「無我」と「非我」は違うか?


 岩波の『仏教辞典』によれば、「無我」とは、

〈我〉(a(_)tman)に対する否定を表し、〈我が無い〉と〈我ではない〉(非我)との両方の解釈がなされる。
(中村元他編『岩波仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 779)

とのことである。しかし、〈我が無い〉と〈我ではない〉(非我)との両方の解釈がなされるというのは一体どういうことなのであろうか?〈我〉(a(_)tman)に対する否定には二種類があり、それらの内容には本質的差異がある、とでも言いたいのであろうか?それらが釈尊という一人の人間の立場でありうるためには、本来それらに本質的差異があってはならないのではないか?もしもそれらに本質的差異を認めるというのであれば、そのどちらか一方のみを釈尊の立場と認めるべきなのではあるまいか?言うまでもなく、「無我」というのは「仏教の根本思想」であり、「釈尊の根本的立場」であろう。だとすれば、「無我」の理解は仏教理解の基本中の基本であるはずである。これを両方の解釈がなされるというような形で、曖昧なまま放置することは決して許されまい。
 「あれもこれもみな同じ」というようなラフな考え方によって仏教が実に骨抜きにされてきたというのはおそらく歴史的事実であろう(1)が、しかし、それと同じく、「あれとこれは違う」という考えによっても仏教は破壊されうるのだということを忘れてはなるまい。後者の場合には、「ブッダはああ言いたかったのではなくて、実はこう言いたかったのだ」という形で、自らの主張を主張命題として明確に表明しようとする点においては真に仏教的であると言える(2)。それ故に、前者に比べれば罪は軽いとも言える。いやむしろ、様々な主張(仏教理解)が間違いであるということが次第に明らかにされていくことによってこそ、「真の仏教とは何か」ということが明らかになっていくのであるとすれば、それは罪ではなく功であるとさえも言えよう。しかしそれは、「そのような主張に真正面から向き合い、論理的に批判していこうとする真の仏教徒たちが存在する」という前提に立っての話である。もしもそのような仏教徒がいないときには、仏教でないものがいつのまにか仏教とされてしまうのである。

 さて、本題に戻って、無我と非我についての卑見を述べよう。
 私は無我説を次のように解釈する。

無我説: There is no ‘a(_)tman’.
       (〔アートマン〕などはい)


 これに対し、非我説を次のように理解する。
非我説: Everything is ‘ana(_)tman’.
       (どのようなものもアートマン〕にず)

 まさか、
All is not ‘a(_)tman’.
(すべてが我〔アートマン〕であるとは限らない=我〔アートマン〕でないものもあるかもしれない)


などとと言うように「部分否定」に解釈する仏教徒はいくらなんでもおられまい。
 もしも上のような私の理解(3)が正しいのだとすれば、「無我」(no ‘a(_)tman’)と「非我」(‘ana(_)tman’)は、同一の事態を別様に表現したものにすぎず、「表現上の差異」以外には、何の違いもないと言えよう。

(1) 松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410、及び、小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 5-6, pp. 11-14を参照されたい。

(2) 袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』、大蔵出版、1992年、pp. 83-84を参照。

(3) 私のこのような「無我」理解は、中観派の「無自性」の立場によっている。同じく中観派の立場に立たれる松本史朗博士の無我理解(『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、pp. 178-181)を参照されたい。
  ただし、松本博士は『中論』で説かれる「無自性」に関して

“自性”を“諸法に属するもの”とせず、“諸法”と同じレヴェルの“自立的存在”“実在”の意味で用いる『中論』の用法は、ある意味で非論理的なものといえる。それは、ナーガールジュナ自身も認めている“無自性”という主張との論理的整合性を欠くからである。
(松本前掲書、p. 350)

というように言われるが、このようなご主張には賛成できない。なぜなら、ナーガールジュナの言う“無自性”とは、まさに「“自立的存在”などは無い」という主張(無我説)の表現であり、当然のことながら、これは“自性”を(…)“自立的存在”“実在”の意味で用いる『中論』の用法との論理的整合性を欠くことなどにはならないと私は考えるからである。

2001.05.13
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〔01.06.27付記〕
 羽矢辰夫氏の「空と無我──原始仏教における──」(『印度学仏教学研究』第40巻第2号、1992年)という御論文によって、桜部健氏が「無我の問題─ニカーヤの範囲で─」(『大谷大学研究年報』第三五集、一九八二年)の八九ページで以下のように言われていることを知ることができた。

すべては「我でない」。すべてが我でないとすれば、それ以外に別な我の存在を認めようはないから、五蘊〔六処等〕のそれぞれについて繰り返し繰り返し非我が説かれていることは、そのまま、実は無我が説かれていることになる
(羽矢前掲論文、pp. 15-16からの孫引き)

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