無自性=正因仏性(藤井教公)


 【1】 方便品
諸仏両足尊  知法常無性 ()()従縁起  是故説一乗  (大正蔵巻九、九b)

 【2】 譬喩品
若人不信  毀謗此経  則断一切  世間()()        (同巻、十五b)
或復顰蹙  而懐疑惑  汝等聴説

 【3】 譬喩品
常困飢渇  骨肉枯渇  生受楚毒  死被瓦石        (同巻、十五c)
()()故  受斯罪報

(藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、p. 210)


 さて、初めに『妙法華』の註釈である『妙法蓮華経文句』(以下『文句』と略)によって、経の「仏種」に対する解釈を見てみよう。まず、経の方便品【1】の箇所については巻四下に次のようにある。

知法常無性」とは、実相は常住にして自性無し。乃至無因性無し。無性も亦た性無し。是れを無性と名づく。仏種従縁起」とは、中道無性なり。即ち是れ仏種なり。此の理に迷わば、無明を縁と為すに由りて、則ち衆生の起こる有り。此の理を解さば、教・行を縁と為すに由りて、則ち正覚の起こる有り。仏種を起こさんと欲さば、一乗教を須うべし。此れ即ち教の一なるを頌すなり。又、無性とは即ち正因仏性なり「仏種従縁起」とは即ち是れ縁・了なり縁は了を資くるを以て正種起こることを得。一起一切起なり。此くの如く三性を名づけて一乗と為すなり。

(大正蔵巻三十四、五八a)

 右の文で、経の「知法常無性」を、実相は常住で無性であると釈し、さらにその無性とは「無性も亦た性無し」として徹底した法の無自性をいうとする。そして、中道であるその無性が「仏種」であるとする。この天台の解釈は般若の空に基づいたもので、先の道生の「仏種」、さらには羅什の「仏種姓」の解釈と本質的に同一のものである。先に道生は「無性」を「」としていたが、ここでも無性を「」と呼んでいる点は注意さるべきである。ただ前二者は、それぞれ無自性の得證をもって「仏種」「仏種姓」としていたが、天台では無性たる「」そのものが「仏種」とされている点が相違している。これは仏種」を仏果でなく、仏因として把握しているためである。そして、ここで無性正因仏性であるとするから、無性=「仏種」=正因仏性ということになる。いうまでもなく、この正因仏性は、天台が『涅槃経』の所説によって創始した三因仏性の一つで、十二因縁実相眞如の理を指し、他の二の、縁因仏性は十二因縁を観ずる修行、了因仏性は十二因縁を観ずる智慧を意味している。例文では、無性である正因仏性(すなわち、「仏種」)は、行である縁因が教としての了因を資助する〔引用者註1〕ことによって起こるとし、これが「仏種従縁起」の意味であり、したがってこれは縁因・了因の二種仏性に相当するというのである。
 このように天台では『涅槃経』の仏性説によって「仏種」を解し、ここではそれを三因仏性の正因仏性としている。

(同上、pp. 226-227、傍線=Libra)


〔01.05.18 引用者註〕

(1) 此の理を解さば、教・行を縁と為すに由りて、則ち正覚の起こる有りと言うのは、藤井氏のように行である縁因が教としての了因を資助するというよりも、むしろ教・行が縁因として、了因としての此の理を解する智慧≠ェ生じるのを資助する」と読む方が正確なのではなかろうか。即ち、「無明を縁と為すに由りて、此の理に迷わば、則ち衆生の起こる有り。教・行を縁と為すに由りて、此の理を解さば、則ち正覚の起こる有り」と読む方が私にはスッキリと理解できる。拙稿「「如来蔵思想批判」の批判的検討」の二章を参照されたい。


〔01.10.22 訂正〕

 以下の打ち込みミスを修正した。
(誤)(藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、p. 130
               ↓
(正)(藤井教公「羅什訳の問題点─「仏種」の語の解釈をめぐって─」、『印度哲学仏教学』第13号、1998年、p. 210


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