仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗) |
釈尊の教えとは何か。釈尊は仏陀(覚者 Buddha)であり、仏教とはその仏陀の説いた教えであるとされるのであるから、釈尊の教えとは何かを問うことは、同時に仏教とは何かを問うことにもなる。仏教とは何かという問題は、仏教学が常にその解決をめざしているものであり、その意味では永遠に未解決の課題であるともいえよう。しかし、かつて伝統的には仏教とは縁起説である∞仏教は縁起を説くものである≠ニいう理解が基本的には認められていたように思われる。たとえば、インド大乗仏教における中観派(Madhyamika)の祖とされるナーガールジュナ Nagarjuna (龍樹、一五○−二五〇年頃)は、その著『根本中頌』 Mulamadhyamakakarika の冒頭で、仏陀に対する帰依の念を、次のような偈(詩)によって述べている。
不滅、不生、不断、不常、不一義、不異義、不来、不去にして、戯論が寂滅し、吉祥なる縁起(pratityasamutpada)を、説いた仏陀(正覚者)、かの最高の説法者に、私は礼拝する(1)。ここで「不滅」から「吉祥なる」まではすべて「縁起」を形容する語であるから、ここでは仏陀は縁起を説いた∞仏教とは縁起説である≠ニいうことが、基本的に認められているのである。もちろん「不滅」から「不去」に至るいわゆる「八不」といわれる形容詞は、この縁起説に関するある一定の解釈──「空」という理論にもとづく解釈──を明示するものであるが、しかし仏教を縁起説と見る基本的理解は、ここに認められている。
世間、出世の因果を破するは、外道なるべし(2)。ここに「因果」といわれるのは、縁起のことにほかならないが、その「因果」を否定するのは「外道」、つまり非仏教思想であるとされるのであるから、ここでは「因果」つまり縁起説が仏教と見なされていることは明らかであろう。
仏法のために仏法を習学せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなわちこれ外道なり(3)。
予は縁起説が仏陀の説の根本趣意であり、其理論的基礎となって居るものであり、根本仏教の根本思想であると認むるものである(4)。と述べているが、これは日本の近代的仏教学の共通の認識であったと見ることができるであろう。
またサンスクリット文『四衆経』およびチベット『律蔵』によると、釈尊はすでにさとりを開いたあとで、しばらくたってから十二因縁を観じたのであり、縁起説とさとりとの間に本質的な連関は存在しない(5)。と述べられている。これは一見して、仏教の出発点である釈尊の「さとり」と縁起説との本質的な関係を否定する見解であることが知られる。しかも、この見解が決して偶然に述べられたものではなく、中村博士の仏教理解の根本から発していることは、博士が「ゴータマのさとりの思想史的意義」を次のように解説することからも、知られるのである。
まず第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるに至ったのである。ここで、博士は「仏教には特定の教義が無い」と言われているが、これこそ博士の仏教理解の根本であると見ることができるであろう。仏教に教義がないとすれば、仏教とは縁起説である≠ニいう見解が否定されるのは当然である。では、仏教に教義がないとすれば、仏教とは何なのであろうか。博士は「無思想ということではない」と言われる。また、それは、「現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとする」ものであり、「実践的存在としての人間の理法(dharma)を体得しようとする」ものであると説明されている。この二つの説明とも、きわめて曖昧なものであるが、博士はこれを「実践哲学(7)」という語によっても解説している。つまり、中村博士にとって、仏教とは「教義」ではなく宗教的理想に向かう実践のみにかかわる「実践哲学」であるということになろう。同じ主張を博士は、別の著作で、より簡潔に、
第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。それは実践的存在としての人間の理法(dharma)を体得しようとする(6)。
だからゴータマ・ブッダは、西洋におけるような意味で何らかの「哲学体系」を述べているのではない。そうではなくてただ「道」を説いているのである(8)。とも述べている。前述の「教義」と「実践哲学」との対比が、ここでは「哲学体系」と「道」という語の対比によって示されていることは明らかである。
