ポパーの倫理思想(小河原誠)


 ポパーの倫理思想は、ソクラテスとカントからの影響が顕著である。前者からは無知の知による謙虚さを学んでおり、後者からは形式的普遍性を求める倫理ではなく、()()()()()()()を学んでいる。しかし、ポパーはこれらをただならべて自己の倫理としたのではない。そこには見事な統合がある。というのも、彼の倫理は彼自身の認識論の含意を追求するところから生まれてきたからである。
 すでになんども指摘しておいたように、彼の認識論は、超越論的立場にたつ()()()()反証主義であり、最初から科学者のしたがうべき倫理の制定という側面をもっていた。倫理と認識論は最初から一体であった。ポパーにおける倫理と認識論との統合は知識の可謬性、われわれ自身の誤りやすさについての洞察から生まれている。もう少しくだいて述べてみよう。

(小河原誠『ポパー─批判的合理主義』(現代思想の冒険者たち 第14巻)、講談社、1997年、p. 335)


無知の知
 ポパーの認識論は、彼自身がおこなっているように、無知の自覚の論理として捉えることができる。なぜなら、仮説が反証されたり批判されるということは、われわれ自身の無知が明らかになっていく過程だからである。ポパーの認識論は、人間の提出するあらゆる理論の反証可能性、あるいは批判可能性を主張することで、われわれの知識は永遠に可謬的であると主張する。ことばを換えれば、これは、知識を産みだす人間の可謬性、誤りやすさを意味している。しかし、この事態はわれわれに絶望をもたらすものではなく、逆に希望をもたらす。それはたとえば、彼がヴォルテールの寛容論をひいて、認識論と倫理との関係を指摘している箇所に明らかである。

 寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては始終誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これが自然法の基礎である。
 ポパーは、己の愚かさを相互に赦し合うべきであるというヴォルテールの主張を受け入れる。われわれは、互いの誤り、互いの無知を容認し合うべきである。ポパーは、知的謙虚や知的正直さへ訴えて寛容を基礎づけたヴォルテールの立場を継承する。
 われわれの無知のうえに倫理を築こうとするポパーの考えは、当然のことながら、ソクラテスの無知の知と響きあう。それは、いうまでもなく、『ソクラテスの弁明』でいきいきと描きだされたように、もっとも賢明なる者とはみずからの無知を知る者であるという意味であった。無知の知は、われわれに謙虚になるべきことを教えている。つまり、われわれは学べば学ぶほどいかにわずかのことしか知っていないかを自覚せざるをえなくなるからである。知識の増大は逆説的なことに前途にはてしない無知が横たわっていることを教えてくれる。真実の知的貢献をした者こそ、かぎりない無知のまえで己の愚かさを思い知らされるのであろう。そしてその無知を尺度にすれば第一級の科学者も凡人もともに等しく無知である。無知の前での平等が成立する。なるほど、この議論は人間はだれしも百メートルを五秒で走ることはできないという意味でひとしく平等であるという議論に似てはいる。しかし、どの程度知っているかという知の側からものごとを見るのではなく、無知の側からものごとを見るという観点の転換は少なくともわれわれに教えるところが多いと筆者は信じる。なぜなら、われわれはわれわれの知っているささいなことで人を評価しランクをつけたがるからである。無知の知は、その空虚なること、われわれに謙虚になるべきこと、そして人間の根源的平等を教えている。
 ところで、無知の知とはわれわれの側に真理を追究する意志があるからこそ意味をもつ教えである。したがってポパーの倫理は、真理の追究という営みのまわりに展開される倫理となる。真理を追究するためには、追求する者の倫理が必要である。そしてそれは方法論的反証主義として結実するものであった。ここに彼の倫理の根源がある。彼はそれを三つの原則にまとめている。
 

一、可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。 

二、合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。

三、真理への接近の原則。ことがらに即した討論をつうじて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。

 ポパーの倫理は、これらの原則から引きだされる。たとえば、可謬性を自覚したうえで討論をおこなおうと思えば()()が必要である。真理を求めて討論しようとするときには、相手を潜在的に()()()()として承認しなければならないであろう。そうではなく、自らの方こそ知者であると思っていれば、討論ではなく、教化の試みしか生じまい。真理の追求はわれわれに()()()の倫理を教えてくれる。

