前回、私は「空の思想」が「縁起の思想」を含意することを示しまし
た。

  「自立的存在(自性)などはどこにもない」と主張するのが「空」
  の思想だとすれば、それは「縁起しないもの≠ネどはどこにもな
  い」ということであり、それは「あるのはすべて縁起するもの
  である」「縁起するもの≠オかない」という「縁起の思想」を含
  意していると私は思います。
  本掲示板、No.363

 もし三吉さんが上の松本先生の御主張を追認されると言われるので
したら、私の上の論証にどのような不備があるのかを具体的にご指摘
下さい。

> <「諸法は空性という自性(本来〔諸法に共通に〕具わっている性質)
> を持って存在する」と解釈すべきである
>
> その感覚は私も同感だが、1.空性として語られる本質は「空性」とい
> う別概念であり「自性」ではない。

 「空性」とは「無自性性」ということでしょう。

> 2.本質の自性と同義である。

 “本質”とは、「自己同一性」つまり「個別性」の方向の極限を意味
する語義でしょう。要するに、属性レベルでの“実体”です。
 しかし、「本来具わっている性質」という語義は、“実体”であるこ
とまで含意していません。両者ともに「属性レベル」の語義ではありま
すが、「同義である」というのは妥当ではないと私は思います。
 「存在のレベル」には「実在」とそうでないもの(「縁起生」)があ
りますが、そのようなもの(「縁起生」)にもやはり属性はあるでしょ
う。

       存在レベル      属性レベル
  実体    実在         本質
  非実体   縁起生        性質


No.388 (2001/06/28 10:54) title:三吉さんへ(4)
Name:Libra@燃えかすなんか残りゃしない残るのは真っ白な灰だけだ (211.9.239.34)
Email:libra@be.wakwak.com

> 3.松本氏の批判の視野で論破されている。

 これはどういう意味か分かりません。もう少し詳しくお願します。

> 4.小川一乗氏も子の解釈を批判している。部派といっしょと。

 第三義を認めずに、属性レベルで言われている「自性」をすべて「自
己同一性(本質、実体)」の語義で解釈するとそういう誤解が生じると
いうことなのではないのでしょうか?
 第三義によればそういう誤解は生じません。この場合の「正しい理解」
とは「第三義による理解」ではないのでしょうか?もし違うと言われる
ならば、その場合の「正しい理解」とは?

> 我々はまだまだ竜樹の「空」を理解してないように思うぞ。。

 では、その“まだ竜樹の「空」を理解してない”三吉さんに、どうし
て以下のように、「竜樹の論からすれば〜」などと、他人の立場を“断
定”できたのでしょうか?

  袴田さんやりぶらさんは「ない」派ですので、
  竜樹の論からすれば「ない」という「実体化派」です。
  伝統教学ではこれを「無の邪見」といいます。
  
本掲示板、No.308

 
 やはり、「上の発言は、何の論証もなく、ただ他人の立場を思い込み
によって決め付けたに過ぎなかったということでよろしいでしょうか?」。
 Yes or No で“必ず”お答え下さい。No の場合にはきちんとした論証
を示して下さい。


No.391 (2001/06/28 18:53) title:訂正&補足説明 > 三吉さんへ
Name:Libra@燃えかすなんか残りゃしない残るのは真っ白な灰だけだ (211.132.158.77)
Email:libra@be.wakwak.com

 まずは訂正から。

  >  もしも“本質としての「自性」が残存する”ことを許すのであれば、
  > それは“「自立的存在という実在」の非実在性を批判した”ことにはな
  > らないのではありませんか?
  >  “「本質」をもって存在するものが「実在」である”のであれば。
  (本掲示板、No.385
 
 上の“「自立的存在という実在」の非実在性を批判した”は、“「自立的存
在という実在」を認めることを批判した”に訂正します。

 次に補足説明。

  >  第三義を認めずに、属性レベルで言われている「自性」をすべて「自
  > 己同一性(本質、実体)」の語義で解釈するとそういう誤解が生じると
  > いうことなのではないのでしょうか?
  >  第三義によればそういう誤解は生じません。
 
 本掲示板、No.388

 「諸法は、“性質”(“本質”ではない属性)として、“無自性である”
“空である”という性質(無自性性、空性)を持って存在する」と理解するの
が、「第三義によって解釈する」ということです。
 つまり、
 
 「諸法に属するいかなる属性も“本質”ではない」
 「諸法はその属性としていかなる“本質”も持たない」
 「諸法は“本質”を欠く」

と解釈するということです。

 第三義によらずに、「無自性性」「空性」というものを“本質”として認め
た上で、そのような“本質”が一切の諸法に属していると考えることは、「空」
というものを一つの「実在」として認めることになります。

  > “「本質」をもって存在するものが「実在」である”のであれば。
  本掲示板、No.385
 
 このような実在論を、小川先生は縁起的存在の背景には、その本質として
生滅変化することのない不生不滅の真実(空性)が存在すると考える誤解

言われているのだと思います。


No.409 (2001/06/30 21:48) title:お待たせした
Name:三吉 (203.179.201.21)

津田さんの本はぱらぱらとめくっただけなので詳細はしりませんが、
松本氏の論は前提されている十二支縁起の根拠が不明確であるのに、
その前提に合致しないものがあれば切り捨てられているがそれは学
問的姿勢とはいえない、その前提こそ疑えと批判されておったよう
に思います(趣旨というか、うろ覚えだぁ。。すまん)。

松本氏は原始仏教研究に何より必要なことは、雑多な思想を説く膨
大な原始仏教聖典に対し、思想的な意味で批判的な眼を持つことであ
ろう。それは決して難しいことではない。ただ韻文であれ、散文であ
れ、原始仏教というものを、仏教思想(無我説)と、それとは全く矛
盾する非仏教思想(我論)との混雑物をみればよいのである。
(p151)

(韻文は古層とされ、古いほど釈尊の直説に近いと現代仏教学では一
般に考えられていることに対する松本氏の批判)

さて竜樹は松本氏の云う雑多なことが仏教聖典に説かれていて矛盾する
ことに対し。。。
住又は生、(又は)壊、(又は)有、(又は)無、又は劣、又は中、又は
勝を、仏は世間の言語に依りて説くと雖も、(而も)実に依りて(説く)
にあらず。
「我」無し、「無我」にあらず、「我と無我」に非るが故に、何等の言わ
るべきものも亦無し。言わるべきものは涅槃と等しく、凡ての法の自性
は空なり
(「山口益仏教学文集上」p14−竜樹造七十空性偈に対する文
献学的研究−本論第1、2偈)


No.410 (2001/06/30 21:49)
Name:三吉 (203.179.201.21)

と、矛盾せし雑多な仏説をすべて認めた上で、それは世間の言語にあわせ
て説かれたので矛盾と見えるが、本当の意味からすれば「法の自性は空」
であるので、「我論」も「無我論」も「その両者」も真意ではないと言っ
ている。このすべてを仏説と一旦認めるという点が切り捨てる松本さんと
根本的に異なる姿勢です。また、大事なのは「無我論」も否定している。
月弥(チャンドラキルティー)は「中論釈」実に我見が真性に非ざる
如く、その如く、それの反対たる無我見も決して真性ではない
(P45)

言っている。
しかし松本氏は「我論」=非仏教と「無我論」=仏教と主張する論である
ので竜樹の立場とは異なっている。この竜樹の偈からすると、松本氏は、
「無我見」であるので「ない派」であることは論を俟たない。
松本氏が竜樹の「空」的立場と対立するのは何等驚くにあたらない。
氏は私は長年信奉してきた”空”の思想を、”縁起”の立場から批判せざ
るをえないことになったのである
(p132)
と言われているのであるから。
この縁起とは「無我論」である。つまり「ない派」です。

