創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りか?


 「釈迦仏法は末法無益」などと言っている創価学会員がまだ存在している。全く情けないことだ。

 「釈迦仏法は末法無益」だと言うのであれば、なぜ『法華経の智慧』などという書物を学会は出版しているのだ。どう考えてもオカシイではないか。


 法華経では「一切衆生の成仏(じょうぶつ)」が(ほとけ)一大事因縁(いちだいじいんねん)、すなわち、仏がこの世に出現(しゅつげん)した、最大(さいだい)究極(きゅうきょく)目的(もくてき)であると説かれている。滅後の衆生、特に末法という濁世(じょくせ)の衆生を(すく)わなければ、その理想(りそう)(かな)えられない。だから滅後(めつご)衆生(しゅじょう)のための(おし)えを(ほとけ)()かないはずがない。そのための慈悲(じひ)経典(きょうてん)法華経です。

(池田名誉会長のご発言、池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、pp. 62-63)



 今、池田名誉会長が機関紙・誌で法華経をテーマとした論述に力を入れているのも、「人間のための宗教」の大道を更に深く大きく開くためであろうと改めて実感している。大聖人の仏法は法華経と表裏一体であり、法華経の精神を世界に広げていくことは、大聖人仏法の「人間主義」の光で世界を、全人類を照らしゆく一大民衆運動となるに違いない。

(遠藤孝紀「創価学会の思想と『法華経』」、『東洋学術研究』第34巻第2号、1995年11月、pp. 97-98)


 彼等はそれを少しもオカシイと感じないのだろうか。少し冷静になって考えてみれば分かりそうなものだが、やはり「生命の変形」によって、それさえも分からなくなってしまっているのだろうか。

 社会がみとめたものを“善”とし、一列にならんでそれを目指す。そうでない人を異者として排除するようになる。ある集団に属し、“一人前に”生きることがもたらす「習慣」という名の「生命の変形」―なんと不気味(ぶきみ)なのでしょう。

(友岡雅弥『ブッダは歩む ブッダは語る』、第三文明社、2001年、p.156)


 しかし、それよりももっとヒドイと思うのは、「釈迦仏法は末法無益」などと言っている学会員を見て、そのような主張が間違っていると知りつつ放置している学会員たちである。前者は「生命の変形」の被害者とも言えるが、後者は完全に「釈迦仏の御敵」である。

仏法の中には仏いましめて云く法華経のかたきを見て世をはばかり恐れて申さずば、釈迦仏の御敵いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし

(「妙法比丘尼御返事」、全集、p. 1412)



 現在の創価学会は「生命の変形の被害者」と「釈迦仏の御敵」の集りに過ぎないということなのだろうか…。残念で仕方がない。

2001.11.08
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