ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭) |
インド哲学の中心思想が「我説(atma-vada,アートマンは実在するという主張)」にあるとすれば、仏教のそれは「無我説(anatma-vada,アートマンは実在しないという主張)」にあると言えるであろう。その意味において、インド哲学と仏教とは、思想的には、「我(atman)」を肯定するか否定するかという点で真向から敵対するものなのである。
本稿は、『中論』に心を傾けているもの(Madhyamaka-citta)や外道(tirthakara)の思想を直接問題にするものではないが、まったく別個の実在であるアートマンだけが全ての根基であると考える後者の考え方の典型として、ここでは、ヤージュニャヴァルキャ(Yajñavalkya)仙の遺戒と伝えられる『ブリハッド=アーラニヤカ=ウパニシャッド(Br・hadaran・yakopanis・ad)』の有名な一節(7)を取り上げてみることにしたい。
そこでか〔のヤージュニャヴァルキャ〕は言った。「ああ実に、夫を愛するから(patyuh. kamaya)夫が愛しいのではなく、アートマンを愛するから(atmanah・ kamaya)夫が愛しいのである。(6)〔中略〕これはブラフマンなり、これはクシャトリヤなり、これらは世界なり、これらは神なり、これらはヴェーダなり、これらは被造物なり、これは全てなり、というこの〔一切が〕アートマンである。(7)〔中略〕これら全ては、この〔大いなる存在(mahato bhutasya)〕だけの気息(nisvasita)である。(11)〔中略〕このアートマンは、ただ「そうではない、そうではない(nêti nêti)」と説かれる。アートマンは不可捉(agr・hya)である。何となればアートマンは捕捉されないからである。アートマンは不壊(asirya)である。なぜならアートマンは破壊されないからである。アートマンは無執着(asanga)である。何となればアートマンは執着しないからである。アートマンは束縛されることなく(asita)、動揺せず(na vyathate)、毀損されることもない(na ris・yati)。ああ、認識の主体(vijñatr・)を何によって認識することができようか。おまえはすでに教えを受けたのである、マイトレーイー(Maitreyi)よ。ああ、不死(amr・tatva)とは実にこのようなものである」と。こう語り終って、ヤージュニャヴァルキャは去っていった。(15)上の引用で明らかなように、アートマン(我)とは、あたかも、人を愛したとしてもその当人ではなく、その背後にある根基的なまったく別個の実在(dravya^ntara)であるアートマンを愛しているのだといわれるように、あらゆる存在の背後に根基的に実在しているだれにも見えないものとして、明確な言語表現の適うものではありえず、「そうではない、そうではない(nêti nêti)」としか言いようのない不可捉(agr・hya)なものだということになる。このように、唯一絶対の実在を自明のこととして認めながら、その実在は我々の日常的な言語表現によっては把握不可能だとする思想的態度表明を神秘主義と呼ぶが、その意味で、「我説(atma-vada)」とは、必然的に神秘主義を究極的な立場とせざるをえないものであろう。
(7) V.P. Limaye and R.D. Vadekar, Eighteen Principal Upanis・ads, Vol. 1, Poona. 1958, pp. 254-256, IV. 5. 6-15。なお、第15段については、前田専学等著『インド思想史』(東京大学出版会、1982年)、25頁の前田訳による。