さて<上で言われている「有」とか「無」とかいう言葉は、あくまでも「自
性として」という前提のもとで語られているのです。
><ともかくも、この
中で釈尊は、有という存在、無という非存在、その二つともを否定している
わけです。龍樹は、実体的な「自性」の存在として有と、それが非存在とな
った無という考えを、釈尊  が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定
しているわけです。
>とのことだが、ここでは「我」と「無我」が否定され
てます。
中論観我法品第18第6偈諸仏は我ありとも施設し、無我とも説き給い、
我と無我とは何等無しとも説かれたり
(p44)
と。

空批判かつ親無我の松本さんの<“私は全く存在しない”と実感できる時間
とは、日常と切り離された宗教時間であり、<我慢>が全くない瞬間である。
<自性として我>ではなくて<煩悩としての我慢>がないと思い込める瞬間で
ある。これは<無我>を感ずる時なのであろう。これは無我論である。
それを追認されるLibraさんも同様である。


No.411 (2001/06/30 21:49)
Name:三吉 (203.179.201.21)

注29には納得されないということだが、あなたの自性解釈は松本氏の「縁
起と空」
にほとんど依っているとのことなので、松本氏が自性多義解釈を
分析しているわけです。
あなたが納得しょうがしまいがここでは問題ではない。
松本さんが自性の多義性を論じるにあたって、なぜ二義と云われ、その差は
何と考えられているのかがまずもっての当面の問題です。
それが「存在レベルの差」です。両者ともに存在である。
強引に結びつけようとした単なる「勇み足」にすぎない>は勿論私も賛成で
ある。それを詳細に論じる力量は私にはないが、二義と分けた正体は「勇足」
だと私は考えてます。

竜樹が自性の多義性があると自身で語ってないことは私とあなたの間では、
竜樹の自性に多義性がないことの論拠のすべてにならないというのは承認しま
すが、そこを軽視されるのはおかしいと思います。大事な点です。
その上で「自性=本質」とはそれが「確かなもの」「変わらぬもの」「実在」と
してあるいは「変わらぬ実在の属性・性質」として論じられるから、竜樹は
そういう「変わらぬ実在という属性・性質」など認めたら、縁起的諸現象と
矛盾するから批判したのであるから、「自立的諸存在(つまり現象)の確かさ」
と意味レベルは同義です。問題の所在は「その固定された確かさ」(自性)を
批判するという趣旨で統一されており、そこで分けられた多義(属性と存在)は
「変わらぬもの」「確かなもの」を(属性と存在)という対象の差でたちあらわれ
るにすぎない。


No.412 (2001/06/30 21:49)
Name:三吉 (203.179.201.21)

“「本質を持たない」という本質を持つ”>だから「法有」だと論理的に部派
は真理を実体化したのではないでしょうか?それに対して竜樹は空といい、松本
さんは、
和辻さんの仏説の法としてあらゆる時代に妥当する」「法そのものは
長時間的に妥当する
」「法は過ぎ行かざるもの、長時間的に妥当するものである、
従ってそれは自性を持せねばならぬ。…たとえば「無常」という法はそれ自身は
無常ではなくして自性を持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしむる
「軌」となる

法を有自性と解するか無自性と見るかは、周知の如く、小乗
(ママ)と大乗を分けるといわれるような決定的な分岐点なのだ
」「真理という
考え方こそ、仏教を永く非仏教と化してきた最大の功労者
」「法を…基体に対する
超基体のレベェル
」「それは属性であって個物ではない。十二支縁起とは、いわば
基体なき超基体の個物なき属性の因果系列
」「それらが基体確固たる存在論敵根拠
を欠いている
」「法は確固不変なるものではな、反対に実に不安定な宙ぶらりんな
危機的存在なのだ
(P24-27抜粋)

「空性」とは「無自性性」ということでしょう。
無自性性と「自性」は別物です。

< しかし、「本来具わっている性質」という語義は、“実体”であるこ
とまで含意していません

非実体なる性質を自性の第三義として仮説する必要性の意義がわかりません。


No.413 (2001/06/30 21:50)
Name:三吉 (203.179.201.21)

正しい理解とは?

それは、すべての存在は縁起しているものであり、縁起しているものは常に生
滅変化しているが、その縁起的存在の背景には、その本質として生滅変化する
ことのない不生不滅の真実(空性)が存在すると考える誤解である。

というのが小川さんの理解です。
あなたの第三義の自性=空性はその本質として生滅変化することのない不生
不滅の真実(空性)が存在する
と云っているのと同様なキガシマスが。。。
それは属性レベルなので「非存在」だと言われるのでしょうが、言葉遊びです。
第三義がつまり第三の意味があると言われてるのですから。

さて、今回の論を俟つまでもなく、私はあなたを「ない派」とみなした理由を語
ってますので「なんら論証なく」というのは誤解でしょうや。

「諸法は、“性質”(“本質”ではない属性)として、“無自性である”“空である”
という性質(無自性性、空性)を持って存在する」と理解するのが、「第三義によっ
て解釈する」ということです。

これは和辻さんの法は過ぎ行かざるもの、長時間的に妥当するものである、
従ってそれは自性を持せねばならぬ。…たとえば「無常」という法はそれ自身は
無常ではなくして自性を持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしむる
「軌」となる
とイコールなのか違うのか。

私には諸法は空という自性(長時間的に妥当するもの)を持っているから空では
ない。
と聞こえるのだが。。。法有思想そのままではないか。


No.414 (2001/06/30 21:50) title:付録
Name:三吉 (203.179.201.21)

「他性」を「無常変化する存在」と言われるのでしょうか?
他なる存在の自性が他性と言われるからである

竜樹の作は詩のようなものであるとは、如何なる意味を有する表現か定かでは
ないが、松本氏が韻文(偈)というものは…一定の論理構造をもった思想を
明確に表現するには不向きな性格を持っている
(p151)
といわれているので、
あえて注釈付のものをあげておく。自性(自らによっての存在性)のあるに
あらざるときは、他性(他に依っての存在性)も有るにあらず
(山口益訳「月弥
造中論釈T」P54)

疲れた。。


No.418 (2001/07/01 04:33) title:併せて、ご参照くだされ
Name:三吉 (203.179.201.43)

「諸法は、“性質”(“本質”ではない属性)として、“無自性である”“空である”
という性質(無自性性、空性)を持って存在する」と理解するのが、「第三義によっ
て解釈する」ということです。

に関して、そーいえばヤッホ氏の掲示板に似たような議論が、
青頚さんとs4323さんの間で交わされてました。

http://www.sion.ais.ne.jp/~art/yahho/esbbs.cgi?acto=treeall&no=1647&page=0&f=new
の[1833] Re^4: 有部・中観・唯識です。
青頚さんのレスは私のよりはるかにわかりやすいかもしれせん。
参照ください。

それと[1888]

これはあなたと私の話しには直接関係ありませんので
言及は不要です。


No.419 (2001/07/01 07:25) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

 おはようございます、三吉さん。

> さて竜樹は…「無我論」も否定している。

 その場合の「無我論」とは、あくまでも、<実体的な「自性」の存在が非存
在となった無という考え>のことでしょう。そのことはすでにさんざん説明し
たはずですが、三吉さんはそこをずっと混同され続けているのでは?

 例えば、小川先生の以下の論を「無我論」として龍樹は否定しているのでし
ょうか?

  私たちが死んだらどうなるかと考えるのは、どうしてかというと、確かな
  「私」が有ると思っているからでしょう。(…)もともと存在していない
  のだから、ないものが死んだらどうなるかと考える必要はない。もともと
  私たちは、仮としての存在であり、確かなものとして存在していないので
  す。
  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 144-145)

 私は松本先生の言われる「無我説」を上の小川先生の論と同じものとして理
解し、追認しているのだと言うことをすでに申し上げました。

   松本先生の<私は自性として存在するわけではない>というのは、小川
  先生の〈私たちは、仮としての存在であり、確かなものとして存在してい
  ない
〉と同じだと思います。

  (本掲示板、No.348

 三吉さんがこのことについてレスされないのは何故でしょうか?上の「自性
として存在」と「確かなものとして存在」にどのような違いがあると言われる
のでしょうか?


