Yahoo!掲示板「創価学会と日蓮正宗」での発言[ 3 ]

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  ご報告   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月05日 午前11時10分
    メッセージ: 11872
 このトピでのリナさんとの対話にちなんで、以下の拙文を書きましたのでご
報告いたします。

  釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z017.html

 あと、私のHPに「全文検索システム」を導入いたしましたので、こちらもご
利用頂ければ幸いです。

  ---NOTHING TO YOU---全文検索
  http://search.gakuhotline.com/msearch.cgi

  現・創価学会教学は密教である(1/2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月05日 午前11時20分
    メッセージ: 11873
 密教というものがどういうものか、以下に確認してみましょう。

  ─────────────────────────────────
   密教の本尊は、大日如来ですが、その大日如来というのは、大宇宙の生
  命そのものなのです。そして、その大日如来という大宇宙の生命が、実は
  この私の生命となっているというのです。ですから、これは完全にインド
  の宗教体系としての梵我一如と同じ考えです。インドの宗教でいえば、梵
  つまりブラフマンのことを、密教では大日如来と言い換えただけのことで
  あるといえます。我つまりアートマンというのは、私たち一人一人に存在
  するものです。インドの伝統的な宗教においては、大宇宙の生命であるブ
  ラフマンが実は私のアートマンとなっているのであって、それは本来いっ
  しょのものなのだというのが梵我一如です。この思想が仏教の中へ取り入
  れられて、密教の大日如来の教えとなった、簡単に言ってしまえばそうい
  うことなのです。大日如来という仏教の表現を取りながら、梵我一如とい
  うインド古来からの伝統的な宗教観を内実としている、そういうのがイン
  ドの密教なのです。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 414)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
   ですから、真言密教における実践論というのは、手に印契を結び、口に
  真言を唱え、こころを三摩地に住する、これが密教の行なのです。それを
  三業といわずに三密といったのは、その三つの行いをすることによって、
  大日如来のはたらきと人間のはたらきとが、見えないところで、目に見え
  ない力で交流を始める。だから「密」なのです。仏の側からのはたらきと、
  その身口意の実践を行っている密教行者とが見えない糸で次第に結ばれて
  いく。そして仏のはたらきと人間のはたらきとの間には、目に見えない力
  の交流があり、人間が自分一人で行動をし、ものを言い、考えているよう
  でも、実はそのいずれもが、仏との間を、冥々裏に、暗々裏に往来し、交
  通している。そういうひそかな仏と人間との交流が行われているから密と
  いうわけです。
   そういたしますと、この実践を行っている密教の行者が身口意による三
  密を実践し、大宇宙と一体化してはたらかせることにより、逆に宇宙の本
  体を動かしていくことができるということにもなります。そこまで実践し
  ていくわけです。

  (同上、p. 420)
  ─────────────────────────────────

  現・創価学会教学は密教である(2/2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月05日 午前11時22分
    メッセージ: 11874
 さて、現・創価学会は以下のように教えています。

  ─────────────────────────────────
   さらに、勤行の意義を比喩的に言うならば、「大宇宙と自分の生命の交
  流の儀式」といえます。池田名誉会長は語っています。
   ──宇宙も、その本体は南無妙法蓮華経であり、わが生命も南無妙法蓮
  華経の顕れであり本来一体です。そして御本尊も南無妙法蓮華経の当体で
  す。ゆえに御本尊を中心にして、わが生命と宇宙がきちっとギアをかみあ
  わせ、幸福の方向へと回転を始めるのです(『青春対話』四〇三n、趣意)。
  
  (中略)

   小説『人間革命』第十二巻では、こう記されています。
  「白馬が天空を駆けるような、リズム感あふれる、すがすがしい勤行をし
  ていきましょう。そして、真剣な祈りをこめ、大宇宙をも動かしゆくよう
  な、力強い、最高の勤行を、日々、目指していこうではありませんか」と。

  (「やさしい教学」、『聖教新聞』[2001.04.05]、6面)
  ─────────────────────────────────

 以上から、「現・創価学会教学は密教である」ということがご理解頂けると
思います。

 詳しくは、

  宇宙生命論は仏教ではない(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html

及び、その「付記」を参照して頂ければ幸いです。

#前回のようなことになっても困りますので、この投稿に対して、私自身がこ
#のトピでお答えするということは差し控えさせて頂きます。批判のメール等
#は歓迎いたします。

  denpa_man2001 さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月06日 午前 5時24分
    メッセージ: 11884
 denpa_man2001 さん、はじめまして。よろしくお願いいたします。

 また途中で議論の継続が不可能になってしまうかもしれませんが、それまで
お付き合い頂ければ幸いです。

> まず、結論から言えば、創価学会よりも日蓮正宗(富士門流)の教義から、
> 仏教とは遠ざかっていってしまっているように思います。
>
> なぜなら、日蓮さんを本仏としてしまっているからです。

 現在の「日蓮正宗(富士門流)の教義」について言えば、denpa_man2001 さ
んがおっしゃられている通りだと私も思います。
 ただし、初期興門教学には宗祖本仏論はありません。

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

> 元を正せば、その原因は、日蓮さんにもあると思います。ご存知の「文底」
> をとらえるという考え方です。これも解釈の飛躍を招きます。飛躍すれば、
> 当然、本来の仏教とは遠くなります。

 「文底」をとらえるという考え方≠ェ必ず「解釈の飛躍を招」くという
わけではないと思います。

  経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/084.html

 日蓮は

  「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」=『法華経』

と読んだわけですが(本トピ、No. 11620 を参照)、この読みは決して「解釈
の飛躍」などではないと私は思います。

  ─────────────────────────────────
  この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に
  乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。

  (岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅
  を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり

  (日蓮「守護国家論」、学会版全集、p. 66)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字
  を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし

  (日蓮「四条金吾殿御返事」、学会版全集、p. 1122)
  ─────────────────────────────────

  denpa_man2001 さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月06日 午前 5時26分
    メッセージ: 11885
> もっと遡れば、法華経の教えの基本は一乗ですよね。にも関わらず、一切
> 経に優劣を付ける姿勢は明らかに間違っていると思うのですが、天台智ギ
> でそれをやってしまった事にも原因はあるでしょう。

 No. 11618 でも引用しましたように、『法華経』は以下のように説いていま
す。

  ─────────────────────────────────
   薬王よ、今、汝に告ぐ 『わが説ける所の諸の経あり
   しかも、この経の中において 法華は最も第一なり』と。

  (「法師品」、岩波文庫『法華経(中)』〔坂本幸男他訳注、1964年〕、
    p. 152)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
   薬王よ、多く人ありて、在家にもあれ、出家にもあれ、菩薩の道を行ず
  るに、若しこの法華経を見聞し、読誦し、書持し、供養すること能得わざ
  るものは、当に知るべし、この人は、未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。

  (同上、p. 154)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  諸余の衆生の類にして 能く解を得るもの有ること無し。
  諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く。

