経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)


 釈尊が、菩提樹の下において大悟せられてより、やがてかの鹿野苑(ろくやおん) において、その悟得せしところを、大いなる教えとして人々の前に展開するまでの数十日間、その間、釈尊の胸中に去来したであろう思いのかずかずについては、幸いにして、わたしどもは、それらをうかがい知るべき幾多の資料を、ふるき経典の中において見いだすことができる。しかし、それらの資料のあるものは、婆羅門(ばらもん)教の神々にちなんだ説話として説かれており、またあるものは悪魔の誘惑のかたちをもって語られており、またあるものは、その深き意味を従来の仏伝作者によって見逃されてきたものもあった。
 かつてソクラテスは、ヘラクレイトスの著作について言ったことがある。「わたしが理解し得たところのものは、すべて優れたものであった。わたしが理解し得なかったところのものも、また同様であろうと思われる。さればこの著作にむかうものは、熟練した潜水者であることが必要である」と。そのことばをしばしばわたしは経典を前にして思い出す。思い出しては、みずからをむちうつ鞭とする。
 文字の表面を摩して、もってみずから理解し得たりとすることほど、経典に対して恐るべきことはない。わたしどもはそこでは、けっして水面にとどまってはならない。水におどり込み、水を潜ってその深きところをたずねねばならない。熟練せる潜水者であることが、そこでもまた何よりも(のぞ)ましいことであるが、いまわたしどもは樹下の成道(じょうどう)より最初の説法にいたる間の、釈尊の胸中に去来したであろうところのものをうかがいたずねんとする時、そのことの必要をもっとも強く痛感せしめられる。なんとなれば、ここでたずね求められるものは、釈尊胸中の微妙なる心の動きであり、それの手がかりとして存するものは、神々の説話として、また悪魔の誘惑として語り伝えられた資料であるがゆえに、当然、わたしどもは、水をけって深みに潜りゆくよき潜水者となるにあらざれば、とうてい微妙なる釈尊胸中のうごきの片鱗にふれることを得ないであろう。

(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、pp. 70-71)

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