タツノコさんとの対話


 こんばんは、Libraさん
 今回、疑問というかまだ飲み込めていない部分だと思うので、Libraさんなりの御教授・アドバイスをして頂けたら幸いです。

 今回は疑問点・私が出会った中である人が言いそうな批判を提示します。

 それは日蓮大聖人についてです。
 これはよく言われる事ですが、日蓮大聖人は本覚思想(唯識派)ではないかと言う疑問です。
 確かに法華経は空・縁起を説いているのは知っていますし、天台大師の円融三諦の空も肯定出来ます。しかしながら、日蓮大聖人に中観派とは理解しがたい、何故なら、

一、日蓮大聖人はLibraさんの仰るとおり、一代聖教大意にて「空・縁起」を主題として理論的に解説している経・論を参照すればよいという立場かもしれませんが、明確な空・縁起思想が示されていない。(私が知らないだけだと思いますが・・・・)

二、日蓮大聖人は実体的な業報思想を説いている。

 仮に空思想・縁起思想を説いたとされたとしても、業報思想を同時に説かれている日蓮大聖人はこの矛盾を如何考えていたのか解りません。

 ここでお聞きしたいのが、Libraさんの見解です。
 日蓮大聖人のこの矛盾を如何思われるかお答えして頂きたいと思います。

 日蓮大聖人を中間派と思われるのでしたら、業報思想の説明をして頂きたいですし、実体派でしたら新たな見解を示して頂きたいです。

 今回の雑記を読ませて頂いて、日蓮大聖人の思想について腑に落ちなかったので、疑問を言わせて頂きました。

(会員制掲示板[550]、 Libra様へ、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/09/28(Fri) 21:50 )



 あ、書くのを忘れていました。今回の仏身論血脈について理解できました。本当に有難う御座います。

(会員制掲示板[551] 、 Libra様へ2、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/09/28(Fri) 21:53 )



 申し訳ありませんが、もう時間ですので途中ですが、中断致します。私が出会った中である人が言いそうな批判は時間があれば明日にしたいと思います。

 学校が主催する一週間旅行に行く為、(その間中国全土九日間お休み、建国記念日だと思います。)明日の夜からネット活動を休止します。

(会員制掲示板[553]、 Libra様へ、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/09/28(Fri) 22:31 )



これはよく言われる事ですが、日蓮大聖人は本覚思想(唯識派)ではないかと言う疑問です。
 唯識思想についてはあまり詳しく知りませんので何とも言えません。ですが、宗祖に本覚思想があるというのは動かないと思います。問題はその本覚思想の中身でしょう。
 この件についてはすでに、拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」において、以下のように論じておきました。
 また、袴谷氏は「所謂本覚思想と正統的な本覚思想との両者を峻別」しようとする試みに全く意義を認めない立場のようであるが、私は上に論じたような「仏性修現論」を「天台教学に基づく正統的な本覚思想」と位置付けることは十分可能であり有意義であると考える。日蓮は
我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり
というように、「始覚即本覚」を説くのであるが、「本より覚なり」の「覚(性)」とは「衆生本有の妙理」である「正因仏性(=“縁起・妙法”)」であり、「始めて覚る」とは、「修行(=信・行・学)によって了・縁因仏性を実際に発現させることによって始めて“縁起・妙法”を智慧として覚る=“成仏”」ということであろう。このような「仏性修現論」は「所謂本覚思想」とは明確に異なるが、「本より覚なり」と言う以上は、やはり「本覚思想」の一種であるとも言いうるのである。
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html
 上では「御義口伝」を引いていますので、その点については今となっては問題を感じますが、宗祖は真筆が現存する御書の中でも三因仏性を肯定的に論じておられますので、私の考えそのものに変化はありません。
法華経には本より三因仏性有り。
(「八宗違目抄」、全集、p. 155)
華厳経大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん
(「観心本尊抄」、全集、p. 246)

一、日蓮大聖人はLibraさんの仰るとおり、一代聖教大意にて「空・縁起」を主題として理論的に解説している経・論を参照すればよいという立場かもしれませんが、明確な空・縁起思想が示されていない。(私が知らないだけだと思いますが・・・・)