(同上、pp. 335-338)


カント倫理学の継承
 ポパーがカントの倫理を継承したという点についてもわれわれは、やはりポパーの認識論の観点から理解していくことができる。この点を説明するためには、カントのいわゆるコペルニクス的転回に触れるのが早道であろう。
 カント認識論の根本的な教えは、「知性は、その法則を自然から導きだすのではなく、その法則を自然に課す」ということであった。われわれは、自然がその秘密をわれわれに明かしてくれるまで待つのではなく、自然に問いを投げかけ、主体的に感覚的所与を秩序づける。ポパーの言葉で語れば、人間は自然から帰納法によって法則を導出するのではなく、仮説を自然に投げかけテストする。われわれは受動的な観察者ではなく、能動的に知性の法則を自然(宇宙)に課す者である。コペルニクスは、天動説をひっくり返した。それに対して、カントのコペルニクス的転回は、認識論的考察をつうじて人間をふたたび宇宙の中心にすえたとも言える。人間は自然から知識を贈与してもらうのではなく、人間の側こそが知識を自然に課すのである。この意味で人間こそが知識産出の中心にいる。
 ポパーは、カントのコペルニクス的転回を継承したとき、同時にカント倫理も継承した。なぜなら、カントの自律の倫理は、道徳の立法者がわれわれ自身であることを主張しているからである。知識の産出におけると同じように、倫理の領域においてもわれわれ自身こそが中心である。倫理の立法者であるとは、われわれ自身が自分の人生に意味をあたえたり、目標を設定したりするということである。これは歴史についても言える。すなわち、われわれこそが歴史の過程に対して倫理的目標を設定し、その追求を課題とすることによって、歴史を意味あるものとする。したがって、さまざまな意味、目標が成立し、われわれの社会は必然的に自由で多元的なものとならざるをえないであろう。
 これに対して外部からさまざまなかたちで意味や目標がわれわれに課せられてくることがある。ときには、歴史には客観的な意味が内在しているのであるからそれを実現するように行動せよといった命令とか、あるいは神の名による掟が課せられてくるかもしれない。しかしながらわれわれは、権威による命令に直面したとき、それが道徳的であるか否かを、したがって受け容れるか否かを自分自身の責任において判断する。ポパーはこれを倫理の自律とよぶ。物理的あるいはその他の強制が存在しないかぎり、われわれは自分自身の道徳の立法者であり、責任をもつ自由な存在者である。これはまさに啓蒙主義の理念である。
 自らの知力をもちいる勇気なくしては、われわれはわれわれ自身の未成年状態から抜けだすことはできない。「汝自身の知力を使用する勇気をもて」。知による自己解放の理念こそ啓蒙主義のもっとも大切な理念であった。われわれは、事実の領域においても規範の領域においてもみずから法を立てそれを修正しうるからこそ、自由で責任ある人間たりうる。ポパーにしたがって言えば、われわれは法を悪の排除を通じて改善し、知を反証によって改善していく。ここでは、ソクラテスとカントを結びつけるポパーの言葉を引用しても許されるであろう。

 ソクラテスの弁明と死は、自由な人間という理念をひとつの生きた現実としました。ソクラテスは、みずからの精神が屈服しなかったゆえに、自由でした。彼は、だれも手出しできないことを知っていたゆえに、自由でした。この自由な人間というソクラテスの理念は、われわれの西洋の遺産ですが、カントは、倫理の領域と同じく知識の領域においても、この理念にひとつの新たな意味をあたえたのです。そしてさらに彼は、この理念に、自由人の社会──すべての人々の社会──という理念をつけ加えました。なぜなら、カントが示したのは、あらゆる人間は自由に生まれついているから()()()()、重荷──自ら決定する自由に対して責任をもつという重荷──を負って生まれてくるがゆえに自由である、ということだったからです。
(同上、pp. 340-342)


