『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗) |
ナーガールジュナは、『中論』の第十五章にいたって、自性≠フ意味を、次のように説明している。
ここで、自性≠ヘ、(a)「作られないもの」、(b)「他のものに依存しないもの」と定義され、それ故にこそ縁起する(因と縁から生じる)ことはありえない、とされている。他のものに依存しない≠ニいうのは、あるものが存在するために、他のものの存在を必要としない、という意味である。このように性格づけられ定義づけられた自性≠ヘ、他者の存在を必要とせず全く独立に自立的に存在するもの、つまり自立的存在≠るいは端的に実在≠意味するであろう。(11)自性が、縁(pratyaya)と因(hetu)から生じることは、可能ではない。〔何となれば〕自性が、因と縁から生じるなら、それは作られたもの(kr・taka)となるであろう。(一五−一)
(12)しかし、どのようにして、自性が実に作られたものになるであろうか。何となれば、自性は、作られないもの(akr・trima)であり、また、他のものに依存しないもの(nirapeks・ah・ paratra)であるから。(一五−二)
ここで自性≠ヘ諸法の自性≠ニして、諸法に属するもの≠ニされている。この点はチャンドラキールティによる、(13)実に、諸法の自性は(svabhavo bhavanam・)、縁等において、存在しない。 (一−三前半)
という自性≠フ語義説明においても、同様である。この場合自性≠ヘチャンドラキールティの言うように、本質的性質≠ワたは本質≠意味するであろう。ここで得られた本質≠ニいう語義と、先の(11)(12)における自立的存在≠ワたは実在≠ニいう語義との間の相違は重大である。すなわち、前者において自性≠ヘ諸法に属するもの≠ニして扱われるのに対し、後者においては諸法≠ニ同じレヴェルで用いられており、その語義にいわば存在のレヴェルの差が見られるのである(29)。(14)あるもの(padartha)の本質的性質(atmiyam・ rupam)が、そのものの(tasya)自性である、と語義説明される(28)。
という同趣旨の文章とともに、自性が無ければ、法は無い≠ニいう avinabhava 関係(不可逆的関係)を示し、自性≠ノ対する本質≠ニいう訳語をある程度妥当なものとするように思われる。(15)しかるに自己の自性を捨てて、どうして法が存在しようか。(svam・ ca svabhavam・ parityaj・va katham・ bhavo bhavet(30).)
ここで “svabhavya” は「自性であること」(svabhavata)を意味するから、傍線部を、道が有自性であるならば≠ニ解すことはできず(31)、また末尾の部分を有自性なものは存在しない≠ニ訳すこともできない(32)。ここではあくまで、道≠ェ自性≠ゥ否かが問題になっているのであり、道≠ェ修せられるということ、つまり縁起するもの≠ナあるということから、道≠フ非自性なることが論証されているのである。しかも、この場合非自性≠ニいうことは、すでに述べたように、本質≠ナはないという意味ではなく、実在≠ナはないという意味であるから、空≠フ時間的意義と同様に、法の無≠ェ直接明示されているのである。繰り返していえば、右の偈はある法 x が自性であれば縁起しえず(前半)、縁起するなら自性でありえない(後半)≠ニいう二者択一的な矛盾を示すことによって、x の無(非実在性)を説いているのである。『中論』においてあれかこれか≠フ二者択一は、縁起〔するもの〕≠ゥ自性=i実在)かという問題として設定される。従って、『中論』においては、ある法が自性≠ナあるか否か、つまり、自性として¢カ在しているか否かが問題とされ、そのために自性として≠意味する三つの限定語 “svabhavatas” “svabhavat” “svabhavena” が多用されるのである(33)。今その例を見てみよう。(16)道が自性であるならば(svabhavye sati margasya)、それが修習されることは、成り立たない。あるいはまた、この道が修習されるなら、あなたにとって、それは自性ではない(svabhavyam・ te na vidyate)。 (二四−二四)