 宗祖の教理の根幹は「一念三千」です。ですから、問題は「一念三千」が「空・縁起思想」なのかどうなのかということになりますね(1)
 ごくおおざっぱに言うと、天台の「正因仏性」は「無自性(=空)」であり、宗祖においては「三因仏性」と「一念三千の仏種」はほぼ同一視されているので、宗祖の「一念三千」は「空・縁起思想」の具体的表現であると考えてよいのではないか、というのが私の考えです。
「如来蔵思想批判」の批判的検討、註8
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#8
無自性=正因仏性(藤井教公)
http://fallibilism.web.fc2.com/075.html
 ただし、「空・縁起思想」を理論的に把握するだけではなくて、不自惜身命の菩薩行としてその精神を体現する(=『法華経』になる)ということが、宗祖が言われるところの「事の一念三千」なのだろうと私は思います。

二、日蓮大聖人は実体的な業報思想を説いている。

 仮に空思想・縁起思想を説いたとされたとしても、業報思想を同時に説かれている日蓮大聖人はこの矛盾を如何考えていたのか解りません。

 宗祖にも矛盾や間違いはあると思います。また、同時代の道元にも業報思想はある ようですから、「時代の制約」という面もあろうかと思います。

 ここでお聞きしたいのが、Libraさんの見解です。
 日蓮大聖人のこの矛盾を如何思われるかお答えして頂きたいと思います。
 私は、宗祖が構築された教理を「完成品」だとは思っていません。仮に宗祖が「実体的な業報思想を説いている」としても、私はそのお立場には賛成しません。

 今回の雑記を読ませて頂いて、日蓮大聖人の思想について腑に落ちなかったので、疑問を言わせて頂きました。
 以上が果して答えになっているか、あまり自信がありませんが、私からの一応の返 答とさせて頂きます。疑問等がありましたらさらにご質問頂ければ幸いです。

(会員制掲示板[554]、 タツノコさんへ、
投稿者:Libra、 投稿日:2001/09/29(Sat) 01:01 )



 私は先に、

宗祖に本覚思想があるというのは動かないと思います。
([554] タツノコさんへ 投稿者:Libra 投稿日:2001/09/29(Sat) 01:01)
と書きましたが、この場合の「本覚思想」というのは、「仏性修現論」を含むような「広義の意味での本覚思想」のことだとお考え下さい。むしろ「仏性思想」と言った方がよいのかもしれません。
 もしも「本覚思想」という語を厳密に(狭い意味で)使うとすれば、それは
『大乗起信論』に説かれる思想(=如来蔵思想、基体説)”
ということになりますが、そのような思想は仏教ではないと私は思っています。当 然、そのようなものが宗祖にあるとも思っていません。
 「狭義の意味での本覚思想」と智(〔豈+頁〕)の思想との相違については以下を参照して頂ければ幸いです(この点については、宗祖は智(〔豈+頁〕)の思想を継承されていると思います)。
(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)
http://fallibilism.web.fc2.com/096.html
 花野氏は、以下のようにも言われています。ちなみに、花野氏は日蓮正宗の御僧 侶のようです。
 本覚思想とは、基本的には『大乗起信論』に説かれる思想である。従ってその起源は、不二相即論ではなく、如来蔵思想に求めるべきである。それは絶対一元論というより、高崎直道氏の言葉を借りて言えば、法身の一元論である。すなわち、理智不二の法身の絶対性(時間的には本有常住・空間的には遍一切処)を前提として、その法身が衆生に内在するを指して、『起信論』では「本覚」と言っているのである。袴谷憲昭氏はこの法身の一元論を「本覚思想」と称し、松本史朗氏は如来蔵思想、すなわち基体説(dha(_)tu-va(_)da)と呼んで批判している。しかし、ここにすでに「本覚思想」の定義について、田村氏と袴谷氏との間に相違が見られる。袴谷氏は、仏教の真髄は縁起・空にあるとして、その立場から本覚思想(内容的には基体説)を批判しているが、田村氏は、逆に、その(縁起の)空思想こそ天台本覚思想の起源であり、基本的相即論であると言っているのである。
 確かに、「天台の本覚思想」という限定をつければ、私はその起源を空の思想に求めてよいと思う。竜樹によって体系化された空の思想は、羅什を経て、智(〔豈+頁〕)によって諸法実相の思想として確立された。これが天台本覚思想の基盤となっていることは事実である。智(〔豈+頁〕)自身は『起信論』に説かれる真如縁起説を批判し、本有の理は認めても、本有の覚(本覚)は認めない。あくまで覚は行によって証得されるもの(始覚)であり、能覚の報身(智)は所覚の法身(理)を証得するために自行(修証の因果)を要する。智(〔豈+頁〕)の六即義を見ても、彼の仏教が「本覚」ではなく「始覚」であることは明らかである。田村氏の言う基本的相即論とは、維摩経の不二法門、竜樹の空思想、そして智(〔豈+頁〕)の諸法実相の思想の流れを指していると考えてよいであろう。
(花野充道「天台本覚思想の進展概観」、『印度学仏教学研究』第49巻第1号、2000年12月、pp. 36-37)
 仏性論については、以下の私のレスから始まった私と三吉氏との議論も参照されたい。

