仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない
(小川一乗)


仏教といえば、慈悲の精神というけれども、いつごろから慈悲ということがいわれ出したのか。なにによっているのかということを、ほとんどの人は確認していないのではないでしょうか。チャンドラキールティの『入中論』の中の説明を見ると、それと同じ説明が、龍樹の『智度論』の中に何回も出てきています。ですから、チャンドラキールティは龍樹の教えに基づいて慈悲の説明をしているということが明らかなのです。したがいまして、大乗仏教の言う慈悲というのは、龍樹の『智度論』に説かれている内容のものであるということができます。
 それ以外にも、釈尊には、悟りを得たものとして特性が十八あるとして、十八不共仏法ということが説かれています。その十八不共仏法の中には、十力、四無畏、三念住などが説かれているのですが、その十八番目に大悲というのがあるのです。これは釈尊が四十五年間伝道活動を行って、多くの人々を救済したということで、弟子たちが十八番目に大悲という特性を加えているのです。したがって、大乗仏教以外でも「大悲」ということが語られていないわけではありませんが、それが大乗仏教の強調する慈悲と結びつくほどの内実があるものとは思われません。
 ともかくも、『智度論』において、龍樹が取り上げている慈悲というのは、四無量心ということです。この四無量心から慈悲ということばが遣われ出している。四無量心というのは、悟りを開いた釈尊の心には、慈、悲、喜、捨という四つの無量な心があるというものです。ですから、これは大乗仏教以前からある考え方です。伝統的な説明では、慈というのは楽を与える。悲というのは苦を抜く。そして楽を与えられて、苦が抜かれた姿を見て喜び、あの人の苦を私が抜いてやったのだ、あの人に私が楽を与えてやったのだという、そういう私という思いを捨てるというのが捨です。私たちも、すこしぐらいは、慈、悲、喜まではいくのです。人に親切にして、ありがとうとお礼を言われて、よかった、よかったと喜ぶのです。ところが、親切にしても、お礼を言われなかったら、腹を立てるというように、捨がないのです。それに対して、釈尊は、四無量心を持っておられたのです。その四無量心というものが、大乗仏教になって注目されるようになります。龍樹が『智度論』の中で、この四無量心について説明するために依っている経典は『無尽意〔菩薩〕経』という経典です。この経典の原名で音訳しますと、『阿差末経』といわれます。この経典を典拠として、龍樹は『智度論』では四無量心の説明をしています。
 私たちが手にする仏典としては、大乗の『涅槃経』に四無量心の説明がわかりやすくしてあります。それは龍樹の用いている『無尽意経』と、内容においてほとんど同じです。

(小川一乗『大乗仏教の根本思想』、法蔵館、1995年、pp. 436-437)