  (「方便品」、岩波文庫『法華経(上)』〔坂本幸男他訳注、1962年〕、
    p. 70)
  ─────────────────────────────────

 従って、「一切経に優劣を付ける姿勢」それ自体は間違っていないと思いま
す。一切経の中には明らかに矛盾が含まれていますので、優劣を付けずにそれ
らすべてを容認するということになると、矛盾を矛盾のまま受け入れるという
ことになってしまうと思います。

  ─────────────────────────────────
  選択というのはこれが本物で、あとは偽物だと、そのことをはっきり見極
  めるのが選択であろうと思います。長い歴史の中で同じ仏教という範疇に
  包括されていても、これは仏教で、これは非仏教と言い切ることができる
  確信、たしかな原点を持つ、それが選択ということではないかと思います。

  (小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、まえがき v)
  ─────────────────────────────────

  syohouzissou さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月06日 午前 5時27分
    メッセージ: 11886
 syohouzissou さん、はじめまして。

 ご質問ありがとうございました。私の回答については、denpa_man2001 さんへ
のレス(No. ○○)をご参照頂ければと思います。

> たしかに「文底」読みは議論のあるところですね。ただ、法華経に「久遠実成」
> や「地湧の菩薩」といった事があるので、日蓮本仏論も全くのデタラメとはい
> えないんじゃないかと思います。

 以下のような考えは「全くのデタラメ」だと私は思います。

  日蓮本仏→釈尊脱仏→「釈迦仏法は末法無益」

 No. 11728 でも示しました通り、宗祖ご自身は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ば
れたのですから。
 以下も参照して頂ければ幸いです。

  寿量品は末法のために説かれた(池田大作)
  http://fallibilism.web.fc2.com/097.html

  syohouzissou さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月06日 午前 5時33分
    メッセージ: 11887
> それと、「仏教でない」という定義がはっきりしないと議論するにしても、散
> 漫になって、よい議論にならないのじゃないでしょうか。

 私は、「仏教」とは「釈尊が説いた教え」であり、その教理的な内容の根本は
「縁起・無我・空」だと考えています。

  ──────────────────────────────────
  人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より
  前の一切の人天・外道は二天・三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりし
  かども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にて・ま
  しませしが苦行・楽行・十二年の時・苦・空・無常・無我の理をさとり出し
  てこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又
  人天も大師とは仰ぎまいらせしか、

  (「開目抄」、全集、p. 208)
  ──────────────────────────────────

  ──────────────────────────────────
   ごくおおざっぱに言うと、天台の「正因仏性」は「無自性(=空)」であ
  り、宗祖においては「三因仏性」と「一念三千の仏種」はほぼ同一視されて
  いるので、宗祖の「一念三千」は「空・縁起思想」の具体的表現であると考
  えてよいのではないか、というのが私の考えです。

    「如来蔵思想批判」の批判的検討、註8
    http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html#8
    
    無自性=正因仏性(藤井教公)
    http://fallibilism.web.fc2.com/075.html
    
   ただし、「空・縁起思想」を理論的に把握するだけではなくて、不自惜身
  命の菩薩行としてその精神を体現する(=『法華経』になる)ということが、
  宗祖が言われるところの「事の一念三千」なのだろうと私は思います。

  (タツノコさんとの対話、http://fallibilism.web.fc2.com/z015.html
    )
  ──────────────────────────────────

  ──────────────────────────────────
   「真の菩薩」というのは「自分を捨てきる」ことが出来る人のことを言う
  のだと僕は思います。「不自惜身命」です。自らの本性を「空性」と見たと
  き、人は「真の菩薩」になることができるのではないのでしょうか。

  (「川蝉さんへ(2/3)」( No: 302) 、
     投稿者:Libra 00/07/10 Mon 11:46:24、
     本尊論メモに再掲、http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html
    )
  ──────────────────────────────────

  仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない
  (小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/069.html

  訂正です   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月06日 午前 7時11分
    メッセージ: 11888
> 私の回答については、denpa_man2001 さんへのレス(No. ○○)をご参照頂
> ければと思います。

 などと書いてしまいましたが、「No. ○○」は「No. 11884〜」のことです。

  syohouzissou さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午前 6時42分
    メッセージ: 11915
 おはようございます、syohouzissou さん。

> > 日蓮本仏→釈尊脱仏→「釈迦仏法は末法無益」
>
> これは 「釈迦仏法は末法無益」→「釈尊脱仏」→「日蓮本仏」 じゃないん
> でしょうか。

 いずれにしても、「釈迦仏法は末法無益」という主張自体が「全くのデタラメ」
だと思います。

  ──────────────────────────────────
  寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には
  末法今時の日蓮等が為なり

  (「法華取要抄」、全集、p. 334)
  ──────────────────────────────────

  法華経を師匠と御憑み候へ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html


> なんで日蓮正宗は存在しているんでしょう。

 興門教学の変質にはいろいろな背景があったようです。東洋哲学研究所研究員
の小林正博さんは「法主絶対論」と「宗祖本仏論」を関連づけておられるようで
す。

  ──────────────────────────────────
  法主絶対の前提には、宗祖本仏論が深く関わっていることは否めない。すな
  わち宗祖が本仏であるとすれば、その血脈を受けた日興上人ばかりでなく、
  その正統な流れを受けた「唯受一人血脈相承」の歴代の法主も絶対的存在と
  なるという考えに容易につながっていくからである。これこそ現宗門がさか
  んに強調する法主絶対論への道筋である。

  (小林正博「法主絶対論の形成とその批判」、『東洋学術研究』第32巻第2号、
    1993年10月、p. 112)
  ──────────────────────────────────

  syohouzissou さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午前 6時43分
    メッセージ: 11916
> リブラさんが以前、御義口伝は偽書と言っていたのもあわせると日蓮正宗も創
> 価学会も出発の時点でそもそも非仏教であり、反仏教であると言う事ですね。

 日蓮正宗の「出発の時点」について言えば、少なくとも興師は宗祖の法脈を正
しく継承されていたと思いますので、その意味では「真の仏教」であったと思い
ます。
 創価学会の「出発の時点」について言えば、牧口初代会長は「日蓮聖人は上行
菩薩の再誕」と言われていますので、必ずしも「非仏教であり、反仏教である」
とは言えないと思います。

  ──────────────────────────────────
  日蓮聖人は上行菩薩の再誕として末法に入りてより百七十一年の貞応元年二
  月十六日に日本国に出現されたのでありますが、上行菩薩即日蓮聖人と云ふ
  事になります。

  (斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第十巻、第三文明社、1987年、p. 196)
  ──────────────────────────────────

 それと、「御義口伝は偽書」というのは残念ながら真実です。もしもお疑いで
あれば、「からぐらねっと」の山中講一郎さんに御質問されて下さい。山中さん
と直接お会いした時に、山中さんは私に対して、「御義口伝は興師の筆ではない」
と断言されました。

  からぐらねっと
  http://www.ginpa.com/karagura/

> これでは創価学会で信心してる意味ないですね。というか謗法ですね。

 現在「創価学会で信心してる」方々の中にもいろいろな人がおられると思いま
す。例えば、松戸行雄さんのように「日蓮久遠本仏論」を明確に否定されている
方もおられます。

