本尊論メモ


「報恩抄」との関係

報恩抄送文には
御本尊図して進候
(学会版、p. 330)
とありますから、報恩抄の
日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし
(学会版、p. 328)
という御文は、曼荼羅に即して理解されなければならないでしょう。で、実際、曼荼羅において宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩が何の脇士となっているかと言えば、「妙法蓮華経」ですね。このことから、「本門の教主釈尊」とは「妙法蓮華経」を指していることが分かります。従って、本宗の本尊観は極めて明瞭であって、本門法華経の法体たる五字の題目が本尊なのである。(勝呂前掲書〔02.04.04 補足:勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、p. 149)と言えると思います〔05.08.26 補足1〕

(42 名前: Libra 投稿日: 2001/06/06(水) 11:20、
http://green.jbbs.net/study/bbs/read.cgi?BBS=339&KEY=991566193

※ちなみに、上の掲示板での議論は、その後、以下から始まる議論(「法体」と「永遠に生き続ける釈尊」との関係についての議論)に継続致しました。
「No.166 (2001/06/14 13:24) title:こんにちわ(^o^)丿 Name:MOMO」
http://fallibilism.web.fc2.com/P_I_F_log.html#166

「経題釈」との関係

 「真の菩薩」というのは「自分を捨てきる」ことが出来る人のことを言うのだと僕は思います。「不自惜身命」です。自らの本性を「空性」と見たとき、人は「真の菩薩」になることができるのではないのでしょうか。

(「川蝉さんへ(2/3)」( No: 302) 、
投稿者:Libra 00/07/10 Mon 11:46:24、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_301_400.html#302

 法華経は「空・縁起(因縁)」の思想を説いています〔05.09.24 補足1〕 〔06.08.09 補足〕
 薬王よ、若し善男子、善女人ありて、如来の滅後に、四衆のために、この法華経を説かんと欲せば、云何んが、応に説くべきや。この善男子、善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、しかしてすなわち、応に四衆のために広くこの経を説くべし。如来の室とは、一切衆生の中の大慈悲心、これなり。如来の衣とは、柔和忍辱の心、これなり。如来の座とは、一切法の空、これなり。この中に安住して、然して後に、懈怠ならざる心をもって、諸の菩薩及び四衆のために、広くこの法華経を説くべし。
(「法師品」、『法華経(中)』(岩波文庫)、p. 160〔註:p. 158の誤り〕
 復次に、菩薩・摩訶薩は、一切法は、空なり、如実の相なり、顛倒ならず、動ぜず、退せず、転せず、虚空の如くにして所有の性無く、一切の語言の道断え、生ぜず、出でず、起らず、名無く、相無く、実に所有無く、無量・無辺・無礙・無障なりと観ぜよ。但、因縁をもって有るのみ、顛倒より生ずるが故に常・楽と説くなり。かくの如きの法相を観ずる、これを菩薩・摩訶薩の第二の親近処と名づくるなり」と。
(「安楽行品」、同上、p. 248)
 「あまりにも簡略すぎるではないか」と言われる方がおられるかもしれませんが、そういう時は「空・縁起」を主題として理論的に解説している経・論(例えば、般若経や中論など)を参照すればよいというのが日蓮大聖人のお立場です。
 五には法華経と申すは開経には無量義経[一巻]法華経八巻結経には普賢経[一巻]上の四教四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり、法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり、爾前の諸経は一経一経を習うに又余経を沙汰せざれども苦しからず、故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」文、法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の為とは法華経の為に一切の経を説くと申す文なり。
(「一代聖教大意」、全集、p. 397-398)
般若経開会の文は安楽行品の十八空の文
(同上、p. 404)

([1903へのレス] 名誉片山さんへ、
投稿者:Libra 投稿日:2001/04/02(Mon) 00:47、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html

 私の理解は、以前申し上げましたように、
「南無妙法蓮華経」は現在も生きつづける「人間・釈尊の精神(スピリット)」であるところの『法華経』に南無したてまつるということです。「妙法蓮華の法門」に帰依するということです。「妙法蓮華の法門」とは、「菩薩行(蓮華) という修行によって真理(妙法)に近づき(=上求菩提)、少しでも真理(妙法)に近づいたら、それを行かしてますます菩薩行(蓮華)に励む(=下化衆生)」という教えです。
というものです。  ここで、「妙法(サッダルマ、正法)」とは何かが問題となりますが、私は「妙法=縁起」と理解しています。   

