一念三千説は発生論を拒否するものである(安藤俊雄)


心具説というのは元来智(〔豈+頁〕)摩訶止観の十乗観法を説くところで、円教の止観の対境たる不思議境の内容として規定されたものである。すなわち心具十界のことであり、一念三千のことである。したがって心具説は天台円頓止観の最高目標であるけれども、心具説は観法の便宜にしたがって、一切法を心に約して観ずる立場〔引用者註1〕において設定されたものであって、〔中略〕少くとも智(〔豈+頁〕)においては心具説は唯心論と全同ではなく、実は地論宗や摂論宗の唯心論乃至唯識論との対抗原理として提唱されたものであったはずである。簡単にいえば智(〔豈+頁〕)の心具説は心のみならず、色・声あるいは仏・衆生の一切法の一一が即一切であり、三千法界を本具する全体であることを表示する原理であって、本来の唯心論の如き諸法の中で心性とか阿梨耶識の如き特定の根本識を想定して、そこから一切法の生成を説明しようとする唯心論的な発生論的世界観を拒否するものであったはずである。だから少くとも智(〔豈+頁〕)においては〔中略〕摩訶止観の心具説を説くところでも、三千と一念とを縦横の関係にあるものと解釈すべからざることを強調力説し〔引用者註2〕、とくに地論宗及び摂論宗の学説と混同すべからざることを詳述したほどである〔引用者註3〕

(安藤俊雄『天台学 根本思想とその展開』、平楽寺書店、1968年、pp. 315-316)


知礼の止観思想上の特色についても、論述すべき点が多々あるが、いまはただ一二の主要な点について述べる。まず第一に、知礼が天台止観を論ずるに当って約心観の立場を正しく理解し、これが唯心論と全く別個の立場であることを注意した点を挙げなければならない。
 もとより既述の如く約心観はすでに智(〔豈+頁〕)の所説であって、決して知礼の創説したものではない。けれども智(〔豈+頁〕)以後の長い天台教学の発展史を通じて、いつしかこの止観約心の立場が忘却され、約心主義の立場で説かれた智(〔豈+頁〕)の学説が、唯心論を説くものと解釈されるに至った。ことに湛然以後の唐末五代において禅宗や華厳系の思想が盛大となるにつれ、この約心観を唯心論と混同することが、衰頽した天台教学を時勢に対応せしめる有力な手がかりであるとされたし、山外派諸師の如く、実際これら他宗の唯心論的思想に傾倒した人々が約心観を唯心論と解釈したのは自然のことであった。しかるに知礼にとって、この両者の混同は決して許すべからざる重大な誤謬であり、天台教学の生命を根本的に虐殺する暴挙であった。〔中略〕心法を止観の対境とする限り、摩訶止観の所説の如く、三千世間の一切諸法を心法に本具するものと観ずるのである。けれどもこのことは心法が一切法の根源であるという唯心論を最高原理とすべきことを教えるのではなく、色法及びその他の一切法の一一が同様に三千世間を本具する全体であることを証見するための一事例にすぎないというのである。かくの如く約心観と唯心論との区別を明確に確立することによって、知礼は山外派の唯心論的な思想を基礎とする止観思想を排除した。

(同上、pp. 351-352)

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天台学


〔02.11.15 引用者註〕

(1) これを約心観の立場といいます。菅野博史先生の表現が分かりやすいので引用しておきます。


 この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)


(2) この点については、田村芳朗先生が以下のように解説されています。新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、263-265ページも参照。


 一心ないし一念を超出させることにたいして批判を向けた典型的な例は、『摩訶止観』巻第五上の、いわゆる一念三千論において見られる。すなわち、「それ一心に十法界(じつぽうかい)を具し、一法界にまた十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千は一念の心に在り。もし心なくんば()みなん。介爾(けに)も心あらば即ち三千を具す(正蔵四六、五四頁上)とて、いちおう一心・一念が強調されているが、つづけて、「また一心前に在り、一切の法後に在りと言はず。また一切の法前に在り、一心後に在りと言はず。……前もまた不可なり、後もまた不可なり。……もし一心より一切の法を生ぜば、これ即ちこれ(じゆう)なり。もし心一時に一切の法を含まば、これ即ちこれ(おう)なり。縦もまた不可なり、横もまた不可なり。ただ心これ一切の法、一切の法これ心なるが故に、縦にあらず、横にあらず、一にあらず、異にあらず」と付言している。つまり、一心と一切法(三千)の前後・本末などを論じてはならないということである。以上のごとき観点から、具体的に地論・摂論二宗の唯識説を取りあげて、批判を加えてもいる。

(田村芳朗「天台本覚思想概説」『天台本覚論』〔日本思想大系新装版〕、岩波書店、1995年〔旧版1973年〕、p. 495)


(3)たとえば、新田前掲論文、265-267ページを参照。智(〔豈+頁〕)『法華玄義』でも地論教学を批判しています。


(〔豈+頁〕)には『起信論』の引用例が一箇所もないが、地論師の真識縁起説を批判していることから、地論教学の基盤となった『起信論』の思想は当然知っていたであろう。智(〔豈+頁〕)は地論教学を批判して次のように述べる。「或は言わく、阿黎耶は是れ真識にして一切法を出だすと。……若し定んで性実に執せば、冥初は覚を生じ、覚より我心を生ずる過に堕せん(『法華玄義』六九九c)。智(〔豈+頁〕)は地論教学を真識縁起説として批判しているが、それは『起信論』に説かれる真如縁起説に他ならない。『起信論』に説かれる真如縁起説は、真如(真識・真心)に無明(妄識・妄心)が熏習して、生滅の万法を生ずというものであり、智(〔豈+頁〕)はこのような真如縁起説を評して、性(真如・真識)を実体視して執着するのは、根本原質たる冥初より覚を生じ、覚より我心を生ずとする外道の誤ちに堕す、と批判しているのである。

(花野充道「智(〔豈+頁〕)と本覚思想」、『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、p. 153)



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