  日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/062.html

 しかしながら、少なくとも、現・創価学会の公式見解においては、「日蓮久遠
本仏論」は否定されていません。その意味では、残念ながら「謗法」と言わざる
を得ないと思います。

  syohouzissou さんへ(3)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午前 6時46分
    メッセージ: 11917
> > 宗祖ご自身は、常に「釈尊に帰れ!」と叫はれたのですから。
>
> 大聖人はそういいながら、なぜ曼荼羅を御図顕されたんでしょうか。

 誰もきちんと法華経を読めなくなっていたからだと思います。

  ─────────────────────────────────
  今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出
  現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔
  品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが、
  (中略)
  我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり此れにゆづるべ
  しとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心た
  る妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、

  (「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し
  給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしと
  して顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身
  の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、

  (「日女御前御返事」、全集、p. 1243)
  ─────────────────────────────────

 曼荼羅についての私の考えについては、以下の拙文を参照して頂ければ幸い
です。

  本尊論メモ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html


> 「大乗非仏説」でも「天台の五時教判は間違い」でも「法華経最第一」であ
> るなら「日蓮大聖人」は「末法の御本仏」でもいいともおもうんですけど。

 これは「末法の御本仏」という言葉の意味によると思います。No. 11884 で
も申し上げました通り、私は、

  「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」=『法華経』

と考えています。

  syohouzissou さんへ(4)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午前 6時47分
    メッセージ: 11918
 宗祖は、『法華経』をその身に体現されたわけですから、『法華経』そのも
のであり、「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」の一部だと言ってもい
いと思います。そういう意味では、宗祖は「末法の御本仏」と言っていいと思
います。しかしながら、あくまでも宗祖は「釈尊の弟子(釈子)」です。その
ことは動きません。

  初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

> だめですかねー 誰が一体大聖人を本仏に奉り上げたのでしょう。

 小林正博氏は前掲論文の中で、以下のように言われています。

  ─────────────────────────────────
   左京日教は、その生涯に不明な点が多々あるが、「宗祖本仏論」を本格
  的に宣揚した最初の人であったことでも有名である。

  (小林前掲論文、p. 107)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  特に二十六世(一六六五−一七ニ六年)日寛上人によって宗祖本仏・釈尊
  脱仏が明確に体系化されるに至った

  (同上、p. 109)
  ─────────────────────────────────

> 「日蓮本仏論」で「菩薩行」に励んでも功徳は無い、て事になってしまうでし
> ょうか。

 宗祖のように「『法華経』になる」ことが成仏だと私は思います。「『法華
経』は末法無益」などと言うのであれば、「『法華経』になる」ことは不可能
だと思います。
 実際、現在の創価学会教学は、密教になっています(No.11873、11874 を参
照されて下さい)。

  denpa_man2001 さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後12時17分
    メッセージ: 11922
 denpa_man2001 さん、こんにちは。

> 釈迦は予言を嫌った人です。
> ただ人の不安を煽るだけになるからです。
>
> にも関わらず、どうして末法という考え
> があるのか?

 「末法」とか「法滅」という考えは、仏教徒自身の危機意識から生まれたも
のだと思います。

> そもそも、解釈の飛躍を生んだのは末法思想が大きく関係しているように思
> います。

 ここでは、「解釈の飛躍」があることがすでに前提になってしまっているよ
うに見えますが、その場合の「解釈の飛躍」とは具体的にどういうものを指し
て言われているのでしょうか?

> 果たして「私の教えは末法では効力ないよ」と釈迦が言うものなのか?

 言わないと思います。日蓮も、「釈尊の教えは末法では効力ないよ」などと
は言っていません。

  ──────────────────────────────────
  寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には
  末法今時の日蓮等が為なり

  (「法華取要抄」、全集、p. 334)
  ──────────────────────────────────

  優劣について>denpa_manさん   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後 6時47分
    メッセージ: 11930
 こんばんは、denpa_man2001 さん。

 どうも議論が噛み合っていないように思います。

> libraさんがあげられた法華経の記述は存じていますよ。しかし、この程度
> の記述は法華経に限らず、大乗経典にはよく見られる記述でしょう。ですか
> らそれをもって「優」とする事はできないのではないでしょうか?

 私はその記述を持って『法華経』を「優」とすることができるなどとは主張
しておりません。私はもともと、以下のような立場です。

  ────────────────────────────────
  『法華経』は釈尊本人によって説かれたものではないということがすで
  に明らかになっている現代において『法華経』の優秀性を主張しようと
  すれば、そこに説かれている内容(思想)の優秀性・正統性を主張する
  しかないでしょう。

  (本トピ、No. 11619)
  ────────────────────────────────

 私が先の経文を挙げたのは、denpa_man2001 さんが以下のように、『法華
経』そのものが「一切経に優劣を付ける」ことを否定しているかのようにご
発言されたからです。

  ────────────────────────────────
  もっと遡れば、法華経の教えの基本は一乗ですよね。にも関わらず、一
  切経に優劣を付ける姿勢は明らかに間違っていると思うのですが、

  (本トピ、No. 11878)
  ────────────────────────────────

  denpa_man2001 さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後 8時11分
    メッセージ: 11932
> えーっと、libraさんは「末法」や「法滅」については、釈迦が言った言葉
> でないとお考えなんですね。だとすれば、「末法において上行菩薩が云々」
> という考え自体成立しません。

 確かに現在の学問的状況においては、「そのまま通用する」というわけには
いかないでしょう。しかしながら、日蓮の生きた時代には、「末法」は「釈迦
が言った言葉」と思われていました(羅什訳にも「末法」という訳語がありま
す)。当時のロジックとしては不自然ではないと思います。

 現代に生きる私の立場から言えば、「末法において上行菩薩が云々」という
のは、「仏滅度後恐怖悪世中」に、「真の仏弟子」が、様々な困難に耐えなが
ら「真の仏教」を弘教する、ということでしょうから、別に、「末法」が「釈
迦が言った言葉」であろうがなかろうが関係ありません。

> > ここでは、「解釈の飛躍」があることがすでに前提になってしまっているよう
> > に見えますが、その場合の「解釈の飛躍」とは具体的にどういうものを指して
> > 言われているのでしょうか?
> >
> 沢山ありますが、例えば四箇格言などは如何でしょうか?

