本尊論メモ |
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※ちなみに、上の掲示板での議論は、その後、以下から始まる議論(「法体」と「永遠に生き続ける釈尊」との関係についての議論)に継続致しました。「No.166 (2001/06/14 13:24) title:こんにちわ(^o^)丿 Name:MOMO」
(http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#166)
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※釈尊(応身)と上行菩薩が、題目(報身)と多宝如来(法身)を間にはさむ格好で向きあっているということとともに、中尊(「妙法蓮華経」=「本門の教主釈尊」=「永遠に生き続ける釈尊」)の軸を中心として、釈尊→天台→伝教→日蓮という順番で、ジグザクにお名前が配置されていることにも注目すべきであると思います(法脈=「永遠に生き続ける釈尊」)。
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2001.09.19
Copyright (C) Libra(藤重栄一), All Rights Reserved.
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html
〔01.09.29付記〕
本稿で前提されている仏身観については以下の拙稿を参照されたい。
仏身論メモ
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html
〔01.12.10付記〕
本日、会員制掲示板に、不軽さんへのレスとして以下の拙文を投稿した。
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〔02.04.25付記〕
曼荼羅に関する補足説明として、以下の拙文を引用しておく。
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〔02.04.29付記〕
『大白蓮華』第624号(2002年5月)の pp. 85-87 に掲載された中山英子氏の「御本尊に認められた広布誓願の儀式」という一文では、曼荼羅についての創価学会の従来の説明(密教的=宇宙生命論的)とは根本的に異なる説明がなされているように見える。中山氏の説明に対する私のコメントはLeo's home pageに掲載されているので是非参照されたい。
ノートNo.006 本尊観について
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
〔05.08.26 補足〕
日蓮は、五字には「一念三千の法門」がつつまれていると主張するが、「一念三千の法門」の本質は無我説・縁起説である。以下を参照されたい。
「仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)」に付した〔引用者註2〕
http://fallibilism.web.fc2.com/082.html#honzon
〔05.08.26 補足2〕
本稿の冒頭に記したように、「報恩抄」における「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(全集、p. 328)という日蓮の主張と、実際に日蓮によって図された御本尊(曼荼羅)の相貌を見くらべてみれば、曼荼羅の中尊である「妙法蓮華経」の五字が「本門の教主釈尊」を図したものであることがわかります。
「報恩抄」における上記主張の中にあらわれている仏は、
「本門の教主釈尊」
「宝塔の内の釈迦」
「多宝」
「諸仏」
の4つですが、これらの仏は、三身説における報・法・応の三身と以下のように対応するとわたしは考えています。
報身仏:「本門の教主釈尊」
応身仏:「宝塔の内の釈迦」および「諸仏」
法身仏:「多宝」
世親の『法華論』には「示現多宝仏身一体。摂取一切諸仏真法身故。」(大正蔵第26巻、p. 9c)とあり、智■の『法華文句』には「多宝表法仏。釈尊表報仏。分身表応仏。」(大正蔵第34巻、p. 113a)とありますから、伝統的な法華経解釈に従えば、上のように対応すると考えるのが自然だと思います。このように考えてみると、法身中心の思想である密教に対して、日蓮の思想は報身中心であり、そういう考えが曼荼羅にもよく表われていると思います。
日蓮が多宝仏をどのように解釈していたかについては、「報恩抄」の「両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏」という表現も注目されてよいと思います(以下参照)。
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〔05.09.02 補足〕
以下を参照されてください。
「宇宙生命論は仏教ではない」の〔05.09.02 補足2〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html#hosoku050902b
〔05.09.24 補足1〕
『法華経』は空思想についての哲学的な議論を展開するものではなく、空思想を「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした」[*1]ものであるといえます。空思想の実践とは菩薩行であり[*2]、『法華経』は全編にわたって菩薩行(=空思想の実践)を説いています。しかし、空について直接説いている箇所がないというわけではありません。本文では空に言及している箇所を羅什訳からひろっていますが、羅什訳に欠けている部分にも空に言及している箇所がありますので、藤田宏達先生の解説とともに以下に引用しておきます。
盲目の人が眼を得るのと同じように、声聞の道を求める人々と独覚の道を求める人々はそのように見られるべきである。彼らは生死流転の煩悩の足かせを絶ち切る。煩悩の足かせから解脱を得たものは三界の六趣から解き放たれる。このことから、声聞の道を求めるものは次のように知り、このように言うのである。「このうえ、さらに悟り得(証得し)なければならない法はない。私は涅槃を得たのである」と。そのとき、如来は彼に法を説かれる。「一切の法を悟り得ていないものに、どうして涅槃がありえようか」と。世尊は彼を菩提に至り着くよう教え導かれる。菩提心を起こした彼は〔いまや〕生死流転のなかにあるのでもなく、涅槃を得〔てそれに満足し〕ているのでもないもの〔すなわち菩薩〕となる。彼〔菩薩〕は十方において、三界のものは空であると知り尽くし、世間は変化のごとくであり、幻のごとくであり、夢、陽炎、反響のごときものと見るのである。彼は一切の存在(法)は生ずることもなく、滅することもなく、束縛されているのでもなく、解き放たれているのでもなく、暗黒でもなく、光明でもないと見る。このようにはなはだ深遠なもろもろの法〔の実相〕を見るほどのものは、〔この〕三界の一切のものが、人々のそれぞれに異なった考え方や志向で満ちあふれていることを、〔表相だけでは〕見ないという態度によって見るのである。(中村瑞隆『現代語訳 法華経 上』、春秋社、1995年、pp. 135-136)