ここで「自性として」と訳した三つの限定語は、註釈家達によって、有自性なものとして≠ニいうような一種曖昧な意味に解釈される場合がある(34)。しかし、それは、自性≠ェ自立的存在∞実在≠意味するという『中論』独自の用法の存在に気づかず、諸法に属するもの∞本質≠ニいう一般的な意味で自性≠理解することによる誤解である。(17)というのも、何であれ、自性として(svabhavena)存在するもの、それは、無い≠ニいうことが〔いかなる時にも〕無いので、常住である。 (一五−一一前半)
(18)業(karman)が自性として(svabhavatas)あるならば、それは疑いもなく、常住(sasvata)になるであろう。 (一七−二二前半)
(19)何であれ、浄・不浄の顛倒に縁りて(pratitya)生じるもの、それは、自性として(svabhavat)存在しない。故に、煩悩(klesa)は、実義として(tattvatas)存在しない。 (二三−二)
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(28) 『明句論』p. 262, l. 12-p. 263, l. 1. この説明は第十五章第二偈(12)における自性≠フ定義の註釈中に見られる。それ故、私の用語に従えば、この説明は実在∞独立存在≠ニしての自性≠本質≠ニして解釈するもので、不適切である。
(29) 存在のレヴェルの差≠ニは諸法に属するもの≠ニの間には、基体(locus)と属性(super-locus)という意味でのレヴェルの差があるという意味である。
(30) 『量評釈自註』Praman・avarttikasvavr・tti(Gnoli ed.)p. 17, ll. 1-2. 拙稿「Svabhavapratibandha」『印度学仏教学研究』三〇−一、一九八一年、四九六−四九五頁参照。 “svabhavapratibandha” について、私は Steinkellner 教授からの反論(E. Steinkellner, “svabhavapratibandha again” 『神秘思想論集』 Acta Indologica VI, 一九八四年、成田山新勝寺)に、未だお答えしていないので、ダルマキールティの論理学について語る資格があるかどうかすら疑わしいが、私はインド哲学史における彼の思想的貢献は、彼が『量評釈自註』で “svam・ ca svabhavam・ parityajya katham・ bhavo bhavet, svabhavasyaiva bhavatvad” 「……自性だけが法であるから」(p. 17, ll. 1-2)と述べたことに尽きている、と考えている。つまり、インド思想史において、ただ彼一人が、関係の絶対不可逆性≠ニいうものを論証したのである。彼に至るまでは、部分的に古代性を残すとはいえ、ある段階までは極めて厳密なナーガールジュナの論法を別にすれば、関係≠ニいうものは、相互的なものと考えられ、関係者である二項の間に漠然と存在すると考えられていた。しかるに、ダルマキィールティは、関係≠ニいうものは、関係項を離れては存在しないこと、従って、関係項Aから関係項Bを見たときの関係は、BからAを見たときの関係と全く逆であることを論証したのである。彼がこのような論証をなしえたのは、彼が同一性≠フ思想家(dhatu-vadin)ではなく、縁起論者≠ナあったことを示している。即ち、彼は、関係の不可逆性≠説くことによって、縁起≠ニ時間≠サのものを論証したのである。従って、彼は、仏陀とナーガールジュナを継ぐ縁起論者≠ナあると見るべきであろう。
(31) チャンドラキールティは『明句論』で「もし諸法が有自性(sasvabhava)であれば、道も有自性であるから」(p. 508. l.1)と註釈するが、ここでも彼は自立的存在≠ニしての自性≠諸法に属するもの∞本質≠ニ誤解している。
(32) 宇井伯寿は「道が自性を有するものであるならば……自性を有する道は認められて居ない。」(『宇井伯寿著作選集』四・大東出版社、一九六八年、「梵文邦訳中之頌」五三頁)と訳すことによって、いずれの個所をも誤訳している。誤訳の理由は、前註のチャンドラキールティのそれと変らない。
(33) “svabhavatas”(VII-16, XVII-22, XXII-2, XXII-2, XXII-9, XXII-14, XXIII-6, XXIV-22), “svabhavat”(XXII-9, XXIII-2, XXIV-16), “svabhavena”(XV-11, XXI-17, XXIII-24, XXIII-25, XXIV-23, XXIV-26, XXIV-28, XXIV-32)
(34) 『明句論』p. 506, l. 12, p. 507, l. 2.