仏身論メモ


「三身説」とは

四世紀ごろまでは右のような二身説がつづくが、ヴァスバンドゥ(Vasubandhu 世親 約三二〇−四〇〇)の『法華経論』には、三身説が見えてくる。応身(ニルマーナ・カーヤ nirma(_)na-ka(_)ya)・法身(ダルマ・カーヤ darma-ka(_)ya)・報身(サンボーガ・カーヤ sambhoga-ka(_)ya)の三つである。応身は具体性をおびているが有始有終、法身は無始無終の普遍性にとむが抽象的、そこで両者の長短をおぎなうべく報身が立てられるに至ったのである。報身は、いわば普遍的にして具体的なるものである。因行果徳身といわれるゆえんである。仏身論は、三身説が出るにいたって、いちおうの完成を見たといえよう。

(田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、pp. 93-94)

※最初の掲示板(「Beat Me!」)は「三身説」に関しての議論に終始致しました。詳しくは以下をご覧になって頂ければ幸いです。
Beat Me! 過去ログ
http://fallibilism.web.fc2.com/log_index.html

「報身正意」の立場

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 246)

 報恩抄送文には
御本尊図して進候
(学会版、p. 330)
とありますから、報恩抄の
日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし
(学会版、p. 328)
という御文は、曼荼羅に即して理解されなければならないでしょう。で、実際、曼荼羅において宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩が何の脇士となっているかと言えば、「妙法蓮華経」ですね。このことから、「本門の教主釈尊」とは「妙法蓮華経」を指していることが分かります。従って、本宗の本尊観は極めて明瞭であって、本門法華経の法体たる五字の題目が本尊なのである。(勝呂前掲書、p. 149)と言えると思います。

(42 名前: Libra 投稿日: 2001/06/06(水) 11:20、
http://green.jbbs.net/study/bbs/read.cgi?BBS=339&KEY=991566193


仏身観について

> Libraさんと同じような報身観を採った先学はいないようですので、
> Libraさん独特の報身観ですね。

 そうでしょうか。天台大師は

この品の詮量は通じて三身を明かす。もし別意に従はば正しく報身に在り。何を以ての故に、義便に文会す。義便とは、報身の智慧は上に冥し下に契して三身宛足す。故に義便と言う。文会とは、我れ成仏してより已来、甚だ大いに久遠なるが故に、能く三世に衆生を利益すと。所成は即ち法身、能成は即ち報身、法と報と合するが故に能く物を益す。故に文会と言ふ。これを以てこれを推すに、正意はこれ報身仏の功徳を論ずるなり
(天台「法華文句巻九下」、大正34巻、129頁上)
と言われています〔06.09.28 補足〕。坂本幸男氏の解説によれば、
如来は三身に通ずるけれども、別して言えば、正しく報身である。その理由を、報身の智は上(かみ)理たる法身に契い、下は衆生を利益する応身の根源であるからである、と説明した
(岩波版『法華経(下)』、p. 339)
ということです。法華文句でも「壅(ふさぐ)こと無き不思議の慧」が即ち「報身」であると言われています。「報身」とは「釈尊の智慧」だと言うことではないのでしょうか?
通是無壅不思議慧。即報身也。
(「法華文句」、大正34巻、129頁下)
 「法宝(教法)崇拝」は原始仏教からあると思いますが、「教法」は「釈尊の智慧」でしょう。「釈尊の智慧」(=「教法」)が「報身」だと思います。
アーナンダ(阿難)よ、あるいは汝らに、かかる思いをなす者があるかもしれない。〈師のことばは終わった。われらの師はすでにない〉と。だがアーナンダよ、そのように思うべきではない。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律とは、わが亡きのちに、汝らの師として存するであろう。
(「大般涅槃経」、長部経典〔註:これは増谷文雄氏の訳である。中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、1980年)の155ページも参照されたい。〕
 増谷文雄氏の以下の主張も同じようなことを言われているのだと思います(「報身」という言葉は使われていませんが)。
思うに、ブッダの大いなる業(わざ)は、その死とともに終ったのではない。その弟子たちは、けっして、ブッダ再臨の説を編み出さなかった。あるいは、なお天界にあってその業をつづけるブッダを考えたこともなかった。それにもかかわらず、ブッダの業はその死ののちにもなおその営みをつづけるであろう。それは、彼の説きのこした教法と戒律とが、厳としてなお「わが亡きのちの汝らの師」として存するからにほかならない。
(増谷文雄『仏教概論』(現代人の仏教12)、筑摩書房、1965年、p. 227)

(「川蝉さんへ(1/2)」(No: 227)、
投稿者:Libra 00/06/21 Wed 11:22:06、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_201_300.html#227