 これも議論がすれ違っていると思います。そもそも「解釈の飛躍」の話は
「文底」に関連する話題だったと思います。宗祖の教学において「文底」と言
えば、寿量品の「文底」にある「南無妙法蓮華経」のことを指すのではないで
しょうか。日蓮は三証を言いますので、基本的には「文証」を重視する立場で
しょう。

> 念仏を唱えれば無間地獄?とは経典上の何処を探しても出てきません。書いて
> あるのは法華経の行者を謗れば地獄におちるという事ですよね。

 そもそも、日蓮教学では、「地獄」というのは「地の下」にある実体的なも
のではなく、「人の心の内に」あるものであり、「仏」の対極に位置するもの
です。

  ─────────────────────────────────
   抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経
  文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等
  が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父を
  あなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、

  (「十字御書」、全集、p. 1491)
  ─────────────────────────────────

 前回ご指摘した『法華経』の経文は、実質的に「法華経最勝・爾前無得道」
を主張していますので、「念仏を唱えれば無間地獄」という主張をそこから導
出することは可能だと思います。ただし、宗祖が言われる「念仏を唱えれば」
というのは、「『法華経』を捨てる」ということと同義だと思います。

 「四箇格言」に対する私見については以下を参照されて下さい。

  「Pay It Forward」過去ログ、No.599〜
  http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#599

  denpa_man2001 さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後 8時13分
    メッセージ: 11933
> 南無妙法蓮華経はどうですか?
> どうして南無妙法蓮華経と唱えることが
> 覚りや幸福に繋がるのですか?
> どこかに書いてありますか?

 denpa_man2001 さんは、

  ─────────────────────────────────
  >「永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊」=『法華経』

  に対して、解釈の飛躍だとは申していませんよ。

  (本トピ、No. 11921)
  ─────────────────────────────────

と言われました。だとすれば、「南無妙法蓮華経と唱えること」はむしろ当然
ではないでしょうか。
 「どこかに書いてありますか?」ということですが、「陀羅尼品」には以下
のように説かれています。

  ─────────────────────────────────
   仏は諸の羅刹女に告げたもう「善い哉、善い哉。汝等よ、但、能く法華
  の名を受持する者を擁護るすら、福は量るべからず。

  (「陀羅尼品」、岩波文庫版『法華経(下)』、p. 284)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
   問うて云く題目計りを唱うる証文これありや、答えて云く妙法華経の第
  八に云く「法華の名を受持せん者・福量る可からず」正法華経に云く「若
  し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量る可からず」添品法華経に云く「法
  華の名を受持せん者福量る可からず」等云云、此等の文は題目計りを唱う
  る福計るべからずとみへぬ、一部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持
  等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、担一四
  句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には
  題目は要の内なり。

  (「法華経題目抄」、全集、p. 942)
  ─────────────────────────────────

> どうして法華経以外の経典を拠り所とした宗派が広がると、飢饉や天災が起
> こるのですか?

 「法華経以外の経典を拠り所とした宗派が広がる」ことと、「飢饉や天災」
のような自然現象には「直接の因果関係」はありえないでしょう。仮に、当時
の科学的知識の限界から、日蓮にそのような考えがあったとしても、それは現
在には通用しないと思います。

> では、「末法に入りぬれば、余経も法華経も詮無し」は、どのようにお考え
> ですか?

 以下を参照されて下さい。

  法華経を師匠と御憑み候へ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html

  syohouzissou さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後 9時21分
    メッセージ: 11934
 こんばんは、syohouzissou さん。

> @「釈迦仏法は末法無益」について
>
> 先にデンパさんが言ってるように、「末法に入りぬれば、余経も法華経も詮無
> し」であるからこそ「南無妙法蓮華経」が出てきたんだと思います。

 まず、「末法に入りぬれば、余経も法華経も詮無し」の意味を正しく理解して
頂きたいと思います。以下は読んで頂けましたでしょうか?

  法華経を師匠と御憑み候へ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z009.html


> A「創価学会は密教」について
>
> 素人感覚では、法華経自体も非常に密教的という感じがします。内容以前にそ
> の説かれ方が。

 法華経には「悟りの法は言語表現を越えたものであるという所説はほとんどみ
られない」(勝呂信静)ように思いますので、密教的ではないでしょう。
 「陀羅尼品」は表面的には密教的に見えますが、内容的には『法華経』の受持
に導くものなので、密教ではないと思います。詳しくは以下を参照されて下さい。

  曽我逸郎さんとの対話、註1
  http://fallibilism.web.fc2.com/z010.html#1

> B「御義口伝は偽書」について
>
> 偽書説には日蓮宗からのものや文献的な年代誤写説などありますが、それもや
> はり疑わしい、という域を出てないのでそれをもって偽書と断定するのはチョ
> ット言い過ぎかな、と思います。

 そういうレベルの話ではなく、中古天台の諸文献と比較すれば偽書であること
は明らかだと思います。もしもお疑いであれば、現・創価学会で最も教学力をお
持ちであり、興師が残された文献についても最もよくご存知であろう山中講一郎
さんに御質問されてみて下さい。

> C「曼荼羅御図顕」について
>
> そもそも釈尊は「偶像崇拝」を否定しているので「曼荼羅信仰」は釈尊の意図
> したものではないし、それでは密教になってしまいます。

 「曼荼羅信仰」は「偶像崇拝」などではありません。『法華経』に説かれてい
る「釈尊から本化の菩薩への正法付嘱の儀式」の表現です。以下は読んで頂けま
したでしょうか?

  本尊論メモ(Libra)
  http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html

  syohouzissou さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月07日 午後 9時25分
    メッセージ: 11935
> D「日蓮本仏論」について
>
> でなければ「釈尊本仏」になるんですが、どっちにしても仏教的じゃない感じ
> がします。仏教は一神教ではないから「本仏」とう言葉は適当じゃないと思い
> ますね。

 私自身は「一神教ではないから「本仏」という言葉は適当じゃない」とは思い
ませんが、もしも syohouzissou さんがそのように思われるのであれば、「日蓮
本仏論」も成立しないでしょう。

> 日興上人が大聖人の法脈を正しく伝えているなら、釈迦像が本尊ではないだろう
> し、法華経が法宝ではないだろうし。疑問です。

 私は「釈迦像が本尊」とは言っておりません。syohouzissou さんは以下をど
のように理解しておられますでしょうか?

  ──────────────────────────────────
   問うて云く日本国に十宗あり(…)何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とする
  や、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其
  の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用う
  べし(中略)問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の
  題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあら
  ず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との
  如く法華経を以て本尊とするなり

  (「本尊問答抄」、全集、p. 366)
  ──────────────────────────────────

> E考古学的認識について
>
> 現時点における「真実の釈尊が説いた教え」は原始仏教にしかないから「仏教
> とは釈尊の教え」に法華経は入ってない事になりますね。

 『法華経』には「釈尊の説いた教え」のエッセンスが凝縮されていると私は思
っています。

  todajosei さんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月08日 午前 5時55分
    メッセージ: 11938
 はじめまして、todajosei さん。

> いろいろ言いたくはございませんが,あなたのご意見は間違っています。

 ちゃんと根拠を示して頂きたく存じます。さもないと「観客から笑われるだ
け」でしょう。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。
  沈黙は「敗北」。論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑わ
  れるだけだ。

  (『聖教新聞』(2000年11月12日、8面)の「羅針盤」より)
  ─────────────────────────────────

> 釈迦仏法は末法では無益でございます。

 「寿量品」は「釈迦仏法」ですが、「末法では無益」などということはござ
いません。宗祖は次のように言われています。

  ─────────────────────────────────
  寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中に
  は末法今時の日蓮等が為なり

