ある人間の思想・精神が“死後も生き続ける”ということは、その人間の“霊魂”が不滅であるということとは異なる。
人間は自分の「思想・精神」を“言葉”や“行動(ふるまい)”を通じて表現する生き物である。そのように表現された「思想・精神」こそがその人物の「人格(キャラクター)」である。
例えば、私は松戸行雄氏や伊藤瑞叡氏に直接お会いしたことはない。ただ両氏の“言葉”に出会っただけである。しかし、私にとっては「松戸行雄」という人間も、「伊藤瑞叡」という人間も厳然と存在している。逆に、「田中一郎」という人間は、確率から言って、おそらく存在はしているだろうと想像はするが、実際には、私はそういう名前の人物の“言葉”にも“ふるまい”にも出会ったことがない。だから、「田中一郎」という人間
は、私にとっては実に“存在していない”のである。 仮に、松戸氏が亡くなられたとして、その事実を私が随分後になって知ったとしよう。さて、その場合、私にとって、松戸氏はいったい何時の時点で死んだのだろうか?仮に私が、「松戸氏が亡くなった」ということを知らないまま一生を終えるとすれば、その場合、少なくとも私にとっては、「松戸氏はずっと生きていた」ということになりはしまいか。
例えば、おそらく今モニターの前に座ってこの文章を読んでおられる読者は、私のこの文章を読みながら、「“Libra”と名乗る人間が今現在この世に厳然と存在している」ということを少しも疑ってはいないだろう。しかし、実は、“そんな保証はどこにもない”のである。
私はこれまでこの掲示板において川蝉氏と議論を続けてきたし、今後もしばらくは続くであろうが、それすら、「“Libra”という人間が今現在この世に厳然と存在している」ということの厳密な証拠にはなるまい。例えば、私が川蝉氏との対論を綿密に分析してその展開を読み切り、「想定問答集」を完成させて、それを知人に託した上ですでに死んでいるということもありえないことではない。その場合でも、川蝉氏は「“Libra”という人間が今現在この世に厳然と存在している」と思い続けるのではあるまいか。
少し話が脱線してしまったので話をもとに戻そう。問題は、「釈尊の人格が“死後も生き続けている”」ということが具体的にどういうことなのかということである。
釈尊の在世においても、すべての仏弟子が釈尊に直接お会いして実際に説法を聞くことができたわけではあるまい。しかし、直接お会いせずとも、釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”を伝え聞いた人々にとっては、「釈尊の人格」は厳然と存在したであろうし、その「釈尊の人格」によって救われたはずである。逆に、釈尊の在世に生まれながら、不幸にして釈尊の“言葉”や“行動(ふるまい)”にふれる縁に恵まれなかった人々に
とっては、「釈尊の人格によって救われる」という事態はそもそも起こり得ない。それどころか、彼らにとっては「釈尊の人格」そのものが“存在していなかった”のである。原始仏典によれば、釈尊は次のように語ったといわれている。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させえないであろう。ただ汝が最上の真理を知るならば、それによって汝はこの煩悩の流れを渡るであろう。
(Suttanipata 215)
宗祖は「『法華経』は釈尊である」と言い切られている。我々はこの宗祖の“言葉”を絶対に忘れてはならない。この言葉を軽視するものは「僻見の行者」であることを思い知るべきである。