真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない
(袴谷憲昭)


知慧とは、今縁起に関して述べましたように、ものごとを言葉によってはっきり考えることにほかなりませんから、知慧を強調することは、ものごとの真偽をはっきり「区別」し「判断」して、それを主張命題(pratijña(_))として明確に表明することを結果として伴っております。パーリ上座部の経蔵の最初の長部のその筆頭に示される経典が『梵網経(Brahmaja(_)la-sutta)』でありますが、その中で、仏法僧に対して誹謗や称賛があったときには感情的に対処せずに、冷静に論理的に、真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(nibbethetabba)し、真実は真実として主張しなければならない(pat.ija(_)nitabba)と説かれており(38)、これが仏教本来の立場であります。しかるに、そういう明確な主張命題の提示がないばかりか、重要な問題についても断えず論点をはぐらかして(うなぎ)のようにぬらりくらりと周辺の問題ばかりに言葉を費すのを仏教では amara(_)-vikkhepa(鰻のように散乱した説)と呼んで一番恥ずべきこととされております。しかし、禅宗では、奇妙きてれつな胡乱の説が尚ばれて、世の中からはコンニャク問答と酷評されているのにもかかわらず一向に改まらないのは、やはり禅宗が仏教ではない証拠でもあるのです。

(袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』、大蔵出版、1992年、pp. 83-84)


 しかし、仏教は、既に前回申上げましたように、肝腎な論点を外してノラリクラリと鰻のように話を展開する答弁を amara(_)-vikkhepa と呼んで忌避しているのでありますし、それに類似した用語を別な文献より指摘すれば、論点をぼかしてその周辺のことばかりに冗漫で曖昧な言葉を用いるのを bahu-vollaka(多弁)と呼んでやはり忌避しているのであります(13)。にもかかわらず、仏教国といわれる日本において、そういうことを真に忌避することなくいつのまにか容認してしまう結果になっているという風潮が根強いのは、きっと仏教の正統説が滲透していないせいではないでしょうか。それにしましても、我が国には amara(_)-vikkhepa や bahu-vollaka が蔓延しすぎていると感じるのは、私の単なる思い過ごしでありましょうか。テレビをつけただけでも、いつも見られることではありますが、つい最近でも、替え玉受験が発覚して、じっとその弁解を聞いておりますと、これほどの多弁 bahu-vollaka もあるまいと思われる話の中から、肝腎な論点が隠されていることだけが鮮明になってくるような記者会見だとか、パンツの中に入っていたコカインは日本で入手したと言ったかと思えば一転して機内のだれとも知れない人から渡されたと強弁し続けるに至り、時にはパンツに人格でもあるかのように平然と人を喰ったようなことを言い続ける俳優の発言だとか、例を挙げるのに全く事を欠かないという有様であります。ひと事ながら、早くamara(_)-vikkhepa や bahu-vollaka を止めて、はっきりと自分の非を認めれば余ほどすっきりするだろうにと思いますが、自分のことともなればなかなかそう簡単にはならないのでしょう。かくいう私も、例えば、女房に対して失敗をするというような極些細なことを仕出かしたにしても、それを素直に認めようとしなければ多弁になるという経験をなんども繰返しています。しかし、失敗も罪も、たとえ隠し通すことに成功したとしましても、決して消えてなくなることはありません。記憶が文字通り零になるのでもない限りは、失敗や罪も、更には無知も、隠そうとすればするほど益々鮮明になってくるものであります。しかし、決して消えるものではないからこそ、むしろ自ら進んで言葉によって明瞭に失敗や罪や無知を認めて正しい方へ変っていこうとする以外に道はないのだと思います。そして、そういうことを認めることが、知慧にほかならないわけでありますから、知慧を重んじる人が、孔子に対する老子のように大形に振舞ったり、道元に対する中国の禅師たちのように払子を振ったり怒鳴り散らしたりするようなことは、理論上決してありえないことなのであります。

(同上、pp. 97-98)

この書籍をお求めの方はこちらから
道元と仏教


(38) Di(_)ghanika(_)ya, Vol. 1, p. 3, ll. 6-30南伝大蔵経、第六巻、三 -四頁参照。なお、このパーリ『梵網経』は、最近、片山一良氏によって平易な和文に翻訳されたので、ぜひそれによって本経の全体を学ばれたい。その和訳は、片山一良訳「原始仏教聖典 長部〔DI(_)GHA-NIKA(_)YA〕第一、梵網経」として、『原始仏教』第一号(一九九一年四月)、二 - 七四頁に掲載されている。なお、前述の箇所は、同、六 - 七頁に当る。ところで、私が本文中において nibbethetabba を「否定しなければならない」と訳したのには多少問題があるかもしれないが、一応、Childers, A Dictionary of the Pali Language (London, 1875), p. 276, nibbet.heti に与えられた訳語中の "to deny" の意味に従ったものである。

(同上、p. 169)


(13) Abhidharmakos()a-bha(_)sya (Pradhan ed.), p. 469, ll. 12-22玄奘訳、大正蔵、二九巻、一五五頁、一八行 - 二九行所引の『ミリンダ所問経』による。

(同上、p. 171)

トップページ >  資料集 >  [001-020] >  011. 真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)

NOTHING TO YOU
http://fallibilism.web.fc2.com/
inserted by FC2 system