無自性=正因仏性(藤井教公) |
【1】 方便品
【2】 譬喩品
【3】 譬喩品
諸仏両足尊 知法常無性 仏種従縁起 是故説一乗 (大正蔵巻九、九b)
若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 (同巻、十五b)
或復顰蹙 而懐疑惑 汝等聴説
常困飢渇 骨肉枯渇 生受楚毒 死被瓦石 (同巻、十五c)
断仏種故 受斯罪報
さて、初めに『妙法華』の註釈である『妙法蓮華経文句』(以下『文句』と略)によって、経の「仏種」に対する解釈を見てみよう。まず、経の方便品【1】の箇所については巻四下に次のようにある。
「知法常無性」とは、実相は常住にして自性無し。乃至無因性無し。無性も亦た性無し。是れを無性と名づく。「仏種従縁起」とは、中道無性なり。即ち是れ仏種なり。此の理に迷わば、無明を縁と為すに由りて、則ち衆生の起こる有り。此の理を解さば、教・行を縁と為すに由りて、則ち正覚の起こる有り。仏種を起こさんと欲さば、一乗教を須うべし。此れ即ち教の一なるを頌すなり。又、無性とは即ち正因仏性なり。「仏種従縁起」とは即ち是れ縁・了なり。縁は了を資くるを以て正種起こることを得。一起一切起なり。此くの如く三性を名づけて一乗と為すなり。右の文で、経の「知法常無性」を、実相は常住で無性であると釈し、さらにその無性とは「無性も亦た性無し」として徹底した法の無自性をいうとする。そして、中道であるその無性が「仏種」であるとする。この天台の解釈は般若の空に基づいたもので、先の道生の「仏種」、さらには羅什の「仏種姓」の解釈と本質的に同一のものである。先に道生は「無性」を「理」としていたが、ここでも無性を「理」と呼んでいる点は注意さるべきである。ただ前二者は、それぞれ無自性の得證をもって「仏種」「仏種姓」としていたが、天台では無性たる「理」そのものが「仏種」とされている点が相違している。これは「仏種」を仏果でなく、仏因として把握しているためである。そして、ここで無性は正因仏性であるとするから、無性=「仏種」=正因仏性ということになる。いうまでもなく、この正因仏性は、天台が『涅槃経』の所説によって創始した三因仏性の一つで、十二因縁実相眞如の理を指し、他の二の、縁因仏性は十二因縁を観ずる修行、了因仏性は十二因縁を観ずる智慧を意味している。例文では、無性である正因仏性(すなわち、「仏種」)は、行である縁因が教としての了因を資助する〔引用者註1〕ことによって起こるとし、これが「仏種従縁起」の意味であり、したがってこれは縁因・了因の二種仏性に相当するというのである。
(大正蔵巻三十四、五八a)
〔01.05.18 引用者註〕
(1) 「此の理を解さば、教・行を縁と為すに由りて、則ち正覚の起こる有り」と言うのは、藤井氏のように「行である縁因が教としての了因を資助する」というよりも、むしろ「教・行が縁因として、了因としての此の理を解する智慧≠ェ生じるのを資助する」と読む方が正確なのではなかろうか。即ち、「無明を縁と為すに由りて、此の理に迷わば、則ち衆生の起こる有り。教・行を縁と為すに由りて、此の理を解さば、則ち正覚の起こる有り」と読む方が私にはスッキリと理解できる。拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」の二章を参照されたい。
〔01.10.22 訂正〕
以下の打ち込みミスを修正した。
(誤)(藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、p. 130)
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(正)(藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、p. 210)