No.420 (2001/07/01 07:26) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

> しかし松本氏は「我論」=非仏教と「無我論」=仏教と主張する論である
> ので竜樹の立場とは異なっている。この竜樹の偈からすると、松本氏は、
> 「無我見」であるので「ない派」であることは論を俟たない。

 また話をふりだしに戻されるおつもりでしょうか?

 私の理解は、松本先生の立場はあくまでも(龍樹と同じく)

  “諸法の無”であれ、“諸法の不生”であれ、厳密には常に“自性と
   して”という限定語を付して理解されなければならない
   http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#syohouno

という立場であり、松本先生の「無我論」は小川先生のそれ(上述)と同じで
あるというものです。三吉さんのお考えによれば、小川先生も、いや龍樹自身
でさえも「ない派」になってしまうと思いますがいかがでしょうか?

  私たちの存在それ自体が縁起であり、無我であるという、そういう身の事
  実が明らかになったときに、いままで煩悩に振り回されていた世界から、
  安らかな世界へと身を置くことができる。
  (小川前掲書、p. 186)

  『中論』第一章第一偈で、“諸法は存在しない”と説く偈に、龍樹はその
  種の限定語を全くつけなかったのである。

  http://fallibilism.web.fc2.com/068.html

> 空批判かつ親無我の松本さんの<“私は全く存在しない”と実感できる時間
> とは、日常と切り離された宗教時間であり、<我慢>が全くない瞬間である。

 小川先生が言われている煩悩に振り回されていた世界から、安らかな世界
へと身を置く
というのとどこがどう違うと言われるのでしょうか?

 私は<我慢>も縁起であり、縁生縁滅だと思いますが、三吉さんは<我慢>
は常住不滅の本質だとでもお考えなのでしょうか?


No.421 (2001/07/01 07:27) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

> 注29には納得されないということだが、あなたの自性解釈は松本氏の「縁
> 起と空」にほとんど依っているとのことなので、松本氏が自性多義解釈を
> 分析しているわけです。
> あなたが納得しょうがしまいがここでは問題ではない。

 これについては、No.384 できちんとコメントしたはずです。

   この註のように解釈すべきだという論拠は不明です。ただ自説(基体説
  批判)に強引に結びつけようとした単なる「勇み足」にすぎないのでは?
  もしそうではない(そのように解釈する必然性がある)と三吉さんが言わ
  れたいのであれば、その「論拠」を松本先生の代りに私に教えて下さい。

  本掲示板、No.384

 もし松本先生の自性多義解釈から註29のような解釈が必然的に帰結されるの
であれば、註29の解釈を認めることから不合理が生じることを論ずることによ
って、松本先生の自性多義解釈そのものを不合理だと結論することも出来まし
ょうが、私はそもそも「松本先生の自性多義解釈からは、註29のような解釈は
必然的に帰結されない」と言っているのです。


No.422 (2001/07/01 07:27) title:三吉さんへ(4)
Name:Libra (211.9.237.29)
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 ちなみに、註29は、当該論文が初出した『インド仏教 2』にはありません。
『縁起と空』まえがきで、松本先生は、

  なお、概して言えば、今回全く新たに書き加えた註は(15)(37)(41)(45)(46)
  (57)
であり、大幅に書き足した註は(2)(8)(11)(23)(30)であるが、この内
  重要と思われるのは、(2)(8)(45)である。
  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、
   まえがきp. 7)

と言われていますが、『縁起と空』において註29が付されている御文章(p.
348)
に相当する『インド仏教 2』の御文章(以下)にはなんら註は付されてい
ません。

  …後者の例では、“縁起しないもの”として“法”と同じレヴェルで用い
  られ、その語義にレヴェルの差が見られるからである。
   “自性”の語を“法に属するもの”の意味で用いるのは、仏教史におい
  てもノーマルなものであって、そこから導かれる一般的結論は、…
  (岩波講座・東洋思想第9巻『インド仏教 2』、岩波書店、1988年、
   p. 228)

 にもかかわらず、『縁起と空』「まえがき」では、上述のように、註29
今回全く新たに書き加えた註」にも「大幅に書き足した註」にも入れられて
おらず、全く重要視されていません。

> <強引に結びつけようとした単なる「勇み足」にすぎない>は勿論私も賛成で
> ある。それを詳細に論じる力量は私にはないが、二義と分けた正体は「勇足」
> だと私は考えてます。

 詳細に論じる力量は私にはないというのは「論証の放棄」でしょう。だ
ったら、主張を引っ込められるべきだと思います。

 私は註29は「勇み足」だと思いますが、二義と分けること自体は妥当だと考
えます。「それに加えて第三義を認めるべきだ」というのは私のオリジナルで
すが。


No.423 (2001/07/01 07:28) title:三吉さんへ(5)
Name:Libra (211.9.237.29)
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> 竜樹はそういう「変わらぬ実在という属性・性質」など認めたら、縁起的諸現象と
> 矛盾するから批判したのであるから、「自立的諸存在(つまり現象)の確かさ」
> と意味レベルは同義です。問題の所在は「その固定された確かさ」(自性)を
> 批判するという趣旨で統一されており、そこで分けられた多義(属性と存在)は
> 「変わらぬもの」「確かなもの」を(属性と存在)という対象の差でたちあらわれ
> るにすぎない。

 意味レベルという言葉の意味が不明ですが、

  “実在”も“本質”も両者ともに「実体」という性質においては同じだが
  「存在(現象)のレベル」と「属性のレベル」という点では異なり、これ
  らは『中論』では使い分けられている。

ということはお認めになったと理解してよろしいでしょうか?それだけ認めて
頂ければ私としては十分です。そもそも私は「二義」ということでそれ以上の
ことは主張していませんので。

> <「空性」とは「無自性性」ということでしょう。
> 無自性性と「自性」は別物です。

 全然反論になっていません。「空」とは「固定的実体を欠いている」という
ことであり、「無自性」とは「自性(本質)が無い」ということでしょう。な
らば、やはり、「空性」とは「無自性性」ということです。
 「無自性性」というのはあくまでも諸法“の”自性(“性質”、第三義)な
のあって、諸法から切り離された「自性」などとは最初から別物です。


No.424 (2001/07/01 07:28) title:三吉さんへ(6)
Name:Libra (211.9.237.29)
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> < しかし、「本来具わっている性質」という語義は、“実体”であるこ
> とまで含意していません
>
> 非実体なる性質を自性の第三義として仮説する必要性の意義がわかりません。

 “「本質を持たない」という本質を持つ”という言説を認めることは自己矛
盾を引き起こすということです。

  「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」という本
  質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるのではないでしょ
  うか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような第三の語義で解釈せ
  ざるを得ないように私には思えます。

  本掲示板、No.385

> あなたの第三義の自性=空性は「その本質として生滅変化することのない不生
> 不滅の真実(空性)が存在する」と云っているのと同様なキガシマスが。。。

 それは三吉さんの混同あるいは誤解に過ぎません。私は「第三義の自性」は
“本質”ではないと断言しています。

> それは属性レベルなので「非存在」だと言われるのでしょうが、言葉遊びです。

 私は「“属性レベルだから”非存在」だなどとは言ってません。今後は正確
に理解されずに勝手な思い込みによって発言するのは控えて下さい。私は、

  <存在(現象)レベルに“縁起するもの”と“自立的存在”があるように、
   属性レベルにも“実体(本質)”と“非実体(性質)”とがある。>

と言っているのです。「言葉遊び」などではありません。

       存在(現象)レベル      属性レベル
  実体      実在            本質
  非実体     縁起生           性質


No.425 (2001/07/01 07:28) title:三吉さんへ(7)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

> 第三義がつまり第三の意味があると言われてるのですから。

 ここで問題となっているのは、「存在のレベルの差」ではなく、「属性レベ
ルにおける実体・非実体の差」です。
 それと、「意味」=「実体」ではありませんよ。そのようなことを認めるな
らば、それこそ「法有思想そのままではないか三吉、No.413。違います
か?

