本仏と真仏

 松戸行雄さんが『福神』第8号(2002年5月)に「凡夫本仏論」についての御論文を発表されました(私は、松戸さんから草稿の段階でこの御論文を拝読させて頂いたのですが、雑誌自体はまだ入手していません)。
 この御論文を読まれた不軽さんから、

最近、「凡夫本仏論」(「日蓮本仏論」はなおさらですが)と「釈尊御領観」が矛盾 しないか気になっています...

(会員制掲示板[1988] 、投稿者:不軽 投稿日:2002/05/25(Sat) 12:26)

という話題がさっそく寄せられ、「凡夫本仏論」のことが我々の間でも議論になっています。
 不軽さんが問題にされた「釈尊御領観(1)」というのは、「釈尊本仏論」の延長線上にある考えだと思いますので、<「釈尊御領観」は「日蓮本仏論」と矛盾し、さらに「凡夫本仏論」とも矛盾するのではないか>という不軽さんのこの疑問は、ある意味で当然の疑問だろうと私も思います(ただし、今回の『福神』第8号の松戸さんの御論文の中で「釈尊御領観」についても触れられているというわけではありません)。このような疑問点も含めて、「凡夫本仏論」に対する私の現在の考えを以下に公開しておきたいと思います(2)

 松戸さんは「事実として存在できる本物の仏」という意味で「本仏」という語を使用されているわけですが、それにはちょっと無理があるのではないかと私は思います。「事実として存在できる本物の仏」という意味を表現したいのであれば、むしろ「真仏」と言うべきだろうと思います(3)


応化非真仏と申して三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり

(「御衣並単衣御書」、全集、p. 971)


 というのも、「本仏」という語については、

三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏のこと。迹仏に対する語。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 1568)


というような定義がすでに流通していると思われるので、「凡夫(=人間)が本仏になる(4)」と言ってしまうと、<凡夫が「三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏」になる>というような意味に誤解されてしまって、おかしなことになってしまうおそれがあると思われるからです。また、すでに流通している定義に従うならば、基本的に、「本仏」というのは単数であって複数ではありえないようにも思いますので、やはり、「凡夫(=人間)が本仏」という言い方には無理があるように思います。従って、「凡夫(=人間)が真仏」と言うべきだろうと私は思います。

 以上のような考えから、私は、<すべての真仏を出生する根本の真仏>を「本仏」と呼びたいと思います。このように、<事実として最初に存在した(そして今も『法華経』という形で存在し続けている)本物の仏>を「本仏」と言うことにすれば、<釈尊(=『法華経』)が本仏>ということになると思いますが[注]、このような「釈尊(=『法華経』)本仏論」と「凡夫(=人間)真仏論」は必ずしも矛盾するものではないと私は思います。

 ちなみに、松戸さんにとっても、<事実として最初に存在した本物の仏>は釈尊という ことになるはずですから、私の言葉の使い方に従うならば、松戸さんも「釈尊本仏論」の 立場ということになるだろうと私は解釈しています。

注:<現実の歴史上の釈尊>と<寿量品の釈尊>との関係をどのように私が捉えているかということについては、以下を参照されて下さい。

拙文「犀角独歩さんとの対話」の註5
http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html#5

(創価学会応援隊・会議室2での発言〔No. 19145〕、02/06/02/19:59:38、 http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/kaigisitu-2-new.cgi



(1) 釈尊御領観については、佐藤弘夫他『日蓮大聖人の思想と生涯』(第三文明社、1997年)の pp. 221-222 を参照されたい。

(2) ここに公にする考えは、『福神』第8号に寄稿された御論文の草稿を拝読させて頂いた率直な感想として、私信(2002年1月11日送信)の中で松戸さんご本人にはすでにお伝えしてある。

(3) 松戸さんは、


 「本仏」の意味については『人間主義』で整理したつもりであるが(一五〇頁参照)、今一度強調しておく。

〇 一つには、大日如来や阿弥陀仏、また法華経文上の脱益の釈迦・多宝などを迹仏とする立場で、此土有縁の教主釈尊を本仏とすること。

〇 二つには、その根拠ともなるが、事実の上で生身の凡夫(本物の人間)が仏身を現すという意味である。

(松戸行雄『日蓮思想の革新──凡夫本仏論をめぐって』、論創社、1994年、pp. 44-45)


