呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)


 まず「宗教とは何か」を、考えたい。
 もちろん、この問題に関しては、古今の宗教学者による様々な定義があるだろう。しかし、「戦争と革命の世紀」の、まさに「世紀末」に相応しい「今」という時点で、しかも「宗教」についての社会の評価が混乱をきたしている今の日本において、「定義」というものの性格は、私にとって決まったものにならざるをえない。
 つまり、それは「定義」のみでいいはずはない。そこには、「期待」と「決意」が込められてしかるべきである。
 その意味で、「宗教とは何か」という問いに関して、私なりに回答すれば、宗教とは「生を呪縛するものからの解放の運動」である。
 古今の宗教運動の始まりを見た時、それがしばしば「既成の宗教への批判」という形で立ち現れたのを、我々は目撃する。
 何故か─それは「既成の宗教」が、「生を解放する」どころではなく、「生を呪縛するもの」に堕落し機能していた時に、「新しい宗教運動」が「既成の宗教」への批判を通じて「生を呪縛する構造」全体への批判として、現れるからである。
 「いつも」ではなく、「しばしば」と述べたのは、「新しい宗教運動」 のすべてが、「生を呪縛する構造」への批判として、現れたとは限らないからである。
 その宗教の「理念」が、「生を呪縛する構造」の根源である“ある種のイデオロギー”に対して、どれほど自覚的であるか、また自覚的である故に、どれほど批判的であるかの度合いにしたがって、「構造」に組み込まれるまでの時間と組み込まれる程度が、違うからである。
 ある種の運動は、最初から「構造」そのものを補完するだけかもしれない。すぐに「構造」に取り込まれてしまうものもあるだろう。
 しかし、仏教の歴史を通じて見た時、我々は「法華経」が、不思議と「生の呪縛の構造」の綱目をすり抜け、しばしば「生の呪縛の批判者」として現れてきたことを目撃する。

(友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』第34巻第2号、1995年11月、pp. 99-100)


 拙稿では、思想史的な観点から、法華経が「生を呪縛する構造」から、生を解放する宗教であったことを明らかにしたい。その前にまず、仏教そのものが、「生の解放の運動」であったことを明らかにしたい。

(同上、p. 101)


 「仏教は輪廻思想や業報因果論を主張する」という誤解は、かなり広まっている。しかし、真実は逆である。仏教は、輪廻や業報因果からの解放を説く宗教であった。
 それは、最古層に属する仏典と見なされている“スッタ・ニパータ”の“アッタカ・ヴァッガ”を検討すればすぐに理解できるだろう(後述)。
 確かに、すべてを神のような超越的存在にゆだねる考えより、因果の自己責任理論は、合理的であり主体的であった。しかし、現在が、無限の過去からの業因の集積の結果ならば、現在において少々善業を積もうが、少々悪業を積もうが、大勢の変化はあまりないことになる。

(同上、p. 102)


“スッタ・ニパータ”の“アッタカ・ヴァッガ”に伝えられる限りの釈尊の「悟り」とは、本来、「悟りなどはない」という形のものであったのである。
 「悟りなどはない」というと、語弊があるかもしれないが、解脱すべき、悟るべき「自己」という考えこそ、我執の最たる者ではないだろうか。
 「『実在』視された『自己』こそ『我執』の核に他ならない時、どのような経過で『自己』の『解脱』があったにしても、『解脱』という名の『我執』の完成になる」という山口博士の指摘は、まことに正鵠を射たものといえよう。

(同上、pp. 107)


ゴータマ・ブッダは、業報輪廻論、業報因果論に満ちあふれた「生を呪縛する社会」から、また「自己の悟りによる呪縛から」人々を解放する「宗教」─仏教を説いたのである。また、それは「生を呪縛する構造」全体への批判─まさに、仏教はそういう意味での「宗教」であった。

(同上、p. 107)

 


 「法華経」ではなく、ゴータマ・ブッダについての言及が多くなったが、ここまで述べるならば、それだけで「法華経」がゴータマ・ブッダの根本思想をただしく伝えるものだということが明らかになるだろう。「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、「法を語る者」となることを主張する。そうすることによって、「法華経」は、呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。

(同上、pp. 108)


 「法華経の宗教性」とは、まさにこのゴータマ・ブッダ直結の利他性、能救済性にあるといえるのではないだろうか。法華経で活躍するのは、様々な利他の菩薩たちである。釈尊は除いて、仏は脇役である。その釈尊も「我本行菩薩道」であり「常説法教化」である。
 被救済性を一種の欲望の現れとみるならば、「悟りの呪縛」がそこにはある。それさえも離れようとするのが、“スッタ・ニパータ”“アタッカ・ヴァッカ”に見られる釈尊の教えの指向であった。それを受け継いだのが「法華経」である。「法華経」のもつ呪縛からの解放性の根源は、まさに釈尊と同じ能救済性にある。

(同上、pp. 110-111)


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