「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗) |
龍樹は、阿毘達磨仏教が主張している、すでに説明しました「法体(事物の本質)」としての「自性」について、一章を設けて批判しているのが、『根本中論偈』の第一五章「自性の考察」です。次のようです。
自性(固有の実体)が、諸々の縁と因とによってありえるということは道理ではない。因と縁とによりありえている自性は作られたもの≠ニなろう。自性は作られたものではないのです。因縁を離れて、常住なものとして存在する本質を自性というわけですから、自性が因縁によっているのであるならば、それは自性という性質を失うわけです。それは因縁によって作られたものとなってしまう。
(第一偈)
さらに、自性は作られたもの≠ナあるということが、どうしてありえようか。何となれば、自性は、虚構されたもの≠ナなく、また、他に依存しないもの≠ナあるからである。この虚構されたということは、仮ということです。かりそめの仮ということ。私たちの存在はいろいろな因縁によって虚構されているのです。なんの実体もないということです。自性はそういう実体のないものではないのであり、また、他に依存しないものが自性であるのに、それが作られたものであるならば、自性はそういうものではなくなってしまう。
(第二偈)
自性が存在しないとき、他性(他のものに固有な自性)はどうして存在しようか。何となれば、他なる存在の自性が他性と言われるからである。もし実体的にものが存在するといった場合には、それは自性であるか他性であるかのいずれかであって、それ以外のものはないであろうといっているわけです。
(第三偈)
さらに、自性と他性との以外に、存在はどうしてありえようか。何となれば、自性と他性とがあるとき、存在は成立するであろうからである。
(第四偈)
もしも存在が成立しないならば、非存在も成立しない。何となれば、存在が変異したもの(他となったもの)が非存在であると、人々は語るからである。非存在というのは、たとえば、ここに本があって、これがなくなったら、ここに本は非存在である。存在しなくなったというのです。ですから、もともと存在しないものを非存在とはいわない〔引用者註1〕。経典に出てくる「ウサギの角」というようなたとえがありますが、ウサギに角はもともと生えませんから、そういう「ウサギの角」というようなもともと存在しないものを非存在とはいわないのです。存在しているものがなくなることを非存在というので、それが非存在の定義です。そのように、
(第五偈)
およそ自性と他性、存在と非存在を見る人々は、仏の教えにおける真実を見ることがない。これが阿毘達磨仏教の主張する「自性」に対する批判です。
(第六偈)
自性と他性とをよく知っている世尊によって、『カートヤーヤナへの教え』の中で、「有と無との二つはともに否定される」と語られた。『カートヤーヤナへの教え』というのは、『阿含経』の「迦旃延経」のことです。そこでは、次のように説かれています。
(第七偈)
カッチャーヤナよ「一切は有である」とは、これは一つの極端である。「一切は無である」とは、これは第二の極端である。カッチャーヤナよ、如来はこれらの二つの極端を捨てて、「中」によって法を説く。ここでは、カートヤーヤナが、パーリ語のカッチャーヤナとなっていますが、ともかくも、この中で釈尊は、有という存在、無という非存在、その二つともを否定しているわけです。龍樹は、実体的な「自性」の存在として有と、それが非存在となった無という考えを、釈尊が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定しているわけです。龍樹は、有と無との見を打ち破ったと、『正信偈』の中で「悉能摧破有無見(ことごとく能く有と無の見を摧破した)」と讃えられていますが、それは龍樹が打ち破っているのでなく、釈尊がすでに、そのように説いておられると、龍樹は示しているわけです。
(『相応部』一二)
もしも或ものが自性をもって有であるならば、それは無とはならないであろう。何となれば、本質が変異するということは決して成立しないであろうからである。このように、本質というものは変異しないものであり、最初から存在すれば、永久に存在するし、最初から存在しないものが後に存在するようになるということはない、それが本質というものです。
(第八偈)
本質が現に無であるとき、変異することは何ものにありえようか。また、本質が現に有であるときも、変異することが何ものにありえようか。
(第九偈)
有とは、常住に執着する見解であり、無とは、断滅に執着する見解である。それ故に、賢者は有と無とに依止しない。いままで説明してきました縁起という立場から見たら、これらの内容については、もう説明するまでもないと思います。そして最後の偈文が、
(第一〇偈)
何となれば、およそ自性をもって有るそれは無ではないから常住であり、以前に存在したが今は無であるから断滅である、という誤りとなってしまうからである。以上のように、ものを実在視して、自性を認めるときは、常住論か断滅論になってしまう、そういうことをいっているわけです。
(第一一偈)
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〔01.10.07 引用者註〕
(1) すぐ後で、小川氏も「釈尊は、有という存在、無という非存在、その二つともを否定している」「龍樹は、実体的な「自性」の存在として有と、それが非存在となった無という考えを、釈尊が『カートヤーヤナへの教え』を引いて否定している」と言われているように、ここで言われている「存在」とは「有」のことであり、「非存在」とは「無」のことである。