1.中村瑞隆先生の『現代語訳 法華経 下』によれば、『法華経』は「法身偈」(縁起を説く詩)でしめくくられている。

いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。
(中村瑞隆『現代語訳 法華経 下』、春秋社、1998年、p. 221)
 舎利弗が最初に仏教に出会うのは、『法身偈』という偈文によってなのです。舎利弗はあるとき、釈尊の弟子に出会うのです。その仏弟子はアッサジというのですが、その姿にうたれた舎利弗は、「あなたの先生はどういう教えをお説きになるのですか」と尋ねるのです。そうするとアッサジは、
諸々の存在は原因から生じる。如来はそれらの原因を説きたもうた。またそれらの止滅をも説かれた。大沙門はこのように説くおかたである。(山口益『仏教聖典』一一三頁参照)

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、p. 124)

2.羅什訳・方便品の「十如是」(『法身偈』と同じく、舎利弗に対して示された)は『大智度論』を参考にして補訳されたものであり、これも「縁起」の説明である。

3.法華経は「空・縁起(因縁)」の思想をちゃんと説いている(「No.2193」参照)。

(ハルさんへ Libra - 2001/04/16(Mon) 04:46 No.2430、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_12.html


「報・法・応の三身」との関係

> 本覚思想>己心本尊論(興門徒)>凡夫本仏論
>
> Libraさん、少し問答してもらえますか。

 よろしくお願いいたします。

> 衆生本有の妙理を妙法蓮華経の法体とし、妙法蓮華経の題目を信受することに
> より、法体が凡夫の身に顕れ、顕れた身が本仏という主張で宜しいですか。

 ちょっと時間がないので、「図式的表現」になることをご容赦下さい。

 ○衆生本有の妙理=「空性」=「縁起の法」=「法身」

 ○妙法蓮華経  =「縁起の法」(法身)を覚った釈尊(応身)の智慧(報身
              の結晶たる経典(仏滅後の応身)。但し、報身が正意。

 ○妙法蓮華経の題目を信受する = 妙法蓮華経の受持(自行・化他)
                        ↑題目は「法華経の神(たましい)」
                        だから

 ○妙法蓮華経を“能く受持する”人間は「応身」
      →あくまでも“能く受持する”ことが必要条件

   ●法華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、(…)法華経
    の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」
    (「上野殿後家尼御返事」、全集、1504頁)

   ●吾が滅後の悪世に 能く是の経を持たん者をば
    当に合掌して礼敬して 世尊に供養するが如くすべし
    (法師品第十)

> 問う、衆生本有の妙理、妙法蓮華経の法体とは如何なるものですか。

 ○衆生本有の妙理=「縁起の法」=「法身」

 ○妙法蓮華経の法体 = 妙法蓮華経に説かれている智慧
                   (釈尊の智慧の結晶=報身)

 ○「妙法蓮華経の法体」を“能く受持する”ことによって、人間は「応身」
  の「如来使」となる。

(「みなさまへのレス」(No: 87)、
投稿者:Libra 00/05/11 Thu 10:46:10、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_001_100.html#87

 曼陀羅にからめて言えば、釈迦は「応身」を、多宝は「法身」を、中尊の「南無妙法蓮華経」は「報身」をあらわしている〔05.08.26 補足2〕のではないのですか?