 ともかく、『法華経』になった人間(法華経の行者)が仏であり、そういう仏の「永遠の系譜(法脈)」が『永遠の仏』だろうと僕は思います。こういう論理から、宗祖は   
久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
(「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)
信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
(同上、p.1338)
と言われたのだと僕は理解しています。「久遠実成の釈尊」と「法華経」に「差別あり」と考えてしまっては「法華経を持つとも無益なり」ということになってしまうのではないでしょうか。

(「Jonathanさんへ(3/3)」(No: 292)、
投稿者:Libra 00/07/07 Fri 12:08:35、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_201_300.html#292

 ある人間の思想・精神が“死後も生き続ける”ということは、その人間の“霊魂”が不滅であるということとは異なる。

 人間は自分の「思想・精神」を“言葉”や“行動(ふるまい)”を通じて表現する生き物である。そのように表現された「思想・精神」こそがその人物の「人格(キャラクター)」である。

 例えば、私は松戸行雄氏や伊藤瑞叡氏に直接お会いしたことはない。ただ両氏の“言葉”に出会っただけである。しかし、私にとっては「松戸行雄」という人間も、「伊藤瑞叡」という人間も厳然と存在している。逆に、「田中一郎」という人間は、確率から言って、おそらく存在はしているだろうと想像はするが、実際には、私はそういう名前の人物の“言葉”にも“ふるまい”にも出会ったことがない。だから、「田中一郎」という人間 は、私にとっては実に“存在していない”のである。 仮に、松戸氏が亡くなられたとして、その事実を私が随分後になって知ったとしよう。さて、その場合、私にとって、松戸氏はいったい何時の時点で死んだのだろうか?仮に私が、「松戸氏が亡くなった」ということを知らないまま一生を終えるとすれば、その場合、少なくとも私にとっては、「松戸氏はずっと生きていた」ということになりはしまいか。

 例えば、おそらく今モニターの前に座ってこの文章を読んでおられる読者は、私のこの文章を読みながら、「“Libra”と名乗る人間が今現在この世に厳然と存在している」ということを少しも疑ってはいないだろう。しかし、実は、“そんな保証はどこにもない”のである。

 私はこれまでこの掲示板において川蝉氏と議論を続けてきたし、今後もしばらくは続くであろうが、それすら、「“Libra”という人間が今現在この世に厳然と存在している」ということの厳密な証拠にはなるまい。例えば、私が川蝉氏との対論を綿密に分析してその展開を読み切り、「想定問答集」を完成させて、それを知人に託した上ですでに死んでいるということもありえないことではない。その場合でも、川蝉氏は「“Libra”という人間が今現在この世に厳然と存在している」と思い続けるのではあるまいか。

 少し話が脱線してしまったので話をもとに戻そう。問題は、「釈尊の人格が“死後も生き続けている”」ということが具体的にどういうことなのかということである。

 釈尊の在世においても、すべての仏弟子が釈尊に直接お会いして実際に説法を聞くことができたわけではあるまい。しかし、直接お会いせずとも、釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”を伝え聞いた人々にとっては、「釈尊の人格」は厳然と存在したであろうし、その「釈尊の人格」によって救われたはずである。逆に、釈尊の在世に生まれながら、不幸にして釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”にふれる縁に恵まれなかった人々に とっては、「釈尊の人格によって救われる」という事態はそもそも起こり得ない。それどころか、彼らにとっては「釈尊の人格」そのものが“存在していなかった”のである。原始仏典によれば、釈尊は次のように語ったといわれている。

わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させえないであろう。ただ汝が最上の真理を知るならば、それによって汝はこの煩悩の流れを渡るであろう。
(Suttanipa(_)ta 215)
ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心であれ。このわたくしの口から出る声を聞いて、自己のやすらぎを学べ。
(Suttanipa(_)ta 1062)
法が正しく説かれたときに、法にしたがう人々は、彼岸に至るであろう。
(Dammapada 86)
 さて、我々は客観的事実として、釈尊在世に生きてはいない。しかし、ありがたいことに我々は「経典」を通して、釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”を知ることができる。そして、事実として「釈尊の人格」にふれることができるのである。我々にとっては「釈尊の人格」は厳然と存在している。すべて「経典」のおかげである。なんとありがたいこ とか。

 宗祖は「『法華経』は釈尊である」と言い切られている。我々はこの宗祖の“言葉”を絶対に忘れてはならない。この言葉を軽視するものは「僻見の行者」であることを思い知るべきである。

法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり
(「守護国家論」、全集、p. 66)
釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)

(「日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜(1/2)」(No: 343)、
投稿者:Libra 00/07/19 Wed 12:32:15、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#343

