レスありがとうございます。
過去仏思想が健在であった時代と、無効になった時代との時代認識ですが、つまり「時代性」に併せて解釈を動かすことの方が、日蓮さんの主旨にあうんだ、というお立場じゃないでしょうか?
で、あなたの見られている弊害とは「現代人の合理的思考、科学的論証」という物差しからは「ずれ」があるので、誤解・無理解を招きかねない点ではないでしょうか?
ここで共通土俵を求めるとすれば、あなたの解釈は文上の日蓮さんとの「ずれ」があることです。あなたの解釈が文底の日蓮さんに適っているかどうかは、見解が分かれているという点です。
「“釈尊=法華経”という形で現に仏は生き続けているし未来永劫生き続ける」とは、「釈尊=法華経→教法のはたらき、うながし」という形でまさに、あなたにも川蝉さんにも、もしかすれば私にさえ生きているのかもしれませんし、それ自体に異論はありません。
ただ疑問は「教法のはたらき、うながし」というところまで釈尊=法華経を展開すれば、それは伝統的に「如」あるいは「実相」という概念に包括され、その具体的な展開は釈尊=法華経でも釈尊→阿弥陀=大無量寿経でも構わないことになりませんでしょうか?
日蓮さんが釈尊=法華経に収斂した根拠は、、「迹門方便品の十如是の一念三千、開権顕実、二乗作仏の法門」と「釈尊の久遠実成の寿量品」です。
十如是も一念三千も縁起や空をわかりやすく説明しただけのものならば、妙法華や天台の解釈はいりません。人格的釈尊の無量寿性を根拠にせず、教法の無量寿性をいうならば、法華経のみならず、他大乗経典に対する優位性は根拠を喪失します。
現今の状況は、大無量寿経を根拠にする念仏者もまだまだ健在ですれば。
原始仏教の立場ということですが、私はゴータマ・シッダルタ自体、過去仏思想の影響下にあったのではと睨んでます。根拠は、自分をバラモン(聖者)の一人と言っている教説。「生まれではなく、行いでバラモン(聖者)になる」と言ってる教説。ここから類推しても自分を悟ったものの最初だという認識はなかったのではと思います。まして釈尊と無関係に真実としての法は存在しており、それを釈尊は作ったのではなく、発見した、きづいただけとの認識ではないでしょうか?
仏仏相念とか、「唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」なども、つまり妙法というのは仏に独立してあり、仏なら誰しもがわかるという思想上にあるのではと思います。
私は引用の「教法と戒律を師とせよ」という遺言がまさしくシッダルタの遺教だと思います。しかしここには教法と戒律を「導き」とせよという意味で「擬人化」せよとも、その永遠性を鼓舞せよともありません。逆に仏教は、正法像法法滅思想や末法思想を産み出し、遺教では得道不可という見解に立ち、日蓮さんもその常識に乗っております。
(念のために私はゴータマ・シッダルタ自体、大乗に比するとたいしたことないと思ってます)
あえて独自の訳を試みる必要はない
いやいや私の言葉が悪かったです。一番知りたいのは日蓮さんがどの程度梵本を知っていたのかという点です。
広略を捨てて肝要を好む
なるほど。日蓮さんはそれで充分であつたが、私の機根にはあってない。
天親も天台と同様に「南無妙法蓮華経」と唱えたということです
なるほど。日蓮さんは世親や智■(豈+頁)が「南無妙法蓮華経」と唱えたと書いている。それは了解しました。その上で、日蓮さんは「南無一乗妙典」と書いてあるのを見て「南無妙法蓮華経」と唱えたと受け止めたということではないですか?
あなたもおっしゃるように世親が「南無妙法蓮華経」と唱えたはずはありません。
「なます インド名」の可能性はあなたの云われるとおりありますが、そのインド名の漢訳は「一乗妙典」ではありませんか?
「一乗妙典」=「梵本法華経」であるという根拠はなんでしょうか?
世親の著作のどれに該当するのでしょうか?
宗祖にとっては「南無妙法蓮華経」が何語で表現されているかということは問題ではなかったということです。内容(法体)が重要だということでしょう。
念仏では世親が「浄土論」で「帰命尽十方無碍光如来」と言ったことになっていてこれは「南無阿弥陀仏」の漢訳とされてます。で、本尊は6字でも、10字でも、他にも色々ありますが「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」とか、なんでも、法体はいっしょですので同様なものとして扱われてます。
それに比して、日蓮さん系では「南無一乗妙典」の本尊は聞いたことがありませんが、それは何故でしょうか?
日蓮さんは同義ならばなぜ「南無一乗妙典」の本尊を書かなかったのでしょうか?
保留にさせて下さい。
了解です。
題目の根拠をわざわざ世親の論に求める必要性を強くは感じません。
了解です。ただ日蓮さんは月水御書で「題目」の傍証として世親を出したということで、それは世親の何を根拠にしているのか私には興味があります。
久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し
生死一大事血脈抄は真筆ですか?
生死の二字において差別なしと書いてあるがどういことなのであろうか。
更に、「千仏まで来迎し、手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し」とあり、これは来迎往生思想であり、成仏それ自体ではない。