信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)


 従来学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とても六ヶ敷い理窟((りくつ))は考へられないから、考へる事の上手な人、即ち学者として尊敬する人の考へを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違ない方法であると、断念して生活して居る。一方学者たるものは汝等の低い頭脳では、とても覚れる筈はない。いつまでも煩悶((はんもん))して居るのは、可愛想なことだ、なまじつか、種々の疑問を起して考へて無益の煩悶をして居るよりは、寧ろ自分等の云ふことには間違いないとして信頼するのが、最善の方法であると説く。かうして学者と無学者との階級が、非常に遠ざかつて居て、その間に調和伝達の便がない時代が即ち一切万事を宗教的信仰によって、生活問題を解決して居た時代であつて、今も尚ほ其の継続たることを免れないのである。昔は一人乃至少数の先覚者に偉大な発見があり、之れを信仰し崇拝する少数の追随的思索者があつた。社会の大多数は、なまじつかの思索よりは、従順に信仰する方に誤りがなく、生活に間違ないと考へて居た。此の時代は信仰的模倣時代である。
 これに比して現在は教育の普及発達と共に、社会の大多数が、吾々は今や如何に崇拝する人格者の言でも、その云ふ事を何等の理解なしには承服することは、理性の上から出来ない様になつた。それが幸か不幸かは別問題として、兎も角もそんなことは子供らしい馬鹿らしい事として、理性が自ら承知しない様に、最早養成されて仕舞つたのである。そこで迷信に((おちい))る事が少くなつた代りに、迷信でないとする信仰にも、自ら無条件に服従する事が出来なくなつたのは、止むを得ない当然の勢で、今更如何ともすることの出来ないものである。
 然らば如何にして、如何なるものを信ずるかといふに、如何に信用し、崇拝する人の言論でも、自分の経験に合致するものか、若くは実際の生活に((あ))((は))めて見て妥当するもの即ち実験証明の出来たものゝ外は、容易に信ずる訳には行かなくなったのが、現今に於ける多少に((かかは))らず教育を受けたものの実際の状態である。
 ((か))くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと同時に、如何に賤しい無名の人の言でも、((いやし))くも自分の経験と合致し、若しくは実験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に承認し、それに服従しなければならぬこととなつた。是又理性の然らしめる所である。
 万一如何にしても、納得する事が出来ないといふならば、学者的良心からしても、納得する能はざる理由を意識しなければならない。異議を((さしはさ))む余地のあつてこそ、初めて不承知の理由となるのである。
 要するに実社会、実生活に嵌めて見て、差支なしと見做されたもの、即ち実験証明を経たものにして、初めて信用する丈けの価値ありとされるもので、それを経ないものはどこで、これが信仰されたにせよ、理解もされなければ、明瞭な概念の構成もされない、半信半疑なる遊離的の心意状態にあると見做されるものである。即ち経験以上、体験以上若くはそれ等以外の知識は、如何にしても心意に構成し得ないといふのが、偽らざる文化人の性質である。万一さうでない知識があつたとせば、それは主観的の迷信といひ憶見ともいふべきもので、真の知識とは確然区別して考へなければならぬものである。

(斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社、1982年、pp. 77-79)

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