 私の主張への言及があったようなので、少し補足させて頂きます。

ところがだ、Libra氏は、仏性思想支持派であるぞ。仏性思想を明確に説く大乗の涅槃経は「我=アートマン」肯定だぞ(笑)。
 涅槃経は前半と後半とで仏性の扱い方が違います。
大乗『涅槃経』の後半で説かれる仏性思想(藤井教公)
http://fallibilism.web.fc2.com/047.html

Libra氏があなたを騙しているとは私は思わない。氏は仏性支持派であるが、批判仏教は一般的にいって、否定派である。仏性を鼓舞した大乗の涅槃経は「我」を是認しているからです。この矛盾をどう氏が考察されているのかを私は知らない
 仏性を全否定される松本先生(及び袴谷先生)のお考えに対する批判については、以下の拙稿の2章(「仏性修現論」は論理的に成立する)を参照して頂ければ幸いです。
「如来蔵思想批判」の批判的検討
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html
#「私は知らない」はないんじゃないですか(>_<) >三吉さん

([2199へのレス] 私への言及にちょっと補足、
投稿者:Libra
投稿日:2001/04/04(Wed) 18:24、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html#bussyou

(会員制掲示板[558]、少し補足しておきます > タツノコさんへ、
投稿者:Libra、 投稿日:2001/09/29(Sat) 10:18 )



 こんばんは、今から日蓮大聖人の思想の問題提示を再開致します。しかし、一つ言っておきたいのは私は中国に居るので、明確な資料を提示する事が出来ません。その点は御了承下さい。また、私は理解力は悪いと思うので解り易くして頂きたいです。という事でもう少しお付き合いお願い致します。

 さて、本題に入ります。

ですが、宗祖に本覚思想があるというのは動かないと思います。問題はその本覚思想の中身でしょう。
   はい、そうですね。私はLibraさんが主張なさっている「仏性修現論」を賛成の立場です。しかしながら、日蓮大聖人自体この『仏性修現論」を含む「広義な意味での本覚思想」』とは納得出来ない部分があるので、この辺の定義が今回の主題だと思います。