大ざっぱに言って、上巻では体系成立以前の段階を論じ、下巻では原始仏教の思想の体系化の発端を論じたことになるであろう(9)。と述べておられるが、ここにすでに博士の根本的立場が認められる。すなわち、「体系成立以前の段階」と「思想の体系化の発端」という二つの語によって、上述の「道」と「哲学体系」、または「実践哲学」と「教義」という対比が、中村博士においては仏教史における歴史的前後関係として把握されていることが、容易に理解される。つまり、博士によれば、仏教には本来「教義」も「哲学体系」もなく、それはただ「道」を説く「実践哲学」にほかならなかったが、後には、釈尊の意図に反して(?)「体系」が立てられ、「教義」が形成されるようになったというのである。実際、『原始仏教の思想』においては、仏教の最も根本的教義と考えられる縁起説や四諦説については、もっぱら下巻においてその考察がなされるのであり、上巻においてはそれはまったく触れられていない。上巻の第一編「基本的立場」のところを読むと、そこに述べられるのは、仏教には教義・哲学体系はなく、仏教は単に実践を説くものである≠ニいう中村説の次のような繰り返しだけなのである。
釈尊の教え(dhamma)は諸の哲学的見解(dit・t・hi)を超越したものなのである(10)。ここでも、仏教が「哲学的見解を超越したもの」 であり、「無立場の立場」であると述べられているが、注意すべきことは、ここに「真理」という語が繰り返し用いられていることである。この「真理」は、中村説においては、「哲学的見解」や「立場」や「教説」とは逆に、むしろ肯定されるべきものとして述べられている。先に引用した『ゴータマ・ブッダ』の文章において、「理法(dharma)」といわれていたものと、この「真理」とが、中村説において、同一の意味を担っていることは自明であろう。ではこの「真理」=「理法」とは何を意味するであろうか。「真理を見る立場に立つと、……どの宗教に属していてもよい」 という文章と「同一の真理が異なったしかたで説かれることが許される」という文章を合体して解釈するならば、諸の宗教は、同一の真理に対する異なった説明のしかたにすぎない≠ニいう主張が、中村博士によってなされていると考えざるをえない。とすれば、ここにおいて、「真理」とは不可説なる単一の実在≠ナあり、諸々の宗教や哲学とは、この不可説なる単一の実在≠多様なしかたで表現した言葉≠ノしかすぎない、という理解が認められているのであろう。このような理解は、次のような津田真一氏の文章に示される見解と基本的には異なるところはない。
他人と論争せぬというこの境地に、ゴータマ・ブッダは重要な意義を見出したのであった。……要約していうならば、言わば無立場の立場に立ったのである(11)。
真理を見る立場に立つと、既成諸宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属していてもよい。所詮は真理を見ればよいのである(12)。
初期の仏教は特殊な教説を立てて他の宗教や哲学と争おうとしなかったが、めざす究極の境地に到達するために、民衆のそれぞれの精神的素質や立場を尊重しながら真理を説くことを忘れなかった。そこで同一の真理が異なったしかたで説かれることが許される(13)。
私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです(14)。ここに説かれるのは、明確な一元論、インド思想の諸体系中、最も正統的なものと考えられているヴェーダーンタ的な一元論であると思われるが、中村博士の仏教理解の根底にも、津田氏ほどの明確さは備えていないものの、このヴェーダーンタ的な一元論が認められることが、以上の論述によって示されたであろう。
この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同一の有を、ただしそれぞれの視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです(15)。(傍線=松本)
この書の読者は次の二つの点で、あるいは失望を感ぜられるかもしれない。第一に、仏教とはこのようなものだと、とあらかじめ考えておられたことと、本書の所説がかなり異なっているかもしれない(16)。ここに述べられるように、伝統的理解や宇井説にもとづいて、仏教とは縁起説である≠ニ考えていた人々にとっては、中村説は確かに驚きであろうが、中村博士の原始仏教の解説が従来のそれと大きく異なる理由は、博士自身によって次のように説明されている。
第二に、原始仏教に関する従来の諸書と内容が異なることがある。しかしこの書は原始仏教聖典のうちでの古い資料(主として詩句)にもとづいて論述したのであるから、原始仏教聖典一般(主として散文)にもとづいた研究とは内容が異なるのは当然である(16)。確かに、原始仏教聖典には、韻文(詩句)よりなるものと散文で書かれているものが存在する。中村博士は、「まず詩句(gatha 韻文)が作製され、それが幾世代にわたって伝承せられ、それにもとづいて後世に散文の部分が作製された(17)」とか、「とにかく一般的には散文の部分よりも韻文の部分のほうが古いことが明らかである(18)」と言われるように、原始仏教聖典の成立に関して、韻文から散文へ≠ニいう成立順序を想定されている。これは、韻文経典を原始仏典の最古層と見なす見解でもあるので、これを私は最古層韻文説≠ニ呼んでいる。
