初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった

 最近は資料集の方に力を入れていますので、雑記の方がおろそかになっています。
 ということで、久しぶりの雑記として以下の拙文をアップしておきます(これはある方へのメールの中で書いたものです)。

 まず第一に、釈尊を捨てるというのならば、五字を捨てるということになる。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
(「観心本尊抄」、全集、p. 246)
 第二に、宗祖ご自身が晩年(建治元年、宗祖五十四歳、身延入山の翌年)に「釈子」となのられている。
釈子 日蓮 述ぶ
(「撰時抄」、全集、p. 256)
しゃくし【釈子】(『仏教哲学大辞典』)
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 そして第三に、「上行再誕論」は「五人所破抄」で明確に述べられており、日寛師ですら「本化の菩薩の再誕」と言われている。いうまでもなく、「上行再誕論」と「日蓮本仏論」は両立しない〔05.08.25 補足〕
日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内には迦葉阿難等の聖者先ず小を弘めて大を略す竜樹天親等の論師は次に小を破りて大を立つ、像法千年の間異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む、今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり正像已に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、就中天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所解釈炳焉たる者なり。
(日興監修・日順記「五人所破抄」、全集、p. 1611)
 第一には、蓮祖はこれ本化の菩薩の再誕なるが故に。涌出品に本化の菩薩を説いて云く「此等は是れ我が子なり。是の世界に依止す」と文。妙楽云く「子、父の法を弘む。世界の益あり」云云。故に知んぬ、蓮祖は真実の釈子なることを。
(創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞社、1980年、p. 219)
 第四に、「重須檀所の学頭職にあって、日興上人の教風を受け継ぐ第一人者ともいうべき人物である[1] と言われる日順師には「大石寺流宗祖本仏思想も見出せないのである」[2] 以上、初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかったと結論せざるを得ない。

 [1] 小林正博「法主絶対論の形成とその批判」『東洋学術研究』第32巻第2号、1993年、p. 113.

 [2] 同上.

 日順作と伝わる『本因妙口決』には確かに「大石寺流宗祖本仏思想」が見えるが、この書は、「本尊七ケの口伝・教化弘経七箇の伝は別紙の如し」と言って、『御本尊七箇相承』なる相伝書に言及している。
 『御本尊七箇相承』なる相伝書が後世の創作であることは、その記述に合わない日興上人の御本尊が存在することから明らかである(1)から、それに言及している『本因妙口決』が後世の創作であることは疑い無い。

 また、同じく日順作と伝わる『日順雑集』について、堀日亨師は『富士宗学要集の解説』(『大白蓮華』昭和三十四年二月以降十五回に亘って連載)の中で次のように言われているらしい。
無題の本をあつめて雑集とした。伝来には、房州のものと、要法寺のものとある。雑集を分類すると、数多くあって、すべて断片である。写本には、天文度のもの、延徳度のものもある。そうとうに慎重に考えてあつかわねばならない。
(小林前掲論文、pp.110-111、からの孫引き)。
 従って、『日順雑集』に「大石寺流宗祖本仏思想」が見えてもそれを直ちに日順師のものとすることはできない。
 『富士宗学要集』第2巻には、『本因妙口決』『日順雑集』を含めて計九つの日順師の文書が収録されている[3]が、『本因妙口決』『日順雑集』以外の七つの文書では、「宗祖=上行再誕」の立場が貫かれており、「大石寺流宗祖本仏思想」は見えない。よって、日順師の時点(初期興門教学)では「大石寺流宗祖本仏思想」などは存在していなかったと言うことができる。

 [3] 『表白』(九頁以降)、『用心抄』(十三頁以降)、『日順阿闍梨血脈』(二一頁以降)、『誓文』(二七頁以降)、『本門心底抄』(二九頁以降)、『摧邪立正抄』(三九頁以降)、『念真所破抄』(五三頁以降)、『本因妙口決』(六九頁以降)、『日順雑集』(八五頁以降)。

 以上により、「日蓮本仏論」は後世に創作された邪義であることは明らかである。


2001.04.24
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(1) 創価学会きっての学究であられる山中講一郎氏は、氏が運営されている「からぐらねっと」というHPの「コラムからぐら」というコーナーで以下のように書いておられる。

 興風談所の「日興上人御本尊集」を入手した。この書を手にして考えることは余りにも多い。
 その一端を述べれば、いわゆる「御本尊七箇相承」なる相伝書が後世の偽作であることが確定的になる。
何故ならば「御本尊七箇相承」の記述に合わない日興上人の御本尊が何体も存在するからである。
(山中講一郎『からぐら日録』、p. 2)

「コラムからぐら」は『からぐら日録』という小冊子にまとめられており、私は、幸運にも以前、山中氏よりこれを直接頂戴することができた。その他にも氏からは様々な恩恵を受けており、感謝してもしきれないくらいである。この場をお借りして、改めて、氏の学恩に深く謝意を表したい。
 しかし、氏はあくまでも学会を護りぬくというお立場から、私が昨今本格的に開始した学会批判にも、おそらく最後まで反対の立場を貫かれるであろう。私の学会教学批判が、論理を尽した“正邪を決する戦い”の結果として論理的に破折されるということがもし将来あるとすれば、それは山中氏の手によってではないかと思う。その時には喜んで「回心の筆」をとりたいと考えている。


〔01.05.13 付記〕

1.本文に註(1)を加えた。


〔01.10.22 付記〕

 本稿の内容と酷似した御論考がWeb上に発表されているのを先日発見し、私としては「剽窃」の疑いを拭い切れなかったので、その著者が管理している掲示板にて、その著者に直接抗議した。その著者とのやりとりの結果、「剽窃」の疑いはますます濃厚になったが、結局、私の一連の抗議の投稿は、その著者とは別のもう一人の管理人の手によって、全く不明瞭な理由をもってすべて削除されてしまった。以下に私のその一連の抗議文を記録してあるので参照されたい。

