「教法(法宝)は「永遠の師」だと思います」とのことですが、それはそれで別段間違ってはいないと思います。ただ、それならば、三宝を別する必要はなかったわけです。比丘たちは三宝のうち「法」と「サンガ」を師にした。死んだ仏の代替物としてです。ところでもう一つの仏教があった。仏塔に参集した在家たちです。ここは「仏」への尊敬の念を中心に据えた。仏舎利を供養し、信を捧げた。そして、その真情は、「仏自体を永遠の師」へと昇華した。それが「無量寿仏」ですし、阿弥陀も本仏釈尊も同様だと思います。比丘達にとっての釈尊は死人であった。無仏において「教法」と「戒律」を根拠に「サンガ」で実践していた。「法が永遠の師であって、仏は死んだものであった」。在家達は「仏」を殺したりしなかったと。
仏は法(教法・経典)を通して現れるというのはそのとおりです。その現れの「はたらき」は言葉に触れることで、つまり具体的に出会えるのは法華経という経典の形ではないかと。おっしゃるとおりです。でもこれに留まりません。僧侶を通しても、在家の友人を通しても、墓に彫られた「題目」を通じても、この様な電脳空間でさえ、であえます。言葉なくてさえも出会えるかもしれません。それは、人の行為を見て、触れて出会えるかもしれませんし、・・・など。
おそらく「人格的本仏釈尊」という歴史的人物を実体化し、永遠化する神話性に、「却って、問題」を感じられると思います。本仏釈尊とは、我々に呼びかけるところの「はたらき」なのである。これを言うために、釈尊は死んだとしても教法を残っており、その教えは私達に「はたらき」続けるとおっしゃりたいのだと思います。しかしながら、それならば本仏釈尊という仏は「はたらき」であり、「実体的な人格」ではないといえば良いのではないでしょうか。
神学者ジョン・コップ氏が「神ははたらき」であると仏教から影響を受けて、言ったように。
「三大秘法は“インドの釈尊が”文底に説きおかれた」と「末法」思想は、両立します。「あんた達の仏教理解は衰弱する仏教であるが、私の出遭った仏教はまさに輝きを増している」という意味でしょう。
「釈尊が在家信者に「生天思想」を説いたのと同じようなこと」ならば、日蓮さんもまた、出家は成仏。在家は往生と差別的に考えたということでしょうか?
長部経典は釈尊がバラモンたちを批判したことを伝えている
現実のバラモンのあり方と、真のバラモンとの概念差異を考慮されてません。
現実のバラモンのあり方を批判し、真のバラモンは、「生まれではなく、行為による」のだというのが釈尊の立場ならば、私の提出したものの批判とはなり得てない
中村元氏や顕正居士氏は「信」批判・仏教は哲学という立場であるが、釈尊は熱狂的な熱くなる信を批判したのであり、「信」そのものを否定してない。
私は言うまでもなく、藤田宏達氏の立場を支持する。
「古いものはむしろ偽物と考えた方がよい」という立場は袴田氏の科学的根拠無き推論であり、私は比丘仏教の場合、古層を認定するのは別段おかしくないと思う。
ただし、比丘仏教のみが釈尊の言葉のすべてとは思わない。その結集会議から、もれた在家への教説は膨大だろうと思う。
釈尊が「誰を師と呼ぼうか」という立場だとして、釈尊自身が自ら以前に、悟ったものがいないと考えていた傍証とはならない。意味するのは、「独覚」であったということだけである。釈尊以後の「独覚」が悟りを得たとして、自分以前に悟ったものがいないと思い込めば、それはものをしらないだけである。
「決意によって死ぬ」との観念が、インド以前にあり、それが経典に挿入されたならば、一義的には、非仏教的な当時の常識を利用したという意味であろう。
それは釈尊自体にはなかったのでは?
仏教で重要なのは「空」の観念が回向と言う概念を産み出し、自分の寿命を縮めるかわりに、他者に功徳を振り向けられるという思想である。