最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)


 以上のような次第で、原始経典に帰ってみたところが、仏説を探しだすことは至難であり、不可能なことがわかり、大乗非仏説というなら、原始仏教もまた非仏説となりかねず、ひいては仏教全体がシャカの教えではないという一種の絶望感におちいるにもいたった。しかし近年は、仏説の意味を解釈しなおすことによって、あらためて仏教にたいする信念を再確認しようとする傾向が見えだした。仏説をシャカの直説と解する必要はなく、シャカの真意と考えればよいということである。つまり、ことばや表現は時代や社会の推移にともなって変化するものであり、要はその器にもられた内容、すなわち思想を問題にすればよいということである。
 ここから、仏教にたいする研究ないし考えかたが二とおりおこる。一つは、種々の仏教あるいは経典の底に共通して流れるものを掘りだすことである。それがいわゆる仏教の根本精神であり、仏教の仏教たるゆえんのものであり、シャカの教えであり、経典や宗派の異なりは、時代・社会・機根などによる表現のちがいでしかないということである。いま一つは、たとえば大乗仏教が原始仏教や部派仏教より後の成立であっても、それがシャカの真意をほんとうに伝えたものであるなら、それこそ仏説であるとする考えかたである。これは思想の深さでもって勝負しようとするものといえる。
 前者の考えかたに立った者として、すでに真宗・大谷派の村上専清(せんしょう)(一八五一 - 一九二九)がいる。かれは『仏教統一論』(一九○一 - ○五)を著わし、大乗非仏説を唱えつつ、根本仏教によって諸仏教を統一しようとはかり、これが災して一時、僧籍を取りあげられた。しかし、かれの大乗非仏説論は大乗仏教を捨てることではなく、大乗仏教の諸経・諸宗の底に共通に流れている根本的理念を探りだし、そこに仏教の根本的真髄を見いだし、それでもって仏教を統一しようとしたものである。
 このような前者の考えかたは、たいへん合理的なものに思える。ただし、諸経・諸宗の底に共通したものが流れており、ゆきつくところは同じだということはあくまで前提であって、検討した結果そうなったというのではない。そこにこの考えかたの限界があり、事実また、経典や宗派の間に根本的に相容れないものがおこり、対立をおこしている例もある。とすれば、後者の考えかたを結局はとらざるをえないことになる。すなわち、これこそ深い思想であり、シャカの真意であるとして討論し、ときに対決しあうしかないということである。
 ただし後者の場合問題になるのは、なにを基準として深い思想と判断するかである。そこには、多分に自己の主観が入りこむ恐れがある。また深い思想であっても、それがそのままシャカの真意ということにはならない。それをシャカの真意と見なすにしても、そう判断する客観的材料にとぼしいのである。
 こうなると、話はまた逆もどりし、絶望のふちにふたたび身を沈めるか、伝統的な宗学の殻の中に閉じこもり、目をつぶるしかないと考えられるかもしれない。しかしながら、宗教も結局は思想の結晶であり、思想は、客観的視野に立ちながらも、最後は自分の信念によって選びとるしかないものである。仏教にしても仏教の経典にしても、そうである。ただ、それが主観的・恣意的なものに終わらないよう、できるだけ客観的視野に立ち、客観的な場に照らして見なければならない。これが、ひいてはセクトをこえて話しあい、語りあい、ときに交わりあうことにもなり、また現代的立場からの仏教の再評価ともなるのである。
 ともあれ、諸仏教・諸経典は、すべて発展的産物であることが自明の理となった以上、それをありのままに受けいれつつ、発展のあとを客観的にたどり、その上で、それぞれの思想の特色を浮きぼりにし、選びとることが残された唯一の道である。またその結果、共通したものを見いだす場合も出てこよう。

(田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、pp. 19-20)

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