日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)


 さて本書は、拙著『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』(みくに書房、一九九ニ年)の続編である。共に、現在の歴史的状況の中から生まれた新しい視点の下に、「創価ルネサンス運動の基礎付けのために」書かれたものである。寺院仏教・葬式仏教を正統化する伝統的正宗教義の超克を目指し、世界中で展開されるSGI(創価学会インターナショナル)の信仰実践を裏付け、またそれによって証される大聖人仏法の解釈を提示したつもりである。
 拙著に対して、様々な反応があった。この著書は江戸時代の日寛教学で完成された「日蓮久遠本仏論」、つまり日蓮大聖人は久遠元初自受用報身如来であり、その再誕であるが故に末法の本仏であるという日蓮正宗の伝統的教義を真正面から批判しているため、何十年間も正宗教義を根本に信仰実践してきた草創の世代にとっては心情的に受け入れ難い。逆に、これまで信受はしたが、理論的に納得できなかった若い世代や心ある婦人・壮年の方々からは一種の解放感をもって迎えられた。新しい時代の胎動が始まっているのである。

(松戸行雄『日蓮思想の革新─凡夫本仏論をめぐって』、論創社、1994年、まえがき iii-iv)


 ところで、拙著の一つの重要なテーゼ(命題)であった「宗祖本仏論と法主血脈絶対論の関連性」については、小林正博氏が最近の論文「法主絶対論の形成とその批判」(『東洋哲学研究』第三二巻第ニ号・一九九三年に所収)の中で援護射撃をしてくれている。十五世紀後半に左京日教が正宗内の法主擁護との関連で「宗祖本仏論」を最初に本格的に宣揚し、「特に二十六世(一六六五−一七ニ六年)日寛上人によって宗祖本仏・釈尊脱仏が明確に体系化されるに至った(同、一〇九頁)流れが解明されている。そして、

法主絶対の前提には、宗祖本仏論が深く関わっていることは否めない。すなわち宗祖が本仏であるとすれば、その血脈を受けた日興上人ばかりでなく、その正統な流れを受けた「唯受一人血脈相承」の歴代の法主も絶対的存在となるという考えに容易につながっていくからである。これこそ現宗門がさかんに強調する法主絶対論への道筋である。
(同、一一ニ頁)
と、拙著における私のテーゼを応援してくれているのである。
 また、植木雅俊氏が『「三重秘伝抄」論考─人間主義仏法の探求』(江鵠書院、一九九ニ年)という日寛教学に関する懇切丁寧な解説書の中で、興味深いことに、大聖人の仏法が「凡夫こそ本仏である」ことを主張する人間主義の仏法にほかならない、という結論に至っていることも併せて述べておきたい。ただし、日蓮久遠本仏論と凡夫本仏論は真正面から対立し、並在できない。したがって、日寛教学の中にこの二つの矛盾する主張が見えるのは、日寛教学における二義性を意味するというよりも、むしろ日寛上人の置かれたアンビバレンスな時代状況を反映しているのかもしれない。
 つまり、意図としては、日寛上人自身は「日蓮仏法の原点復帰運動」を目指している。日寛上人の大聖人仏法ルネッサンスは、植木氏の言葉を借りれば、その時代の要請から生まれる必然性として、次のような時代状況があった。(植木、前掲書、三四頁以下参照)

 一 五老僧、特に身延系は一貫して種脱相対を認めなかった。したがって、釈尊が本仏で日蓮大聖人は菩薩。そこで、基本的に本尊雑乱となるのだが、御本尊が身延系で奉られていたとしても、種脱相対の位置付けがない。

 ニ 大石寺の宗風が京都要法寺の日辰による造仏論(釈迦立像の建立)、一部読誦論(法華経の読誦)、種脱一体論(寿量品に種脱相対なし)などの影響をまともに受けた。

 ただ、こうした十七・八世紀の江戸鎖国時代に生きた日寛上人の時代状況に対しては、二十一世紀を目前にして国際社会に生きる私たちのまったく別な現代的状況がある。

 一「富士の清流」と「小欲知足の聖僧」に対する神話が崩壊してしまった。

 ニ 大聖人久遠本仏論は宗門を浄化する力がなかったばかりか、逆に、在家信者の支配と搾取を正当化する「法主本仏論」に転換され悪用されてきた。

 三 日蓮仏法が世界中の国際社会で実践される現在、寺院仏教・葬式仏教として換骨奪胎されてきた日蓮教義(ドグマ)を洗い流し、世界思想・世界宗教としての本来の日蓮思想を救い出す必要がある。

 故に、私自身としては伝統的な日蓮正宗の日蓮久遠本仏論を脱構築し、日寛教学を止揚すべきだという問題意識を持っている。そこで、既成教義の枠組みで大聖人の仏法を理解するのではなく、もう一度現実の信仰体験からその教義を見直さなければならない。現代に生きる私たちが納得でき、私たちの生の体験を裏付けてくれる哲理、つまり、新しく、かつ本来の革新的日蓮仏法の理解を求めるのである。それが創価ルネサンス運動の基礎付けの作業であると思っている。

(同上、まえがき vi-ix)


 まず最初に確認しておきたい。私が日蓮久遠本仏論に対して凡夫本仏論を提起したのは、日蓮久遠本仏論を理論的根拠とする宗門が葬式仏教へと堕落した歴史的事実を踏まえ、逆に、現実的視点から理論的修正を迫らざるをえないという歴史的必然性からである。このことについては、『人間主義』執筆の問題意識として「法主本仏論を契機に」、「教義見直しの必要性」、「脱神話化への道程」、そして「日寛教学の限界」の四つの視点から、強調しておいたつもりである。(『人間主義』第一章参照)

