波と海のたとえ─たとえ話の危険性
(小川一乗)


 有身見と辺見という問題〔引用者註1〕を、波と大海というたとえで考えてみたいと思います。波は私たち一人一人です。波がどうして起こっているのかというと、海があるからです。海がなかったら、波は起こりません。みなさんがたに理解しやすく言うならば、海は無量寿の世界なのです。深くて広くてはてしない無量寿としての命が海です。その深くて広くてはてしない海が波を起こしているのです。ところが、波は一瞬にして消えていきます。それが私たちなのです。一人一人が波のようなものです。では波が消えたら、どうなるのでしょうか。波はただ海に帰るだけです。ですから私たちは、大海がいま波となっているように、無量寿の命がただいまの私という命になっているということなのです。そして波は消えて海に帰る。それと同じように、無量寿からもらった命は、無量寿に帰るのです。
 それをもうすこし科学的というか、合理的に言いますと、私たちの命は、地球に生命が誕生して以来、何十億年かの歴史を背負っているわけです。私の命が忽然と生まれてきたわけではない。何十億年という命の歴史があるから、私の命がいまある。それから同時に私たちは、生き物の命を取って生きています。動物、魚あるいは野菜、そういう生き物の命を取って、無量の命によって私たちは自分の命を燃やしています。ですからそれは、無量の命のうえに私たちの命があるということなのです。そのように、大海が波となっているように、無量の命が私の命となっているのです。私たちは時間的には、無量の命のうえに成り立ち、何十億年という命の歴史を背負い、空間的には、無数の命を摂取して生きているということは、無量の命がそのまま私の命であるという意味を持っているのです。そういうことが明らかにされていきますと、有身見というものに執われている自分の姿がすこし見えてくるのではないでしょうか。
 しかし、大海というたとえを出してしまうと、なにか大海というような実体的なものを考えてしまいますから、危険なたとえなので、注意が必要ですが、大海という実体、つまり命の世界という実体があるということではありません。親鸞は「弥陀の浄土に帰しぬれば」とか、そういうことばで浄土が還っていく世界だといわれているのです。
 そうすると、私の命を私たらしめているものに私が帰っていく。そういうことが原理的に言えるのだろうと思います。そして、釈尊の縁起説というのは、そういう原理に立っているというべきです。
 余談ですが、いま波と海とのたとえを出しましたが、たとえ話は危険であるとも申しました。それはたとえ話によって、かえって真の意味が見失われてしまうという点でたいへん危険であるということです。海があって波があるとなると、私が消えてしまったら、波が帰っていく世界が大海としてあるように、なにか帰っていく実在的な場所があるというように誤解をされる危険性があります。経典にはたくさんのたとえ話が説かれていますが、しかし、そのたとえ話は、あくまでもたとえ話なのであって、けっして真実そのものではない。そのことに絶えず注意をしないと、誤ってしまう。そのもっとも顕著な例を一つ申し上げておきたいと思います。
 経典を読んでいきますと、つねにたとえが説かれます。真実をなんとかして具体的にわかるように説明しようということで、いろいろなたとえが説かれますが、たとえのためにかえってまちがったというか、誤解を作り上げてしまったもっとも顕著な例が大乗仏教にとって基本的な仏性思想です。
 仏性思想とは、如来蔵思想ともいわれますが、「一切衆生悉有仏性」といわれていますように、「すべての生きとし生けるものは、例外なくことごとく仏性を有する」という思想です。その「仏性」ということばは、サンスクリットの原語が明らかになっ(ママ)たことによって、「仏となる因」、仏となる可能性という意味であるということが明確になったのです。「仏となる可能性」というように最初に和訳したのは私ですけれども、仏となる可能性を持っているということが仏性思想なのです。
 一切衆生が、すべての生きとし生けるものが、仏となる可能性を持っているということは、いままでたびたび申し上げたように、一切の存在は縁起であって、私自身という独自的なものはないのであって、そういうことにおいてすべての生きとし生けるものは例外なく平等なのであって、そういう平等の地平の上にというか、そういう大地の上にいま自分の命がいきずいているのである。ですから、そういう私自身を成り立たしめているもの、それが縁起であり、その本質は空である、そういうことが一切衆生の真実であり、その真実の上に一切衆生があり得ている、そういう意味で、仏になる可能性を持っている〔引用者註2〕というわけです。簡単に言うと、そういう在り方で私たちはつねに仏になる可能性のただ中にいるのであり、それが仏性思想の基本的な考え方なのです。この点については、私の小著『仏性思想』(文栄堂)に詳しく解説していますので、いまはこれ以上説明いたしません。