「みんなで歩こう菩薩の道」での発言[ 4 ]
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〔01.12.14 付記〕

 『五人所破抄見聞』(『富士宗学要集』第4巻所収)は、

威音王仏と釈迦牟尼とは迹仏也、不軽と日蓮とは本仏也
と言って、確かに「日蓮本仏論」を説いている。
 もしも同書が伝承通りに妙蓮寺日眼の作で、1380年に成立したものであるならば、同書が「最も早く日蓮本仏論を説いた文献」と言うことになるのであろうが、おそらく同書は妙蓮寺日眼の作ではないだろう。

『五人所破抄見聞』は、妙蓮寺三世日眼説に立てば、宗祖滅後約百年ごろ、大石寺では六世日時上人存命中の著作ということになる。しかし、『五人所破抄見聞』には明らかに文明ニ(一四七○)年以降でなければ書けない記述があり、妙蓮寺日眼説に大きな疑問が投げかけられている(7)

(小林前掲論文、p. 115)



(7) 「五人所破抄見聞の価値」宮崎英修『棲神』四一号一五八頁参照

(同上、註7、p. 127)




〔01.12.19 付記〕

 『五人所破抄見聞』は文明の頃の作であり、妙蓮寺日眼の作ではありえない≠ニいう宮崎英修氏の御主張は、仏教史学会編『仏教の歴史と文化』(同朋舎出版、1980年)に収録されている同氏の「富士戒壇論について」という御論文の中p. 652でも展開されている。
 宮崎氏は、同論文において、『五人所破抄』は日順の作ではなく、日代の作であるとも言われている(pp. 643-644)。その一部を引用すれば以下の通り。


 さて西山本門寺を開創しした日代は応永元年(一三九四)四月十八日、九十八歳の高齢をもって入寂したがその弟子由比阿闍梨日任は、「五人所破抄」を大夫阿闍梨日円に譲るに際し「応永二十二年正月廿九日、日代聖人御筆、大事書也、可重宝(21)」と本書に奥書している。即ち「五人所破抄」は日代の述作であることを明記し、また戦国時代に日尊門徒上行院系と住本寺系の両派を合同帰一せしめた富士門家碩学の耆宿広蔵院日辰も永禄四年(一五六一)六月廿三日の見聞記に本書をもって日代の作と決している(22)

(宮崎英修「富士戒壇論について」、仏教史学会編『仏教の歴史と文化』、同朋舎出版、1980年、p. 644)



(21) 同上〔引用者註:宗全ニ〕 八七頁
(22) 同上 八七頁
  日辰 読誦論議 宗全八−四六六頁

(同上、註21〜22、p. 654)



〔01.12.20 付記〕

 宮崎前掲論文の中では、日代が「仏像造立の事、本門寺建立の時也、(中略)御本尊図はそれが為なり(「宰相阿闍梨御返事」、宗全二−二三四頁)と言ったとされている(p. 639)。しかしながら、宮崎氏が日代の作だと主張されている『五人所破抄』では、


日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一躰の形像豈頭陀の応身に非ずや、(中略)図する所の本尊は亦正像二千の間一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり、(中略)次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。
(「五人所破抄」、全集、p. 1614)
と言われており、これは先の主張とは対立するようにも見える。どちらか一方の説だけが正しいということだろうか。それとも、日代に「立場の転換」のようなものがあったということだろうか。 ちなみに、宮崎氏は「「五人所破抄」は日代晩年のものであろう(宮崎前掲論文、p. 650)と言われている。


〔05.08.25 補足〕
 数年前のある議論[注1]により、「日蓮本仏論」には2種類あることがわかりました。すなわち、《釈尊と日蓮は同一人物で、そのお方が本仏である》とする説(以下、A説と略記)と《釈尊と日蓮は別人物であり、日蓮の方が本仏だから釈尊より優れる》とする説(以下、B説と略記)の2種類です。議論の中で、日寛教学の立場はA説で、創価学会の立場はB説だということが明らかになりました。
 しかし、《上行菩薩と釈尊は別の方であり、前者が後者の「初発心の弟子」である》ということは動きませんから[注2]、A説もB説も、ともに、上行再誕論とは両立しないという点では共通します。
 これに対して、上行再誕論が日蓮自身の立場であったということは、確実な資料からみても明らかです。例えば、保田妙本寺に真蹟が所蔵されている文永十一年十二月図顕の大曼荼羅(通称「万年救護御本尊」)には、「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之(『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、pp. 58-59)という日蓮自筆の讃文があり、そこでは「後ノ五百歳ノ時、上行菩薩、世ニ出現シテ、始メテ之ヲ弘宣シタマフ」といわれています。また、日興の写本が現存している「頼基陳状」にも「日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候(「頼基陳状」、全集、p. 1157)とあることからも、上行再誕論が日蓮自身の立場であったということは明白です。
 結局、B説をとなえている創価学会は、自ら本仏と崇めている日蓮の考えとも決定的に矛盾しているし、さらには、自ら日寛教学を拠りどころにしているといいながら、その日寛教学の立場とも決定的に異なってしまっているというわけです。昔、文法の授業かなんかで、「二重否定は肯定」などと習った記憶がありますが、さすがにこの場合のB説は肯定しにくいように思います。

[注1] 《日蓮本仏論》再考
   http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
[注2] 「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(「観心本尊抄」)

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