ちなみに、上記『折伏教典』第一章の構成は以下の通りです。
第一節 生命の本質論〔『大白蓮華』第一号(昭和二十四年七月十日発行)〕
一、生命の不可思議
ニ、三世の生命
三、永遠の生命
四、生命の連続
第二節 法報応の三身常住
〔御書十大部講義第二巻開目抄上(昭和二十八年七月一日発行)、一六五頁〕
第三節 大利益論
一、永遠の幸福〔『大白蓮華』第二十号(昭和二十六年十二月一日発行)〕
ニ、生きることが楽しい
寿量品講義長行の終り
〔『大白蓮華』第六十四号(昭和三十一年九月一日発行)〕
寿量品の講義
〔『大白蓮華』第七十一号(昭和三十二年四月一日発行)〕
講義後の質問に答えて
〔『大白蓮華』第七十八号(昭和三十二年七月一日発行)〕
さて、以下に、抜書きしてみましょう。
冷い拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送つているうちに、思索は思索を呼んで、終には人生の根本問題であり、しかも難解きわまる問題たる「生命の本質」に、つき当つたのである。
(p. 14)
元来が科学、数学の研究に興味を持つていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかつた。そこで私はひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。
(p. 15)
唱題の数が二百万遍になんなんとする時に、私は非常に不思議なことにつき当り、未だかつて、はかり知り得なかつた境地が眼前に展開した。喜びに打ち震えつつ、一人独房の中に立つて、三世十方の仏・菩薩・一切の衆生に向つて、かく叫んだのである。
遅るること五年にして惑わず先き立つこと五年にして天命を知りたり、と。
かかる体験から私は今、法華経の生命観に立つて、生命の本質について述べたいと思うのである。
(p. 16)
以上の内容により、『折伏教典』所収論文に戸田先生の悟達の中身が述べられていると見なしてよいと思います。
その「戸田先生の悟達の中身」とは以下の通りです。
仏教から三世の生命観を抜きさり、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学は全くその根拠を失つてしまうと考えられるのである。
(p. 18)
三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。
(p. 18)
ここにおいて三世の生命を説くからといつて、我々は霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神の他に、霊とか魂とかいうものがあつて現世を支配し、さらに不滅に続くということを、承認しているのではないことを明らかにしておく。
(p. 21)
日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのに対して、大聖人は名字即の凡夫位において、本有の生命、常住の仏を説きいだされている。即ち凡夫の我々の姿自体が無始本有の姿である。
(p.24)
引用者註:文証として「三世諸仏総勘文抄」、「当体義抄」、「十法界事」、「御義口伝(下)」の中の中古天台の本覚思想を強く受けている文が引用されている。また、ここでは明らかに、「本有の生命」イコール「常住の仏」となっているように思われる。
私に会通を加えて本文をけがすことを恐るといえども、久遠の生命にかんしてその一端を左にのべていく。
生命とは宇宙と共に存在し、宇宙より先でもなければ、後から偶発的に、或いは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物と見ることも誤りである。我々は広大無辺の大聖人の御慈悲に浴し、直達正観・事行の一念三千の大御本尊に帰依し奉つて、「妙」なる生命の実体把握を励んでいるのに他ならない。
(p. 26)
かの有名な高山樗牛先生が、「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」といわれたことを記憶している。樗牛先生は偉大な文学者であるだけに、私は非常に悩んだものである。もし先生の言葉のごとくならば、平凡な我々や犬や猫は永久な生命といえないことになる。よつてこの場合の永遠の生命に普遍妥当性がないわけである。長い間本当かウソかと悩みつづけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関しては甚だ浅薄な考え方であるという結論に達した。
(p. 29)
引用者註:高山樗牛は熱烈な日蓮信奉者でもあった(田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、pp. 168-174を参照)。
前にものべたように宇宙は即生命である故に、我々が死んだとする、死んだ生命はちようど悲しみと悲しみの間に何もなかつたように、喜びと喜びの間に喜びがどこにもなかつたように、眠つている間その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんでどこを探してもないのである。
(p.33)
この死後の大生命にとけこんだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば自然に会得するであろう。この死後の生命が、何かの縁にふれて我々の目にうつる生命活動となって現われてくる。
(同上)
引用者註:これはまさに「基体説」そのものだと思われる。
そこで肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、目にみることのできないしかも厳然たる存在の生命の反映であると、先にのべたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい、さてその前にいかような状態において生命が来世に連続するかという問題をのべてみよう、我らが死ねば肉体の処分にかかわらず我らの生命が大宇宙の生命へととけこむのであつて、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である、この大宇宙の生命体へとけこんだ我々の生命は、どこにもありようがない、大宇宙の生命それ自体である、これを空というのである。空とは存在するといえばその存在を確かめる事ができない、存在せぬとすれば存在として現われてくるという実体を指しているのである。
(pp. 38-39)
引用者註:ここでは完全に「空」が誤解されている。以下を参照。
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
このように現在生存する我らは死という条件によつて大宇宙の生命へとけこみ、空の状態において業を感じつつ変化して、何らかの機縁によつて又生命体として発現する、このように死しては生れ生れては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。
(pp. 40-41)
引用者註:「発現」という言葉がまさに「基体説」的である。また、「空の状態において」という言葉からも明らかな通り、「何らかの機縁によつて又生命体として発現」したものは「空の状態」ではないということだろう。そもそも「空の状態」と表現している時点で非仏教的である。仮に、「空の状態」という表現を受け入れるとしても、仏教は「一切皆空」と説くのであるから、「空の状態」でない何ものもない。このような誤った空理解を「離辺中観」というのだろう。拙文「「如来蔵思想批判」の批判的検討」の三章「「不二」は「如来蔵思想」ではない」を参照されたい。
「如来蔵思想批判」の批判的検討
http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html
私にこれ以上の会通を加えることは大御本尊に対して申訳ないことであるが、ただ有難さのためにこれを述べる。成仏とは仏になる仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相との御言葉をすなおに信じ奉つて、この身このままが永遠の昔より永劫の未来に向つて仏であると覚悟することである。もつたいなや、かかる不浄の身が御本尊を受持し奉ることによつて仏なりと覚るとは、何という有難いことではないか、この果報こそ何ものにもかえがたい果報であつて、ひとえに大御本尊の大功徳である。
(p. 47)
引用者註:これでは完全に密教の本尊観だろう。以下を参照。
大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/064.html
結論として、戸田先生の生命論は名誉会長のそれと大差なく、「宗教の一つのパターンとして、一般的である」(小川一乗)ところの「ブラフマニズム(梵我一如)」であり、「日本の新宗教における生命主義的救済観」そのものだと言えると思います。以下も参照されて下さい。
新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
http://fallibilism.web.fc2.com/041.html
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html