ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)


 ところで、ここに挙げた例は、いずれも西洋哲学内部での事例である。しかしながら、驚くべきことには、バートリーは原始仏教を汎批判的合理主義の先行者と見る見地さえ示している。最後にこの点に簡単に触れておきたい。
 バートリーは、ブッダとポパー、あるいは原始仏教と汎批判的合理主義とのあいだに差があることを認めないわけではない。しかし、両者の間には類似性あるいは親縁性が見られるとして、次の箇所を引用する。

あなたに疑いがあり、困惑があるのもごく当然のことです。…さて、…評判とか伝承とか伝聞によって導かれてはなりません。教典の権威によってとか、単なる論理とか推論によってとか、また現象を考察することによってとか、思弁の喜びによってとか、不可能と思われることによってとか、「この人こそ私たちの先生だ」という考えによって導かれてはなりません。☆20
 すなわち、バートリーの目からすれば、仏教は、汎批判的合理主義に類似して、根拠へのコミットメントを戒めている。一切は、もしかしたらひっくり返されてしまうかもしれない仮説にすぎないのである。論理とか推論といったごく形式的なものについてさえそうであると言われていることには特に注目しなければならないであろう。
 バートリーは、この引用箇所につづけて、ブッダが、いま述べられたばかりの自己の教えについて加えた注釈も引用している。
比丘たちよ、かくも清らかで明瞭なこの見解でさえ、あなた方がこれにしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着するならば、あなた方は、われわれの教えが筏に似たものであることを理解していないのだ。筏は流れを横切っていくためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。☆21
 ここにおいてブッダは、あらゆるものに執着するなかれと説くブッダ自身の教えにもまた執着するなかれと説いているわけである。ここには、明らかに、一切のものが批判にさらされる─この言説自体も含めて─と主張する汎批判的合理主義と同じ立場が認められる☆22。バートリーからするならば、ブッダには汎批判的合理主義者としての側面があったことになる。彼のこのような(原始)仏教解釈が正しいのかどうかは今後に議論されてよい重要な問題であろう。

(小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 34-36)

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〔02.06.10 引用者付記〕
 脚註(☆印)については、すべて引用を省略いたしました。是非とも、小河原先生の御著書を直接参照されて下さい(この御著書は名著です)。


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