頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)


 あるとき、異教徒が集まって、怪談や王族のうわさ話などの雑談に耽(ふけ)っていた。
 釈尊の弟子、アーナンダが通りかかると、異教徒たちはおしゃべりをやめた。
 ひとりがアーナンダに近づくと、まじめな顔をして「あなたの師(釈尊)の教えを聴(き)きたい」と請うた。
 アーナンダは言った。

師は、真理を得ることができない四種の似非(えせ)宗教者がいる、と常々語っています。
 一番目は、『私はすべてを知っている』とうぬぼれ、犬にかまれても、『私はかねてから、こういう目に遭(あ)わねばならない運命であると予言していた。その予言どおりになった。すごいものだろう』と負け惜しみを言う人。
 第二は、その宗教の伝統をそのまま鵜呑(うの)みにする人。長年、習慣となった伝統を検討せずに、そのまま信じ込むのです。
 第三は、理論や理屈を玩(もてあそ)ぶ人。もちろん、その理論が正しい場合もあれば、そうでない場合もあります。それを謙虚に検討せずに、そのまま信じ込むのです。
 四番目は、何か質問されたとき『そうであるとも言えるし、そうでないとも言える』などと、曖昧(あいまい)な態度ではぐらかす人です。
 これに対し、真の宗教者は、振る舞いを律し、虚言を捨て、真実を語り、信頼され、人を中傷せず、愛情に満ちた、人の心に響く言葉を語る人、そのような人こそが、真の宗教者なのです

(マッジマ・ニカーヤ)

◇◆◇

 この四種の「似非宗教者」は、具体的には修行などはそっちのけで雑談に耽っていたこのときの異教徒に対する批判ですが、いつの世の自称「宗教者」たちに対しても、共通する批判といえるでしょう。
 「私はすべてを知っている」とうぬぼれ、犬にかまれるなどの災難にあっても、「予言が当たった」などと負け惜しみを言う似非宗教者。その姿はこっけいそのものです。
 また、伝統には、時代の変化とともに変わらねばならない部分と、変わらない部分とがあります。伝統をすべて正しいとして無批判に鵜呑みにすることは似非宗教者であるのです。
 また、逆に自分の考えだけが正しいとして理屈をこね、人の意見を聞こうともしないのも、似非宗教者です。
 また、世の中に確固たる真理はないとして、すべてに曖昧な姿勢をとるのも似非宗教者であると、アーナンダは言います。
 これらの似非宗教者に共通なことは、「謙虚な求道心の欠如」でしょう。真の宗教者は、閉ざされた頑迷な心を捨て、自らを律し、真実を何より尊び、他者に対しては愛情と尊敬心をもって接するのです。
(「智慧の泉─仏典散策─」、『聖教新聞』[2000年8月2日])

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