 まず、日蓮大聖人が三因仏性を主張されているのは理解出来ます。しかし、

宗祖の教理の根幹は「一念三千」です。ですから、問題は「一念三千」が「空・縁起思想」なのかどうなのかということになりますね。ごくおおざっぱに言うと、天台の「正因仏性」は「無自性(=空)」であり、宗祖においては「三因仏性」と「一念三千の仏種」はほぼ同一視されているので、宗祖の「一念三千」は「空・縁起思想」の具体的表現であると考えてよいのではないか、というのが私の考えです。
 私は「如来蔵思想批判」の批判的検討、註8での三因仏性の全てが“如来蔵思想、基体説を含まない”(所謂アートマン)と定義されるのは難しいかと思います。何故なら三因仏性の一つ
「妙法」→「縁起」→「正因仏性
の文において縁起が其体説でなければ問題は無いでしょう。
 しかし、日蓮大聖人は縁起の解釈はよく倶舎論を提示なさいます。
十二因縁図、問う流転の十二因縁とは何等ぞや答う一には無明倶舎に云く「宿惑の位は無明なり」文、無明とは昔愛欲の煩悩起りしを云うなり、男は父に瞋を成して母に愛を起す、女は母に瞋を成して父に愛を起すなり倶舎の第九に見えたり、二には行倶舎に云く「宿の諸業を行と名く」と文、昔の造業を行とは云うなり業に二有り一には牽引の業なり我等が正く生を受く可き業を云うなり、二には円満の業なり余の一切の造業なり所謂足を折り手を切る先業を云うなり是は円満の業なり、三には識倶舎に云く「識とは正く生を結する蘊なり」文、正く母の腹の中に入る時の五蘊なり、五蘊とは色受想行識なり亦五陰とも云うなり、四には名色倶舎に云く「六処の前は名色なり」文、五には六処倶舎に云く「眼等の根を生ずるより三和の前は六処なり」文、六処とは眼耳鼻舌身意の六根出来するを云うなり、六には触倶舎に云く「三受の因の異なるに於て未だ了知せざるを触と名く」文、火は熱しとも知らず水は寒しとも知らず刀は人を切る物とも知らざる時なり、七には受倶舎に云く「婬愛の前に在るは受なり」文、寒熱を知つて未だ婬欲を発さざる時なり、八には愛倶舎に云く「資具と婬とを貪るは愛なり」文、女人を愛して婬欲等を発すを云うなり、九には取倶舎に云く「諸の境界を得んが為に・く馳求するを取と名く」文、今世に有る時世間を営みて他人の物を貪り取る時を云うなり、十には有倶舎に云く「有は謂く正しく能く当有の果を牽く業を造る」文、未来又此くの如く生を受く可き業を造るを有とは云うなり、十一には生倶舎に云く「当の有を結するを生と名く」文、未来に正く生を受けて母の腹に入る時を云うなり、十二には老死倶舎に云く「当の受に至るまでは老死なり」文、生老死を受くるを老死憂悲苦悩とは云うなり。
(一念三千理事/正嘉二年  三十七歳御作 P407)
 この倶舎論の文を拝見すると明らかに実体論では無いでしょうか?したがって日蓮大聖人時代の三因仏性解釈は全て其体説を含まないとは言い難いと思います。

(会員制掲示板[574]、 Libra様へ(日蓮思想)、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/10/05(Fri) 22:27 )



 少し、言い忘れていましたので、補足致します。

『大乗起信論』に説かれる思想(=如来蔵思想、其体説)” ということになりますが、そのような思想は仏教ではないと私は思っています。
 私もそう思っています。Libraさんの仏性論の理解は前回の御返答で理解しております。ですから、今後は日蓮大聖人の思想についての議論という事でお願い致します。

 私は日蓮大聖人の思想は血脈相承を含む思想(『大乗起信論』に説かれる思想)は無かったと推測しております。
 つまり、如何いう事か?(上手く説明出来ないですが)要するに、日蓮大聖人の思想は大乗起信論からの影響ではなく、輪廻などを説く他の経典(倶舎論など)の経緯から其体説を取り込んだのではないかと考えているのです。
 従って、私は『大乗起信論』(血脈相承)を含まない其体説を輪廻だけと断定せず、縁起を含んで其体説があったのではないかと疑問に思っているのです。

 今回はこれで終わりです。また、御教授・アドバイスを頂ければ幸いです。

 タツノコ@反創価連盟中国支部

(会員制掲示板[575]、 Libra様へ(続・日蓮思想)、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/10/05(Fri) 22:54 )



 私が言う「仏性修現論」とは、具体的には「智(〔豈+頁〕)三因仏性論」のことです。

 タツノコさんは、今回のレスで、


まず、日蓮大聖人が三因仏性を主張されているのは理解出来ます。

(会員制掲示板[574]、 Libra様へ(日蓮思想)、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/10/05(Fri) 22:27 )


と言われていますので、やはり、宗祖には「仏性修現論(を含むような広義の 意味での本覚思想)」があるということになるでしょう。

 タツノコさんは、


三因仏性の一つ
「妙法」→「縁起」→「正因仏性
の文において縁起が其体説でなければ問題は無いでしょう。
しかし、日蓮大聖人は縁起の解釈はよく倶舎論を提示なさいます。

(同上)