  (「法華取要抄」、全集、p. 334)
  ─────────────────────────────────

 以下の拙文も参照されて下さい。

  創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?
  http://fallibilism.web.fc2.com/z018.html

  syohouzissou さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月08日 午前 7時31分
    メッセージ: 11939
 おはようございます、syohouzissou さん。

> また、教学の体系的習得法があれば是非教えてください。

 この御質問も山中さんにされた方がよろしいかと思います。No. 11916 でもすで
にご紹介いたしましたが、山中さんのHPのURLを再掲しておきます。

  からぐらねっと
  http://www.ginpa.com/karagura/

> @釈迦仏法は末法無益」について
>
> 「釈尊の法華経は正しいが、末法である今、必要なのは南無妙法蓮華経しかない」
> だから法華経の理念を具象化した曼荼羅を顕し、これに南無することが末法にお
> ける仏道修行である、という事だと思います。

 「南無妙法蓮華経」とは、「『法華経』に南無したてまつる」ということですか
ら、「南無妙法蓮華経」が必要なのであれば、必ず『法華経』も必要になります。

  ───────────────────────────────────
  堂塔つくらず布施まいらせずらん、をしき物は命ばかりなり、これを法華経に
  まいらせんとをもし、三世の仏は皆凡夫にてをはせし時命を法華経にまいらせ
  て仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す南無と申すは月氏の語
  此の土にては帰命と申すなり、帰命と申すは天台の釈に云く「命を以て自ら帰
  す」等云云、命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う、日蓮今度命を法華経
  にまいらせて。

  (「南無御書」、全集、p. 1299)
  ───────────────────────────────────

 「(生き続ける釈尊を説く)寿量品の一品ニ半」=「南無・妙法蓮華経」という
のが宗祖の読みです。

  ─────────────────────────────────
  法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅
  を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり

  (「守護国家論」、全集、p. 66)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字
  を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし

  (「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1122)
  ─────────────────────────────────

 この読みは決してテキストから遊離した「解釈の飛躍」などではありません。

  ─────────────────────────────────
  この『正しい教えの白蓮』という経説は、偉大な志を持つ求法者の乗物に
  乗り「さとり」を志した者たちにとっては、如来である。

  (岩波文庫『法華経(下)』〔岩本裕他訳注、1967年〕、p. 201)
  ─────────────────────────────────

  syohouzissou さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月08日 午前 7時35分
    メッセージ: 11940
> A「創価学会は密教」について
>
> > 法華経には「悟りの法は言語表現を越えたものであるという所説はほとんど
> > みられない」(勝呂信静)ように思いますので
>
> 日蓮でさえも南無妙法蓮華経は「観心の上の教相」だと述べているんですから、
> これを明らかに言語表現できない日蓮とは一体何なんでしょうか。

 『法華経』を実際によく読んで頂ければ、「悟りの法は言語表現を越えたもので
あるという所説はほとんどみられない」(勝呂信静)ということはご理解頂けると
思います。
 それと、宗祖はきちんと言語表現されていると思います。もしもされていないと
すれば、御書とは一体何なのでしょうか?

> B「御義口伝は偽書」について
>
> > 山中講一郎さんに御質問されてみて下さい
>
> その方と直接に連絡が取れる場所にも環境にも無いので、リブラさんのご存知
> の貴氏の説を教えてください。素人にも解るように。

 先に紹介した「からぐらねっと」に行ってみて下さい。私なんかよりもうまく説
明して下さると思います。あと、ご参考までに、以下のHPも紹介しておきます。こ
この管理人さんは創価学会員ではありません(特定の宗派には属しておられません)
が、すごい学力の持ち主です。

  佛教再考
  http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/

> C「曼荼羅御図顕」について
>
> 「本尊論メモ」見たんですけど、上記のように解釈するには解説が足りないよ
> うに感じます。

 ご理解頂けなかったようで残念です。私の力不足でありましょう。

> D「日蓮本仏論」について
>
> 釈尊の教えの重要な一つに「縁起」がある以上、釈尊でさえその「縁起」を離
> れた存在ではありえません。よって「始めに本仏ありき」による「日蓮本仏論」
> も「釈尊本仏論」も邪説ですね。

 前段はそれでよいと思います。しかしながら、後段の部分には賛成できません。
 応身の釈尊は「有始有終」であり、報身(生き続ける釈尊=『法華経』)は
「有始無終」です。「本仏」と言えども因位があり、「初発心」がありますので
「始めに本仏ありき」ということはありえません。

  ──────────────────────────────────
  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法華経』成立の
  歴史的段階では、後に形成された法身仏のように理法そのものを仏と見立て
  た仏の観念(この法身仏は無始無終、すなわち、過去も未来も永遠とされる)
  はまだ成立しておらず、そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、
  ある特定の時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の寿
  命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもしれない。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 224)
  ──────────────────────────────────

  syohouzissou さんへ(3)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月08日 午前 7時37分
    メッセージ: 11941
  ──────────────────────────────────
  我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり

  (「観心本尊抄」、全集、p. 253)
  ──────────────────────────────────

 「本仏」はある時点で誕生したのです。現代に生きる私自身は、インド生誕の
釈尊より以前に仏教史をさかのぼることをナンセンスだと考えますから、「ある
時点」とは「インド生誕の釈尊が成道した時点」だと考えます。しかしながら、
『法華経』は「久遠本仏」の誕生の時点を「五百塵点劫」までさかのぼって説き
ます。これは、『法華経』が成立する時点ですでに通念となっていた「過去仏」
をも含めて一切の仏(他土仏、未来仏等)を釈尊一仏に統一する意図があった故
であろうと思います。

> リブラさんが日蓮が立てた三宝義についてご存知でしたら、是非教えてくださ
> い。これって、重要な事ですよね。

 一応、私自身の考えを以下に述べておきます。

  仏宝:釈尊→法華経の作者→…→日蓮 (法脈=久遠仏)
  法宝:法華経を中心とする一切経
  僧宝:創価学会

 「日蓮が立てた三宝義」については、宗祖(御書)に直接たずねることによっ
て、syohouzissou さんご自身が答えを見つけて下さい。

> E考古学的認識について
>
> > 『法華経』には「釈尊の説いた教え」のエッセンスが凝縮されていると私は思
> > っています
>
> 「大乗非仏説」は自明ですから、編纂者が意図してそうしたものだという疑念
> が起こりますし、そう考えるのが妥当性があると思います。そもそも難行を否
> 定して、易行を説いた反上座部派こそ人間生命の可能性を否定している、とい
> う事も言えると思います。

 「編纂者が意図してそうしたもの」という部分の意味がよく分りません。「難
行を否定して、易行を説いた反上座部派こそ人間生命の可能性を否定している」
という部分も意味がよく分りません。ご説明頂ければ幸いです。