 言語の「意味の体系」というのは「可塑的な差異のシステム」なのであって、
実体的意味(アトム的な意味)を構成要素としてもつような固定・完結した
(閉じた)システムなどではありえません。

   彼らの議論、そして相対主義者と反−相対主義者のあいだで戦わされる
  不毛な応酬、また以下で扱う相対主義的命題の含む論理的困難、これらが
  ともすればなおざりにしているのは、言語が自らのうちに自分自身との
  「ズレ」を含み、また不断にそうした「ズレ」を生みだすことによって特
  徴付けられる体系である、という言語に関するきわめて基本的な事実であ
  る。詩人の活動がこれを最も端的に例証しているが、なにも詩人をもちだ
  すまでもなく、我々の日常的な言語使用の過程もけっしてそれと無縁なわ
  けではない。子供が大人の成熟した概念を修得する以前にその言葉を用い
  て語ることを学び始めるという事実自体、そもそも我々が言語を本来「ズ
  レ」たものとして修得しはじめるのだということを明瞭にものがたってい
  る。この「ズレ」はつねに相対的なものである。つまり、確かに一集団内
  での言語使用の総体が比較的安定した体系を指向しているということは言
  えるとしても、言葉の「本来の用法」だとか「文字どおりの意味」だとか
  を仮定したり確定しようとする努力がつねに困難に陥るという事実が示し
  ているように、「ズレ」がそれとの関係で測定できるような絶対的な基準、
  不動の中心はアプリオリには存在しないのである。
  (浜本満「文化相対主義の代価」『理想』第627号、1985年、pp. 112-113)


No.426 (2001/07/01 07:29) title:三吉さんへ(8)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com


 だいたい、「第三義」を認めずに、「自性」を「本質・実体」としてしか解
釈しないのだとすれば、龍樹は

  本当の意味からすれば「法の自性は空」である
  本掲示板、No.410

と言っているという三吉さんの発言は、「法の本質は空である」ということを
含意することになります。これは明かに「法は本質をもつ」ということを含意
します。また、No. 313 で三吉さんが引用された、

 およそ如来の自性であるそれらがこの世界の自性である。

という『中論』の偈(龍樹の主張)は「如来の本質」かつ「世界の本質」であ
るところの“それら”の存在を認めることを含意します。これこそまさに、三
吉さんがNo.412 で引用された和辻先生の理解そのものではありませんか?

 私は最初からそのような理解を一貫して否定しています。

   第三義によらずに、「無自性性」「空性」というものを“本質”として
  認めた上で、そのような“本質”が一切の諸法に属していると考えること
  は、「空」というものを一つの「実在」として認めることになります。

  本掲示板、No.391


No.427 (2001/07/01 07:30) title:三吉さんへ(9)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

 小川先生も同様でしょう。
   
  さらに、「空」について、仏教が陥った大きな誤解を取り上げますと、
  「不生不滅の法性」ということが、特に中国仏教などで言われるようにな
  りますが、そこでは「縁起は無自性・空である」という龍樹の思想が誤解
  されてしまっているようです。それはどういうことかと言いますと、すべ
  ての存在は縁起しているものであり、縁起しているものは常に生滅変化し
  ているが、その縁起的存在の背景には、その本質として生滅変化すること
  のない不生不滅の真実が実在し、それを空性だと勘違いしたということで
  す。そういう不生不滅の真実在があると考える誤解です。
  http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
  (三吉さん引用のNo.382はこれの類文)

  私たちは生滅変化しているけれども、その根底には生滅変化することのな
  い「空」という実在的ななにかがあるといった関係です。そういった発想
  が、「不生不滅の法性」という龍樹のことばを誤解してしまったというこ
  とは、たびたびあります。

  http://fallibilism.web.fc2.com/052.html

 「第三義」を認めなければ、以下のような自己矛盾が生じると思いますが、
龍樹は自己矛盾を犯しているのでしょうか?

  「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」という本
  質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるのではないでしょ
  うか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような第三の語義で解釈せ
  ざるを得ないように私には思えます。

  本掲示板、No.385


No.428 (2001/07/01 07:30) title:三吉さんへ(10)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

> さて、今回の論を俟つまでもなく、私はあなたを「ない派」とみなした理由を語
> ってますので「なんら論証なく」というのは誤解でしょうや。

 三吉さんは「論証している」と思い込まれているのかもしれませんが、残念
ながらそれは全く成功していません。「なんら論証なく」とは「なんら(まと
もな)論証なく」という意味だとご理解下さい。

> <「諸法は、“性質”(“本質”ではない属性)として、“無自性である”“空である”
> という性質(無自性性、空性)を持って存在する」と理解するのが、「第三義によっ
> て解釈する」ということです。
>
> これは和辻さんの「法は過ぎ行かざるもの、長時間的に妥当するものである、
> 従ってそれは自性を持せねばならぬ。…たとえば「無常」という法はそれ自身は
> 無常ではなくして自性を持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしむる
> 「軌」となる」とイコールなのか違うのか。

 全く正反対です。むしろ、第三義を認めないと言われる三吉さんの理解の方が、
論理的には、和辻先生の理解とイコールなのではないでしょうか?三吉さんご自
身はそのことに全く気づかれていないようですが。

> 私には「諸法は空という自性(長時間的に妥当するもの)を持っているから空では
> ない。」と聞こえるのだが。。。法有思想そのままではないか。

 それは三吉さんの「思い込み」に過ぎません。第三義と“本質”の差異をまず
正確に理解されたい。

 逆に質問させて頂きます。「縁起するもの」はいかなる属性も持たないのでし
ょうか?もし持つとすれば、それは、「可塑的な差異のシステム」の中でのその
布置とでも言うべきものであって“本質”などではないと私は思いますが違いま
すか?

> <他なる存在の自性が他性と言われるからである

 の山口益訳を是非御教示下さい。


No.429 (2001/07/01 07:55) title:青頚さんのお立場に関して >三吉さんへ(11)
Name:Libra (211.9.237.29)
Email:libra@be.wakwak.com

 ご紹介された議論を参照致しました。

> 青頚さんのレスは私のよりはるかにわかりやすいかもしれせん

とのことですが、青頚さんはおそらく、私の以下の解釈、及び、No.426
における三吉説批判を支持されるお立場だろうと想像致します。

  「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」と
  いう本質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるので
  はないでしょうか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような
  第三の語義で解釈せざるを得ないように私には思えます。

  本掲示板、No.385

 もしお疑いであれば直接ご本人に確認されたい。


No.431 (2001/07/01 08:31) title:性は本質ではない
Name:青頸 (143.90.208.55)
Email:aokubi@pop16.odn.ne.jp
URL:http://member.nifty.ne.jp/aokubi/aokubi.html

Libraさん、こんにちは。

>とのことですが、青頚さんはおそらく、私の以下の解釈、及び、
>No.426における三吉説批判を支持されるお立場だろうと想像致
>します。

この板の議論を詳細に拝読しているわけではないので、どちらを批判
支持する立場ということも御座いませんが、

> 「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」と
>  いう本質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるので
>  はないでしょうか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような
>  第三の語義で解釈せざるを得ないように私には思えます。
> (本掲示板、No.385