法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり
(「木絵二像開眼之事」、全集、pp. 468-469)
応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり
(「御衣並単衣御書」、全集、p. 971)
 方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり
(「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1025)
 以上のことをしっかりと心に刻み込んだ上で「生死一大事血脈抄」を拝 するべきである。
久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
(「生死一大事血脈抄」、全集、p.1337)
信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
(同上、p.1338)
 我々はその身を『法華経』にかえることにより、「久遠実成の釈尊」の「衆生教化・仏国土建設の活動」にありがたくも参画することができるのである。このことを「解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云う」のであり、「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益」であることを我々は決して忘れてはならない。
各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひめこををもひ所領をかへりみることなかれ、無量劫よりこのかたをやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりもをほし、法華経のゆへにはいまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかどもかかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
(「種種御振舞御書」、全集、p. 910)
我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが法華経の行者となりて無始色心本是理性妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事あにかの仏にかわるべきや、過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、法華経の一念三千の法門常住此説法のふるまいなり、かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども凡夫はしる事なし。 寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり
(「船守弥三郎許御書」、全集、p. 1446)
 宗祖は何を思って題目を唱えられていたのか。ただ一心に「日蓮今度命を法華経にまいらせて」と叫ばれていたのではなかったか。その一心を受け継ぐからこそ、我々門下の心の中に「釈尊の精神」が厳然と存在するのである。我々日蓮法華宗に流れる「法脈」こそが「久遠実成の釈尊」で〔註:「で」は不要〕なのである。
堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを法華経にまいらせんとをもし、三世の仏 は皆凡夫にてをはせし時命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す南無と申すは月氏の語此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を以て自ら帰す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、日蓮今度命を法華経にまいらせて。
(「南無御書」、全集、p. 1299)

(「日蓮今度命を法華経にまいらせて〜佛身観私論〜(2/2)」(No: 344)、
投稿者:Libra 00/07/19 Wed 12:34:38、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#344

> 法華経の久遠釈尊

 は「有始無終」です。従って、「法華経の久遠釈尊」は“真理そのもの”ではありません。そうではなくて、“仏の言葉(教法)”の「危機的」な永遠性の表現だと思います。あるいは「法脈」の永遠性と言ってもいい。「危機的」というのは、“釈子がいようがいまいが無関係にそれ自体として存在する独立自存の実体(アートマン)ではない”ということです。釈尊を恋慕して真摯に仏説に耳を傾けるその求道心が“存続する限りにおいて”生き続けるということです。

> 涅槃経の「我」とは、サーンキヤ哲学のプルシャ(神我・
> 純粋精神・霊我)でもなく、固定的実体的な自我でもなく、
> 法は常住がテーマです。

 「法(永遠の真理)」がいつどこでも普遍的に妥当するとしても、それが、「一切皆空(無我)」という具体的内容をもったものとして人々に示されなければ実質的には何の意味もありません。仏の言葉によって始めて“真理”は“智慧”になり、仏教が誕生したのです。

> その法が永遠に我々に働きかけ

 我々に永遠に働きかけるのは「仏の言葉(教法)」であって、真理そのものではありません。真理は文字を書かないし、口もありません。

([2199へのレス] 真理に口はない、
投稿者:Libra 投稿日:2001/04/05(Thu) 11:30、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html

> 「久遠本仏」の「実在」説も非仏教と思います。

 上のように言う場合、「実在」という言葉の意味が問題になってくると 思います。以下参照。

ポパーにおける三つの実在論(仮題):神野 慧一郎
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v7n2kamino.html
 もしかしたら「世界3に実在する」と言うべきなのかもしれません。

 「素粒子物理学者」にとっては「素粒子」はおそらく“ありありと実在する”のでしょう。それと同じように、信心の確立した仏弟子にとっては「釈尊」は心の中に“ありありと実在する”のだと思います。

生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/020.html
 私自身は「仏弟子の心の中に実在する」という言い方をしていこうと考えています。

南無妙法蓮華経と心に信じぬれば心を宿として釈迦仏懐まれ給う
(「松野殿女房御返事」、全集、p. 1395)

(前掲示板、No.213 (2001/06/17 00:11) 、
title:実在する釈尊 > 三色旗さんへ、
Name:Libra、
http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#213