> 追加の疑問なんですけど、リブラさんは「五時教判」の誤りに関して、その後
> の「五重の相対」や「四箇の格言」の真実性についてはどのようにお考えです
> か。

 「四箇の格言」については、以下を参照されて下さい(ファイルが大きいため
に読み込みに少し時間がかかりますがご容赦下さい)。

 「Pay It Forward」過去ログ、No.599〜
  http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#599

  syohouzissou さんへ(4)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月08日 午前 7時40分
    メッセージ: 11942
> 「主脱相対」は日蓮の説ではない、という事になるんでしょうか。

 これは「種脱相対」の解釈によると思います。
 まず、「相対」という部分について言えば、これは「二者択一で片方を取って
片方を捨てる」ということではありません。「本迹相対」と言っても「方便品」
は捨てませんね(「月水御書」を参照されて下さい)。
 次に、「種脱」という部分について言いますと、「種」が文底(南無妙法蓮華
経)で「脱」が文上(一品ニ半)というのよいのですが、「種」の「南無妙法蓮
華経」は別に宗祖の発明ではありません(「全く日蓮が自作にあらず」)。釈尊
から宗祖が『法華経』の中で相承したものです。

  ──────────────────────────────────
  此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世
  尊より口決相承せしなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1021)
  ──────────────────────────────────

  ──────────────────────────────────
  爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給は
  ざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し
  奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すり
  かたぎ(摺形木)たる本尊なり

  (「日女御前御返事」、全集、p. 1243)
  ──────────────────────────────────

 以上のような意味でならば、「種脱相対」は日蓮の説だと言っていいと思いま
す。

p. s. 少し忙しくなってまいりましたので今後はレスが遅れるかもしれません。
   ご容赦下さい。

  denpa_man2001 さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前10時04分
    メッセージ: 11948
 おはようございます、denpa_man2001 さん。

 お忙しいところ、詳細にレスをつけて頂きましてありがとうございます。

> つまり、法華経の立場は他の経典(教え)に「優劣」を付け
> るよいうより、それぞれの経典(教え)に「役割」があると
> いう事を示しているように思えるのです。

 「それぞれの経典に役割がある」というのはもちろんその通りです。しかし
ながら、すでにご指摘した『法華経』の経文から明らかなように、『法華経』
自身は実質的に「法華経最勝・爾前無得道」を主張しています。
 すでに別の方へのレスの中でも引用しましたように、日蓮は次のように言っ
ております。

  ─────────────────────────────────
  法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり
  
  (「一代聖教大意」、全集、p. 397)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種
  の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説
  くと申す文なり。

  (「一代聖教大意」、全集、pp. 397-398)
  ─────────────────────────────────

 従って、日蓮は「部分主義」などではありません。本トピの No. 11627 も
参照されて下さい。

 
> 同じように、法華経も他経と同じように、優位性ばかりを主張していては、法
> 華経の価値が損なわれていくのではないかと言うのが私の考えです。

 これについての私の考えはすでに別の方に申し上げましたので、No. 11619
を参照されて下さい。

> 何故、経典に「末法」等と言うことが書かれているのか?
> 私は、仏教が徐々に廃れる頃が来るというのは、裏を返して
> そのようにならないように、しっかりと守っていきなさいと
> 言うメッセージのように思えるんです。

 内容的にはおっしゃる通りだと思いますが、それは「釈迦の直説」というよ
りも、「仏弟子たちが抱いていた危機意識」なのだろうと私は思います。

  ─────────────────────────────────
   「末法」とか「法滅」という考えは、仏教徒自身の危機意識から生まれ
  たものだと思います。

  (本トピ、No. 11922)
  ─────────────────────────────────

  denpa_man2001 さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前10時05分
    メッセージ: 11949
> 日蓮さんは、鎌倉の世の荒廃の原因を、他宗に原因があると
> 考えました。しかし、法華経の立場に立てば、浄土三部経で
> あろうが、阿含経典類であろうが、仏教には違いないのです
> から、そこに原因を求めるのはおかしいように思うのです。

 「法華経の立場に立てば、浄土三部経であろうが、阿含経典類であろうが、
仏教には違いない」というのはその通りですが、「法華経最勝・爾前無得道」
という法華経の立場に立つかぎり、「浄土三部経でも阿含経典類でも成仏でき
る」ということにはならないのです。

> スッターニパータに次のような言葉があります。

 『スッタニパータ』の内容をすべて否定するつもりはありませんが、『スッ
タニパータ』には内容的に非仏教的な部分があると私は思っています。
 denpa_man2001 さんが今回ご指摘された部分は、松本史朗先生も言われてい
ますように「ジャイナ教的相対主義」だと思います。従って、非仏教的だと思
います。

  『スッタニパータ』の立場は「ジャイナ教的相対主義」(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/009.html

  仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

  『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/008.html

 釈尊は現代の言葉で言うところの「批判的合理主義」の立場にたっていたの
ではないかと私は考えています。

  ポパーの倫理思想(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/083.html

  ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/048.html

> 「真の仏弟子」とは何ですか?
> 「真の仏教」とは?

 私にとっては、「真の仏弟子」とは日蓮であり、「真の仏教」とは『法華経』
です。

> 念仏を唱えながらも、法華経を受持している人はどうなるのですか?
> 同義じゃないですよ。

 少し言葉が足りなかったようですね。申し訳ありませんでした。私が「同義」
と言いましたのは、

  日蓮が「念仏無間」と批判しているのは、『法華経』を難行・聖道門とし
  て捨て去ったところの「法然の念仏」である。

という意味です(「立正安国論」等をご参照下さい)。
 それと、『法華経』は一切の仏を釈尊一仏に統一する意図をもって構成され
ていますので、「法華経を受持していながら念仏を唱え」るというのは『法華
経』を充分に理解できていないことになると思います。

  denpa_man2001 さんへ(3)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前10時06分
    メッセージ: 11950
> 南無妙法蓮華経と唱えただけで、法華経の内容を受持する
> 場合と「同じ」効果が得られるという事にもなりません。

 もちろん、「南無妙法蓮華経」というのは「魔法の呪文」のようなものでは
ありませんので、『法華経』の内容を無視して、ただ「南無妙法蓮華経」とい
う記号列だけを眺めたり唱えたりしてみても、『法華経』の内容が理解できた
りはいたしません。以下の拙文をご参照下さい。

  題目論メモ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

 日蓮は、「此経を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉るべし」(「法華初心成
仏抄」、全集、p. 549)と言っております。

> 日蓮さんの「部分主義」を真っ向から否定し、そして、
> 時の執権に近付き、他宗を批判するような事をしては
> いけないとするのが、法華経或いは釈迦の教えです。

 日蓮は「部分主義」ではありませんし、「他人を訓戒し、教えさとせ」とい
うのは釈迦の教えです。
 『ダンマパダ』では以下のように説かれています。

  ─────────────────────────────────
  一一 まことではないものを、まことであると見なし、まことであるもの
     を、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、
     ついに真実に達しない。

  一二 まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、
     まことではないと見なす人々は、正しき思いにしたがって、ついに
     真実に達する。