という説を私は取りません。空性は無自性性ですが、性=本質とは考え
ないからです。というか、そういう用法は伝統的にあり得ません。
空性という自性を持つわけでもないし、そういう自性があるわけでも
ないと私は考えます。
というのが私の立場ということで。


No.433 (2001/07/01 12:23) title:これで私のオリジナル > 青頸さんへ
Name:Libra (211.132.159.12)
Email:libra@be.wakwak.com

 こんにちは、青頚さん。

> > 「空性」とは「無自性性」でしょうから、“「本質を持たない」と
> >  いう本質を持つ”ということになり、やはり自己矛盾が生じるので
> >  はないでしょうか?「矛盾する」とすれば、「矛盾しない」ような
> >  第三の語義で解釈せざるを得ないように私には思えます。
> > (本掲示板、No.385)
>
> という説を私は取りません。

 そうですか(^_^;)。それでは、胸を張って「私のオリジナル」と主張さ
せて頂きます。

 しかし、第三の語義を採用しない(「第三義」を認めずに、「自性」を
「本質・実体」としてしか解釈しない)のであれば、およそ如来の自性
であるそれらがこの世界の自性である。
という文は、「如来の本質」か
つ「世界の本質」であるところの“それら”の存在を認めることを含意す
ることになってしまうでしょう。
 また、

  自性として空であるお方(如来)について
  http://fallibilism.web.fc2.com/z012.html#jisyouto

は「如来は本質として空(無自性)である」ということを含意することに
なり、「如来」が「空」なる「本質」を持つこともまた含意することにな
るでしょう。


No.434 (2001/07/01 12:24) title:青頸さんへ(つづき)
Name:Libra (211.132.159.12)
Email:libra@be.wakwak.com

> 空性は無自性性ですが、性=本質とは考えないからです。
> というか、そういう用法は伝統的にあり得ません。

 上の「性」の意味は正確には不明ですが、以下であれば「伝統的にあり
得」ますから違いそうですね。

  性 しょう [1][s: prakr.ti, svabha ̄va, bha ̄va]  存在する
  ものの変らない本質。〈自性〉などと同義。
  
中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 416

とすれば、「性」とは「-ta ̄」の部分のことを言われているのでしょう
か?

 いずれにしても、第三義を認めずに、「自性」を「本質・実体」として
しか解釈しないという立場を取る限り、

  > 空性という自性を持つわけでもないし、そういう自性があるわけでも
  > ないと私は考えます。

というお立場は維持できないと私は思います。

 第三義は「伝統的にない」とのことですが、松本先生が言われる「二義」
も「伝統にはない」でしょう。

> というのが私の立場ということで。

 わざわざありがとうございました。


No.437 (2001/07/01 19:21) title:ども
Name:三吉 (203.179.201.47)

なんといいますか、私が充分に竜樹を理解しているとは思ってないの
ですが、私が「変だと」と思う部分についてネットの友人である
Libraさんにご説明申し上げました。
しかしながら私の理解不足・思索不足・表現力不足もあり平行線みた
いですね。残念なことであります。
「ない派」というのは、「無」を実体的に見るのもまた、実体論否定の
竜樹からすれば逸脱的理解ではないかという疑問です。
我々の持つ言葉はそれ自体で「モノ」を実体的に考察しがちな、あるい
は言葉は「モノ」を実体化してまう。そして我々の思考はその言葉に呪
縛されて実体的に考えてしまう。というところから来る陥穽ではないか
なぁと私はちらっと思っているのですが、深く思索できてません。
ですからあなたの「自性の第三義」が「法有思想」のごとく実体化傾向
に落ちいるのはある意味、極めて論理的な帰結ではないかと思います。
それゆえ、竜樹の空は難解であると。


No.438 (2001/07/01 19:21)
Name:三吉 (203.179.201.47)

「自性の多義性」については「存在」と「本質」と分けて2義で論じら
れた松本氏の説の構造を分析し、それが「存在レベルの差」と指し示し
ました。竜樹は2と義論じてませんし、松本さんは清弁(バーヴァヴィ
ヴェーカ 490~570年)月称(チャンドラキルティ560~640)を論拠に2
義を論じられていますが、清弁も月称もそれを2義と考えてなかったの
では思いますが、私は詳細に見たわけではないので勘にすぎません。
あるいはちらっと出てくる仏護(ブッダゴーサ 470~540)も。
清弁の方法論は、仏護の帰謬論証的方法を批判し、<中論の表現はあくま
で意味を主としたもので、それを基にして学説を敷衍することができると
する。その敷衍の方法は当時確立されつつあった論理学説に依拠し、主に
三支作法の形式とる推論式を導出・提示しその論理的妥当性を説明するこ
とであった>そうで、月称はこれを再批判しているそうです。
この中観派内の対立は後代、清弁系の独立論証派と、仏護・月称の帰謬論
証派とよぶことになったそうである。。。ふぅ。こんなのはわたししゃ全く
無知なんでなんともいえんのぉぉ。。感想レベルだが、
P343「諸の法は、自ら生じたものも、他から生じたものも、両者から
生じたものも、非因から生じたものも、いかなるものも、どこにも、決し
て存在しない
に関し、清弁の全否定「諸の法は存在しない」を追認と論
じられているが、私の空理解からすれば「諸法は仮として存在する」ので、
全否定は「ない派」であり「逸脱」である。月称のごとく「諸法は自ら生
じたものでもなく、他から生じたものでもなく
、。。。」に親和的です。


No.439 (2001/07/01 19:22)
Name:三吉 (203.179.201.47)

P344〜「(7)(8)(9)(10)」から、「諸法が自性としてないこと」が、
「仮」として存在することを含有する限りでその論理は肯定するが、明確
に諸法の無を説いている
」「果の、縁の非存在性
(非実在性−つまり仮的存
在を含むならいいのだが、ここでは存在性といい現象存在(仮)も容認しな
い表現)諸法の無などなどは、容認しない。私はここでは月称に親和的。
P347〜(13)でいう諸法に「属するもの」「本質」とは、(11)(12)でいう
a作られないb他のものに依存しないという「本質」であるので戯論で
ある。
(14)あるものの本質的性質が、そのものの自性である、と語義説明される
とは、月称の「明句論」であるが、この最初の部分は清弁批判である。
「あるものの本質的性質つまりa作られないb他のものに依存しないが、その
ものの自性である」としてもなんら矛盾しない。
ここで問題になるのは「もの」か「こと」かであるが、(11)(12)を「こと」
と訳しても趣意は通ずるので戯論である。
さて、ここまででわかるのは、対立する清弁の解釈「自性として」を全否定と
解釈し、「もの」=存在と規定、対立する月称の解釈「本質」とを混ぜ合わして
二義として、それを超器体と器体に分けて二義と論ぜられている。つまり元々
二義とあるのではなく、松本氏の頭の中に二義は前提されており、先行する一
人には見つからないので、二人の対立する解釈の差を自性に適用して二義とさ
れているということです。
さてこの強引な解釈はp355法の無を説くことが目的と結論されているよ
うに、「無論」である。私は「法の仮を説くことが仏教の目的」だと思う。
それゆえp359で言われるもしも中論が縁起ではなく空を説くものであれば。。。
確かに決別すべき時だろう
はなるほどとうなづくものである。


No.440 (2001/07/01 19:22)
Name:三吉 (203.179.201.47)

さてあなたは、松本さんの2義説明の「存在レベルの差」は後づけであ
り、重要ではない。差は「存在レベル」と「属性レベル」がある。その
後者の「属性レベル」の中の「空性を自性」とするのは第三義として切
り離し救わなくては論のように見えます。