と言われ、「正因仏性」と「宗祖の倶舎論引用」とを結びつけて論じておられますが、正直言いましてこのような議論には意味がないと思います。と言うのも、「正因仏性」を「縁起」という言葉で言い換えているのは(現代の仏教語理解に従っている)私であって、宗祖ではないからです。私が言うところの「縁起」とは、言うまでもなく、「空・無自性・無我」と同義であって、「流転の十二因縁(=業報輪廻説)」などのことではありません。
 もしも、「正因仏性」を宗祖の言葉で言い換えるとすれば、それは「(流転の)十二因縁」などではなくて、「(理の)一念三千(の仏種)」となりましょう。
「如来蔵思想批判」の批判的検討、註8
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#8
 智(〔豈+頁〕)は基体説を明確に否定していますから、その智(〔豈+頁〕)の説いた「一念三千」が基体説と両立することはないでしょう(2)。智(〔豈+頁〕)が展開した議論を熟知されていたであろう宗祖がそのことを理解されていないはずがありません。従って、「三因仏性」を「一念三千の仏種」と理解される宗祖の「三因仏性解釈」はやはり「基体説」とは両立しないと思います。

(〔豈+頁〕)の思想が吉蔵の「有の思想」と相対立するものであったことは、弟子の灌頂の『観心論疏』巻二の次の言葉からも明らかであろう。
もし定んで、一念の心に万法を具含するをこれ如来蔵と謂ふ者は、即ち迦毘羅外道の因中にまづ果ありと計するに同ず
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

 本覚思想とは、基本的には『大乗起信論』に説かれる思想である。智(〔豈+頁〕)はこの本覚思想をどのように見ていたであろうか。智(〔豈+頁〕)には『起信論』の引用例が一箇所もないが、地論師の真識縁起説を批判していることから、地論教学の基盤となった『起信論』の思想は当然知っていたであろう。智(〔豈+頁〕)は地論教学を批判して次のように述べる。「或は言わく、阿黎耶は是れ真識にして一切法を出だすと。……若し定んで性実に執せば、冥初は覚を生じ、覚より我心を生ずる過に堕せん」(『法華玄義』六九九c)。智(〔豈+頁〕)は地論教学を真識縁起説として批判しているが、それは『起信論』に説かれる真如縁起説に他ならない。『起信論』に説かれる真如縁起説は、真如(真識・真心)に無明(妄識・妄心)が熏習して、生滅の万法を生ずというものであり、智(〔豈+頁〕)はこのような真如縁起説を評して、性(真如・真識)を実体視して執着するのは、根本原質たる冥初より覚を生じ、覚より我心を生ずとする外道の誤ちに堕す、と批判しているのである。

(花野充道「智(〔豈+頁〕)と本覚思想」、『印度学仏教学研究』第48巻第1号、1999年12月、p. 153)


 また、そもそも、智(〔豈+頁〕)の言う「正因仏性」とは「無自性」のことであり、「無自性=空=無我」ですから、これと「流転の十二因縁(=業報輪廻説)」とは論理的には両立しえません。
無自性=正因仏性(藤井教公)
http://fallibilism.web.fc2.com/075.html
輪廻思想と無我思想の調和は不可能(和辻哲郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/070.html
 「業報輪廻説」が成立するためには、生じては滅してゆく無常の存在であるところの「身心」を、永遠に影で支え続けるような「実体」が必要になります。これは、拙文「輪廻説は仏教ではない」での言葉を使えば、永遠不滅の「心の発生源」となりましょう。そのような「永遠不滅の実体」は、やはり、「基体」と言ってもいいように思います。

従って、もし上の図式で心を問題にするというのであれば、本来は「心の発生源」ともいうべき「放送局」こそがここでは問題にされるべきなのである。しかし、上の議論では、たとえ「死によって脳細胞が破壊され」ても、壊れるのは「受信機」だけであって、「放送局」は“全く無傷”だということが何の根拠もなく前提されている。これは「脳から切り離せる心」が存在することを前提としていることに他ならない。この場合は明らかに「放送局」が「脳から切り離せる心」に相当するのだ。

