タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)


タントラ聖典の成立は確かにそれ以前の仏教思想と本質的に関わりをもたなかったかもしれない。大乗仏教教団とは全く異なった社会、異なった階層の人々の間からそれは生まれたのかもしれない。だが一度それが仏説として歴史に登場するや否や、タントラの徒達は、それを正統な仏教思想の間に位置づけんとする飽くなき試みを始めた。

(吉水千鶴子「Pañcakrama における三智・三空と prabha(_)svara ─タントラ仏教における空性理解の問題点─」『成田山仏教研究所紀要第11号 仏教思想史論集U』、1988年、p. 447)


 タントラ仏教が絶対者と自己との合一をめざす、ブラフマニズム的宗教だということは、密教学者ならずとも多くの学者が承認している(17)。と同時に、「自心本不生」ということによって、密教経典においても常住を否定し、縁起を説くという「空観の反省」があるとも解釈されている(18)。だが『真実摂経』、無上瑜伽タントラの本尊瑜伽の行法において、本尊との本質的同一を保証してくれるのは「空」とか「無常」とか「縁起」などではありえず、個人が生まれながらにもっている「本来清浄性」のみなのだ。しかも絶対者は一切万物の展開する根源であるとも考えられる。もし一切が空であり、本性をもたず縁起しているならば、何ものか一者から一切が生ずるということがありえようか。Na(_)ga(_)rjuna〔引用者註1〕は一切は空であると言いながら、一切の根源としてpr.〔引用者註2〕を説いた。pr.以外の一切がpr.を本質とし、空であるにすぎない。ここにブラフマニズム的梵我一如の理想と如来蔵的本性常住の思想を継承しながら、中観的空にこだわり続けた聖者流の解釈学の矛盾がある。そしてこの矛盾は今日の我々研究者の間にもなおもちこされているように思われる。「大乗仏教の儀軌化」ということに関する以下の松長有慶博士の論述にも私は矛盾を感じざるをえない。博士は

『真実摂経』の)五相成身観が、まず心の観察から入り、それを自性清浄、空と捉える点は『大日経』住心品と基本的に相違はない。(傍線筆者)
(『密教経典成立史論』法蔵館、S. 55、p. 147)
 と述べられながら、一方では、
『真実摂経』の五相成身観では、心を無自性空とみる立場を越えて、自性として清浄光明ととらえる。そしてその心の中に月輪を、そのなかに金剛を観想し、その過程を通して自己と絶対との相即をはかり、有限なる人間の身体の中に、絶対なる如来をみて、両者の本質的な同一性を了解するにいたる。(同、p. 157)、「自己のなかに自性としての清浄光明をみいだし、人間のなかに存在する如来性を知るための五段階の観法である。
(同、p. 156)
 と入我我入観を説明されるのである。「心を無自性空とみる立場を越えて」とは、どのような意味なのであろうか。また、
つまり、(『秘密集会タントラ』における)身語心金剛は一切を発生せしめる根源でありながら、しかも一方では無自性、不可得無所縁、空を自性とするという構造をもっている。空なる金剛より一切諸法への展開を生起次第なる観法体系に組織し、また一方、現象界より空なる本源への還元を究竟次第として儀軌化するのが無上瑜伽部密教の修道法の基本形態となっている。
(同、p. 149)
 とも説明される。だがこのような空とはいかなる空か。一切の根源と空とがひとつのものとして結びつきうるとはどうしても私には理解できない。しかし多くの研究者はこれを矛盾として指摘してこなかった。ただ津田真一氏は密教は空を否定するものだと解釈されるが(19)。また、空思想そのものが絶対者との合一を保証しうるという考え方もある。
一切の存在は真実としては空であるとの前提により、仏と衆生、絶対的存在と行者とは本質的に同一であることが保証され、一定の実践法により現実世界で絶対者と同一化する、すなわち成仏することが可能となる。
(野口圭也「無上瑜伽密教の灌頂について」、『南都仏教』第54号、1985、p. 52上)
 これについて野口氏よりご教示を頂いた御手紙によって補足させていただくならば、「自己と絶対者とは同一であるというテーゼによる実践法を行ないながら、当時の仏教徒達には、なお仏教であることを自らに納得させる理論上の保証が要求されたのではないか」というのが氏のご理解である。私もこの点は全く同感である。聖者流がかくも中観派・空にこだわったのも、まさに彼らの実践が仏教であることを自他に納得させるためであったからに他ならなかったためであり、彼ら自身、空によって本尊との一体が保証されうると本気で信じていたのかもしれない。しかしながらそれが真に論理的保証になりうるということに私は反対する。凡夫が凡夫という本性をもたず空であり、仏も仏という本性をもたないが故に、凡夫が仏に転換しうるという理は認めよう。しかし空という共通性によって、直ちに両者は本質的に同一であり、凡夫=仏である、という公式は成り立たないし、成り立ったとしても何の意味もない。それでは机は薪になりうるから、机と薪は同一であるというのと同じではないか。仏も無常、我々も無常である。だからといって我々が覚った人であるとどうして保証されよう?
 もし空を説きながら、絶対者との同一な本性を保証するのであれば、その時「空」がその本性自体となる以外はない。ひとつの恒久的真理として絶対視される運命を免れえないのである。空は一切事物の本質であり、根本原理となる。従って絶対者としての本尊は真理の人格化である。修行者は自らに内在するこの真理に気づきさえすれば、直ちに本尊と一体となる。これ以外に前の矛盾を解消する道はない。そしてNa(_)ga(_)rjuna の踏み込んだ道もまさにここであった。pr.とは原理化された最高の真実としての空であり、個々に内在する倶生の清浄性なのだ。所取・能取の形象は空である。心もまた空である。しかしながら心が空であるという意味は、心の本質は一切の汚れを離れた清浄性であり、それは仏と同一なる本性として倶生である。これがpr.である。それは輝かしき本性であり、無常なるものとは無縁である。密教がこのように空を原理として捉えていることは、広く承認されているように思われる。
Vajraya(_)na というときには、「空」(s()u(_)nyata(_))の原理を強調する。空であるという真理を除いてすべてのものは滅び去る。ただ「空」の原理は金剛石のごとくに永遠に存在する。
(中村元「真言密教の成立」『現代思想』vol.11-9、青土社、1983、p. 72下)
空性の真理がマントラによって象徴され、マントラの形をとって具体化する
(梶山雄一『空の思想』人文書院、1983、p. 145)