初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している(21)。と述べられ、原始仏教においては、アートマンの存在を否認する意味での「無我説」、すなわち、後代の仏教徒によって明瞭に説かれることになる「無我説」はまだ説かれておらず、単にこれこれのものはアートマンではない≠ニいう意味での「非我説」しか説かれていなかったと論じておられる〔引用者註1〕。この中村説が正しいとすれば、「非我説」とは、右の中村博士の言明にも見られるように、アートマンの存在を承認するかぎりにおいてのみ成立しうるから、ウパニシャッドやジャイナ教の思想と同様に、仏教とは「我説」であって、「無我説」ではなかったということになるのである。これは、従来の仏教理解からすれば、一八〇度の転回であり、完全な逆転であるが、中村博士が詳論された(22)ように、韻文経典の所説によるかぎり、このような結論が導かれざるを得ないのである。
本書の題名『ブッダのことば』は『スッタニパータ』(Sutta-nipata)の訳である(26)。と言われたのは、学問的には明らかな誤りであるといわなければならない。しかるに、この「経の集成」を、あえて『ブッダのことば』として出版されたところに、中村博士の原始仏教研究の方法論的な誤り(27)が象徴的に示されている。すなわち、中村博士のいう「最初期の仏教」「釈尊の教え」とは、極論すれば、『スッタ・ニパータ』の所説を指すものにほかならないが、その『スッタ・ニパータ』の所説が「釈尊の教え」そのものでないことは、すでに述べたところから明らかであろう。
では、釈尊の教え、「仏教」というものは、いかにして明らかにされうるのであろうか。まずわれわれは、宇井伯寿の次の言葉を、学問的に最も確かな出発点となすべきであろう。
結局予のいふ仏陀の説又は根本仏教の説は吾々の論理的推論の上に構成せらるゝものであって、其外には到底判らないといふことに帰着するのである(41)。すなわち、「仏陀の言葉」なるものを、われわれが直接知ることは、決してできない。いかに古層の原始仏典といえども、そこから「仏陀の言葉」そのもの(いわゆる「金口の直説」)を抽出することは、不可能である。従って、われわれは、「仏陀の言葉」そのものというよりも、むしろ「仏陀の説」あるいは「仏陀の思想」を推理しうるのみなのである。それゆえ、われわれはここで、「仏陀の言葉」そのものを最古層の仏典より直接抽出しようとする文献学的方法≠捨てて、「仏陀の思想」を推理し再構成しようとする思想史的方法≠ノよらざるをえないであろう。
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(1) 三枝充悳『中論偈頌総覧』(第三文明社、一九八五年)四ページ。
(2) 大久保道舟編『古本校定 正法眼蔵』全(筑摩書房、一九七一年)六七八ページ。 (3) 同、六七九ページ。
(4) 宇井伯寿『印度哲学研究 第二』(岩波書店、一九六五年)三二四ページ。
(5) 中村元『ゴータマ・ブッダ』(中村元選集、第十一巻、春秋社、一九六九年)一七二ページ。
(6) 同、一九二−九三ページ。 (7) 同、一九三ページ。
(8) 中村元『原始仏教の思想 上』(中村元選集、第十三巻、一九七〇年)五八ページ。
(9) 同、三ページ(はしがき)。 (10) 同、一一ページ。 (11) 同、四二ページ。 (12) 同、五〇ページ。 (13) 同、五三ページ。
(14) 津田真一「密教とブッダの根本的立場」中(『大法輪』一九八八年、十月号)四五ページ。
(15) 津田真一「密教とブッダの根本的立場」上(同、九月号)二七ページ。
(16) 中村元、注(8)前掲書、三ページ(はしがき)。
(17) 中村元『原始仏教の思想 下』(中村元選集、第十四巻、一九七一年)二七○ページ。 (18) 同、二七四ページ。
(19) ただし、『スッタ・ニパータ』には、わずかながら散文の付せられている部分もあるので、厳密には韻文を主とする経典というべきである。
(20) 『スッタ・ニパータ』および「小部」のパーリ仏典内における位置づけについては、袴谷憲昭氏の見解が参考になる。袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元』(大蔵出版、一九九二年)六六−六七ページ参照。
(21) 中村元、注(8)前掲書、一六七ページ。博士は、すでに見たように、仏教には教義がない≠ニ主張されながらも、アートマンを認めている≠ニ言われている。この無教義≠ニアートマン論≠ヘ一見して矛盾するようであるが、そうではない。それは、ジャイナ教において、相対主義とアートマン論が矛盾しないことに、一致している。
(22) 同、一六七−九五ページ参照。
(23) 「しかし、その韻文の部分といえども、或る時期に釈尊の教えを詩のかたちにまとめたものにちがいない」(中村元、注(17)前掲書、二七四ページ)。さらに、中村元『ブッダのことば──スッタニパータ』(岩波文庫、一九五八年)二六三ページ参照。 (24) 同『ブッダのことば──スッタニパータ』二六四ページ。