> 人には、体だけでなく、思考と言うものがありますよね。「思い」「念」とか・・。
> そういう「念」は、では一体どこへ行くのだろう??とふと考えます。

 他者の心の中に生き続けるのではないでしょうか。例えば以下のように。

しかしポパー自身が一定の時期に考え、語り書いたものを、そのとおり受け取ることはポパーを死者として取り扱うことになるだろう。ポパーの考えたことが、例えば私のような他の人の頭の中に飛び込んで来て、そこで私の中にあった考えとどのように結合して、どのような新しい子供を作っていくか、ということが、ほんとうにポパーの思想を生かし進化させていくことだ、と私は考えている。その意味で私が今までにその大雑把な概略を述べたような思想は、少なくとも私の中ではポパーそれ自身の変貌であり進化であり、これを除いては私とポパーのつき合いは、私という未だ生きている一哲学者と一人の死せるものとのつき合いにすぎない。その意味で私の中にはこれから先しばらくの間はポパーは生きつづけるであろうし、その生きざまは、あるいは私のペンを通じて新たにまた紙の上に表現されることになるかもしれない。以上が私とポパーの哲学との話しである。
http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v2n2sawada.html

(前掲示板、No.282 (2001/06/23 18:17) 、
title:MOMOさんへ(1)、
Name:Libra、
http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#282

 私は『法華経』が「釈尊の力」そのものであり、「釈尊の報身」であり、「釈尊滅後に“生き続ける釈尊”」だと思っています。
生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/020.html
「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

(前掲示板、No.283 (2001/06/23 18:17) 、
title:MOMOさんへ(2)、
Name:Libra、
http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#283

2001.09.20
Copyright (C) Libra(藤重栄一), All Rights Reserved.
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html


〔01.09.29付記〕
 インド仏教における仏身論の変遷の概略については、平川彰『インド仏教史 下巻』(春秋社、1979年、pp. 163-167)武内紹晃「仏陀観の変遷」『講座・大乗仏教1─大乗仏教とは何か』(春秋社、1981年、pp. 153-181)同「仏陀論──仏身論を主として」(『岩波講座・東洋思想・第9巻─インド仏教 2』(岩波書店、1988年、pp. 131-152)を参照されたい。
 法華経の仏身論については、勝呂信静「法華経の仏陀論」『法華仏教の仏陀論と衆生論』(平楽寺書店、1985年、pp. 61-110)を、智(〔豈+頁〕)の仏身論については、花野充道「智(〔豈+頁〕)と本覚思想」『印度学仏教学研究』第48巻第1号(1999年12月、pp. 154-156)を、日蓮の仏身論については、浅井要麟「日蓮聖人遺文に於ける無始の古佛と無作三身の御性格」『清水龍山先生古稀記念論文集』(清水龍山先生教育五十年古稀記念會、1940年、pp. 1-28)、及び、上田本昌「日蓮の仏陀観」『法華仏教の仏陀論と衆生論』(平楽寺書店、1985年、pp. 133-160)を参照されたい。


〔01.11.12訂正〕
 前回の〔01.09.29付記〕の中で、武内紹晃氏の二つの御論文を参考文献として挙げたが、改めて読み返してみて、そのうちの一つについてはそのタイトル(「仏陀論──仏身論を主として」)を書き忘れていたことに気がついた。よって、本日それを補った。


〔06.09.28 補足〕
 天台教学における「三身相即」については、以下の説明も参考にされてください。

 真理にぴったり対応する智慧を持つ人があらわれます
と、真理を法身、その人の智慧を報身、その人の身体を
応身として三身相即が成立します。

 三身相即が成立しますと以下のようなことがいえると
いうのが天台教学です。

 まず法身は無条件に「本有無作」です。『法華玄義』
に「実相の境は、仏・天人の作す所に非ず。本と自ら之
れ有りて、今に適むるに非ざるなり。
[*2]とある通り
です。

 そして、「報身如来を詮量すれば、如如の智を以て如
如の境に契う。……境は既に無量無辺、常住不滅なれば、
智もまた是くの如し
」(『法華文句』)ということがい
われます[*3]。ある時点で真理に対応した報身は、それ
自体では「本有無作」ではありえないわけですが、「本
有無作」の法身と「一如になったが故に常住性と普遍性
を身に具えた
[*4]ととらえることもできるというわけ
です。
 応身それじたいも「本有無作」ではありえないわけで
すが、法身・報身との関係からおなじようなことがいわ
れます。

 「法身は当体に不滅を明かす。報身に不滅を説くは、
必ず法身に約す。……応身に不滅を説くは須らく法報に
約すべし。法報常然なれば応用絶えず
」(『法華文句』
というわけです[*5]

 そういうわけで、三身に「本有無作」という修飾語を
つけて「本有無作三身」といわれます。

  [*2] 智ギ(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道) 
     http://fallibilism.web.fc2.com/096.html
     
  [*3]〜[*5] 同上。

(ブログ「これから元気で」〔にっし〜さん〕での Libra の発言、[投稿日: 2006年08月05日(土) 07:55]、http://fallibilism.web.fc2.com/nblog.html


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