『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)


 釈尊や原始仏教をどのように捉えるかということに関して、今日の日本において最も大きな影響力を示してこられた方としてはだれしもが中村元博士を真先に挙げるであろうと思われます。その中村博士が、『原始仏教の思想』上という御著書の中で、仏教の特徴を知慧に見出して次のように述べておられます(3)

 仏教では特に知慧のはたらきを重視した。仏はすぐれた知慧のある人である。修行者は『まず第一に知慧を重んずる』のでなければならぬ。聖者、賢者は知慧(pañña(_))を有する人であるといって、知慧を称賛している。聖者は『思慮して(慎重に)世の中を歩む。』知慧のある人が()()()()()(ji(_)vate)のであり、もしも知慧を得ていないならば、たとい財があってもその人は()()()()()()(na ji(_)vate)のである。〔これに対してジャイナ教の聖典では仏弟子サーリプッタの言が伝えられているが、かれは知慧を重視し、知慧のはたらきによって苦しみを滅ぼすことができると説いていた。〕
 ところで仏教で知慧(pañña(_))というのは、分別対立を超えた知慧であって、矛盾律にもとづいた思考の所産である想い(pañña(_))または見解(ditthi)とははっきり区別されている。
 以上のように、中村博士は仏教が知慧を重んずる宗教であることを明瞭に指摘されているわけですが、問題は、その知慧が矛盾律に基づいた思考の所産とは全く次元の異ったものであるかのようにおっしゃっている点にございます。矛盾律に基づいた思考というのは、譬えていえば、バラはバラであってバラでないものではない、ということであり、あるいは、正しいことは正しいことであって正しからざることではない、ということであって、バラとバラでないもの、正しいことと正しからざることとが明確に「区別」され「判断」されているということであります。これに反して、バラとバラでないものとを混同してしまい、バラが同時にバラでないものであるとか、正しいことと正しからざることとを混同してしまい、正しいことが同時に正しからざることであるとかいうようなことを平然と言ってのけるようになりましたら、普通は、そういう人を指して矛盾律を犯していると言うわけです。それならば、中村博士がおっしゃるような「矛盾律にもとづいた思考の所産である想い(pañña(_))または見解(ditthi)とははっきり区別されている」知慧とは、矛盾律を犯すような働きのことをいうのでしょうか。なるほど、これが禅宗でいうような知慧であるのならば、そんな結果になっても構わないかもしれません。といいますのも、禅宗は確かに矛盾律を平気で犯す無分別の知慧を讃美し、中には、これに便乗して即非の論理とかいうおかしな論理を提起した禅者(4)もおられたほどでありますけれども、かかる禅宗は、第三回目あたりで述べたいと思っておりますように、仏教とは相反する考え方ですので今はひとまず置くとすれば、その御著書の研究範囲を原始仏教のみに限定されている中村博士は、さすがにそのような曖昧なものまでをも知慧だとは言い切っておられません。それどころか、先に引用した記述のすぐ後のところでは、「正しい見解(samma(_) - ditthi)」や「正しい思惟(samma(_) - san()kappa)」が知慧であるとの観点から次のように述べておられます(5)
 ところで〔仏教は〕邪った見解に従ってはならぬ、正しい智をいだけ、と教えているが、では正しい見解とは何であるか。恥ずべきことと恥ずべからざること、怖るべきことと怖るべからざること、罪あることと罪なきこととを弁別するのが「正しい見解」(samma(_) - ditthi)であり、これに反するのが「邪った見解」(miccha(_) - ditthi)である。また「正しい思惟」(samma(_) - san()kappa)とは堅固なもの(sa(_)ra)を堅固なものであるとして、また堅固ならざるものを堅固ならざるものと解することであると考えていたらしい。
 以上の中村博士の記述は、その註記からも分るように、全て『ダンマパダ(dhammapada,法句経)』に基づいてなされているのですが、博士は、その直後に『スッタニパータ(Suttanipa(_)ta,経集)』の若干の例を加えた上で、次のように結論を下しておられます(6)
 右のいずれの場合を考えてみても、甲と非甲とをはっきり区別する立場をとっているのであって、単なる無分別を説いているのではない。
 さて、以上で、中村博士の知慧に関する二箇所の記述をみたわけですけれども、前者の記述と後者の記述とは明らかに対立していると思われます。なぜかと申しますと、知慧とは、前者によれば、甲と非甲とを区別するような「分別対立を超えた」ものであり「矛盾律にもとづいた思考」()()()()ということになりますが、後者によれば、「甲と非甲とをはっきり区別する」「単なる無分別」ではない「矛盾律にもとづいた思考」()()()ということになってしまうからであります。従って、この二つの相反する立場を、もしも中村博士御自身が自らの判断の結果、ともに許容されているのだとすれば、中村博士御自身が矛盾律を犯していることになります。しかし、中村博士は、仏教論理学の必要性を強調された方でありますし、御自身も、宇井博士の後を受けられてこの方面でも実際御業績を上げられた方でもあります(7)から、中村博士が故意に矛盾律を犯すなどということは信じ難いことであります。従って、私は、今見たような矛盾は、恐らく、中村博士が、あまり御自分の判断を加えず、仏典に忠実に従って記述を試みたために自然と生じたことであり、従ってその矛盾は、仏典自体の記述の中に求められねばならぬと思うわけです。

(袴谷憲昭『道元と仏教──十二巻本『正法眼蔵』の道元──』、大蔵出版、1992年、pp. 63-65)

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(3) 中村元『原始仏教の思想』上(中村元選集、第一三巻、原始仏教3、春秋社、一九七○年)、四三五頁

(4) 鈴木大拙『金剛経の禅』中「般若即非の論理」(鈴木大拙全集、第五巻、岩波書店、三七一 - 三八八頁)参照。

(5) 中村元前掲書(前註3)、四四三頁

(6) 中村元前掲書(前註3)、四四四頁

(7) 代表的なものとしては、中村元「インド論理学の理解のためにI ダルマキールティ『論理学小論』(Nya(_)ya - bindu)」『法華文化研究』第七号(一九八一年三月)、一 - 一七八頁同「拝中律に関するインド論理家の見解」『印度学仏教学研究』第三○巻第二号(一九八二年三月)、五一六 - 五二一頁同「インド論理学の理解のためにII インド論理学・術語集成──邦訳のこころみ──」『法華文化研究』第九号(一九八三年三月)、一 - 二四一頁がある。なお、中村元博士の仏教論理学研究についてのより詳しい紹介については、川崎信定「中村元=大乗仏教の世界」『アーガマ』45(一九八四年三月)、六五 -六九頁を参照されたい。

(同上、pp. 164-165)


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