と言われているが、このように全く異なる二つの意味を「本仏」という同一の語で呼ぶことにはやはり無理があると私は思う。従って、前者を「本仏」、後者を「真仏」と呼んで明確に区別すべきだと私は考える。また、本文中でも述べた通り、「本仏」という語についても、さらに明確に、<すべての真仏を出生する根本の真仏(=事実として最初に存在した本物の仏)>という意味で用いることにしたい。

(4) 松戸さんは以下のように言われている。


もう一度誤解を避けるために強調しておくと、凡夫とは人間であるということを意味している。

(松戸前掲書、p. 48)



凡夫本仏論は凡夫だけが本物の仏になれるという意味であって、凡夫がそのままで本仏という意味ではない。

(同上、p. 220)


2002.06.02
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http://fallibilism.web.fc2.com/z022.html


〔02.06.03 付記〕
 本日、註3と註4を補った。
 また、『福神』第8号所収の松戸さんの御論文(「現代的課題としての凡夫本仏論」)では、私の提案を受け入れた形で、草稿の段階にはなかった「真仏」という語が、以下のように補足的にではあるが使われていることを知った。


 凡夫本仏論は、久遠釈尊・大日如来・阿弥陀仏などの超越的な仏を(人間自身の本質や願望が投影された)「権仏」と見なし、(九界の凡夫として実在する)生身の人間こそが(現実に存在できる本物の仏・真仏という意味で)本仏である、と主張する人間主義的・宗教批判的側面を持つ。

(松戸行雄「現代的課題としての凡夫本仏論」、『福神』第8号、2002年5月、p. 114、傍線引用者)



〔02.08.25 付記〕
  つい先日、松戸行雄先生から、本稿に関して、以下のようなご丁寧なコメントを頂戴しました(松戸先生、ご丁寧なコメント、本当にありがとうございました)。

 Libraさんの『本仏と真仏』に関する論考についてコメントします。
 まず、投稿者不軽さんの「凡夫本仏論と釈尊御領観は矛盾 しないか」という疑問については、添付した私の論文『日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相』(『東洋哲学研究所紀要』第十四号(1998年)所収)を参照してください。基本的に、このような一見矛盾と見られるものは、日蓮大聖人における重層性、特に法華経の読み方の二重性を考慮しない場合に起きます。この二重構造とは「在世の法華経本門」と「末法の法華経本門観心」の立場と表現できます。法華経に即したコスモロジーでは久遠実成の釈尊がその階層秩序の頂点にあり、末法における成仏の問題については妙法が根本になります。
 Libraさんの「事実として存在できる本物の仏という意味では、むしろ真仏と言うべきだ」という意見について。基本的に「本仏」は「迹仏」に対する用語ですが、「三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏」という発出論的意味は派生的なものにすぎません。ましてや、仏が他の仏を生み出すことはあくまでも法(ダルマ)の力によるものであって、実体論的に諸仏を発生させるとは考えられません。「本」の意味はむしろ、本体と影という意味で「影現」に対する「実在」とか、暫定的で派生的で仮のものに対する本来的・根源的なものという意味のほうが根本的でしょう。そこから、この関係は観点によっては偽物に対する本物という真偽の視点も導かれます。この本迹関係を大聖人はよく月と池に映る影との対比で表現されます。その意味で「本仏」は「迹仏」に、「本土」は「十方の浄土は垂迹の穢土」(開目抄)、つまり「迹土」に対概念として対応するわけです。
 ただし、この本迹の関係は観点や見方によって変化します。法華経の教相で言えば、本門と迹門、しかし末法を本とすれば、法華経本門も迹になります。同じように、法華経本門の久遠実成の釈尊も妙法を根本とする立場からは迹になります。
 では日蓮大聖人にとって最終的に何が根本的・根源的かと言えば、「末法の法華経本門観心」の立場から見られる仏や法となります。「三世諸仏出生の」、また「その師である」妙法が、末法の衆生の成仏の直道、即身成仏の法として根本になります。仏法は衆生の成仏のためですから、久遠実成の釈尊を含めた三世諸仏を崇拝することでも、日蓮大聖人を神格化して敬うことでもありません。(法華経の教相に即して)久遠実成の釈尊を成仏させた(久遠の)妙法を末法の荒凡夫が受持するからこそ凡夫に「無始の古仏」が顕れて、即身成仏するわけです。それが「本仏」、つまり末法に「事実として(九界即仏界の意味で)存在できる本物の仏」です。この立場からは諸仏は迹仏となります。この場合、法報応の三身の区別はできるわけですが、(日蓮大聖人の末法の法華経本門観心の立場からは)妙法を根本にした三身相即の仏とならなければ、実仏とは見なされないでしょう。その意味で、大聖人にとっては久遠実成の釈尊も歴史上の釈尊も「実仏」でしょう。ただし、その両者に本迹の関係が適用されれば、前者が本仏で後者は迹仏ということになります。
 以上の意味で凡夫即仏の意味の本仏は実仏と言っても真仏と表現しても良いのですが、Libraさんの、

