日蓮は広略を捨てて肝要を好む

 今日は三吉さんという方の掲示板に投稿した文章をアップしたいと思います。

 三吉さんは、浄土真宗の思想に興味を持って仏教を勉強されている方です。僕は親鸞さんや浄土三部経の思想についてほとんど何も知らないのでいろいろ教わることも多いです。

 以下の僕の主張に異論のある方はどんどんメール下さい。お待ちしています。


 三吉さん、おはようございます。


20年以上勤行しているとは・・・何歳の時から?
 幼稚園の時からです(^_^)。


なんにしろ、すごい。
 僕の家はおばぁちゃんの代から学会員なんで、すごいのはおばぁちゃんですね。僕はとても感謝しています。


岩波の「書き下し&和訳」は、サンスクリット本混ざっているからね。
 和訳の方は「混ざっている」というよりは、純粋に「サンスクリット本からの和訳」ですね。岩本氏は現代の知識を駆使すれば羅什などよりも正確に和訳できると豪語しておられます(^_^;)。書き下しの方は羅什訳の和訳ということになります。岩波版は自分で両者を比較しながら、そして意味をよく考えながら読むことができるので結構お得だと思います。


妙法華を根拠にしなくちゃいけないのでは、よくわかりませんが。
 そんなことはありませんよ(^_^;)。
 『法華経』の教主は釈尊であり、釈尊の「出世の本懐」の経としての『法華経』に帰依する(南無妙法蓮華経)というのが宗祖立場です。羅什教ではありませんので、「妙法華を根拠にしなくちゃいけない」ということもないでしょう。宗祖は確かに“訳者として”羅什を別格扱いしておられますが、それはあくまでも“訳者として”です。
求めて云く教大師の釈の中に菩提心論の唯の字を用いざる釈有りや不や、答えて云く秀句に云く「能化所化倶に歴劫無く妙法経力即身成仏す」等云云、此の釈は菩提心論の唯の字を用いずと見へて候、問うて云く菩提心論を用いざるは竜樹を用いざるか答えて云く但恐くは訳者の曲会私情の心なり、疑つて云く訳者を用いざれば法華経の羅什をも用ゆ可からざるか、答えて云く羅什には現証あり不空には現証なし、問うて云く其の証如何、答えて云く舌の焼けざる証なり具には聞くべし、求めて云く覚証等は此の事を知らざるか、答えて云く此の両人は無畏等の三蔵を信ずる故に伝教大師の正義を用いざるか、此れ則ち人を信じて法をすてたる人人なり。
(「妙一女御返事」、全集、p. 1258)

1.日蓮さんはサンスクリット本をしらない。
 そんなことはありませんよ(^_^;)。どういう本を御覧になったかは不明ですが。
抑法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり、彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什存略の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候、先ず此の車と申すは縦広五百由旬の車にして金の輪を入れ銀の棟をあげ金の繩を以て八方へつり繩をつけ三十七重のきだはしをば銀を以てみがきたて八万四千の宝の鈴を車の四面に懸けられたり、三百六十ながれのくれなひの錦の旛を玉のさほにかけながし、四万二千の欄干には四天王の番をつけ、又車の内には六万九千三百八十余体の仏菩薩宝蓮華に坐し給へり、帝釈は諸の眷属を引きつれ給ひて千二百の音楽を奏し、梵王は天蓋を指し懸け地神は山河大地を平等に成し給ふ、故に法性の空に自在にとびゆく車をこそ大白牛車とは申すなれ
(「大白牛車御消息」、全集、p. 1584)

2.妙法華は十如是など、鳩摩羅什の増広がある。
 「十如是」は縁起の法を分かりやすく補足説明したものだと思います。
 原典の思想を“補足”したものであって“逸脱”ではないと。


3.それを根拠に天台智■(豈+頁)が一念三千などを展開した
 天台の「一念三千」も心に即して、さらに縁起の法を分かりやすく説明したものだと思います(1)


4.親鸞は大経、その異本を順に並べて意味を探る展開を教行信証でしているが、日蓮さんは、異訳(正法華)とかを引用してない。←(しているのを私は知らない)

 引用されてます(^_^;)。
夫れ鷲峯雙林の日月毘湛東春の明鏡に当世の諸宗並に国中の禅律念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし、妙法華経に云く「於仏滅度後恐怖悪世中」安楽行品に云く「於後悪世」又云く「於末世中」又云く「於後末世法欲滅時」分別功徳品に云く「悪世末法時」薬王品に云く「後五百歳」等云云、正法華経の勧説品に云く「然後末世」又云く「然後来末世」等云云、添品法華経に云く等
(「開目抄下」、全集、p. 225)
問うて云く題目計りを唱うる証文これありや、答えて云く妙法華経の第八に云く「法華の名を受持せん者福量る可からず」正法華経に云く「若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量る可からず」添品法華経に云く「法華の名を受持せん者福量る可からず」等云云、此等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみへぬ、一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、担一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり。
(「法華経題目抄」、全集、p. 942)

そうそう話しは変わりますが、日蓮門下がどこであれ、方便品を読誦するのは、何故なんでしょうかね。日蓮さんははだめ。本門じゃなきゃといってたような。
 それは誤解です。確かに宗祖は本迹相対を言われますが、それは「迹門は捨てなさい」という意味ではないんです。例えば、題目は法華経の肝心だと言われますし、題目に法華経のすべてが修まっていると言われます。
 しかし、「法華経はもう必要ない」とは言われてません。
 宗祖が言われる「勝劣」というのは、“(より深い観点であるところの)本門の立場から、(その深い観点に衆生を導くために説かれた「善巧方便」であるところの)迹門の真の意味をつかまないといけないよ”ということだと思います。つまり、「中心主義」とでもいいましょうか、“諸経の中心は法華経であり、法華経の中心は本門であり、本門の中心は寿量品であり、寿量品の中心は「南無妙法蓮華経」である”ということです。上に引用した「法華経題目抄」を読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、「法華取要抄」も引いておきます。
問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり、問うて曰く正像等に何ぞ弘通せざるや、答えて曰く正像に之を弘通せば小乗権大乗迹門の法門一時に滅尽す可きなり、問うて曰く仏法を滅尽するの法何ぞ之を弘通せんや、答えて曰く末法に於ては大小権実顕密共に教のみ有つて得道無し一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり、疑つて云く何ぞ広略を捨て要を取るや、答えて曰く玄奘三蔵は略を捨てて広を好み四十巻の大品経を六百巻と成す羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻の大論を百巻と成せり、日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり
(「法華取要抄」、全集、p. 336)

末代幼稚な我等には題目で、その題目と寿量品の1品半はイコールだから、寿量品はよいとして、我等の機根にも時代性にもあわないのに門下が方便品をする根拠はなんだろうか。日蓮宗多数派(一致派)は同じ価値があるといっているんでしょうが、勝劣派がなぜ・・・。
 宗祖の直弟子の一人だった天目という人が、宗祖滅後に「方便品不読誦論」を展開し論争が起こっています。その当時からすでに上のような誤解があったということですね。


勿論、日蓮さん離れて法華経を見ると方便品は最重要だと思うが。
 日蓮法華宗の立場でも「方便品は最重要」です。
経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となるいまだ人王天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず
(「日妙聖人御書」、全集、p. 1216)
p.s.
今回の投稿についてはいろんな人の意見を聞いてみたいので、僕のHPの「雑記」のコーナーにアップさせて頂きます。


(1) 《一念三千》と《縁起・空》の関係については、新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、263-269ページを参照。

2000.10.06
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〔02.11.18 付記〕
 本日、註1を補った。



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