ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)


 江戸時代中期、京都石清水正法寺(浄土宗)の住職に大我という人がいました。彼は天下泰平、厳しく言うと徳川幕府体制の擁護(ようご)を主張した人で、儒教も神道も仏教も、方法は違うが帰するところは同じであり、神・仏・儒が天下泰平のために協力しなければならないと、主張しました。こういうもっともらしい話がくせ者なのです。
 彼はこのような言葉を残しています。

一たび仏法を聞きて因果を信ずる者は、深淵(しんえん)に臨みて薄氷(はくひょう)を踏むがごとく、戦戦兢兢(きょうきょう)(=戦々恐々)として敢えて心を(ほしいまま)にせず。……万民(悪の)来報を恐れて、君を戴くこと日月の如くす(「三彜訓(さんいくん)」)
 人が、一たび仏法を聞くと信じるようになるのは、因果である。つまり仏法がまず教えこむべき、信じ込ませるべきは因果であるというのです。そして、因果を信じた人は、いつもびくびくと、悪の報いを深い淵に張った薄氷を踏むように恐れ、その結果、君主を日月のように尊敬するようになるというのです。これでは、結局、仏教がもたらすのは「恐怖の呪縛(じゅばく)と権力への追従(ついじゅう)」であることになってしまいます。苦悩からの解放、さらには今まで何度も述べた、権力の呪縛からの解放という、仏教のメインテーマはどこにいってしまったのでしょう。悪しき業報因果論にはこういう陥穽(かんせい)が潜むのです
 実践的仏教者、堀沢祖門氏は次のように述べています。長文になりますが、非常に大切な指摘と思われますので引用します。
現代人であるわれわれは、経典そのものを資料的に徹底的に批判してかからなければならない。何故ならば、ブッダの思想でも何でもない、もともとバラモンや異教徒の思想であったものをうっかり『仏説』と受けとってしまうことは、それは結局、正しいブッダの宗教(仏教)でも何でもなく、それらは巧みに仏教的仮面(かめん)をかむっているが、じつは外道(げどう)や邪道の教えにほかならぬ、という恐るべき結果になってしまうからである。
 仏教思想における、そうした一つの典型(てんけい)が『(ごう)輪廻(りんね)』の思想である。長年月の間に仏教思想のなかに深く浸透(しんとう)したバラモン教の業・輪廻思想は、今や仏教自身のガン的体質となりきって仏教自体の生命を内部から(むしば)んでいるかのようである
(『インド仏教の再生』)

(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、pp. 196-198、傍線Libra〔以下同じ〕)


日本では、世界でもまれに見る非人間的な政策によって、ハンセン病の人たちが強制的に隔離(かくり)されてきました。ハンセン病は人から人に伝染する力が非常に弱いにもかかわらずです。その隔離施設にはある巨大宗派の寺が、しばしば見うけられます。その人々を救いにいったのではなく、説教師として教誨師(きょうかいし)として、「あなた達がこういう病になったのはあなた達自身の過去の悪業の因縁。政府を恨んではいけない」などと説いていたという、とてつもない非道の痕跡(こんせき)なのです。業報因果論には、こういう歴史があるのです。業報因果論は、人間を過去に呪縛(じゅばく)させて自由を奪うのです。もう一度繰り返します。仏教は安易な「因果論」を説いたのではないのです。「因果からの解放」を説いたのです。その仏教が自らが否定した「業報因果論」を説き、人を呪縛する体制イデオロギーに堕落したのです。

(同上、p. 200)


 確かに、自分の問題として、今の境遇を宿業(しゅくごう)と感じる場合もあるでしょう。深い自己洞察、自己反省は、宗教的回心の場面ではあり得えます。特に、物心ついてから自らが意識的に行った「悪」は真剣に反省してしかるべきです。しかし、前世などを持ち出し、他者を因果の牢獄に封じ込める(やから)は非難されるべきでしょう

(同上、p. 201)


 貧しくとも自分の良心によって生きている人がいるとします。「固定的業報因果論」では、「過去に悪いことをやったので、貧しいのだ」となります。しかし、ブッダの「縁起的行為論」においては、「悪人というのは名称に過ぎず、悪人という固定的な存在はない。今、良心にしたがって生きているから、この人は、今、善い人なのだ」となるでしょう。まさしく「縁起」の考えこそ、固定的な業論を脱構築するための精神の装置なのです。

(同上、p. 210)


 縁起とは、サンスクリットでプラティーティヤ・サムットパーダ=Aパーリ語でパティッチャ・サムッパーダ=A「相互依存性」と訳されます。縁起説とは、ちょうど、二本の(わら)(ささ)え合って立っているように、人間の考える概念には、それに対応する実体はなく、他の概念と支え合って存在している(=縁起)だけだとする考えです。
 例えば「外国人」という実体はありません。私たちがある人を見て「外国人」と判断するとき、そこには一人の人間がいるだけです。シモーヌとかピーターとかチャンドラとか、レイ(周)とかいう個人がいるだけです。
 それを肌の色が違ったり、使っている言葉が違っていたりする故に、かけがえのない「一人」を忘れて、「外国人」というカテゴリーに入れてしまうのです。
 因果論でいうと、人がどのような人であるかは、決して生まれなどによって決まっている固定的なものではなく、前の章で述べたように、どのような行為をするかに依存して、その瞬間その瞬間に決まってくるものなのです。
 例えば、「悪人」という実体はありません。いままで、悪いことをしていなかった人でも、さまざまな人生の状況で悪をなしてしまうことがあります。ある瞬間、悪を行うならば、その瞬間その人は悪人なのです。しかし、それを心から反省して善を行っているなら、その時は善人なのです。

(同上、pp. 217-218)


 そして、ブッダは次のような実例を挙げるのです。

 「私は一つの例を示したいと思います。それによって、私のいうことを理解して欲しいのです。
 チャンダーラ(賤民として差別されていた人々)の子の犬殺しのマータンガという人がいた。しかし、マータンガの名は高く、世に広く知られていた。
 マータンガは得がたき最上の名声を得た。多くのクシャトリヤやバラモンが彼のところに(おもむ)いた。そして、彼の言うことに従った。
 彼は神々の道、清浄な大道を登った。欲望を離れて梵天の世界に行った。賤しき生まれは何の(さまた)げにもならなかった。
 逆に、ヴェーダを読誦(どくじゅ)するバラモン階級の家に生まれ、ヴェーダの文々句々にいくら慣れ親しんでも、悪業を行っている(やから)はいくらでもいます
 そしてブッダは繰り返します。
 「人は生まれによって、賎しい人となるのではない。生まれによってバラモンになるのではない。行いによって賤しい人にもなり、行いによってバラモンとなるのである
 犬殺しのマータンガは当時、最下層の賤しき人と差別されていた人です。ブッダの意図は明確です。彼は過去世の宿業(しゅくごう)呪縛(じゅばく)された生まれ≠拒絶(きょぜつ)します。我々の人生が過去世の宿業(しゅくごう)(しば)られているのではなく、そのような考えこそ、現在の差別意識によって呪縛されているのです。そして、ブッダはそのような呪縛された固定的業報因果論を批判し、現実の人間としての偉大な行い、素晴らしき行為そのものが現在の偉大さを示していると考えるのです。因果の連鎖から過去への差別のまなざしを除き、現在から未来への希望の因果のみを説くのが、ブッダのアプローチでした。また、さらに善業を行うことは何かの因となるのではなく、善業そのものが人生の目的そのもの、善果でもあると考えることによって、ブッダは善悪不可知論のニヒリズムを超えることが出来たのです。

(同上、pp. 212-213)

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