生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)


 釈尊は、八〇歳をもって、クシナーラー郊外の沙羅双樹(さらそうじゅ)のもとに静かな、安らかな入滅(にゅうめつ)を迎える。「阿含経」の諸資料はすべて、この入滅を「完全なるニルヴァーナ(パリニッバーナ、パリニルヴァーナ、般涅槃(はつねはん))」と表現する。そのあと、付近の村民の篤実な信徒たちによって荼毘(だび)(火葬)に付され、駆けつけた有力な信徒たちにより、仏舎利(ぶっしゃり)(遺骨)は手厚く葬られた。
 しかし、そのあとも、弟子たちにも、信徒たちにも、釈尊はそのまま生き続けた。ただ姿はなく、形はない。その肉身は消滅しても、教えは「(ほう)(ダンマ、ダルマ)」として、ますます尊く、いよいよ高く、深い。仏弟子たちは忠実にその法を守り、また釈尊のなしたそのままに遊行して、新たに問う人びとに法を伝える。その過程であらためて法を自覚し、その中核を相互に確認し合う。教えを伝える法の核は、おそらくは、最初は、簡単な詩句ないし短い散文にまとめられて、あい合してともに(じゅ)され、また仏弟子の集まりは、自然発生的に小サークルからひとつの結合体になり、やがて教団として確立するプロセスにおいて、釈尊の(のこ)した生活の規範である「(かい)」は、法とともに教団の軸とされる。
 それは、釈尊の入滅後のまもない時機であったかもしれない。こうして、仏教はインドに出現し、釈尊をその創始者とすることになる。ただし、あえて付言すれば、そのような教団のリーダーは、つねに「形のない釈尊」そのものであり、実在する特定の仏弟子ではなかった。(まぶた)の奥に焼きついた釈尊、そして耳朶(じだ)に残るその教えのもとに、仏弟子はすべて一様に釈子(しゃくし)(釈尊の子、もしくは弟子)なのであり、釈尊がつねに説き続けた一切の平等は、あくまで徹底していた。

(中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』(小学館ライブラリー80)、小学館、1996年、pp. 52-53)


