一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)


 一念三千説とは、ごく大まかにいえば、存在するもののすべて(=一切法)を三千種の法に範疇的に整理して、そのありかたの内的様相を明かそうとする教説である。それではそれはその内的様相をいかに教示してみせるのか。まず一念三千説の教学上の主題について確認しながらみてゆこう。少々長きに渉るが、必要な部分を挙げておこう。

「それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具して百法界なり。一界に三千種の世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、この三千は一念の心に在り。もし心なくば已みなん、介爾にも心あればすなわち三千を具す」 (『摩訶止観』五巻、大正蔵四六・五四上)
 このあと「心具三千」をうけてさらに論究は続き、つぎのような結論を導き出す。
「もし一心より一切の法を生ぜば、これすなわちこれ縦なり、もし心が一時に一切の法を含まば、これすなわちこれ横なり。縦もまた不可なり、横もまた不可なり。()()()()()()()()()()()()()()()()()()なるのみ。故に縦にあらず横にあらず、一にあらず異にあらず。玄妙深絶にして識の識るところにあらず、言の言うところにあらず。所以に称して不可思議の境となす」 (『摩訶止観』五巻、大正蔵四六・五四上)
 右に紹介の説明から明らかなように、一念三千説の教学上の主題は「心是一切法、一切法是心」という命題にまとめて一切法(存在するもののすべて)のあり方の真相を教示してみせる点にある、と見做してよいであろう。ところで「心是一切法、一切法是心」という命題はいかなる理由にもとづきその真相を表出する、と解されるのであろうか。この点は「心是一切法」の命題が帰結される推論の過程で、一切法のあり方の一つの捉え方としてそれぞれ注視される「心生一切法」「心具一切法」という命題にしたがう一切法の捉え方を吟味する議論を通じて明白となるであろう。
 その議論は、一切法が心より()()()ものである、と主張する場合の「生」、それから一切法は心に()()()()()()、と見做す場合の「具」をそれぞれ吟味する仕方で進められるわけであるが、その吟味を通じてえられる結論は、「生」に関しては「四句」(──自生・他生・共生・無因生という四種の観点からの一切法の生起の確認)にしたがってみても、「心を求むるも不可得なり、三千の法を求むるもまた不可得なり(10)、それから「いかんぞ能所として三千の法を生ぜんや(11)という結論であり、一方「具」に関しては「第一義のなかには一の法も不可得なり、いわんや三千の法をや、世諦のなかには一心になお無量の法を具す、いわんや三千をや(12)という結論であった。ところでこうした帰結の意味するところは一体なにか。その帰結は、第一義すなわち真理に照らしてみれば、一法たりともその存在は認められるものではない(「不可得」)ために、心が一切法を生ぜしめ(能生)、具する(能具)のでもなければ、また一切法がそれによって生み出され(所生)、具される(所具)のでもなく、心と一切法とは能所の関係において捉えられず、したがって「生」という関係もまた「具」という関係も承認されるものではない、という第一義=真理に照らして捉え出される存在するもののあり方を教示しようとしている、とみてよいであろう。かくて一念三千説を通じて、一切法は「不可得」なるものとして、実体を保有しない「自性」なきものであることが明示されてくるわけである〔引用者註1〕。「心是一切法、一切法是心」という命題の教示する一切法のあり方が「不思議境」といわれ、実相究尽の過程の最終段階を指示すると解されるにいたるのは、まさにその命題が自性=実体を有せず、それゆえに不二相即の関係に立つはずの心と一切法とのもっとも究極的な関係をはっきりと明かしてみせる、と考えられたからであったのであろう。

(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、pp. 263-265)


 智(〔豈+頁〕)は、さきにことわったように、この一念三千説の説明に関連させて、地論、摂論の縁起観を取り上げ、それらを手掛かりに一切法の「生」「具」の問題をあらためて考察してもいる。そこでは、地論も摂論もともに、なんらかの意味で究極的原因を想定して、それとの関連において、「生」「具」の観点から、一切法を問題にしようとしている、との批評が呈示され、そしてそれらに対して「この両師(─地論師、摂論師)はおのおの一辺に拠る」との批判が加えられている。ちなみに地論、摂論の一切法に関する見方への智(〔豈+頁〕)の批判的見解を紹介すれば、前者は法性を「依持」として、他方、後者は阿黎耶を「依持」として、それぞれ一切法の「生」「具」の関係をみてゆくところに、教学上の特徴が認められる、と考えられている(13)〔中略〕
 ところで地論、摂論に対する右のような評価が導き出される理論的根拠はどこに求められているのであろうか。それは、両者に関する如上の評価が示されたあと、それら両者の一切法の見方がともに「経に違う」「龍樹に違う〔引用者註2〕として

「経に違う。経にいわく『内にあらず、外にあらず、また中間にあらず、また常にみずから有るにあらず』と。また龍樹に違う。龍樹のいわく『諸法は自より生ぜず、また他より生ぜず、共ならず、無因ならず』と」 (『摩訶止観』五巻上、大正蔵四六・五四中)
といわれているところから知られるように、内・外・中間・常有、それから自生・他生・共生・無因生などの四種の観点から吟味してみても、その存在性や生起の関係を確認することができない、という一切法の「不可得」なるありように求められている、といってよい。「いかんぞ偏えに法性、黎耶が一切法を生ずるに拠ならん(『摩訶止観』五巻上、大正蔵四六、五四中)。一切法の「不可得」なるあり方を理由に、究極の原因を予想して「生」「具」の観点から一切法を問題にする地論、摂論的な一切法の見方の不当であることが指摘されるわけである。

