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「あたりまえのことを方便とする般若経」というHPを開設されている曽我逸郎さんという方との対話の記録を今回はご紹介致します。曽我さんの仏教理解は私の理解と非常に近いと思います。この対話はまだ始まったばかりですが、このままもし続くなら、曽我さんのHPの「意見交換のページ」にアップされます。興味を持たれた方は是非そちらをご覧下さい。
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2001.05.10
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(1) 「内容が捨象される」とは「言葉による明確な表現を欠く」ということである。松本博士は以下のようにも述べておられる。
私は昨日、「縁起の理法」が単なる「理法」にならないうちはまだしもだと述べた。「縁起の理法」から単なる無内容な「理法」への展開は何を意味するか。それは“言葉の消失”を意味する。“無内容な”とは、“言葉による明確な表現を欠いた”という意味だ。すると「理法」は最早言葉で説くことはできない。それは「実在」であり、不可説である。ここに至って、実在論と神秘主義は完成する。仏教の否定は、完結する。仏教とは、仏の教えである。仏の言葉である。決して我々凡夫の言葉なのではない。唯一の実在(理)とか不可説の体験(悟)とかがあって、それを我々が言葉で表現できるか否かなどというチャチな問題ではない。言葉とは仏語である。仏教である。それは仏から我々にすでに与えられているものであり、我々が少しでも勝手に変更できるような代物ではない。たとえば『法華経』に、「不自惜身命」と説かれていれば、我々はこの仏語、この真実語を、一字一句も変更することはできない。ただ信じる以外にないのだ。宗教において“言葉”とは、仏の言葉、神の言葉であって、人間の自分勝手な言葉ではない。この点を理解しないと果てしない傲慢、神秘主義に陥いる。悟りとか体験とか冥想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、これら一切は仏教と何の関りもない。宗教において言葉とは、絶対的に与えられるものだ。
(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 56、ただし傍線部は原著では傍点〔以下同じ〕)
また、立正大学名誉教授の勝呂信静院首は、『法華経』の所説に関して、次のように言われている。
仏智の超越性が強調されているが、それが仏によって説示されることを決して拒否するものでなく、反対に説示さるべきことを強調しているのである。
(勝呂信静「法華経の一乗思想」、『印度哲学仏教学』第10号、1995年、p. 158)
一般に大乗経典には、仏が悟った法、悟りの境地は不可説であり言語同断であるという表現がよく見られるが、『法華経』においては、このように悟りの法は言語表現を越えたものであるという所説はほとんどみられないようである。筆者がづいた限りでは、方便品の第六偈に「それ(仏陀の特性)を言いあらわす言葉(vyahara)はない」と述べているのが少ない例である(23)。こうした『法華経』の立場は、仏陀は衆生の救済者でありそれは説法に依るものであるという考えに基づくものであろう。
(同上、pp. 158-159)
方便品第六偈に na tad darsayitum・ sakyam vyaharo'sya na vidyate とある。羅什は「是法不可示 言辞相寂滅」と訳している。羅什は方便品偈に仏伝を述べる箇所でも「諸法寂滅相 不可以宣言」と訳しているが、対応するサンスクリット文(一二五偈)には不可以宣言に相当する言葉はない。
(同上註23、p. 166)
『法華経』においては、言語表現を越えた法、不可説なる法というものは意味をなさない。法は教法として仏陀が説き示されたものである。それは仏陀が何よりも説法者であり救済者だからである。『法華経』は第二類のはじめの法師品以降において、佛滅後にこの経を信受し伝道、弘通せしめるべきことを熱烈に説きすすめている。経典は法に外ならないから法師品以降の所説はいかにも「法」が中心であるように見える。しかし『法華経』がこの経に対する信仰を熱心に鼓吹しているのは、この経が仏の残された言葉であるからに外ならない。仏滅後は釈尊の肉体はすでに滅して生身の釈尊は存在しない。生身の釈尊を衆生が具象的に認識しようとすれば、釈尊の肉体のかたみである舎利とその遺言ともいうべき経典以外にない。経典は救済者・説法者としての仏陀を象徴するものである。経典を通してその説者である仏陀を崇拝するというのが『法華経』の立場であると考えられる。
(同上、p. 161)
(2) 勝呂信静院首も次のように言われている。
仏の入滅した後の衆生にとっては、仏はすでにこの世にないのであるから、現実に存在するものは、経典とそれを説く法師である。この二つのものが仏に代るはたらきをなすのであり、そこにおいてこそ仏の姿を認めねばならぬというのが法華経の説かんとするところであろう。法華経の最後の章の普賢品に、「法華経を受持するものは、釈迦牟尼仏を見、供養するのと同じである。そしてこのように経を受持する人もまた仏と同じように敬われるのである」(取意)と述べているのは、法華経の結論に当るものであろう。
(勝呂信静「法華経の仏陀論」、渡辺宝陽編『法華仏教の仏陀論と衆生論』(法華経研究X)、平楽寺書店、1985年、p. 108)
(3) “仏弟子の心の中に生き続ける釈尊”については、中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』(小学館ライブラリー80)、小学館、1996年、pp. 52-53; pp. 209-213 を参照されたい。