(「shamon さんへ(Re: 凡夫本仏論)」 (No: 90 )、
投稿者:Libra 00/05/12 Fri 11:20:16、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_001_100.html#90


「付嘱の儀式」との関係

> 宗祖と曼陀羅本尊と題目の関係を示し、何を信じ、どうしてそれが成
> 仏の方法となるのか、今一度説明していただければと思います。

 これまでの議論がその説明になっていると信じたいのですが、今一度
かいつまんで説明しますと、

 ○題目  =釈尊の智慧の結晶である『法華経』の肝心。
         釈尊の智慧の神髄の神髄。
 ○曼陀羅 =虚空会の付嘱の儀式。
         釈尊(父)から上行菩薩(子)へ「仏の智慧の全体」で
         あるところの「題目」が付嘱されているまさにそのシー
         ン。
 ○宗祖  =現実に『法華経』を色読・如説修行して、「釈尊の智慧」
         を見事に体現された三徳者(仏)。教相に説かれている
         上行菩薩の役割を現実に果たされた。
 ○衆生  =「曼陀羅」を信じて「題目」を唱え、『法華経』を如説
         修行することによって「仏の智慧の全体」を授かること
         ができる。

(「shamonさんへ」( No: 212)、
投稿者:Libra 00/06/20 Tue 12:49:13、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_201_300.html#212

僕は「釈尊が残された智慧の結晶(教法)」が「報身」であると考えています。つまり、『法華経』が「報身」ということです。曼陀羅に即して言えば、中尊である「南無妙法蓮華経」が「報身」を、多宝如来が「法身」を、釈尊が「応身」を象徴していると見ます。あくまでも「報身正意」であり「報中論三」の立場です。その上で三身相即の論理から宗祖は「無始無終の古仏」と言われたのだと理解しています。また、曼陀羅では、釈尊と上行菩薩が題目と多宝如来を間にはさむ格好で向きあっていますが〔05.09.24 補足2〕、それは、「永遠の真理(法身)」を包摂する「釈尊の智慧(報身)」が釈尊(父)から上行菩薩(子)に付嘱されているまさにそのシーンを象徴的に表現したものであると見ます。

(「Jonathanさんへ(1/3)」( No: 290)、
投稿者:Libra 00/07/07 Fri 12:05:27、
http://fallibilism.web.fc2.com/Beat_Me_201_300.html#290

※釈尊(応身)と上行菩薩が、題目(報身)と多宝如来(法身)を間にはさむ格好で向きあっているということとともに、中尊(「妙法蓮華経」=「本門の教主釈尊」=「永遠に生き続ける釈尊」)の軸を中心として、釈尊→天台→伝教→日蓮という順番で、ジグザクにお名前が配置されていることにも注目すべきであると思います(法脈=「永遠に生き続ける釈尊」)。

>永遠の生命とは、宇宙の根源のことでもあり、御本尊のことなのです。(かつや氏)
>永遠の生命を記号化したものが御本尊です。(三色旗氏)

 御本尊は「釈尊から本化の菩薩への正法付嘱の儀式」の表現であって、「宇宙の根源」の表現でもなければ、「永遠の生命」の表現でもありません〔05.09.02 補足〕。「令法久住」の表現です。
 もし、「宇宙の根源」の表現とみるならば、それは「密教のマンダラ」になってしまいます。

([1903へのレス] 宇宙生命論はブラフマニズムであり、密教である、
投稿者:Libra 投稿日:2001/03/27(Tue) 01:33、
http://fallibilism.web.fc2.com/link_log_10.html

2001.09.19
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〔01.09.29付記〕
 本稿で前提されている仏身観については以下の拙稿を参照されたい。

仏身論メモ
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html

〔01.12.10付記〕
 本日、会員制掲示板に、不軽さんへのレスとして以下の拙文を投稿した。

>(法華経の本門)
> 中尊: 釈尊 脇士: 四菩薩
> ということですね。

 さらに中尊の中身を詳しくみると、
中尊:本門の教主釈尊(報身)
脇士:宝塔の内の釈迦(応身)、多宝(法身)
となるのだろうと思います〔05.08.26 補足2〕

日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし
(「報恩抄」、全集、p. 328)

(会員制掲示板[902] 、本尊論 > 不軽さんへ 、 投稿者:Libra 投稿日:2001/12/10(Mon) 05:43)

 しかし、「宝塔の内の釈迦=vと「永遠に生き続ける釈尊=vを別々の形で「木像」にするのは不可能なように思えます(やってもたぶんヘンになるだけだと思う)。「宝塔の内の釈迦=vを脇士として表現するのであれば、「永遠に生き続ける釈尊=vは五字で表現して、所謂「一塔両尊四士」の「木像」にせざるを得ないように思います。(ただし、このような木像を「一塔両尊四士」と表現することには問題があると私は思います。というのも、「妙法蓮華経の五字」こそが中尊であるのに、それを「一塔」などと言うのはオカシイと思うからです。)

