「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解
(小川一乗)


 さらに、「空」について、仏教が陥った大きな誤解を取り上げますと、「不生不滅の法性」ということが、特に中国仏教などで言われるようになりますが、そこでは「縁起は無自性・空である」という龍樹の思想が誤解されてしまっているようです。それはどういうことかと言いますと、すべての存在は縁起しているものであり、縁起しているものは常に生滅変化しているが、その縁起的存在の背景には、その本質として生滅変化することのない不生不滅の真実が実在し、それを空性だと勘違いしたということです。そういう不生不滅の真実在があると考える誤解です。そのような誤解が、龍樹が厳しく批判し否定してきた阿毘達磨仏教において形成された実体論となんら変わりのないものであることは、いままでの説明で明らかであり、重ねて説明するまでもないと思います。
 龍樹の空性というのはそのようなことではないのです。私たちの存在、生滅変化している存在は、なにひとつ自性をもって生じたり、滅したりしているものではないということが空性ということであって、生じもしない滅しもしないような、なにかわけのわからない真実在があり、その基盤のうえに生滅変化する私たちの存在があるというようなことではないのです。
 ところが、中国仏教になりますと、すでに言及したように、たとえば、老荘思想の無為自然という考え方との関係において、無という実在的な基盤のうえに、私たちの現象的な存在があるのだというような発想が、「空」に対する解釈のうえで考えられ、「不生不滅の法性」ということが、そのように考えられたりするわけです。
 しかし、そういう発想は、宗教の一つのパターンとして、一般的であるとも言えます。すでに言及しましたように、インドのウパニシャッド哲学も同じです〔引用者註1〕。梵という大宇宙の真実があって、私たち一人一人のうちにある輪廻転生の主体であるアートマン(我)がそれと一体となり、その中に帰一してしまう、そういうのがウパニシャッド哲学における梵我一如ということで、似たような考え方です。私たちは生滅変化しているけれども、その根底には生滅変化することのない「空」という実在的ななにかがあるといった関係です。そういった発想が、「不生不滅の法性」という龍樹のことばを誤解してしまったということは、たびたびあります。
 この誤解は、阿毘達磨仏教における実体論そのものというべきであり、それほどまでに阿毘達磨仏教において形成された実体論の影響が大乗仏教の思想の中に入り込んでいるということにもなりますが、しかし断わるまでもなく、不生不滅なる真実在という観念は、「梵」や「我」を実在視するインドの宗教思想においても明らかなように、つねに一般的であるといえます。したがって、自性を主張する阿毘達磨仏教における実体論の形成も、その影響によるものといってよいのであり、また、後に言及するように、後代の大乗仏教が密教へと変質していくのも、梵我一如のような宗教観の影響によるものです。
 ともかくも、縁起を説く釈尊の仏教は、それらの実在論的な宗教を批判したところに面目があるのであり、それゆえに、龍樹の批判の目は、仏教以外の他の宗教に向けられたというよりも、むしろ仏教内部の実体論に向けられていたと見るべきですが、その龍樹の「空」を原点とした大乗仏教自らが、やはり次第に、実体論へと逆戻り現象を起こしていくということになるわけです。
 すでに明らかなように、龍樹の「空」においては、「不生不滅の法性」とは、「縁起しているものは、自性として生じたり滅したりしているのではないという事物の在り方が真実である」という意味です。それ以外の意味がそこにあるわけではない。この点について、『根本中論偈』の第一三章「諸行の考察」には、次のように明確に説き示されています。

もし空でない何ものかが存在するならば、空である何ものかが存在しよう。しかし、空でない何ものも存在しないから、どうして空であるものが存在しようか。(第七偈)
すべては空であるということが明らかになったわけだから、どうしてその空が存在といえようか。存在であるならば、それもまた否定されなければならないことになるわけです。続いて、
空性はすべての見解を越えていると、諸々の勝者(仏)によって説かれている。しかるに、空性という見解をいだくかれらは、癒しがたい人びとであると〔勝者たちは〕説いている。(第八偈)
さきほどの『廻諍論』における実体論者の見解のように、「空」という一つの見解として実在視されなければ意味を持たないのであり、「空」という存在根拠が実体的にあるべきである、という立場にたって、空という見解を持つのではない。すべては空であるということを言っているだけのことであって、空という見解が、空をなんらかの実在根拠として持ってしまったならば、その空という見解もまた否定されなければならないし、そういう空という見解を持っている人は、治し難い病気を持った人である、こう言っているわけです。「空」を一つの見解と考えることを否定しています。私たちは、ともすると、まず自らの見解を確立し、それを論拠として自己主張するのが常ですが、「空」についても、それが一つの見解とされ、それが論拠とされるとき、いつの間にか「空」が実在視されてしまうという結果を招来することになるわけです。どうしてかといえば、なんであれ、実在視すれば観念的にわかりやすくなるからです。しかし、空ということは、なんらかの静的な場所とか基盤ということではなく、私たちが生滅変化の生死に対する動的なはたらきそのものであり、龍樹は、「空」がなんらかの意味での静的な真実在として主張されることを強く戒めているのです。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 338-341)

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〔01.10.06 引用者註〕

(1) 創価学会を含む近代日本の新宗教が提示する救済観の構造も全く同じである。対馬路人・西山茂・島薗進・白水寛子「新宗教における生命主義的救済観」『思想』第665号、1979年11月、を参照せよ。


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