ちなみに中村元さんの「自性」解釈は、「佛教語大辞典 東京書籍」に依
りますと@それ自体定まった本質。ものをしてものたらしめるゆえんの
もの。ものそれ自体の本性。固有の性質。存在の個有的な実体。真実不
変なる本性。そのもの。本体。本性。理。真性。自己存在性Aそれ自体
としてはB副詞として、さながらにC独立の単位。「自性一」は独立存
在としての一という数(五教章)Dそれ自身(に基づいて論証されるべ
き事がら)(「瑜伽論」因明)Eわれわれが本来具有する真実の性(妻鏡)
F真如法性。仏の真身(沙石集)G禅門では、すべての人が生まれなが
らにして持っている仏性の意に用いる。自心・心性・仏性。(楞伽師資記)
H自性身の略。自己の本性。大日如来の法身自身。四種法身の第一(真言
内証、他)
I因明において、体・前・陳・有法・所別に相当する。差別
に対する(因明大疏)Jサーンキヤ学派における根本資料因。根本原理

中村元さんの辞書に依れば、「それ自体定まった本質」も「自己存在性」
も同義です。「自立的存在」は「性」を付与され、あなたの言う「属性レ
ベル」です。


No.441 (2001/07/01 19:22)
Name:三吉 (203.179.201.47)

ちなみに中村元さんは前掲書で「空性」を「空の自性」と書いてますね
(笑)。あなたのおっしゃるとおりだ。で詳細に見ると。。。
@空そのもの。空の真理。空の自性。否定性。相対性。
しかしこの語の文献的根拠は、竜樹や中観派ではなく、「成唯識論述記」
です。あるいは倶舎論からBむなしからざる性質か と。
この「か」はなんだ!(笑)。
空性を「空の自性」と見るのは中期大乗に「解密深経」が出、「三自性」
を説いて以降の解釈ではないかと私は思いますが。。。

否定される「無我論」と肯定される「無我論」の差とは?
小川先生のそれは「仮としての存在」と押さえられてますので私的には
OKです。松本さんのは「私が全無」ですので、違います。

小川さんの理解と松本さんの理解はちゃうよ、たぶん。小川さんは「仮」
とそこでは言っている。
松本さんは<私は自性として存在するわけではない>といっていない。そ
れはあなたの解釈にすぎない。<自性として>を補い<まったき>をはず
している。論じる必要を感じない。

私の理解は、松本先生の立場はあくまでも(龍樹と同じく)>とおっしゃ
るので、あなたの解釈ではなく、松本さんが竜樹の空と決別を宣言されてい
る文証をあげ、ここでは「切り捨て」という方法論が竜樹の方法論と根本的
に違うとあげているのです。繰り返しではない。


No.442 (2001/07/01 19:23)
Name:三吉 (203.179.201.47)

龍樹自身でさえも「ない派」>とのことだが、何故?竜樹は「我論」も
「無我論」も共に聖典に説かれ仏説と考えている。ただその矛盾は、世間の
言葉が「実体思考」なのでそれにあわして教法を説かれたので我々の眼には
現象的には矛盾に見える。しかし本当の意味からすれば自性が空なのだと。
松本さんは矛盾せし、「我論」を雑多な聖典群から非仏教と切り捨て、「無我
説」だけを救い出さなくてはというお立場。
両者共に仏典の矛盾という事実から出発し、竜樹は「世間の言葉」(世俗諦)
という概念を導入してすべて仏説と救う。松本さんは逆に、「無我説」だけを
仏説とし、「矛盾せし教法=我論」の切り捨て・批判を宣揚される。
このことと「自性として」が云何にリンクするのかわからない。

<安らかな世界>が「煩悩がまったく存在しない世界」であれば松本さんの
「まったく私が存在しないと実感できる時間」と同義だと思います。
しかし「煩悩は仮としてありながら、その束縛から自由」なのであれば、私
は「空的理解」だと思います。

<我慢>を空解釈すると、<常住不滅の本質>ではなく<仮>としてあると
理解してます。その仮が無くなると解釈するから「ない派」であると私は思っ
ているわけね。仮はありつつ、それに影響されない、縛られないというのが、
私の空解釈です。


No.443 (2001/07/01 19:23)
Name:三吉 (203.179.201.47)

論証の放棄」ですか。あなたも特段論じられているが論証されているとは
思ってないのですが。。。私はまず事実を指摘している。重視してない。あれは
間違っていたと松本さん自身が語っているのはなく、松本さんは自説を補強す
るために注29を入れた。それを重視しなくてよいという理由は何等ないので
は?
二義と分けること自体は松本さんの恐らくオリジナルです。
その松本さんの論理構造は「存在レベルの差」です。

松本さんが概念を基体と超器体に分ける理由は、p337-338の梶山さんの回向解
釈に対する批判にはじまります。ここでは対象は自性ではなく、空です。
空解釈に関して1中観派の時間的解釈は、器体・超器体共に非実在とするのに対
し、2唯識派の空間的解釈は超器体を非実在にするが、器体を実在とする。

この二義的解釈を自性にも機械的に適用しただけです。自性が二義的にあるとい
うより、二義解釈という松本さんのスタイルが先にあり、それを自性に適用され
た。其れゆえ注29は松本さんにとっては必然の前提です。あえて語るほどのこ
とでないくらいに。。。

「意味レベル」はすみません。わかりにくかったね。
「存在(現象)のレベル」と「属性のレベル」の両者を竜樹にあるのではなく、
解釈者の視線にあるというほどの意味です。松本さんやあなたの頭に。。。
うん。あなたの頭の中や松本さんの頭の中にあることは承認しますが、竜樹の
中論にはない。読み手の誤読・誤解釈だと思います。それも自由といえば自由
です。

反論にならないのはあなたは、実体的な思考法に原因があるのではと思います。
なんというか、竜樹の「空」が自性批判であることに留意されてない。


No.444 (2001/07/01 19:23)
Name:三吉 (203.179.201.47)

空性とは、“「本質を持たない」という本質を持つ”ということにならんと思いま
す。なるというのはあなたの論的な思考が実体的論理に呪縛されているからです。

“本質”でないとあなたが断言しても自性の語義に本質はあるのです。自性とい
う語を使う限りそこは避けられません。

存在(現象)レベルに“縁起するもの”と“自立的存在”があるように、
   属性レベルにも“実体(本質)”と“非実体(性質)”とがある。

なにがおっしゃりたいのか理解不能ですが、竜樹はそんなことは云っていないの
では?
法(存在)は仮(現象)としてあり、自性という不変で自立的な存在もない。
というのが竜樹であると思うが。。。
存在レベルと属性レベルに分けて竜樹があなたの言うように論じている箇所は
あるのか?
一切の存在は老と死を属性としているというのはあるが、あなたの属性と
意味が違う。

第三義とか多義の「義」は「意味」という概念です。つまり自性に第三の意味が
あるというのがあなたの論です。違うならば、「第三義」とはいかなる意味か?
と疑問に思います。
言語の「意味の体系」>以下は何をおっしゃりたいか不明。

「法の本質は空である」とは「法は本質を持たない」と同義です。つまり固定的
存在ではなく、仮(現象)であると。「法は本質をもつ」とは、論理的な罠にはま
ってられます。つまり戯論の罠に。

一般的に言えば実体論における「自性」を支えているのは言葉である。すべての
事物は、それが分別され言葉化されることによって、事物となるといえよう。そ
して一度言葉によって表現されると、その事物は概念化され、概念化による固定
的存在となり、ついに事物は実在化されるのである。そのことを竜樹は「戯論」
という。
(前掲書P76)


No.445 (2001/07/01 19:25) title:これでおわり。
Name:三吉 (203.179.201.47)

あなたは属性レベルという松本さんの概念を絶対化し、自分なりに固定し、ついに
戯論に陥っているだけと思うのですが。。。

端的な例はおよそ如来の自性であるそれらがこの世界の自性である。と竜樹の語
を一部だけ切り離し解釈し、自説の根拠とされている。。。そういうキリハリが可能
ならばいかなる論も有効でしょう。それには後半があります
如来は自性なきものであり、この世界も自性なきものである