 (報中論三の)三身即一の立場から、三身(釈尊、釈迦、多宝)を一身の釈尊として「木像」で表現して、「一尊四士」にする方が「木像の本尊」としてはスッキリするような気がしますね。ただし、この場合には、それを信仰の対象とする信者の側に、すでに、「妙法蓮華経の五字=釈尊」、「報中論三」、「三身即一」という意識が確立していることが要請されるだろうと思います。そういう意味では、上級者向け(こういう言い方をしていいのか分かりませんが)だと思います。宗祖の場合には、ご自身が「脇士」であられますから、釈尊像オンリーでオッケーなわけですね。そう見れば、宗祖の御一生そのものが「本尊」になっているとも言えます。

 私自身は、やはり「曼荼羅」が最も噛み砕かれて分かり易い本尊の形式だと思います。広宣流布が実現した時点では「一尊四士」の方がふさわしいのかもしれませんし、宗祖もそれを目指されていたのかもしれないとは思いますが。

(同上)


〔02.04.25付記〕
 曼荼羅に関する補足説明として、以下の拙文を引用しておく。

 曼荼羅を三次元的に見れば、宝塔は(我々から見て)東の方位に、西向きに開いて′嘯チているのではないでしょうか。曼荼羅では、(我々から見て)左が北で、右が南となっていますから、そのように考えるのが自然だと思います。寛師も宝塔は「西向き」だと言われていますね。

 故に報恩抄上終に云く「教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う」等云云。当に知るべし、宝塔既にこれ西向きなり。
(日寛「観心本尊抄文段」、創価学会教学部編『日寛上人文段集』、聖教新聞社、1980年、p. 478)

(独歩さんへのメール、[メール送信日時: 02 02 05 (火) 14:33])

 方位を意識して書かれた曼荼羅においては、右下隅に「南方増長天王」が来ていますね。例えば、「御本尊集第十三」(『山中喜八著作選集T 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、p. 133)など。この配置だと、三次元的にスッキリとイメージ出来ます。

(同上、[送信日時:02 02 05 (火) 16:54])


〔02.04.29付記〕
 『大白蓮華』第624号(2002年5月)pp. 85-87 に掲載された中山英子氏の「御本尊に(したた)められた広布誓願の儀式」という一文では、曼荼羅についての創価学会の従来の説明(密教的=宇宙生命論的)とは根本的に異なる説明がなされているように見える。中山氏の説明に対する私のコメントはLeo's home pageに掲載されているので是非参照されたい。

ノートNo.006 本尊観について
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html

〔05.08.26 補足〕
 日蓮は、五字には「一念三千の法門」がつつまれていると主張するが、「一念三千の法門」の本質は無我説・縁起説である。以下を参照されたい。

「仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)」に付した〔引用者註2〕
http://fallibilism.web.fc2.com/082.html#honzon

〔05.08.26 補足2〕
  本稿の冒頭に記したように、「報恩抄」における「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし(全集、p. 328)という日蓮の主張と、実際に日蓮によって図された御本尊(曼荼羅)の相貌を見くらべてみれば、曼荼羅の中尊である「妙法蓮華経」の五字が「本門の教主釈尊」を図したものであることがわかります。
 「報恩抄」における上記主張の中にあらわれている仏は、

    「本門の教主釈尊
    「宝塔の内の釈迦
    「多宝
    「諸仏

の4つですが、これらの仏は、三身説における報・法・応の三身と以下のように対応するとわたしは考えています。

    報身仏:「本門の教主釈尊
    応身仏:「宝塔の内の釈迦」および「諸仏
    法身仏:「多宝

 世親の『法華論』には「示現多宝仏身一体。摂取一切諸仏真法身故。(大正蔵第26巻、p. 9c)とあり、智(〔豈+頁〕)『法華文句』には「多宝表法仏。釈尊表報仏。分身表応仏。(大正蔵第34巻、p. 113a)とありますから、伝統的な法華経解釈に従えば、上のように対応すると考えるのが自然だと思います。このように考えてみると、法身中心の思想である密教に対して、日蓮の思想は報身中心であり、そういう考えが曼荼羅にもよく表われていると思います。
 日蓮が多宝仏をどのように解釈していたかについては、「報恩抄」の「両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏」という表現も注目されてよいと思います(以下参照)

