「選択」とは(小川一乗)


いろいろな仏教の知識を持てば、よりいっそう仏教が明らかになると考えがちですが、どうもそうではないようです。むしろそれとは逆に、いろいろな方面から仏教を学術的に研究したために、かえって仏教がわからなくなってしまったということもあるようです。言い換えれば、仏教といっても玉石混交であり、種々雑多であるため、それらのすべてを仏教として認めれば、当然のことながら混乱してしまうわけです。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、まえがき iii)


 そのように、ただこれ一つというところに立つことがいわゆる「選択」ということなのでしょう。中国仏教では教相判釈というのがありますが、それは仏教には程度の低いものから高いものまでいろいろあるというのを認めて、それを整理して説明するというのが教相判釈です。ところが、選択というのはそうではないのです。選択というのは、真実の仏教と真実でない仏教を振り分けるのが選択なのです。ですから、仏教に二種類あるとか、三種類あるというのは選択ではない。選択というのはこれが本物で、あとは偽物だと、そのことをはっきり見極めるのが選択であろうと思います。長い歴史の中で同じ仏教という範疇に包括されていても、これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる確信、たしかな原点を持つ、それが選択ということではないかと思います。

(同上、まえがき v)


いま私たちが手にしている『阿含経』の中で、実際に釈尊が説かれたのは、これは正確にはだれもわからないわけですけれども、まあ一割ないし二割程度だろうと考えてよいのではないかと思われます。あとの八割ほどは、のちの弟子たちが付け加えたもの。付け加えるというか、本人は釈尊の教えを引き継いでいると思っているけれども、時代が変わり、世相が変わり、人間が代わっていますから、やはりいつの間にかいろいろな要素が入り込むわけです。

(同上、p. 19)


そうすると釈尊が一人で『阿含経』を説いたとなると、矛盾が出てくるのは当然なわけでしょう。そこで説法の相手に応じて違ったことを説いたのであるという説明が出てくるわけです。相手の問題意識やら、相手の知能の程度やら、相手の社会状況やら、そういったものに応じて釈尊は対機説法されたから、いろいろな矛盾したことが説かれているのであるというように、阿毘達磨仏教になると解釈されるのです。ですから釈尊は、相手に応じてアートマン(我)は存在するとも説いた。また相手の状況に応じてアートマンは存在しないとも説いた。また相手の状況に応じてアートマンは存在するとも存在しないとも説いたとか、「アートマン」については、後ほど詳しく説明いたしますが、ともかくも、そういうように後の時代の人は解釈するわけです。しかし実際には、一人の人間がそのようにまったく反対のことを説くはずがない、まったく矛盾したことを言うはずがありません。たとえ表現が違っても、基本的には同じことを説くはずです。したがって矛盾した要素は後から入ってきたものだといえます。ですから、釈尊が対機説法されたということについては、多分にあとからの解釈であるといえます。対機説法したということにしないと、つじつまが合わないからそう解釈したということがあるのではないかと思われます。

(同上、p. 20)


 そういう立場で釈尊の仏教といわれているものから贅肉を取り払って、いろいろな作り話や、そのための死体となっている教理をカットして、釈尊の真髄に迫っていったら、龍樹の言っていることも、親鸞の言っていることも、釈尊の言っていることも、ただ一つの事柄について言っているのであるということが、すこし見えてくるのではないかと思います。

(同上、p. 240)

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