・ 「本仏を<すべての真仏を出生する根本の真仏(=事実として最初に存在した本物の仏)>という意味で用いること」、

・ 「<事実として最初に存在した(そして今も『法華経』という形で存在し続けている)本物の仏>を「本仏」と言うことにすれば、<釈尊(=『法華経』)が本仏>

という意見には反対です。なぜなら、『法華経』は末法では妙法を意味するはずですし、また「本仏」が釈尊だけを意味するのであれば、私たちが成仏する場合、迹仏でしかないことになるからです。
 こうした解釈も根本的には大聖人における「在世の法華経本門」と「末法の法華経本門観心」の立場を認識し、区別しないことに由来するものと思われます。

以上
2002年8月20日
松戸行雄

 松戸先生のコメントを拝読させて頂いた感想を以下に述べさせて頂きます。
 不軽さんが「凡夫本仏論と釈尊御領観は矛盾しないか」というような疑問をもたれたのは、「凡夫本仏」という表現の「本仏」という語の意味を、「最初の真仏」というような意味にやや重心をおかれて(引っ張られて)理解されたからだろうと思います。本稿の本文でも申し上げましたように、(本来は派生的なものにすぎないはずの)《「本仏」とは「三世十方の権迹の仏を出生する根本の仏のこと」である》という定義がすでに流通してしまっているように思いますので、このような現状においては、不軽さんのような疑問が生じてしまうのはある意味で当然だろうと私は思います(このような疑問は、必ずしも不軽さんが「法華経の読み方の二重性を考慮」されていないせいではないと私は思います)。
 《すでに手垢がついてしまっているのであれば、いっそのこと、「本仏」という語を「最初の真仏」という意味に限定して用いることにしてはどうか》という私の提案を採用しようとすれば(説明の便宜上、以下では、「本仏」という語を「最初の真仏」という意味に限定して用いることにします)、当然のことながら、「迹仏」という語を「最初の真仏ではない」という意味で用いることになるでしょう(この場合には、《真仏である迹仏》というものの存在をも認めることになります)。そうすれば、《本仏ではない》ということが、ただちに《偽物の仏である》ということを意味することにはなりません。私は、このような立場に立つことが可能だと考えていました。しかし、松戸先生の今回のコメントによれば、そのような立場に立つことにはかなりの無理がともなうということなのかもしれません。特に、松戸先生のように、語の意味というものを、本来の意味に忠実に、正しく理解しておられる方にとってはそう見えるだろうと思います(《日蓮大聖人の思想を語るのであれば、日蓮大聖人が用いられている本来の意味に忠実に従うべきである》というご意見は全くの正論だと思います)。ただ、念のために申し上げておきたいのは、私は、《本仏たりえない私たちは、たとえ成仏できたとしても偽物の仏でしかない》などとは全く考えていないということです。むしろ、私が本稿で強調したかったのは、《本仏たりえない私たちも、成仏すれば、()()()()()()()()、真仏である》ということでした。
 あと、松戸先生は《「在世の法華経本門」と「末法の法華経本門観心」の立場の区別》についてもご指摘下さっていますが、これについては、まず、松戸先生のご論文(「日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相」、『東洋哲学研究所紀要』第14号〔1998年〕所収、松戸先生のご好意によりhttp://fallibilism.web.fc2.com/119.html に再録)をじっくりと研究させて頂こうと思っています。私自身は、《法華経の精神(思想・法体)〔そのエッセンスを表現したものが題目の五字である〕こそが、永遠に生き続け、衆生を導き続ける釈尊(「本門の教主釈尊」)である》と捉える立場を「本門観心」の立場だと考えています(拙文「仏身論メモ」http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html)。そして、《法華経の精神を体現する(法華経になる)》ということが《成仏する》ということだと考えています。



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