「無我」と「非我」は違うか? |
岩波の『仏教辞典』によれば、「無我」とは、
〈我〉(atman)に対する否定を表し、〈我が無い〉と〈我ではない〉(非我)との両方の解釈がなされる。
(中村元他編『岩波仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 779)
さて、本題に戻って、無我と非我についての卑見を述べよう。
私は無我説を次のように解釈する。
無我説: There is no ‘atman’.
(我〔アートマン〕などは無い)
非我説: Everything is ‘anatman’.まさか、
(どのようなものも我〔アートマン〕に非ず)
All is not ‘atman’.
(すべてが我〔アートマン〕であるとは限らない=我〔アートマン〕でないものもあるかもしれない)
(1) 松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410、及び、小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 5-6, pp. 11-14を参照されたい。
(2) 袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』、大蔵出版、1992年、pp. 83-84を参照。
(3) 私のこのような「無我」理解は、中観派の「無自性」の立場によっている。同じく中観派の立場に立たれる松本史朗博士の無我理解(『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、pp. 178-181)を参照されたい。
ただし、松本博士は『中論』で説かれる「無自性」に関して
“自性”を“諸法に属するもの”とせず、“諸法”と同じレヴェルの“自立的存在”“実在”の意味で用いる『中論』の用法は、ある意味で非論理的なものといえる。それは、ナーガールジュナ自身も認めている“無自性”という主張との論理的整合性を欠くからである。
(松本前掲書、p. 350)
というように言われるが、このようなご主張には賛成できない。なぜなら、ナーガールジュナの言う“無自性”とは、まさに「“自立的存在”などは無い」という主張(無我説)の表現であり、当然のことながら、これは「“自性”を(…)“自立的存在”“実在”の意味で用いる『中論』の用法」との「論理的整合性を欠く」ことなどにはならないと私は考えるからである。
2001.05.13
Copyright (C) Libra(藤重栄一), All Rights Reserved.
http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html
〔01.06.27付記〕
羽矢辰夫氏の「空と無我──原始仏教における──」(『印度学仏教学研究』第40巻第2号、1992年)という御論文によって、桜部健氏が「無我の問題─ニカーヤの範囲で─」(『大谷大学研究年報』第三五集、一九八二年)の八九ページで以下のように言われていることを知ることができた。
すべては「我でない」。すべてが我でないとすれば、それ以外に別な我の存在を認めようはないから、五蘊〔六処等〕のそれぞれについて繰り返し繰り返し非我が説かれていることは、そのまま、実は無我が説かれていることになる
(羽矢前掲論文、pp. 15-16からの孫引き)