(マントラは)一面で実在の象徴として真理の顕現でありながら、他面で表現を超えた実在の代理として人間の合理的な言葉を拒否する。
(同、p. 150)
 そしてまた、このような解釈は密教に始まったことではなく、およそ「空」という言葉が仏教史に登場した直後から存在したであろうことは容易に想像できる。それは今日もなお多くの人々の心に根強く存在する。およそ空を定義するほど難しいことはないだろう。空とは言語習慣の否定だとも言われる。ところが我々は言葉によってしかものを理解できない。故に空を言説の及びえない、神秘的なもの、特殊な行法によって直接体験されるのみの深遠なる真理、と見なすことはむしろ我々には易しい。その時、もはや言葉は及ばないのであるから「空」が何を意味していたのかは捨象されてしまう。それは空と呼ばれなくともよい。或いはそれが一切法の根源ともなれば、「空」と呼ぶことはむしろ躊躇されよう。タントラの註釈者達も、それを空と同一だと繰り返しながらも、結局は「無二の智慧」(20)とか「光明」とか名付けた。
 唯識説を越えて中観の空を証得することを目指した聖者流の解釈学は、その実践を支えるブラフマニズム的理論と、無自性・空の思想との永遠の矛盾を自らかかえこんでしまった。これはその後のタントラ仏教全般に共通し、また今日的問題でもある。本家Na(_)ga(_)rjuna ─つまり『中論』の著者であるNa(_)ga(_)rjunaは『中論』の中で、空という原理を想定する考えを批判している(MK. XIII. 7,8)(21)。私はここで、彼を模倣し、その名を名のった第二のNa(_)ga(_)rjuna が考えていた「空」とは、タントラの理念の制約の中でいかなるものであったか、またあらざるをえなかったか、を明らかにしたかったのである。
(同上、pp. 464-467)


(17) 宮坂宥勝「密教・マンダラと風土」、『現代思想』vol.11-9、青土社、1983、p. 95上
 梶山雄一『空の思想』人文書院、1983、p. 146
 松長有慶『密教経典成立史論』法蔵館、S.55、p. 150

(18) 氏家昭夫「入楞伽経の唯心説」、『密教学研究』第2号、S.45
 松長有慶前掲書 p. 139

(19) 津田真一「密教と空」、仏教思想7『空下』、平楽寺書店、1981、pp. 609〜642
 但し津田氏の考えておられる「空」は、『中論』的空ではなく、『華厳経』『大日経』的曼荼羅の世界の空である。

(20) advayajña(_)na。Jña(_)napa(_)da 流では、最高の真理をこのように呼ぶ。

(21) cf. 中村元『空上』、平楽寺書店、1981、pp. 279-287

(同上、p. 468)


〔引用者註1〕 これは『中論』の作者である竜樹とは別人であり、本論文で問題にされている“Pañcakrama”の作者のことである。本文の最後の段落を参照。

〔引用者註2〕 prabha(_)svara(光明)の語の略である。なお、この語が非仏教的な性格の語であることについては、藤田正浩「原始仏教の心性本浄説について」『佛教学』第14号、1982年のpp. 95-101、及び、同上「「清浄」の意味について─ウパニシャッドから初期如来蔵系経典まで─」『禅学研究』第70號、1992年に詳しいので是非参照されたい。


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