 曼荼羅の種子の件については、
犀角独歩さんとの対話(Libra・犀角独歩)
http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html
でも少し触れましたが、これも日蓮による密教の開会の試みの一つだと私は理解しています。密教の開会という問題に関しては、日蓮が《(真の?)大日如来》=《『法華経』の多宝如来》と理解していることが注目されてよいと思います。つまり、「報恩抄」に、

月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし
(「報恩抄」、全集、p. 310)
とありますが、ここでは、

  南の下座:両部の大日如来の主君=(真の?)大日如来=多宝仏

  北の上座:教主釈尊

となっているわけです。おそらく多宝仏というのは法身仏の象徴として理解されていたのではないかというのが私の推測です。ちなみに、世親の『法華論』には「示現多宝仏身一体。摂取一切諸仏真法身故。(大正蔵第26巻、p. 9c)とあり、『法華文句』には「多宝表法仏。釈尊表報仏。分身表応仏。(大正蔵第34巻、p. 113a)とあります。法身中心の思想である密教に対して、日蓮の思想は報身中心で、そういう考えが曼荼羅にもよく表われているのではないかというのが私の考えです。

日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
http://fallibilism.web.fc2.com/106.html

(「創価学会をみんなで考えよう」での発言(No. 396)、[投稿日: 2002/10/09(水) 23:04]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html#tahou


〔05.09.02 補足〕
 以下を参照されてください。

「宇宙生命論は仏教ではない」の〔05.09.02 補足2〕
http://fallibilism.web.fc2.com/z001.html#hosoku050902b

〔05.09.24 補足1〕
 『法華経』は空思想についての哲学的な議論を展開するものではなく、空思想を「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした[*1]ものであるといえます。空思想の実践とは菩薩行であり[*2]『法華経』は全編にわたって菩薩行(=空思想の実践)を説いています。しかし、空について直接説いている箇所がないというわけではありません。本文では空に言及している箇所を羅什訳からひろっていますが、羅什訳に欠けている部分にも空に言及している箇所がありますので、藤田宏達先生の解説とともに以下に引用しておきます。


盲目の人が眼を得るのと同じように、声聞の道を求める人々と独覚の道を求める人々はそのように見られるべきである。彼らは生死流転の煩悩の足かせを絶ち切る。煩悩の足かせから解脱を得たものは三界の六趣から解き放たれる。このことから、声聞の道を求めるものは次のように知り、このように言うのである。「このうえ、さらに悟り得(証得し)なければならない法はない。私は涅槃を得たのである」と。そのとき、如来は彼に法を説かれる。「一切の法を悟り得ていないものに、どうして涅槃がありえようか」と。世尊は彼を菩提に至り着くよう教え導かれる。菩提心を起こした彼は〔いまや〕生死流転のなかにあるのでもなく、涅槃を得〔てそれに満足し〕ているのでもないもの〔すなわち菩薩〕となる。彼〔菩薩〕は十方において、三界のものは空であると知り尽くし、世間は変化のごとくであり、幻のごとくであり、夢、陽炎、反響のごときものと見るのである。彼は一切の存在(法)は生ずることもなく、滅することもなく、束縛されているのでもなく、解き放たれているのでもなく、暗黒でもなく、光明でもないと見る。このようにはなはだ深遠なもろもろの法〔の実相〕を見るほどのものは、〔この〕三界の一切のものが、人々のそれぞれに異なった考え方や志向で満ちあふれていることを、〔表相だけでは〕見ないという態度によって見るのである。

(中村瑞隆『現代語訳 法華経 上』、春秋社、1995年、pp. 135-136)