(25) 中村元、注(17)前掲書、二七八ページ。
(26) 中村元、注(23)前掲『ブッダのことば──スッタニパータ』二六三ページ。
(27) 村上真完氏は、かつて中村説のこの方法論的誤りに注目していたと思われる。氏は、「無欲と無所有──マハーバハーラタと仏教(一)」(『東北大学文学部研究年報』第二九号、一九八○年)において、中村博士が『スッタ・ニパータ』を「ブッダのことば」と訳されたことも問題とされ(二○七ページ)、かつ「本稿でも見たように、仏教に伝える試節の中には MBh やジャイナの聖典と共通なものがあることを知った。ここで、原始経典の詩節(偈)の中に仏教の真髄を求めようという見方には注意を要するように思われる」(二○七ページ)とか、「散文の経典が現存の形を得たのは韻文に遅れるにしても、内容上古い教えを保存している可能性もあろう。さらに、散文の経典にこそ仏教特有の内容が含まれていると考えられる」(二○八ページ)と言われている。これは至極もっともな見解と思われるが、その村上氏も最近では、『スッタ・ニパータ』の註釈である『パラマッタ・ジョーティカー』を『仏のことば註』として訳出され(村上真完・及川真介『仏のことば註──パラマッタ・ジョーティカー』(一)(二)(三)、春秋社、一九八五年、八六年、八八年)、また、同『仏と聖典の伝承──仏のことば註──パラマッタ・ジョーティカー研究』(春秋社、一九九○年)において、「筆者(村上)は、韻文の所説も仏教をそれなりによく表していると考えている」とか、「定型句の繰返しが多い散文経典よりも、韻文経典の中に、味読すべき名文が多く見いだされるであろう」と述べて、私の最古層韻文説≠フ批判、つまり、中村説批判を批判されている(二八三ページ、註五)。しかし「味読すべき名文が多い」ということと、そこに仏教の古い姿が示されるということは、関係がないであろう。
(41) 宇井伯寿、注(4)前掲書、一七四ページ。
〔01.10.07 引用者註〕
(1) 私は、桜部健氏も言われているように、「非我が説かれていることは、そのまま、実は無我が説かれていることになる」と考える。拙文「「無我」と「非我」は違うか?」(http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html)、及び、資料No. 89「無我説と非我説(羽矢辰夫)」(http://fallibilism.web.fc2.com/089.html)に付した「引用者註1」(http://fallibilism.web.fc2.com/089.html#l1)を参照されたい。
〔05.08.26 引用者註〕
(2) 日蓮も次のようにいっている。
日蓮の本尊は法華経であり[*1]、法華経の中でも「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」であるが[*2]、この五字には「一念三千の法門」がつつまれていると日蓮は主張する[*3]。日蓮は、この「一念三千の法門」を、「竜樹や天親が知っていた法門」であり、「天台智者のみがこれをいだいた法門」であるといっている[*4]。実際、智■は「龍樹師に稽首したてまつる」と宣言しているが[*5]、その智■が説く「一念三千の法門」の本質は無我説・縁起説である[*6]。したがって、日蓮にとって、仏教とは無我説・縁起説であったといえる。
人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか
現在、「一念三千の法門」と称して無我説・縁起説と敵対する思想(梵我一如思想)を説く者を時々みかけるが、そのような説は智■が説いた「一念三千の法門」とは正反対のものであり[*7]、日蓮がいうところの「一念三千の法門」とは全く異なるものである。
[*1] 「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。 釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。」(「本尊問答抄」)
[*2] 「日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也。」(「法華取要抄」)
[*3] 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)
[*4] 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」(「開目抄上」)
[*5] 『観心論』、大正蔵第46巻、p. 585c。
[*6] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
http://fallibilism.web.fc2.com/122.html
[*7] 一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/121.html