題目論メモ


○「成仏するためにはどうすればよいか?」というのが大問題≠ナある。

『法華経』は大問題≠ノ対する解法(「成仏する方法」)を解説している。

○一般に、経典では、重要な主張内容が神話的・文学的表現によって表されることが多い。

○神話的・文学的表現は、読み手が置かれている特定の時代的・社会的文脈を前提として説かれている。いわば、読者側に存在しているある種の「通念」が、「暗号解読のためのキー」となっている。

○経典が予想しているところの「読み手が置かれている時代的・社会的文脈」から遠く離れた時代的・社会的文脈に生きる者にとっては、経典の神話的・文学的表現の解読が困難になる。

○かくして、「『法華経』の解読」という問題が新たに小問題≠ニして発生することになる。

○小問題≠解くためには、「熟練した潜水者」となって、「暗号解読のためのキー」を自力で発見しなければならない(1)。いわば、時空を超えて経典の中に入り込むようにして、その経典の真意にせまらなければなければならない。

○日蓮は『法華経』をその身に読むことによって、ついに『法華経』の真意(縁起=一念三千(2))にまで到達した。その際にポイントとなったのは、「永遠に生き続ける釈尊」=『法華経』≠ニいう視点であった〔02.11.18 補註〕。日蓮はそのポイントを「南無妙法蓮華経」と表現した(「永遠に生き続ける釈尊を説く一品ニ半」=「南無・妙法蓮華経」)。

○「南無妙法蓮華経」は、幾何の問題に譬えるならば、小問題≠解くために必要な「補助線」のようなものである。

○よほどの宗教的天才(熟練した潜水者)でなければ、「南無妙法蓮華経」という「補助線」を教わることなしに、自力で小問題≠解くことは不可能である。「南無妙法蓮華経」というのは、「それなくしては問題を解きえない」ような、そんな決定的な「補助線」である。

○宗教的天才でない普通の人間でも、「南無妙法蓮華経」という「補助線」を教わることによって小問題≠解くことができるようになる。小問題≠解くことによって大問題≠フ解が得られ、成仏できる。しかし、この場合、言うまでもなく、『法華経』を知らずに「南無妙法蓮華経」という「補助線」だけを知っていたとしても全く意味がない。その意味で、『法華経』は成仏のために必要不可欠なものである。『法華経』を抜きにして、「南無妙法蓮華経」という「補助線」だけから大問題≠フ解に到達するなどということはおよそありえない。

○「南無妙法蓮華経」という記号列には、上記の「補助線」という意味以外にも別の意味がある。それは、「大問題≠フ解を一言で言い表したもの(エッセンス)」という意味である。すなわち、「妙法蓮華の法門に帰依したてまつる」という意味である(3)。「妙法蓮華の法門」こそが「釈尊の智慧の結晶」なのであり、 報身であり、現在も生きつづける「人間・釈尊の精神(スピリット)」である(4)。だから、日蓮にとっては「妙法蓮華経」の五字〔05.08.25 補註〕が「本門の教主釈尊」であり「本尊」なのである(5)

「妙法」=「縁起・空・無我」
「蓮華」=「菩薩行」

○ただし、「南無妙法蓮華経という記号列が大問題≠フ解のエッセンスである」ということの意味は、『法華経』なくしては理解不可能である。「南無妙法蓮華経とはどういう意味か?」という小問題≠解くためには『法華経』が必要不可欠である。『法華経』から切り離された「南無妙法蓮華経」という記号列をいくら眺めたり、唱えたりしてみても、「大問題≠フ解」に到達することはありえない。


(1) 増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、pp. 70-71を参照。

(2) 《縁起》と《一念三千》の関係については、新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、263-269ページを参照されたい。このことについては拙文「タツノコさんとの対話」http://fallibilism.web.fc2.com/z015.html)でも論じた。

(3) 日蓮は「妙法蓮華経」の五字に「釈尊の因行果徳の二法」が具足していると理解し、五字(釈尊の因行果徳)を身・口・意で受持することによって成仏できると説いた(「観心本尊抄」、全集、p. 246)。釈尊の「因行」である《菩薩行》は「蓮華」の二字に具足し、《諸法実相(縁起)を如実知見した》という釈尊の「果徳」は「妙法」の二字に具足しているということができよう。私は以前、以下のように述べた。


 「南無妙法蓮華経」は「宇宙生命」の名前などではありません。現在も生きつづける「人間・釈尊の精神(スピリット)」であるところの『法華経』に南無したてまつるということです。「妙法蓮華の法門」に帰依するということです。「妙法蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華) という修行によって真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しでも真理(妙法)に近づいたら、それを行かしてますます菩薩行(蓮華)に励む(=下化衆生)」という教えです。

(「創価学会関連リンク集」掲示板での発言、
「宇宙生命論はブラフマニズムであり、密教である 投稿者:Libra 投稿日:2001/03/27(Tue) 01:33」より、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html#myouhourenge


 拙文「本尊論メモ」http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html)の「『経題釈』との関係」の項も参照されたい。
 「妙法(縁起・空)」と「菩薩行(慈悲行)」の関係については、小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 436-446 を参照されたい。
 「蓮華」と「菩薩行」の関係については以下を参照されたい。

 涌出品()には、「蓮華の水に染まらぬごとく、今ここに、かれらは大地をさいて集まりきたる」(不染世間法(ふぜんせけんぼう) 如蓮華在水(にょれんげざいすい) 従地而涌出(じゅうじにゆじゅつ))という句があり、菩薩のありかたを蓮華を借りて説いた。すなわち、蓮華は泥水の中でしか生ぜず、しかも泥水に染まらず、美しい花を咲かせることを菩薩にあてはめたものである。そういうことで、また『法華経』の題目(妙法蓮華経)にもとりいれられたのである。

(田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、p. 53)


(4) 拙文「仏身論メモ」http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html)を参照されたい。

(5) 拙文「本尊論メモ」http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html)を参照されたい。

2001.11.09
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〔02.11.18 補註〕 末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、116-118ページも参照されたい。


〔05.08.25 補註〕 拙文「題目は呪文ではない」http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html)の〔05.08.25 補足〕も参照されたい。


〔01.11.22付記〕
 本稿の註3の中で、「蓮華」という語と「菩薩行」の関係について少し触れているが、これについては以下の拙文で少し詳しく補足したので参照されたい。

蓮華不染喩のパドマと経題のプンダリーカについて
http://fallibilism.web.fc2.com/z020.html

〔02.11.18付記〕
 本日、註2と註3に加筆しました。


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