(同上、pp. 44)


 「本仏」の意味については『人間主義』で整理したつもりであるが(一五〇頁参照)、今一度強調しておく。

〇 一つには、大日如来や阿弥陀仏、また法華経文上の脱益の釈迦・多宝などを迹仏とする立場で、此土有縁の教主釈尊を本仏とすること。

〇 二つには、その根拠ともなるが、事実の上で生身の凡夫(本物の人間)が仏身を現すという意味である。

 したがって、日蓮正宗の法主も創価学会の名誉会長や会長も、大聖人を凌いで教主の立場という意味で本仏に祭り上げられる必要はない。池田本仏論という思考自体が大聖人久遠本仏論の延長線上にあり、人間主義の立場とは相入れない。人間主義の日蓮本仏論は、むしろ、「特定個人の自己神聖視ないし神格化(『広布』第十四号、八頁)をこそ否定しているのである。大聖人を矮小化することにもならないし、まして宗祖以後に出た人物をより偉大化する企てにもならない。素直に、ごく自然に、そして老若男女・僧俗の区別なく、皆地涌の菩薩であり、南無妙法蓮華経を実践する大聖人の弟子であるということを主張するのである。
 私が指摘している問題点は、宗祖を神格化してしまう久遠本仏論こそ、法主・僧侶・所化・在家信徒という階級制度を正当化する理論であり、否、少なくとも現実的にはそういう封建的思考を許してしまった教条主義であるということである。
総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。
(『生死一大事血脈抄』全集、一三三七頁) 
 誰が偉いとかという問題ではない。各自の個性や能力、課題や役目が違うという「異体」を認めながらも、同じ地涌の菩薩として広宣流布の大願という「同心」で、仲良く、楽しく仏道修行をしていこうということだけであろう。そして、その同心の根本としての「信心」に立つが故に、一人一人がその人格と能力をより発揮できるのである。上下関係に縛られ、誰が偉いかとではなく、いかに各人がその持ち味を発揮できるかが問われなければならない。そのための組織でなければならないであろう。
 この意味で、「信心は大聖人の時代に還ろう」ということ、したがって、その信心を裏付ける教学についても、もう一度、原点に戻って見直そうというのが凡夫本仏論の意図である。

(同上、pp. 44-46)


まず、日蓮大聖人も法主も池田名誉会長も、そして私たちも全く同じ「人間」である。人間を越えた化け物ではないし、ET(地球外生物)でもない。大聖人だけが特別に神格化され、久遠本仏に祭り上げられる必要はない。否、久遠本仏論が差別の論理を正当化するために作り上げられたのであれば、現在では全面的に否定されねばならないのである。

久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり。此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり
(『生死一大事血脈抄』全集、一三三七頁)

 ここに、久遠の昔に仏に成ったとされる立派な釈尊も、衆生を成仏へと導いてくれる法華経の教えも、そして愚痴の凡夫である私たちも、南無妙法蓮華経の当体としての法体において全く差別がないことが明言されているのではないのか。そのことを確信することが、法華経をたもつことである、と。

(同上、pp. 47-48)


 さて本題に戻り、確かに大聖人も、阿弥陀仏や大日如来などに対しては、私たち衆生の教主は「釈尊」であることを何度も強調している。それは歴史上の実在の釈迦であろうし、また「仏教」を説き続け、経典に現れた釈尊であろう。

(同上、pp. 96-97)


 さて、釈尊の教主性の問題に関連して確認すべきことは、「帰命」の対象に「法」と「人」があるという点である。大聖人は御書のいたるところで「法華経」または「南無妙法蓮華経」と、「教主釈尊」について触れている。そこで問題は、大聖人が、

南無とは梵語なり、此には帰命と云う。人法之れ有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり。法とは法華経に帰命し奉るなり。
(『御義口伝』全集、七〇八頁)

と言う時、この釈尊の意味は何かという問題がある。人法に分けて、「人」としての「釈尊」と、「法」としての「法華経」と述べられているのであるから、これも素直に、

〇 大聖人は一代聖教の中では「法華経」を選び、したがってその教主としての「釈尊」を選んでいる

と理解できる。阿弥陀仏や大日如来、その他の仏や菩薩ではなく、仏教の創始者としての釈尊である。
 そして、

〇 その釈尊が法華経本門で顕本した法が南無妙法蓮華経である。

というのが大聖人の基本的立場のはずである。

(同上、pp. 98-99)


● 日蓮久遠本仏論は私たち末法の衆生から遠く離れ、阿弥陀仏や大日如来に接近していく。久遠に遡ってしまうが故に、私たちとは無縁の仏になってしまう観念論である。久遠仏そのものを「人」または「人法一箇」と解する日蓮久遠本仏論は克服されねばならない。

(同上、p. 140)


 どう考えても、久遠の昔に人格、すなわち「有神論的人格」としての仏が実在したとは想像できないし、仏教に反すると思っている。一歩譲って、日蓮大聖人が、当時の科学知識の限界から、久遠実成を比喩とか虚構ではなく、事実として起こった出来事として把握していたとしても、人格が面になるのは矛盾である。大聖人は文上の久遠実成の釈尊に即して、そこに普遍的な法を観ているからである。ましてや、大日如来や阿弥陀仏を批判する大聖人が自分自身を久遠本仏に祭り上げることはありえない。

(同上、p. 160)

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