「輪廻説は仏教ではない」http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html


 さて、前にも申し上げましたように、宗祖の教理の根幹は「一念三千」(私の表現で言えば「縁起・空・無自性・無我」)です。「流転の十二因縁」(私の表現で言えば「業報輪廻説」)ではありません。
 確かに、タツノコさんがご指摘されたように、「業報輪廻説」を肯定しているともとれる発言が宗祖にはあるかもしれません。しかしそれは、むしろ、「当時の日本仏教全体にゆきわたっていた通念」と言うべきであって、「宗祖独自の教理の根幹」ではないでしょう。

 宗祖の中に、「縁起説(一念三千)」と「業報輪廻説(流転の十二因縁)」が併存したとするならば、それは、「宗祖にも矛盾があった」ということだろうと私は考えます。


宗祖にも矛盾や間違いはあると思います。

(会員制掲示板[554]、 タツノコさんへ、
投稿者:Libra、 投稿日:2001/09/29(Sat) 01:01 )



仮に宗祖が「実体的な業報思想を説いている」としても、私はそのお立場には賛成しません。
(同上)

(会員制掲示板[581]、 タツノコさんへ(日蓮思想)、
投稿者:Libra、 投稿日:2001/10/06(Sat) 05:33 )



 早速御返答を読ませて頂きました。
 やはり、勉強不足・運動不足ですね。
 勉強不足でLibraさんに迷惑かけていますね。
 本当に申し訳無いです。

 (少し本題)
 今、手元に資料が無いから難しいですね。
 しかしながら、今回の御返答で何となく解ったのは、天台大師の(其体説を否定した)思想が宗祖に「(理の)一念三千(の仏種)」に受け継がれているので其体説と両立しないという事ですね。

智ギが展開した議論を熟知されていたであろう宗祖がそのことを理解されていないはずがありません。従って、「三因仏性」を「一念三千の仏種」と理解される宗祖の「三因仏性解釈」はやはり「基体説」とは両立しないと思います。
 了解です。私の誤解で正因仏性を「縁起」という言葉で言い換えているのは宗祖だと思っておりました。申し訳無いです。しかし、もう少し問答お願い致します。

 宗祖自身は天台大師思想を深く学んでおられたので三因仏性や無我=無自性=空を思想の根幹としてされていたと思いますが、縁起思想においては現在の仏教理解とは違って其体説を取り入れてたのでは無いでしょうか?
 つまり、今の我々の理念は縁起・空だと思いますが、「当時の日本仏教全体にゆきわたっていた通念」があって、空(非其体説)≠縁起(其体説)が生じていたのではないでしょうか?(若し、そうだとすれば論理的にスッキリすると思いますが・・・)だから、先ほど私は意味の無い議論を展開したのかもしれません。

 また、御返答お願い致します。

(会員制掲示板[582]、 Libra様へ(日蓮思想)、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/10/06(Sat) 17:36 )



宗祖自身は天台大師思想を深く学んでおられたので三因仏性や無我=無自性=空を思想の根幹としてされていたと思いますが、縁起思想においては現在の仏教理解とは違って其体説を取り入れてたのでは無いでしょうか?
 「“本来の”十二因縁」(十二支縁起)というのは、「基体説」とは真っ向から対立する思想なのだろうと思います。基体説批判を展開されている当の松本先生ご自身が次のように言われています。

私にとって縁起とは、第一に十二支縁起であり、私は『律蔵』「大品」に従って、釈尊は十二支縁起をさとったと信じる。つまり私にとって仏教とは縁起説に他ならない。

(松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p.22)


 松本先生の十二支縁起解釈(「時間的解釈」)については、例えば、以下の資料 を参照されて下さい。
玉城康四郎説批判─根源℃v想は仏教にあらず(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/071.html
 このような「“本来の”十二因縁」(反基体説)に対しまして、「一念三千理事」で宗祖が言われている「流転の十二因縁」というのは、タツノコさんが引用された部分のすぐ後に、

 問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、答う無明と行とは過去の二因なり識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり愛と取と有とは現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、私の略頌に云く過去の二因[無明行]現在の五果[識名色六入触受]現在の三因[愛取有]未来の両果[生老死]と

(「一念三千理事」、全集、p. 407)