  (中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波文庫)、岩波
   書店、1978年、p. 11)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)
     遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれ
     る。

  (同上、p. 21)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  二六八、二六九 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が
     〈聖者〉なのではない。秤を手にもっているように、いみじきもの
     を取りもろもろの悪を除く賢者こそ〈聖者〉なのである。かれはそ
     のゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤にかけ
     てははかるように)よく考える人こそ〈聖者〉とよばれる。

  (同上、p. 47)
  ─────────────────────────────────

  denpa_man2001 さんへ(4)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前10時08分
    メッセージ: 11951
> ですから、因果関係のないモノを結び付けて考えることは、
> 仏教的でないと言ってる訳です。

 日蓮が生きた時代においては、立正安国論に引かれている『金光明経』、
『大集経』、『仁王経』、『薬師経』等は誰にとっても仏説と思われていたも
のでしょう。ですから、当時としてはそのような考えも仏教的な考えとして通
用したのだと思います。しかしながら、そのような考えは現代においては通用
しないでしょう。

> 雨乞い合戦で勝ったとしても、それが「教え」の優位を示す
> 理由にはならない訳です。

 おっしゃる通りだと思います。日蓮は「三証」を言いますし、以下のように
も明言しております。

  ─────────────────────────────────
  法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず

  (「唱法華題目抄」、全集、p. 16)
  ─────────────────────────────────

> libraさんは日蓮宗よりの考え方なんですか?

 日蓮宗にはいろんな考えの方がおられますので、「日蓮宗よりの考え方」と
いう言い方そのものが無意味だと思います。

> そもそも、これこそが「絶対唯一」であるという立場を
> 認めていない立場にいますから。

 私は「批判的合理主義」の立場に立ちますので、「可謬主義」の立場に立ち
ます。従って、自らの立場は常に他者の批判に積極的にさらしていかねばなら
ないと考えています。しかし、そうであるからこそ、「『そうであるとも言え
るし、そうでないとも言える』などと、曖昧な態度ではぐらかす」のではなく、
自らの主張は「主張命題として明確に表明」していかねばならないと考えてい
ます。

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない
  (袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

  頑迷な心を捨てる(聖教新聞「智慧の泉─仏典散策─」より)
  http://fallibilism.web.fc2.com/014.html

  syohouzissou さんへ(1)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前11時37分
    メッセージ: 11952
 おはようございます、syohouzissou さん。

> 僕からの疑問、質問も今回で小休止することにします。

 私のような考えに触れられたのは、おそらくsyohouzissou さんにとっては初
めてのことだろうと想像します。
 将棋でも、自分が読んでいなかった手を相手に指された時には少しあせって
しまいます。しかしながら、「自分が読んでいなかった手」が必ずしも「善い
手」であるとは限りません。結論を急がずに、じっくりと検討してみて下さい。
もしも私の誤りにお気づきになられましたら、是非御教示下さい。

  ─────────────────────────────────
  少し考えれば、少し実証的になれば、虚構だと分かるはずのものなのに、
  しかし、考えさせずに、感情に訴える。感情に訴えるが故に、一見それは、
  分かりやすく見え、多くの支持を得るのです。

  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、
    p.116)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するということがな
  かったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづけることが
  できたのです。

  (友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、
    p.188)
  ─────────────────────────────────

> @釈迦仏法は末法無益」について
>
> 大聖人は「専修念仏」ならぬ「専修題目」を主張して、御図顕の曼荼羅への題
> 目読誦を信仰の第一義としたんじゃないでしょうか。

 宗祖は「此経を受持して南無妙法蓮華経と唱え奉るべし」(「法華初心成仏抄」、
全集、p. 549)と言わております。以下の拙文も参照されて下さい。

  題目論メモ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

  syohouzissou さんへ(2)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前11時44分
    メッセージ: 11953
> 「御義口伝偽書」なら御義口伝に匹敵するような本格的な法華経解説書を大聖
> 人は残していない事になる

 御書全体(五大部等は特に)がまさに「本格的な法華経解説書」であると思い
ます。また、宗祖は「註法華経」というものも残されています。

> A「創価学会は密教」について
> つまり南無妙法蓮華経は言葉だけでは表現しきれるものではない、と言ってい
> るんだと思います。

 「南無妙法蓮華経」も言葉であり、ちゃんと意味があります。
 ご参考までに、竜樹の言葉を引用しておきます。

  ─────────────────────────────────
  二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示
  〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)
  と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。

  (『根本中論偈』第二四章第八偈、三枝充悳訳『中論(下)』(レグルス
    文庫 160)、第三文明社、1984年、p. 639)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、
  ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。

  (同上第九偈、同上、p. 639)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。
  最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。

  (同上第十偈、同上、p. 641)
  ─────────────────────────────────

> B「御義口伝は偽書」について
>
> 「からぐらネット」見たんですけど偽書説がでてなかったんでリブラさんに教
> えてもらおうと思ってたんですけど・・・。

 「からぐらネット」には掲示板もありますし、山中氏のメアドも公開されて
いると思います。是非、御質問されて下さい。私がこのように言うのは、公平
を期してのことです。以下を参照されて下さい。

  拙文「初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった、註1
  http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html#1

> D「日蓮本仏論」について
>
> 僕は「久遠実成」は真実だと思います。仏説であるなら、釈尊自身が言った言
> 葉ですんで。

 残念ながら、『法華経』は仏弟子たちが「釈尊の教え」を再構成したもので
あって、「釈尊自身が言った言葉」そのままではないでしょう。

  syohouzissou さんへ(3)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前11時46分
    メッセージ: 11954
> 「僧宝;創価学会」には驚きました。リブラさんの説では「創価学会非仏教」
> なのに。その理由が非常に知りたいです。

 私は創価学会員ですから、サンガ(僧宝)が「創価学会」になるのは当然の
ことです。

  ─────────────────────────────────
   1.創価学会の現教学は根本的に間違っている。
  
   2.間違っているものは放置できない。
  
   3.創価学会の現教学を正しい方向に変更していくことがもし可
     能であるとすれば、それは学会員自身の手による以外にはあ
     りえない。
  
   4.私は祖母が、そして両親が学会員であったが故に仏教にめぐ
     りあえた。そのことに深く感謝している。
  
   5.私は学会版の御書によって日蓮仏法を勉強させて頂いたこと
     に深く感謝している。
  
   6.学会内部に留まり、学会がよりよくなるように批判し続けて
     いくことが「真の報恩」だと考える。
  
   7.従って、私は、私自身が「創価学会員でありつづけ」る必要
     性を強く感じる。

  (掲示板「Pay It Forward」過去ログ、
    「No.401 (2001/06/30 05:13) title:みかんさんへ(1)」 、
    http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#401)
  ─────────────────────────────────

 以下での議論も参照されて下さい。

  「創価学会関連リンク集」掲示板、No.2490より
  http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_12.html#sanga

  syohouzissou さんへ(4)   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午前11時47分
    メッセージ: 11955
> 「四箇の格言」も「大乗非仏説」で「天台の五時教判は誤り」ならば真実性は
> 疑わしくなりますね。