さて、ながながとおつきあいサンクスです。
今回はこれにて私のメッセージは伝えきったと思います。
後は読者それぞれの判断にお任せいたします。

皆様。ながながと失礼しました。


No.449 (2001/07/02 08:28) title:三吉さんへ(1)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

おはようございます、三吉さん。

> 「ない派」というのは、「無」を実体的に見るのもまた、実体論否定の
> 竜樹からすれば逸脱的理解ではないかという疑問です。

 上で言われている“実体的に見られた「無」”とは“実体的な「自性」
の存在としての有が非存在となった「無」”ということでありましょう。
松本先生の“私は全く存在しない”というのはそのようなものでは決して
ありません。

   松本先生が言われる“私は全く存在しない”というのは“私は自性
  として存在するわけではない”と言うことでしょう。もっと簡潔に言
  えば“私は自性(自立的存在、実在)ではない”ということです。も
  ともと自性(実在)ではないものは「実在としての<無>」にはなり
  えません。

  本掲示板、No.334

 松本先生が“法の無”と言われる場合には、あくまでも「“自性として”
という限定語を付して理解されなければならない」という立場で言われて
おり、このように限定された意味での“法の無”とは「縁起した諸法が実
在ではないこと」を意味します。

  “諸法の無”であれ、“諸法の不生”であれ、厳密には常に“自性と
   して”という限定語を付して理解されなければならない
   http://fallibilism.web.fc2.com/068.html#2

  「『中論』におけるすべての否定的命題は、縁起した諸法が実在で
   はないこと、つまり“法の無”を説くことが目的であったと考え
   られる。」
  (松本前掲書、p. 355)

  「このように言えば、“私は存在しない”ではなく、“実在しない”
   と述べるべきだと言われるかもしれない。確かに、そうであろう。

  (同上、p. 180)

  「…このように性格づけられ定義づけられた“自性”は、他者の存
   在を必要とせず全く独立に自立的に存在するもの、つまり“自立
   的存在”あるいは端的に“実在”を意味するであろう。

  (同上、p. 347)


No.450 (2001/07/02 08:29) title:三吉さんへ(2)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

 このようなこと(“法の無”=「諸法が実在(自立的存在)ではない」)
は、『縁起と空』「まえがき」に見られる「無(非実在性)」という
語からも容易に想像できるでしょう。

  この論文に関して、私が読者に望みたいことは、私が如来蔵思想
   と同様に空思想をも批判していると考えないで頂きたいというこ
   とである。私はこの論文の表現を些かも変更したいとは思わない
   が、私がここで強調したいことは、諸法の有(実在性)と無(非
   実在性)ということに関していえば、如来蔵思想〔及び唯識思想〕
   と空思想(中観思想)との決定的矛盾は決して解消されず、従っ
   てこの意味での空思想の正当性もまた全く消滅しないということ
   なのである。

  (同上、まえがき p. 7)
 

> ですからあなたの「自性の第三義」が「法有思想」のごとく実体化傾向
> に落ちいるのはある意味、極めて論理的な帰結ではないかと思います。

 私は全然“「法有思想」のごとく実体化傾向に落ちい”ってなどいな
いでしょう。三吉さんが勝手に混乱されているだけだと思います。

  「なんらまともな論証もなく、他人の立場を勝手な思い込みによっ
   て断定するのは止めて下さい」

と、再度申し上げざるを得ませんが、しかし、さすがに「言ってもムダ
だ」とだんだん分かってきましたので、以下ではこの想いを

  「またか…。」

と表現することに致しましょう(^_^;)。

> 松本さんは清弁(バーヴァヴィヴェーカ 490~570年)月称(チャンドラ
> キルティ560~640)を論拠に2義を論じられていますが、

 それは傍証にすぎないでしょう。松本先生は『中論』そのものに基づい
て論じられていると思います。

> 「明確に諸法の無を説いている」…「果の、縁の非存在性」…「諸法の
> 」などなど

 それらはすべて、「“自性として”という限定語を付して理解されな
ければならない」という立場で言われているのです。故に、そこでは結
論として、

  “法”の無、非実在性を説いているのである。
  (同上、p. 345)

等と言われているのです。


No.451 (2001/07/02 08:30) title:三吉さんへ(3)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> さてこの強引な解釈はp355で「法の無を説くことが目的」と結論されているよ
> うに、「無論」である。

 この場合の“法の無”も、「“自性として”という限定語を付して理
解されなければならない」という立場で言われているのあって、あなた
が言われるような意味での「無論」ではありません。

> 私は「法の仮を説くことが仏教の目的」だと思う。

 そのこと自体は松本先生も全く否定されていません。それを三吉さん
は「否定している」と勝手に思い込み、そのような誤解に基づいて「無
見」だと言われ続けているにすぎません。

 上で言われている「仮」を、松本先生は「危機的存在」と言われてい
るのです。

  “縁起”それ自体は、第二六章に至って、全く肯定的に示される
   のである。

  (同上、p. 355)

  「“縁起している諸法”以外に、いかなるものの存在も認めないの
   が、仏教の立場だと私は考える

  (同上、p. 354)

  「法は確固不変なるものではなく、反対に実に不安定な中ぶらりん
   な危機的存在なのだ。我々の生に存在論的な根拠などどこにもな
   い。我々はこの不安定な危機的な諸法の時間的因果系列としての
   み存在しているのだ。

  (同上、p. 27)


No.452 (2001/07/02 08:30) title:三吉さんへ(4)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> さてあなたは、松本さんの2義説明の「存在レベルの差」は後づけであ
> り、重要ではない。

 「二義」については、

  現象レベルでの“実体”は“実在”、属性レベルでの“実体”は
  “本質”である

と申し上げているのです。

> 後者の「属性レベル」の中の「空性を自性」とするのは第三義として切
> り離し救わなくては論のように見えます。

 上はあくまでも“実体”についての「存在レベルの差」を問題にして
いるのに対し、今度は属性レベルの存在の中での“実体”と“非実体”
の差を問題にするのです。
 要するに、

  属性レベルにおける“実体”は“本質”、“非実体”は“性質”
  である

と申し上げているのです。で、「自性」という語が、“性質”という意
味で使われることがあるということを認めるべきだと主張し、それを
「第三義」と言っているわけです。

 松本先生は、

  諸法が可滅だということ、諸法の生と滅という本質的性質がその
   まま、それを各支とする縁起が全く時間的なものであることを示
   しているではないか。

  (同上、p. 28)

  「この生起(samudaya)と滅(nirodha)こそが諸法の本質的性質
   だ。諸法が、生と滅の性質を有するということは、諸法が常住
   (永遠)でも、実在(有)でもないことを示している。

  (同上、pp. 62-63)

  「私にとって“無常”とは、諸法が生と滅という本質的性質をもつ
   ことをいう。

  (同上、p. 89)

というような表現をされていますが、この場合の「本質的性質」は「第
三義」と同じ意味だと理解しております。


No.453 (2001/07/02 08:30) title:三吉さんへ(5)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> 小川先生のそれは「仮としての存在」と押さえられてますので私的には
> OKです。松本さんのは「私が全無」ですので、違います。

 “松本さんのは「私が全無」です”というのは三吉さんの誤解にすぎ
ません。

> 小川さんの理解と松本さんの理解はちゃうよ、たぶん。小川さんは「仮」
> とそこでは言っている。

 「たぶん」とか「勘にすぎません」では困ります。
 松本先生は「危機的存在」と言われています。「」と「危機的存在
が違うとは私は思いません。

> 松本さんは<私は自性として存在するわけではない>といっていない。そ
> れはあなたの解釈にすぎない。

 そのように解釈しなければならない「必然的理由」については、すで
No.347 に述べました。

> <龍樹自身でさえも「ない派」>とのことだが、何故?

