中国における教判の形成の必然性(菅野博史)


 すでに述べましたように、中国に仏教が伝来したのは、遅くとも西暦紀元前後頃と推定され、経典の漢訳が開始されたのは、二世紀半ばでした。この最初の漢訳の事情に、すでに後代に見られる教判の形成の必然性があったと言えます。それは次のようなことを意味します。二世紀半ばという時代は、いったい釈尊が涅槃に入ったときからどのくらいの時間が経過した時代でしょうか。仏滅年代を紀元前四世紀と見ても、およそ五百年ほど経過した時代なのです。
 この長い間に、インドの仏教は著しい変貌を遂げ、また遂げつつありました。具体的にいえば、釈尊の死後、百年から二百年ほどして、仏教教団が上座部と大衆部に分裂し、その後、さらに分裂を繰り返し、紀元前一世紀頃までには、約二十ほどの部派に分かれていたことが知られています。もちろん、各部派の勢力はまちまちであったと推定されます。
 そして、それらの部派の分裂状況に、より大きな変化がもたらされました。大乗仏教の出現です。大乗仏教といっても、一枚岩の教団を想像すると、事実を誤ってしまいます。インドのさまざまな地域で、時代の宗教的ニーズに適合する自分たちの新しい信仰を確立した人々が、それぞれの信仰をそれぞれの大乗経典として創作し、表現していったのであると推定されます。したがって、たとえば初期大乗経典を代表する『般若経』『法華経』『維摩経』『無量寿経』『十地経』『華厳経』の一部となる)などが、同じグループによって製作されたと考えるわけにはいかないと思います。それらの間に何らかの影響関係を想定することはできても、経典に表現された信仰の内実が異なる事態が見られるからです。
 ともあれ、大乗仏教は従来の伝統的教団(あるいはその一部)に小乗という批判的な呼び名を与え、自己の優越を誇りました。伝統的教団はこれに対して、紀元前一世紀頃から陸続と製作される大乗経典に対して、それらは釈尊の直説ではないと批判したことが推定されます。たとえば、『法華経』勧持品には、『法華経』の信仰者が勝手に経典を作り、外道の教義を説いていると批判する仏教徒の存在があったことが示唆されています。
 このように、インドにおいては、伝統仏教と新しい大乗仏教とは対立的状況にあったのです。初期の対立は時代とともに緩和される傾向にあったと推定されますが、伝統仏教は釈尊の教えを伝承し、大乗仏教の側では多くの大乗経典を創作し続けていったのです。
 ところが、すでに述べたように、仏典の最初の漢訳者である安世高は小乗系の経典を漢訳し、支婁迦讖は大乗系の経典を漢訳したのでした。彼らは中国人にインド仏教の歴史的発展に関する知識を与えたでしょうか。おそらくそのような知識が正確に伝えられることなく、多くの大乗経典、小乗経典が混然と中国に受容されたはずです。二、三、四、五世紀と時代が下るにつれ、しだいに増え続けるインドや西域出身の翻訳僧たちは、すでにインド仏教の歴史的発展について正しい認識を持っていなかったのかもしれません。彼らも近世までの日本人と同様、インド仏教史に関する客観的な歴史資料を持っていなかったからです。我々自身がインド仏教の歴史を知ることができるようになったのが、わずかこの百年ほどのことであることを考えると、時代、地域がインド仏教の状況にいくら近接していても、なにぶん古代のことですから、正確な知識を持つことは困難であったでしょうし、かりに正確な知識を持っていた人がいても、そのような人の声が中国に正確に届いたかどうか、またそれを正しく聞く用意があったかどうかは疑問です。
 このように、中国においては、インド仏教史の歴史的発展に関する正確な情報がないことと合わせて、多くの大乗経典と小乗経典が、その冒頭に「如是我聞」という言葉を置いたことから、中国においては、一部の例外を除いて、多くの大小乗の経典は釈尊によって直接説かれたものとして受容されたのです。「如是我聞」とは「このように私は聞いた」という意味ですが、これは阿難に代表される仏弟子が、釈尊から直接聞いた教えを、以下報告するという体裁を取っていることを意味します。その建て前を素直に受けとめた中国人の多くが、多くの大小乗の経典を仏説、金口直説と見なしたことは当然でした〔引用者註1〕
 歴史的事実として、あるいは対立しつつ、あるいは信仰の内実を異にしつつ成立していったインドの経典がすべて釈尊の説いたものと見なされたのですから、中国において経典の研究が進むにつれて、経典間に横たわる思想の相違、矛盾対立が浮き彫りになってくると、釈尊を精神分裂的説教者と考えない以上、それらの思想の相違、矛盾対立をとうてい放置することができなくなったのは当然のなりゆきでした。
 そこで、多くの経典のなかで、釈尊の最も中心的な思想は何であるか、またその中心的な思想と相違する、はなはだしい場合には矛盾対立する思想は何故に説かれなければならなかったのか、というような諸問題に答える思想的な営みが要請されることになったわけです。これはたんに思想的な営みであるだけではなく、中国人仏教徒にとっては、増え続ける多くの経典の中から、釈尊の思想の核心を探求するという、きわめて宗教的、求道的な営みでもあったことを忘れてはならないと思います。
 このような営みを改めて定義すると、釈尊の説いたとされる多くの経典を何らかの基準に基づいて整理統合することであり、これを教相判釈、教判というのです。中国において発達した教判とは、インドにおいては本来、歴史という縦の時間軸に沿って成立した異なる思想を、釈尊という個人の一生涯の内部において整理しようと試みたものです。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、pp. 116-119)

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法華経の出現


〔01.05.20 引用者註〕

(1) 当時の中国人にとって不可避であったのだとしても、やはりそれは「誤解」であり、現在には決して通用しない。

 大乗仏教を阿含仏教とともに「釈尊一代の説法」と誤解した中国の古人は、当時の諸事情からは不可避と見なさざるを得ないけれども、現在にはけっして通用しない。しかし、大乗文化の信奉者たちは、依然としてそれを容認し、ときに常識化している。しかもその大乗文化は、すでに強調したように、夾雑物(きょうざつぶつ)が多すぎて、内容不明のままあり、したがってときには随意な解釈や、さらには(ゆが)んだ理解へとまぎれこむ。この点は、大乗仏教をあまりにも拡大しすぎた大乗文化の弊の如実の現われとして、いまや明白な認識が確立されなければなるまい。
(中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』(小学館ライブラリー80)、小学館、1996年、pp. 413-414)

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