 私は「四箇格言」の思想性(批判精神)は間違っていないし、現代でも立派に
通用すると考えています。
  
  ──────────────────────────────────
   したがって念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇の格言は、悪口乱
  暴でも立教のための勧俗方便でもない。念仏の厭世的世界観・禅の自我中心
  主義・真言の迷信邪教的祈祷・律の形式的拘束主義に対する合理的批判であ
  り、娑婆即浄土観・護持正法思想・合理的啓蒙主義・自律的人格主義ともい
  うべき末法万年の法滅の世界を正しく生きぬく人文宗教としての倫理的理想
  を開示し、創造する建設的提言に外ならない。
   日蓮聖人の批判精神は、末法観の不安に乗じて新旧の倫理喪失の疑似規範
  が、人心を昏迷せしめ、社会を惑乱せしめ国家を衰退せしめる虚構に充ちた
  病的症候群となっていることを、深く洞察し強く剔決したのである。

  (伊藤瑞叡『日蓮精神の現代』、大蔵出版、1989年、p. 247)
  ──────────────────────────────────

> 何故本部はもっと真摯にリブラさんと向き合わないのか、チョット憤りを感じ
> ますね。

 「上から変える」という発想がそもそもの間違いなのでしょう。「下からの変
革」でなければ本当の意味での「変革」とは言えないのだと思います。

> また質問することがあれば、その時はよろしくご指導願います。有難う御座い
> ました。

 こちらこそ有難うございました。またお話できることを楽しみにいたしており
ます。

  リナ・インバースさんへ   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午後12時22分
    メッセージ: 11957
 おはようございます、リナ・インバースさん。

 今回は御質問ありがとうございました。

 ですが、その前に、これまで私がリナさんに申し上げてきたことについて、
リナさんご自身がどの程度納得し了解されたのかという点を確認させて頂きた
く存じます。納得されていない件につきましては、「納得する能はざる理由」
をきちんと提示されて下さい。もしもそれを拒否されるのであれば、リナさん
との対話は「合理的討論」にはとてもなりえないと判断せざるを得ません。そ
の場合には、残念ながらお付き合いしかねます。

  ─────────────────────────────────
  其の理にまけてありとも其の心ひるがへらずば・天寿をも・めしとれかし

  (「妙一女御返事」、全集、p. 1259)
  ─────────────────────────────────

 以下の拙文も参照して頂きたく存じます。

  釈尊が「西紀前949年に入滅した」などということはありえない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z017.html

  創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?
  http://fallibilism.web.fc2.com/z018.html

> 末法に於いて、釈尊の寿量品に効果がない、
> というか、「南無妙法蓮華経」の効果を
> 増幅させる、助ける効果はあるでしょう☆
> しかし、末法の衆生そのものをそれ単独で
> 救済するだけの力はない、そういうコトでは
> ないのですか?
>
> あなたの言っているのはそういうコトですか?

 「『法華経』と題目の関係」についての私の考えを以下の拙文にまとめてみ
ました。ご参照下さい。

  題目論メモ
  http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

  立場は一貫しています > denpa_manさん   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午後12時53分
    メッセージ: 11958
 こんにちは、denpa_man2001 さん。

> まず、libraさんは、一切経について、「釈迦の直説」である事を前提で話さ
> れていますか?

 もちろん私自身はそのような前提に立っておりません。

> どうも、libraさんのお立場には一貫性がないように思えます。

 私は、

  日蓮が自説を主張する際に用いた「根拠」の中には、日蓮が生きていた時
  代には通用したが現代では通用しなくなっているものがある。

ということを認めた上で話をしています。その上で、私自身は「現代でも通用
する根拠」を提示しつつ、日蓮教学の中心的結論(「根拠」ではなく)を擁護
しているのです。私の立場は一貫してこのような立場です。

> 大乗非仏説を唱えるなら日蓮さんに限らず鎌倉新仏教をはじめ日本の仏教は
> ほとんど否定する立場になります

 これは短絡的すぎるでしょう。「大乗非仏説」というのは、「釈迦が直接説
いた発言のそのままの記録ではない」ということでしょう。つまり、仏弟子た
ちが「自分達が理解している釈尊の教え」の「内容」を自分たちの言葉で再構
成したものだと言うことです。しかしながら、「大乗非仏説」を肯定するから
と言って、直ちに「大乗経典には釈尊が説いた教えの内容は一切盛り込まれて
いない」などということにはなりません。
 以下の資料を参照されて下さい。この資料は denpa_man2001 さんへのレス
(No. 11948)の中で、denpa_man2001 さんにご参照をお願いしておいた、
No. 11619 の記事の中ですでに提示してある資料です。

  最後は自分の信念によって選びとるしかない(田村芳朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/007.html

  議論が噛み合ってない > denpa_manさん   
投稿者: libra_2001jp
2001年11月09日 午後 4時53分
    メッセージ: 11960
 こんにちは、 denpa_man2001 さん。

> なるほど、日蓮さんの出した「結論」には賛成できるけども、「根拠」には
> 間違いがあった事を認めてらっしゃるという事でよろしいですか?

 はっきりと申し上げたハズですが。

  ───────────────────────────────────
   私は、
  
    日蓮が自説を主張する際に用いた「根拠」の中には、日蓮が生きていた時
    代には通用したが現代では通用しなくなっているものがある。
  
  ということを認めた上で話をしています。

  (本トピ、No. 11958)
  ───────────────────────────────────

> その上で、述べさせて頂くと、経典中に少しでも釈迦以外の言葉・思想が入
> っている可能性があるのであれば、その時点で「絶対」と言う事は出来ない
> のではないかということです。

 別に私は「絶対と言う事が出来る」などと言っておりません。私は「批判的合理
主義」の立場に立つので「可謬主義」の立場に立つとはっきりと申し上げました。

  ───────────────────────────────────
   私は「批判的合理主義」の立場に立ちますので、「可謬主義」の立場に立ち
  ます。従って、自らの立場は常に他者の批判に積極的にさらしていかねばなら
  ないと考えています。

  (本トピ、No. 11951)
  ───────────────────────────────────

 それと、前回提示した資料はちゃんと読まれたのでしょうか。

> 経典中に、libraさんのおっしゃるように「弟子の再構築」した言葉入って
> いるのなら、たまたま法華経の教えが好む弟子が、無上・最上等の言葉を入
> れる事は十分考えられます。
> もし、内容的なモノで法華経は最上かつ釈迦の出世の本懐であると思われる
> のであれば、具体的にどういう部分が他の経典に比べ、優れていると思いま
> すか?

 denpa_man2001 さんは、No. 11619 を読まれた上でそのようなことを言われてい
るのでしょうか? 全く議論が噛み合っていないように思います。

> また、日蓮さんが出した結論を擁護・・・というより賛同されているという
> 事だと思うのですが、中心的結論って何を指されておっしゃってますか?

 私がこれまでの議論の中で賛同してきた日蓮の主張を指すとご理解下さい。


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