 ところが、仏性思想というものが説かれるときに、たとえ話が出てきます。それのもっともポピュラーなたとえ話の載っている経典が『如来蔵経』という経典です。仏性思想を論じるときには、この『如来蔵経』を抜きにしては語れないぐらい『如来蔵経』というものが仏性思想を説いている経典として有名ですが、この『如来蔵経』という経典には、九つのたとえ話が載っているのです。そして九つのたとえ話について、このたとえ話は「法性を基本として理解されるべきである」と明確に注意されているのです。「法性」の「法」というのは、私たちの存在という意味です。それから「性」というのは、真実という意味にとってもいいし、在り方といってもいいし、あるいは法そのものといってもいい。ですから、法性というのは縁起ということであり、空ということなのです。法の真実というのは縁起であり、空である。そういう法性のために、九つのたとえ話が説かれたのであるということが『阿含経』の有名な一文「縁起は法性である」にならって、きちんと注意されてあるのに、それを抜きにして、たとえ話だけが独り歩きをするのです。
 どういうたとえ話かといいますと、その二、三を申しますと、しおれた腐った汚い花びらに包まれた如来であるとか、あるいはぼろぼろの汚れた布に包まれた黄金の仏像であるとか、あるいは売春宿の貧しい女の人がだれの子とも知れない子どもを宿してしまってたいへん嘆き悲しんで、暗い思いに落ち込んでいるけれども、実はそこに妊娠している胎児というのは転輪聖王であるとか、転輪聖王というのは、インドの伝説における理想的な王さまです。そういったたとえ話が九つ説かれております。ここに、煩悩にまみれ汚れた衆生の現実と、衆生の本来的な在り方である衆生の身の真実が比喩的に説かれているわけです。言うまでもなく、衆生の本来的在り方を「法性」と説いているわけです。ですから、そういうしおれた花びらの中に包まれている如来、ぼろぼろの布に包まれている金仏、あるいは貧しい女性の胎内に宿った転輪聖王、あるいは、地中深く埋められている金塊とか、そういったたとえによって、衆生が本来的でなくなっている状態を仏性と説いているわけです。
 ところが、そのたとえがあまりにわかりやすいたとえ話であるため、たとえに引っ張り込まれてしまって、仏性というのはなにか私たちの身体の中にあるなんらかの実体的なものとしてとらえてしまったのです。特に、中国仏教の場合は誤解してしまったわけです。中国では実在としての仏性というものを考えてしまい、そして「法性を基本として」これらの九つのたとえが説かれているのであると明確に注意されているのに、こんどは法性をたとえのほうから解釈してしまったわけです〔引用者註3〕。そうするとこんどは、法性というものもなにか、私たちが生滅変化していく根底に生滅変化しないものが存在しているそれが法性であると、そういうように法性を考えてしまう。このように仏性とか如来蔵を実在として実体化してしまう、これがたとえ話によって大切な意味が誤解されてしまった代表的な例だと思います。
 このように、たとえ話はつねに落し穴を持っているのです。そのことはやはり注意しなければいけないと思いますし、できるだけたとえ話はないほうがいいのです。ところがたとえ話がないと、なかなかわからないという面があるから、やむを得ずたとえ話が出てくるし、経典にもたくさん出てくるのですけれども、たとえ話というのはほんとうに危ないのです。
 それから、たとえ話というのは、その経典のできた時代の時代背景を踏まえているわけですから、注意して読まないと、たとえば差別問題であるとか、そういうような面での問題性を含んでいます。ですから、あまりたとえ話に頼らないほうがいいという面もあると思います。よけいなことですけれども、たとえ話が持っている危険性ということの一例を挙げておきました。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 158-163、傍線Libra)

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〔01.05.18 引用者註〕

(1) これについては、同書の153−157ページを参照されたい。

(2) 言うまでもなく、仏になる可能性を持っているということは、「本来(もともと)仏である」などということとは全く異なる。

凡夫が凡夫という本性をもたず空であり、仏も仏という本性をもたないが故に、凡夫が仏に転換しうるという理は認めよう。しかし空という共通性によって、直ちに両者は本質的に同一であり、凡夫=仏である、という公式は成り立たないし、成り立ったとしても何の意味もない。それでは机は薪になりうるから、机と薪は同一であるというのと同じではないか。仏も無常、我々も無常である。だからといって我々が覚った人であるとどうして保証されよう?  
(吉水千鶴子「Pañcakrama における三智・三空と prabha(_)svara ─タントラ仏教における空性理解の問題点─」『成田山仏教研究所紀要第11号 仏教思想史論集U』、1988年、pp. 465-466)

 「仏性」については、拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」の二章、及び、雑記「曽我逸郎さんとの対話」で議論したので参照されたい。

(3) 同書の338-341ページを参照されたい。


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