(同上、pp. 265-267)


 それでは、有でも無でもなく、「不可得」として示される一切法は、その存在をいかにして確保するにいたる、とされるのであろうか。〔中略〕さてこうした側面は一念三千説をみるだけでは直接十分に解明されないように思われる。というのは、その教説は、自性を有せず、したがって不二相即の関係のもとに成り立つ存在するものの()()()の論究に一方的に傾斜し、それが存在性を確保する内的仕組みについては明快に語ってくれてはいないからである。この点についての智(〔豈+頁〕)の見解が示されているのは、三諦説であり、十如是についての解釈であろう。
 三諦説とは、実相にきりつめてみると、存在する()()()()()は自性を有していない()けれども、それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有しており(仮)、しかもであることと仮であることとが一なる存在において統一されている(中)がゆえに、即空即仮即中として表示されうることを明かす教説である〔引用者註3〕。一例を挙げてその概要を示そう。

「根塵〔引用者註4〕あい対して一念の心起こるに即空即仮即中なりとは、もしは根もしは塵、ならびにこれ法界なり、ならびにこれ畢竟空、ならびにこれ如来蔵、ならびに中道なり。いかんが即空なるや。ならびに縁より生ず、縁生はすなわち主なし、主なきはすなわち空なり。いかんが即仮なるや。主なくしてしかも生ず。すなわちこれ仮なり。いかんが即中なるや。法性を出でず、ならびにみなすなわち中なり」 (『摩訶止観』一巻下、大正蔵四六・八下)
 ここでは「一心」を手掛かりに推論が展開されているわけであるが、この一心は智(〔豈+頁〕)の教学のもとでは一切法に等しく、したがってここでの一連の論議は存在するもののすべて──一切法のありようについてのものと見做されてよい〔引用者註5〕。さて、ここには存在するものがその存在性を確保する仕組みが、ズバリいってのけられているように思われる。「主」なし、すなわち自性─本体を有していないという一切法のあり方、一念三千説の表現でいえば「不可得」というそれのあり方が承認されねばならないのは、一切法が「縁より生ずるがためである」と主張する右の説明は、まさにその点に直接答えたものであろう。すなわち「縁より生ず」という存在するもの同士の関係が、一切法がそれぞれにおいてその存在性を確保している究極の条件というわけである。

(同上、pp. 267-269)

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仏教思想(3)


〔02.11.15 引用者註〕

(1) 「仏教の教理学では、あらゆる存在に固定不変な実体・本体を認めず、その存在が知覚されないことを特に〈不可得〉という場合がある(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 686)青目釈・羅什訳『中論』観行品第十三には「無自性故不可得(大正蔵第30巻、p. 17c)とあります。智(〔豈+頁〕)は「中論云。因縁所生法即空即假即中(『摩訶止觀』巻第三上、大正蔵第46巻、p. 25b)というように、『中論』第二十四章第十八偈の《縁起・空〔無自性〕・仮名・中道》の説(大正蔵第30巻、p. 33b)を「即空即假即中」と理解したうえで、「當知一念即空即假即中。…(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)というわけですから、心(一念)が「不可得」と表現されるのは当然だと思います。『中論』第二十四章第十八偈の内容については、この論文の255-256ページの解説を参照。

(2) 智(〔豈+頁〕)は、『観心論』の中で「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」といっており(大正蔵第46巻、p. 585c)『摩訶止観』にも以下のような記述があります。


文師用心一依釋論。論是龍樹所説。付法藏中第十三師。智者觀心論云。歸命龍樹師。驗知龍樹是高祖師也。
〔文師の用心は一に釈論に依る。論は是れ竜樹の説く所にして、付法蔵の中の第十三の師なり。智者の『観心論』に云く、『竜樹師に帰命したてまつる』と。験かに知る、竜樹は是れ高祖師なることを。〕

(『摩訶止観』巻一上、大正蔵第46巻、p. 1b)


(3) この三諦説は、龍樹の《縁起・空〔無自性〕・仮名・中道》の説を智(〔豈+頁〕)が敷衍したものです(前註を参照)。円融三諦説ともいわれます。


隔歴三諦とは、空・仮・中が相互に隔別した別箇の原理として区別される場合をいう。中の原理に達するためには、空仮の原理を経過しなければならないが、ひとたび中の原理に達してしまえば、空仮の原理は捨遣さるべきものとされる。しかるに円融三諦説では、これら三諦がそれぞれ自己の中に、他の二諦を本具すると考えるので、三諦はつねに即空即仮即中であり、その本質において一体であるというのである。

(安藤俊雄『天台学 根本思想とその展開』、平楽寺書店、1968年、pp. 116-117)


(4) 「根(indriya)」とは「感覚・認識を起こす器官・機能」のことです。その対象を「塵(境、artha)」といいます。中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、293ページの「根塵」の項を参照。

(5) 「一切法を心に約して観ずる」この智(〔豈+頁〕)の立場は「約心観の立場」といわれます。長い天台教学の発展史を通じて、いつしかこの「約心観の立場」が忘却され、発生論を批判する智(〔豈+頁〕)の学説が、発生論を説くものと誤解されることにもなりました。安藤俊雄『天台学 根本思想とその展開』(平楽寺書店、1968年)の315-316ページ、351-352ページを参照。


〔02.11.15 引用者付記〕
 原論文の註は、引用を省略いたしました。


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