 これによると、声聞・独覚の二乗、すなわち部派仏教の立場を批判して示される『法華経』の立場が「空」であることは明らかである。その空を説明して、「一切の諸法を生ぜず、滅せず云々」と説くのは、疑いもなく『般若経』の空の思想の影響を受けたものであり、また三界を化現・幻・夢・陽炎・響のように見るべきことを説く点も、『般若経』において熟した表現に対応するものといってよい。だから、『法華経』の説く空観は『般若経』に示される空観を継承したものと見ることができるのである。

(藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、1969年、p. 397)



[*1] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、1969年、p. 400。
[*2] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
   http://fallibilism.web.fc2.com/069.html


〔05.09.24 補足2〕
 曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いており[*1]、西を向いている釈尊や多宝如来[*2]とは向かい合っています。このことすら知らずに曼荼羅に向かって手を合わせている人も多いのかもしれません。このことを知っている人の中にも、「南無妙法蓮華経 日蓮」というふうに、中尊の五字と日蓮とを強引に結びつけて、日蓮本仏論的に解釈する人がいます[*3]。中尊の五字と日蓮とを結びつけて解釈することがこじつけでしかないことは、日蓮の曼荼羅をいくつか眺めてみれば明らかなのですが[*4]
 日蓮に上行再誕の自覚があったということは確実な資料からみても明らかなので[*5]、曼荼羅の中の日蓮は東を向いている[*6]とわたしは思います。



[*1] 曼荼羅では、我々から見て左が北で、右が南となっています(次註参照)。宝塔の中の北の上座に釈尊が、南の下座に多宝如来が西を向いています。北が上座で南が下座となっているのはインドの「右尊左卑」の考えによるものです(法華経はインドの霊鷲山で説かれたという設定になっていますので)。ちなみに、日寛の「三宝抄」にも「仏宝は月氏風に准ずる故に右尊左卑也」とあります。
 右尊左卑の考えからすれば、最上位の弟子である上行菩薩は、弟子の中でも最前列の右にいることになるでしょう。もし上行菩薩が釈尊や多宝如来と同じく西を向いているとすると、北の上座にいなければおかしく、我々から見て左にいなければなりません。しかし、曼荼羅では、我々から見て右に上行菩薩がいます。このことから、曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いていることがわかります。
 上行菩薩が釈尊と向かい合っているということは、法華経のストーリーからすればあたりまえのことなので、上記説明は本来なら不要だろうと思うのですが、曼荼羅の構造それ自体からも明らかであるということを強調するためにあえて書いておくことにしました。
[*2] 本尊論メモ(Libra)、〔02.04.25付記〕
   http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#fuki020425
[*3] 本尊観について(Libra&Leo)
   http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
[*4] 例えば、以下の漫荼羅を参照されてみて下さい。
万年救護本尊 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html
第78漫荼羅 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/078.html
今此三界本尊 http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/090.html
[*5] 初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった、〔05.08.25 補足〕
   http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html#hosoku050825
[*6] 以下を参照。

【日蓮は東を向いている】

 日蓮の「上行再誕論」は、日蓮の宗教の根幹といってもいいとわたしはおもう。「上行再誕論」を否定する人は、御本尊の「「虚空会の儀式」という立体的な情景」(中山英子さん)をまったく理解していないのではないかともおもう。
 御本尊においては、「教主釈尊」が「北の上座」に西を向いておられ、それと「向かい合って」「上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き」におられる。で、「勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌している」ので、このとき、われわれは『法華経』の中に入り込んで、「教主釈尊」と向かい合って東を向いている。このとき、日蓮は「無数の地涌の菩薩」の「リーダー」としてわれわれの先頭にいるはずである。われわれと同じく東を向いて。


上行菩薩をリーダーとする地涌の菩薩は東向き、つまり釈尊・多宝如来と向かい合っているのです。

(中山英子「御本尊に認められた広布誓願の儀式」、『大白蓮華』第624号、2002年5月、p. 87b)



勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌しているのです。

(同上、p. 87c)


(掲示板「創価学会をみんなで考えよう」の「創価学会(SGI)は世界宗教をめざす」スレッド(No. 609)、[投稿日: 2003/09/13(土) 01:05]、http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog2_003.html



〔06.08.09 補足〕
 以下を参照されてください。

『法華経』における縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

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NOTHING TO YOU
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