 そのように、大乗仏教になって、非常に注目され、大きく取り上げられるようになった四無量心の中に説かれる慈と悲ということが、大乗仏教における慈悲のルーツであろうと思います。『智度論』で、龍樹は、『無尽意経』に基づいて、慈悲に三種を数えています。衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲という三つの慈悲を説いています。そして、この三縁の慈悲を、曇鸞は『浄土論註』で取り上げて、衆生縁の慈悲は小慈悲である、法縁の慈悲は中慈悲である、無縁の慈悲は大慈悲であるとランクづけをしています。
 如来の大悲ということがありますが、それはけっして、如来だからその慈悲は大きいのだというようなことではないのであって、大慈悲というのは、無縁の慈悲のことを指しているのです。ですから、親鸞が大慈大悲心をもってと言われた場合には、仏の慈悲だから大きいといっているわけではないのであって、それは教義としては、無縁の慈悲のことを大慈悲といわれているのです。そうすると、この無縁の慈悲とはなにかということがわからないと、大慈悲がわからないわけです。
 それでまず、衆生縁ということですが、ところで、衆生縁、法縁、無縁といわれますが、この縁というのは「御縁」という意味ではないのです。チベット語やサンスクリットで、このことばを見ていくと、アーランバナ(a(_)lambana)ということばで、「対象」という意味、所縁のことです。
 そうしますと、まず、衆生縁の慈悲というのは、衆生を対象としてはたらく慈悲ということです。つまり衆生が日々の日暮らしの中で悩んで、苦悩している姿を見て、そこにはたらくのが衆生縁の慈悲であるということです。しかし、それはいちばん小さい慈悲だというのです。私たちは、慈悲といったらこの衆生縁の慈悲のことと思っているのではないでしょうか。困っている人を助ける、これが慈悲だと考えているのではないでしょうか。しかし、これは人情となんら変わりはありません。
 次に、法縁の慈悲というのは、法というのは仏法で、仏の教えを対象としてはたらく慈悲ということです。たとえば、諸行は無常であるという教えに照らし出されると、いつまでも生きていたいという思いや、自己への執着の思いがはっきりとしてくる。つまり、諸行は無常であるという教えに照らし出されることによって、自分の我執の世界が見えてくる。そういうはたらきをなすのが法縁の慈悲です。ここでやっと仏法に出会うのです。衆生縁の慈悲は人情の世界であって、まだ仏法と出会っていない世界であるともいえます。
 それから最後は無縁の慈悲です。これを出離の縁のない者に対する慈悲というように解されるときがあるようですけれども、それは、仏教の教義としてはまちがいで、対象のない慈悲ということです。対象がないということはすでにおわかりのように、空性ということ、空という事実においてはたらく慈悲が無縁の慈悲なのです。
 だいたい仏教で言う慈悲というのは、無縁の慈悲がいちばんの基本です。無縁の慈悲を抜きにして、衆生縁の慈悲も法縁の慈悲もほんとうは成り立たないというのが、仏教だと思います。困っている衆生がいれば助けるということは、そのかぎりでは人情だけれども、その根底に無縁という、わが身の命の事実をともどもに明らかにしていくという基本線があれば、衆生縁の慈悲も仏道になっていくわけです。しかし、無縁の慈悲がなければ、それは単なる人情に終わるわけです。ですから、小慈悲、中慈悲、大慈悲ということについて、小慈悲は人情の世界、中慈悲は仏道を学ぶ世界、大慈悲は仏道に生きる世界と考えてはどうでしょうか。人情の世界にはたらくのが小慈悲であり、仏道を学んでいるものにはたらくのが中慈悲である、仏道に生きる人にはたらくのが大慈悲である。そういうようにいいますと、法縁から仏道が始まると決めつけることになりますが、もとよりそうではありません。そういうものを踏まえたうえで、無縁の慈悲を根底にして、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲というものを明らかにしていくと、すべてが仏道になっていく、そういうように言えるのではないかと思います。
 このような三縁の慈悲ということが、大乗仏教における慈悲の基本的な教義ではないかと思います。

(同上、pp. 438-440)


 ところで、さきほどちょっと触れましたが、無縁の慈悲というものを根底に踏まえて、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲があるべきであるということです。そうでないと、衆生縁も仏教の慈悲とはならない。法縁も仏教の慈悲とはならないということがあるのではないかと思います。ですから、単に苦しんでいる衆生がいるから助けるのが慈悲だというのでは仏道になっていないわけです。衆生の悩み苦しんでいる姿を見て、悩みがなんであり、苦しみがなんであるかということを、きちんと押さえて、それがどこから出てきているのか、なにに原因しているのかということを、きちんと押さえながら、最終的に衆生が無縁の慈悲に目覚めていくという方向性を取らないと、衆生縁の慈悲も人情に終わってしまうということがあります。

(同上、pp. 444-445)


 このように、仏教における慈悲というものは、単に困っている人がいれば助けるのが、慈悲行だとか菩薩行だと言うのではないのです。やはり、菩薩行とか慈悲行というのは、ともどもに、目覚める、悟りを得ていくということを目指すものであって、仏教の真理に目覚めるための慈悲行なのです。仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ません。そういうことをはっきりさせておかなければいけないのではないかなと思います。慈悲ということは、空という身の事実においてはたらくとき、無縁の慈悲としての大慈悲となる、それ以外に大慈悲はないのです。したがって、空において慈悲は大慈悲となるのであり、それを無縁の慈悲というのです。空と悲とは相反する事柄ではなく、空なくして悲なく、悲なくして空なしという関係にあるわけです。

(同上、p. 446)

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