無我説と非我説(羽矢辰夫) |
中村元博士によって、最初期の仏教では「我はない」という意味の無我説は説かれていない、「〔真実の〕我ではない」という意味の非我説が説かれたのである、ということが明らかになった。非我と無我とは別の概念であって、はっきり区別する必要があり、非我から無我へと思想史的な変移がみられるという(anattan の意味も同様に変化していったといわれる(5))。これは非常な卓見である。
それでも、どのようにして、「我ではない」から「我はない」へと変わっていったのかという点はかならずしも明確ではない。「すべては「我でない」。すべてが我でないとすれば、それ以外に別な我の存在を認めようはないから、五蘊〔六処等〕のそれぞれについて繰り返し繰り返し非我が説かれていることは、そのまま、実は無我が説かれていることになる(6)」という議論もあるが、たしかにこのような思考が非我説から無我説への橋渡し的役割をはたしたであろうことは想像にかたくない〔引用者註1〕。
5 中村元「インド思想一般から見た無我思想」(『自我と無我』平楽寺書店、一九六三年)六六ページ。
6 桜部健「無我の問題─ニカーヤの範囲で─」(『大谷大学研究年報』第三五集、一九八二年)八九ページ。
〔01.06.27 引用者註〕
(1) 桜部氏も言われているように、非我が説かれているということは「そのまま、実は無我が説かれていることになる」のである。もしも、非我説と無我説とを、それぞれ別の思想として「はっきり区別」しようとすれば、論理的には必ず、非我説は「〔真実の〕我」が存在することを認めるものにならざるを得ないであろう。しかし、「一切の事物は我ならざるものである(sabbe dhamma anatta)」(『ダンマパダ』第二七九詩、中村訳)と主張する釈尊がそのようなことを主張したとはとうてい考えられない。従って、「非我から無我へと思想史的な変移がみられる」というような中村氏の見解には全く賛成できないし、中村説を「非常な卓見」と評価しつつ「どのようにして、「我ではない」から「我はない」へと変わっていったのか」を考察されようとする羽矢氏のお立場にも当然賛成できない。以下の拙論も参照されたい。
「無我」と「非我」は違うか?
http://fallibilism.web.fc2.com/z011.html