とあることからも分かるように、「三世両重の因果」と言われるものです。これは、現代風には「胎生学的解釈」などとも言われます。

私は、いわゆる時間的解釈というものを、博士〔引用者註:和辻哲郎博士のこと〕ほどの哲学者がアビダルマの胎生学的解釈に限定しえたことに驚いている(14)

(松本前掲書、p.28)



(14) この点で、私は、三枝充悳博士の次の御意見に同意する。「ここで注意すべきことは、まず第一に、(a)の時間的解釈は直ちに、とくにいわゆるアビダルマ仏教において説かれ流行した「胎生学的解釈」に結びつけられがちであるけれども、決してそればかりが時間的解釈なのではない、ということである。いわゆる胎生学的解釈は、縁起の時間的解釈の発展の(あるいは変形の)ひとつの所産にすぎないのであって、時間的解釈をそっくりそのまま胎生学的解釈とすること(あるいはその逆)は、きわめて愚かなことである、というべきであろう。」(『初期仏教の思想』四七四頁)〔傍点筆者〕。なお、三枝博士の「すぐ前に述べたように、論理的解釈は、むしろ時間的解釈のうちの同時の関係ぐらいに考えておいたほうが、無難といえるのではなかろうか。」(同、四七五頁)というご意見も注目に値しよう。

   (同上、註14、p.81)

これは袴谷先生といつも話し合っていることだが、アビダルマの言う時間が、時間の空間化の極であること位はベルグソンを一冊読めば誰にだってわかる筈だ。胎生論的解釈とはおよそ考えられる限り滅茶滅茶にいためつけられ空間化されてしまった時間だ。しかしそこにはまだ時間の名残りがある。私にとっては、三世両重の因果の方が、全く時間を欠いた空間一点ばりの華厳の事々無碍よりは望ましい。

(同上、p.28)


 このような「三世両重の因縁」は「有部の十二支縁起“解釈”」(基体説)なのであって、「本来の十二因縁」(反基体説)からは逸脱したものであると言わざるをえません。
つまり、今の我々の理念は縁起・空だと思いますが、「当時の日本仏教全体にゆきわたっていた通念」があって、空(非其体説)≠縁起(其体説)が生じていたのではないでしょうか?(若し、そうだとすれば論理的にスッキリすると思いますが・・・)だから、先ほど私は意味の無い議論を展開したのかもしれません。
 「当時の日本仏教全体にゆきわたっていた通念」として、『十二因縁』というものが、「有部の十二支縁起“解釈”」に従って理解されていた(すなわち誤解されていた)ということでしょう。
 つまり、当時は以下のような状況にあったのだろうと思います。

 『十二因縁』=「三世両重の因縁」=「有部の十二因縁“解釈”」→基体説

        ≠「空・無自性」=「“本来の”縁起思想」→反基体説

 ただし、当時は「≠」の部分は自覚されていなかったのだろうと思います。

(会員制掲示板[584]、 タツノコさんへ(日蓮思想)、
投稿者:Libra、 投稿日:2001/10/06(Sat) 23:15 )



 こんにちは、今回の御返答を読ませて頂て、今回の日蓮思想について理解する事が出来ました。本当に感謝致します。
 後に解らない事や疑問が生じましたら、その時もまた宜しくお願い致します。

 余談
 今回の議論でLibraさんは花野氏の文を引用されていましたが、それを読んで思った事は、この様な方が何故『血脈相承』を批判なさらないでしょうかね。あれは如何見ても『大乗起信論』から来てる本覚思想其のものだと言うのに・・・
 創価学会と同じく松戸行雄氏のように黙殺されているのでしょうかねぇ。

 最後に  今回、私の為にわざわざお付き合いして頂き有難う御座いました。

 タツノコ@反創価連盟中国支部

(会員制掲示板[585]、 Libra様へ(日蓮思想)、
投稿者:タツノコ@反創価連盟中国支部、 投稿日:2001/10/08(Mon) 15:55 )


(1) 《一念三千》と《縁起・空》の関係については、新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、263-269ページを参照。

(2) 安藤俊雄『天台学 根本思想とその展開』、平楽寺書店、1968年、315-316ページ及び351-352ページを参照。

2001.10.08
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〔02.11.18 付記〕
 本日、註1、2を補った。


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