 ニルヴァーナのプロセスを一応、点と線とで示そう。現実もしくは世俗のA点から出発して、そこに安住することなく、逆に否定しつつ進行し、彼岸のB点に達する。「往」はA→Bであり、しかもBは(ノン)Aとしてある。だがB点にそのままとどまらずに、再び現実もしくは世俗に立ち戻る。ただし、上述のように、Aはすでに否定されてある以上、世俗における点はA'であり、こうして「還」はB→A'で示される。このA'は決してAそのものではなく、Aよりは一段高いか深いかの別の層にある。こうして、ニルヴァーナの往と還とが果たされるが、それは循環する円周ではなくて、一種の立体的な螺旋(らせん)となる。しかも、この螺旋は、たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるいは深化する。そこでもしもこの螺旋を縦に切断すれば、AとA'とは同一面上にあって、それが往と還とを明らかにする。
 このようなニルヴァーナが、釈尊の成道から入滅までの四五年に及ぶ世俗の教化の間に、つねに世俗に実現された。そのような釈尊を慕い、仰ぎ、あるいは釈尊に接して深く帰依した世俗の人びとには、出家と在家とを問わず、釈尊ははっきりといつまでも残る。彼らの(まぶた)の奥に、耳朶(じだ)の底に、ニルヴァーナを実現している釈尊はけっして消えることなく、いわば不死身として生き続ける。
 八〇歳の高齢に達した釈尊は、王舎城(おうしゃじょう)()って、最後の旅に出る。一処不住(いっしょふじゅう)の旅すなわち遊行(ゆぎょう)は、説法開始以後の釈尊のついに変わらざる姿であった。この最後の旅の方向は、生まれ育った釈迦族の故郷に通じてはいるものの、釈尊の意図したところは、どの資料にも伝えられていない。途中に、多くの人びとを教化し、しかしながら寒村クシナーラーのさらに村はずれの沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、ついに入滅を迎える。その情況を語る諸資料は、すべて一致して、釈尊は禅定(ぜんじょう)の境を往来し(専門的にいえば、四禅(しぜん)四無色定(しむしきじょう)滅尽定(めつじんじょう)という九次第定(くしだいじょう)を進んで、再び同じ経路を戻り、さらに四禅を経て、その第四禅から)、パリニルヴァーナに入った、と伝える。
 パリニルヴァーナ(パーリ語はパリニッバーナ、漢訳は音写の般涅槃(はつねはん))とは、完全なるニルヴァーナ、というほどの意とされるが、それは、いったい何を示すのであろうか。もともと、ニルヴァーナは無限の否定―二重否定より成り、すでに一種の絶対に清浄で平安な境であって、それに「完全」が欠けるはずはあり得ない。後代の仏教は、ここにパリニルヴァーナを「無余涅槃(むよねはん)」とする解釈を施し、それが有力となる。すなわち、生前の釈尊は、とうにニルヴァーナを達成したとはいえ、生きている限り、なお肉体的もしくは生理的な生命維持作用がはたらいて、それがプラスに作用するだけではなく、一種のマイナスを引き起こし、たとえばときに食当たりにぶつかり、あるいは疲労を覚え、いわゆる老・病・衰などをはらむ。これをとくに「()」(セーナ、ウパーディセーサ、残余のもの・こと)と称して、生前のニルヴァーナは、その「余」を有すると考え、これを「有余涅槃」と術語化する。したがって、釈尊も生存中は、「有余涅槃(うよねはん)」にとどまるけれども、いったん入滅後は、それらの「余」はすべて消去し去り、ここに「無余涅槃」が実現するという。それに対して、私は次のように考えたい。
 第一章の序節にも、またこの項の中にも記したように、入滅によってすでに「姿も形もない釈尊」は、(のこ)された仏弟子や篤実な信者たちには、依然として脈々と生きて在り、彼らひとりひとりの内奥(ないおう)に、克明に、鮮やかに刻み込まれ、その一挙手一投足をはじめ、こころの微妙なはたらきのすべてを導き続けて、けっして消え去ることなく、薄れることも、隠れることもなかった。さらに、先の(おう)(げん)とを導入するならば、たしかに入滅後の釈尊は、今や世俗の現実にみずから接することはなく、同時にそこでは(おう)は生じない。したがって、釈尊は(げん)のままこの世俗にとどまり続ける。そして、(げん)のニルヴァーナは、その後に続々と生まれてくる仏教徒たちと世俗をともにすることであり、そこにニルヴァーナを実現することが根拠づけられる。そのようなニルヴァーナは、新たなる仏教徒の理想・目標を指示し、文字どおり絶大な直接の帰依所であって、精進する仏教徒が、みずからの不完全をでき得るかぎりの完全へと励まし、導いてやまぬ。こうして、いわば(おう)を捨象して(げん)にとどまり、現実の世俗の中で仏教徒が仰ぎ見るニルヴァーナこそが、まさに完全なるニルヴァーナすなわちパリニルヴァーナであったにちがいない。
 この考えに基づいて、それ以後の仏教の拡大、そして部派(ぶは)の発展、さらにはフレッシュなる大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の登場という、仏教史が納得されるであろう。大乗仏教に関する一切の記述は()いて、ただ一点だけをここに指摘するならば、その運動は、とくにその初期においては、広大な海原(うなばら)のいたるところに、そしてまた海辺(うみべ)に引いてはまた押し寄せる波のように、おそらくインドのあちらこちらで、つぎつぎとまたさまざまに絶えることのなかったという史実があり、そこには、つねにこのパリニルヴァーナの理念(イデー)が光り輝いていたのであろう。しかし、時代の変遷や、人心の推移や、世俗における種々の原因その他によって、インドの国内においても、中期、後期と、大乗仏教が推移してゆくあいだに、その理念(イデー)のエネルギーはしだいに衰え、運動の弱体化が目立ちはじめ、他方、部派仏教もいわば先細りの状態にあって、両者の境界は希薄となり、仏教信者も急激にその数を減じて、ひとり一群の仏教者たちが奮起しても、上述した波は、すでに波高も低く、ごくまれにしか気づかれない。このような視点をもって、インドから東アジアにわたる全仏教圏について眺めるならば、その理念(イデー)には栄枯盛衰があって、理念(イデー)の輝きの冴えわたる所と時に仏教は栄え、曇る所と時に仏教は沈滞し、消え去った所と時に仏教は滅びて失われた。

(同上、pp. 209-213)


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