  『中論』第一章第一偈で、“諸法は存在しない”と説く偈に、龍樹は
  その種の限定語を全くつけなかったのである
  http://fallibilism.web.fc2.com/068.html

のであるから、いちいち限定語をつけずに“諸法は存在しない”と説いて
いるというだけで直ちに「ない派」にされてしまうとすれば、龍樹自身さ
えも「ない派」にされてしまうから。


No.454 (2001/07/02 08:31) title:三吉さんへ(6)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> 本当の意味からすれば自性が空なのだと。

 上の「自性」は「本質」ということでよろしいのですね。三吉さんは
第三義は認められないわけですから。ならば、

 「自性が空」=「本質が空」

となります。
 で、青頸さんも No.431 で認められていたように、「空=無自性」で
すから、

 「自性が空」=「本質が空」
       =「本質が無自性」

となります。
 で、やはり第三義は認めないわけですから「無自性」=「無本質」と
なります。従って、
 
 「自性が空」=「本質が無自性」
       =「本質が無本質」

となります。
 私は「本質が無本質」というのは「自己矛盾」を起こしていると思い
ます。よって、そのような矛盾を引き起こすところの

  「第三義は認めないという立場」

は否定されなければならないと考えます。“帰謬論証”終わり。

> その仮が無くなると解釈するから「ない派」であると私は思っている
> わけね。

 滅するからこそ「仮」なのでは?

  諸法が可滅だということ、諸法の生と滅という本質的性質がその
   まま、それを各支とする縁起が全く時間的なものであることを示
   しているではないか。

  (同上、p. 28)

  「私にとって“無常”とは、諸法が生と滅という本質的性質をもつ
   ことをいう。

  (同上、p. 89)


No.455 (2001/07/02 08:31) title:三吉さんへ(7)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> 「存在(現象)のレベル」と「属性のレベル」の両者を竜樹にあるのではなく、
> 解釈者の視線にあるというほどの意味です。松本さんやあなたの頭に。。。

 「竜樹にはない」というのも全く同じく「あなたの頭に。。。

> うん。あなたの頭の中や松本さんの頭の中にあることは承認しますが、竜樹の
> 中論にはない。読み手の誤読・誤解釈だと思います。

 「竜樹の中論にはない」というあなたの解釈の方が「誤読・誤解釈
だと“私は”思います。

> 反論にならないのはあなたは、実体的な思考法に原因があるのではと思います。
> なんというか、竜樹の「空」が自性批判であることに留意されてない。

 またか…。

> 空性とは、“「本質を持たない」という本質を持つ”ということにならんと思いま
> す。

 読者の方々に勘違いされては困りますので、申し上げますが、私は、

  空性とは、“「本質を持たない」という本質を持つ”ということになる

などということは肯定していません。

 私は一貫して以下のように主張しています。

  1.第三の語義を採用しない(「第三義」を認めずに、「自性」を「本
    質・実体」としてしか解釈しない)のであれば、

  2.『中論』のある偈の中に“「本質を持たない」という本質を持つ”
    という「自己矛盾」を認めることになる。

  3.そういうこと(2.)は“とうてい認められない”から、1.の立
    場は否定されなければならない。

 私は一貫して、“「本質を持たない」という本質を持つ”などということ
はそもそも「自己矛盾」を生じているのであり、かつ、そのような解釈は
「実在論」を論理的に帰結するのであるから、“決して認められない”と言
っているのです。

   第三義によらずに、「無自性性」「空性」というものを“本質”とし
  て認めた上で、そのような“本質”が一切の諸法に属していると考える
  ことは、「空」というものを一つの「実在」として認めることになりま
  す。
 
 本掲示板、No.391


No.456 (2001/07/02 08:32) title:三吉さんへ(8)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> あなたの論的な思考が実体的論理に呪縛されているからです。

 またか…。

> “本質”でないとあなたが断言しても自性の語義に本質はあるのです。自性とい
> う語を使う限りそこは避けられません。

 ならば、“あなた”は“「本質を持たない」という本質を持つ”という
「自己矛盾」を認めたことになります。“私”はそのような「自己矛盾」
を容認しません。

> <存在(現象)レベルに“縁起するもの”と“自立的存在”があるように、
>    属性レベルにも“実体(本質)”と“非実体(性質)”とがある。
> なにがおっしゃりたいのか理解不能です

 理解できないのであれば仕方ありませんね。

> 存在レベルと属性レベルに分けて竜樹があなたの言うように論じている箇所は
> あるのか?

 
 直接そのように論じている個所はないでしょう。しかし、それがないか
らと言って、直ちに、“龍樹の思想・理論は「Libraが主張していること」
を含意していない”などということにはなりません。

 理論には「無限の含意」があるのです。公理系と定理の関係を想起され
たい。

 「直接言っていること」から、「直接は言っていないがそれらから論理
的に必然的に帰結されること」を引き出すことは可能でしょう。導出され
たそれらの妥当性を「直接は言っていない」という理由で否定することは
できません。妥当性を判定する際に問題になるのは、「導出操作に論理的
誤謬が存在するかどうか」です。

> 「一切の存在は老と死を属性としている」というのはあるが、あなたの属性と
> 意味が違う。

 どこがどう違うのでしょうか?「“本質”ではない属性」ではないので
しょうか?


No.457 (2001/07/02 08:32) title:三吉さんへ(9)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> 「法の本質は空である」とは「法は本質を持たない」と同義です。

 それはゴマカシです。「空=無自性」なのですからそのようには読めま
せん。

  「法の本質は空である」=「法の本質は無自性である」

です。
 で、「自性=本質」なのですから、

  「法の本質は空である」=「法の本質は無自性である」
             =「法の本質は無本質である」

となります。
 これは“「本質を持たない」という本質を持つ”という「自己矛盾」を
認めることになります。
 私はそのような「自己矛盾」は容認できません。従って第三義によって
以下のように解釈する必要があると主張します。

  「法の“性質”は空である」=「法の“性質”は無自性である」
               =「法の“性質”は無本質である」

> 「法は本質をもつ」とは、論理的な罠にはまってられます。つまり戯論の罠に。

 またか…。

 私は「法は本質をもつ」というようなことを一度も自説として肯定して
いません。
 私は、“第三義を認めなければ”、「論理的な罠」「戯論の罠」にはま
ると言っているだけです。“帰謬論証”です。

> あなたは属性レベルという松本さんの概念を絶対化し、自分なりに固定し、ついに
> 戯論に陥っているだけと思うのですが。。。

 またか…。


No.458 (2001/07/02 08:33) title:三吉さんへ(10)
Name:Libra (211.132.157.79)
Email:libra@be.wakwak.com

> 端的な例は「およそ如来の自性であるそれらがこの世界の自性である。」と竜樹の語
> を一部だけ切り離し解釈し、自説の根拠とされている。。。そういうキリハリが可能
> ならばいかなる論も有効でしょう。それには後半があります
> 「如来は自性なきものであり、この世界も自性なきものである」

 
 ゴマカシてはいけませんよ(^_^;)。

 もし、前半の「自性」が「本質」という意味なのであれば、その部分は
「実在論」になります。そのことは動きません。そして、それは後半と矛
盾することになります。
 故に、

  龍樹は矛盾したことを述べておらず、かつ、後半で述べられている
  「空・無自性」(空思想)を肯定的に述べている

という立場に立とうとすれば、前半の「自性」は「性質(本質・実体など
ではない属性)」、後半の「自性」は「本質(実体)」というように、
「自性」という語を別の意味に解釈しなければなりません。

> 後は読者それぞれの判断にお任せいたします。

 私もそうさせて頂きます。

 長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。


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