正当化主義 vs. 可謬主義
 倫理的領域でのポパーの思考はじつに柔軟かつ具体的である。それがもっともよく現れているのは、彼がみずからの認識論を基礎にして、古い職業倫理との対比のもとで新しい職業倫理を提案している箇所である。そこで彼は、知的職業に就いている者、たとえば、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員などが踏まえるべき倫理を提案している。しかし、ポパーが「知的職業に就いている者」としてターゲットにしているのは、筆者は皮肉を感じざるをえないのだが、じつは政治家なのである。ポパーは知的職業を念頭において倫理を考えているとはいえ、今日、どのような職業をとっても知的訓練なしに済ませうる職業はないこと、また科学技術の急速な進歩を考えると、知識とのかかわりなしにやっていける職業はますます少なくなっていること、これらの点を考慮に入れるならば、彼の提案している新しい職業倫理はわれわれすべての真剣な考慮に値するであろう。
 彼の提案を理解するためには、まず「古い職業倫理」ということで正当化主義的思考に染まった伝統的認識論に依拠する倫理が考えられていることを指摘しておかねばならない。

(同上、pp. 342-343)


権威ある知識、正当化された知識、そして自己確信(慢心)にもとづいて行動することが古い職業倫理の基本原則である。
 これに対してポパーの新しい職業倫理の基礎にある認識論は、彼自身の可謬主義的な認識論である。ここにおいては、人間の可謬性が強調され、その上に倫理が組み立てられる。
 両者の違いをはっきりさせるために、まずポパーが古い職業倫理の特徴とみなしているいくつかの原則を箇条書き風に整理してみよう。

一、行動するにあたっては、真理と確実性を所有し、可能ならばみずからの立脚点を真なるものとして証明すべきである。

一、知識をもつ者は、権威たれ、その領域におけるいっさいを知れ、と要請されている。つまり、彼は賢者であるとともに権威である知者でなければならない。

 これに対してポパーは、「あなたがひとたび権威として承認されたなら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは、もちろん、同僚の権威を守らねばならない」とコメントをつけている。

一、誤りは絶対に許されない。

 ここでもポパーのコメントを引いておこう。「誤りは誤りとして承認されない。この古い職業倫理は非寛容である……そして、それはまた、いつでも知的に不正直であった。それは、……権威を擁護するために、あやまちのもみ消しを招く」。

(同上、pp. 343-344)


ポパーの基本思想
 ポパーは、誤ることなき知識をもつことができるし、もっているという古い職業倫理に対して、十二の原則からなる新しい職業倫理を提案する。その大部分は、ポパーの方法論的反証主義の一般化とみることができる。したがってそれらの原則を掲げておくことは、彼の基本思想を要約するものであり、本書の最後に相応しいであろう。さらにそれらが、提案として読者に真剣に検討していただけるならば、遅れてやってきた啓蒙主義者ポパーの本懐にかなうことでもないだろうか。(以下は、『よりよき世界を求めて』三一九ページ以下からの引用。)

一、われわれの客観的な推測知は、いつでも()()()人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえ、()()()()()()()()()()()()。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。

二、()()()()()()()()()()()()()、あるいはそれ自体として回避可能ないっさいの誤りを避けることは、()()()()()() 。誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。

三、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そしてなんぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。直感はわれわれを誤った方向に導くこともある。

四、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。

五、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは、()()()()()()である。なぜなら、古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。

六、新しい原則は、学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは()()()()()()()()()()()()()()ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。

七、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。

八、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。

九、われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、()()()()()()()()受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思いだすべきである。またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思いだすべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、くりかえし誤りを犯すことは人間には避けがたい。

十、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた、寛容につうじる。

十一、われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし()()()()()()()()()()()ことを学ばねばならない。これは自己批判と同じくらい良いものである。

十二、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは、客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。〔引用者註 2003.09.15〕

(同上、pp. 344-347)


〔引用者註 2003.09.15〕

 第十二番目の原則の中の「特定」および「非個人的」という表現については以下を参照されて下さい。

小河原先生からのご回答(ポパーの真理論などについて)
http://fallibilism.web.fc2.com/kogawara01.html


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