これによると、声聞・独覚の二乗、すなわち部派仏教の立場を批判して示される『法華経』の立場が「空」であることは明らかである。その空を説明して、「一切の諸法を生ぜず、滅せず云々」と説くのは、疑いもなく『般若経』の空の思想の影響を受けたものであり、また三界を化現・幻・夢・陽炎・響のように見るべきことを説く点も、『般若経』において熟した表現に対応するものといってよい。だから、『法華経』の説く空観は『般若経』に示される空観を継承したものと見ることができるのである。(藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、1969年、p. 397)
[*1] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、1969年、p. 400。
[*2] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/069.html
〔05.09.24 補足2〕
曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いており[*1]、西を向いている釈尊や多宝如来[*2]とは向かい合っています。このことすら知らずに曼荼羅に向かって手を合わせている人も多いのかもしれません。このことを知っている人の中にも、「南無妙法蓮華経 日蓮」というふうに、中尊の五字と日蓮とを強引に結びつけて、日蓮本仏論的に解釈する人がいます[*3]。中尊の五字と日蓮とを結びつけて解釈することがこじつけでしかないことは、日蓮の曼荼羅をいくつか眺めてみれば明らかなのですが[*4]。
日蓮に上行再誕の自覚があったということは確実な資料からみても明らかなので[*5]、曼荼羅の中の日蓮は東を向いている[*6]とわたしは思います。
註
[*1] 曼荼羅では、我々から見て左が北で、右が南となっています(次註参照)。宝塔の中の北の上座に釈尊が、南の下座に多宝如来が西を向いています。北が上座で南が下座となっているのはインドの「右尊左卑」の考えによるものです(法華経はインドの霊鷲山で説かれたという設定になっていますので)。ちなみに、日寛の「三宝抄」にも「仏宝は月氏風に准ずる故に右尊左卑也」とあります。
右尊左卑の考えからすれば、最上位の弟子である上行菩薩は、弟子の中でも最前列の右にいることになるでしょう。もし上行菩薩が釈尊や多宝如来と同じく西を向いているとすると、北の上座にいなければおかしく、我々から見て左にいなければなりません。しかし、曼荼羅では、我々から見て右に上行菩薩がいます。このことから、曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いていることがわかります。
上行菩薩が釈尊と向かい合っているということは、法華経のストーリーからすればあたりまえのことなので、上記説明は本来なら不要だろうと思うのですが、曼荼羅の構造それ自体からも明らかであるということを強調するためにあえて書いておくことにしました。
[*2] 本尊論メモ(Libra)、〔02.04.25付記〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#fuki020425
[*3] 本尊観について(Libra&Leo)
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
[*4] 例えば、以下の漫荼羅を参照されてみて下さい。
万年救護本尊 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
第78漫荼羅 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/078.html
今此三界本尊 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/090.html
[*5] 初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった、〔05.08.25 補足〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html#hosoku050825
[*6] 以下を参照。
【日蓮は東を向いている】 日蓮の「上行再誕論」は、日蓮の宗教の根幹といってもいいとわたしはおもう。「上行再誕論」を否定する人は、御本尊の「「虚空会の儀式」という立体的な情景」(中山英子さん)をまったく理解していないのではないかともおもう。
御本尊においては、「教主釈尊」が「北の上座」に西を向いておられ、それと「向かい合って」「上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き」におられる。で、「勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌している」ので、このとき、われわれは『法華経』の中に入り込んで、「教主釈尊」と向かい合って東を向いている。このとき、日蓮は「無数の地涌の菩薩」の「リーダー」としてわれわれの先頭にいるはずである。われわれと同じく東を向いて。
上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き、つまり釈尊・多宝如来と向かい合っているのです。(中山英子「御本尊に認められた広布誓願の儀式」、『大白蓮華』第624号、2002年5月、p. 87b)
勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌しているのです。(同上、p. 87c)
(掲示板「創価学会をみんなで考えよう」の「創価学会(SGI)は世界宗教をめざす」スレッド(No. 609)、[投稿日: 2003/09/13(土) 01:05]、http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2_003.html)
〔06.08.09 補足〕
以下を参照されてください。
『法華経』における縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/129.html