日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)


はじめに
 先の「日蓮と本覚思想」と題する論考では主に佐渡期の観心本尊抄までを検討し、日蓮の基本的立場を「末法の法華経本門観心」と規定した。そして、その立場からは、仏や菩薩は「己心の仏界・菩薩界」として内在的に理解されており、久遠仏は十界互具・凡夫即仏の原理を顕わす象徴的表現と観ていたと、一つの結論を出しておいた(1)
 しかし、他方、佐渡流罪前後からいわゆる「釈尊御領観」が主張され、三界の主としての超越的仏陀観が濃厚になり、さらに晩年の身延期になると死後における「霊山浄土への往詣」という観念も頻繁に表現されるようになる。
 この釈尊の内在性と外在性並びに娑婆即寂光と霊山浄土の二重構造の問題については、特に佐藤弘夫の「鎌倉仏教における仏の観念 ─ 日蓮を中心として(2)が詳しく扱っている。そこで、本稿では佐藤の論考に沿って批判的に検討する中で、日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相を考察していきたい。

1 立正安国思想の二重構造
1.1 而二不二の原則
 まず、佐藤は「初期の仏陀観念」として、立正安国思想に関連して次のように指摘する。

日蓮の初期を代表する著作である『守護国家論』『立正安国論』等に展開された立正安国思想は、衆生─仏、娑婆─浄土を一元的に捉えるかの天台的思惟を踏襲し、それを土台として構築されたものである(3)
 この解釈に対して、二つ問題を提起したい。一つは、佐藤は田村芳朗の説を援用し、日蓮の思想が天台本覚思想の影響を強く受けているという仮定から出発しているが、拙稿「日蓮と本覚思想」で論証した通り、初期の絶対一元論から佐渡期前後の相対二元論ヘと移行しているわけではない。日蓮は初期から独自の十界互具論を基礎にした凡夫即仏・娑婆即寂光の「而二不二」の世界観を保持していたのであり、「不二」の面のみを強調する天台本覚思想的絶対一元論と理解するのは正確ではない。
1.2 現世安穏・後生善処の理念
 二つ目は、日蓮が娑婆即寂光の原理から娑婆と対立する西方極楽浄土を否定しているとしても、浄土観そのものを否定してはいない。1264年の『題目弥陀名号勝劣事』では、題目受持こそが浄土の正因として理解されている。
人ごとに念仏申して、浄土に生れて、法華経をさとらんと思ふ故に、穢土にして法華経を行ずる者をあざむき、又行ずる者もすてて念仏を申す心は出て来るなりと覚ゆ。謗法の根本此の義より出てたり。法華経こそ此の穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ(4)

 この論旨は念仏に対する反論という性格から文字通りに受け止められないと反論されるかもしれないが、1277年の『法華初心成仏抄』にも、「法華経を信ずる人は法華経を説く仏のいる浄土に往生する」としている(5)。つまり、釈迦と法華経を捨て、したがって娑婆での成仏を放棄する誤りを指摘する中に、今世で成仏しないかぎり来世での浄土往生もないという考え方が根底にある。
問うて云く法華経修行の者何れの浄土を期す可きや。答えて云く〔中略〕本地久成の円仏は此の世界に在り。此の土を捨てて何れの土を願う可きや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し。何ぞ煩しく他処を求めんや。〔中略〕法華涅槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず。此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり(6)

 そして、日蓮自身は『立正安国論』を「速に対治を回して早く泰平を致し、先ず生前を安じて更に没後を扶けん(7)」と結んでいるように、現世での娑婆即寂光・即身成仏の延長線上に後生の往生を想定している。ただし、死後にその浄土で生まれ変わるわけではないので「往生」というよりも「往詣」と表現されるわけだが、この考え方は日蓮が初期から終始強調し続けた法華経の「現世安穏・後生善処」のスローガンと整合性を持っている。その意味では、すでに1263年の『持妙法華問答抄』に「霊山浄土」への言及があり(8)、次の一節に見られるように、今生と後生の問題は明確に意識されている。
願くは現世安穏・後生善処の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき(9)

 つまり、死後に無間地獄に堕ちるということの対極に、現世での妙法受持・即身成仏はそのまま来世における霊山浄土への往詣となる。それは今世との因果の連続性の上に考えられた来世・後生である。そのことは『開目抄』でも次のように表現されている。
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。〔中略〕我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし(10)

1.3 中世的神仏秩序体系
 念仏破折は基本的には正法誹謗の観点からなされているが、この正法誹謗との関連で「立正安国」の二重の意味を考慮する必要がある。一つは成仏の本因としての妙法に対する誹謗を折伏することであるが、もう一つの観点は、それが神仏の秩序体系を乱し、三災七難を引き起こす原因だからである。
 佐藤は、立正とは「己心所具の仏界を涌現」すること、安国とは「本質的に浄土であるはずの此土がその本来の姿を顕わすこと」と理解する(11)。一念三千の原理からも、己心の仏界を涌現して娑婆を寂光土に転換していくという主体的変革の面が強調される。
日蓮のいわゆる安国の内実が、凡夫即仏身・娑婆即浄土の理念に立脚して此土(娑婆)に浄土(寂光土)を建立することである点において、またその立場から、即身成仏を否認して来世浄土への往生を勧奨する法然を排撃する点において、初期日蓮の立正安国思想が、新興の専修念仏に対峙する天台的・旧仏教的思惟の範疇を逸脱するものではないことは明白である(12)

 この場合、正法誹謗の観点のみに偏っているという問題が残る。日蓮における旧仏教的・伝統的思惟という点については、天台本覚思想よりも本地垂迹的神国思想を濃厚に継承している点に留意する必要がある。その意味では、むしろ上記二番目の、教主釈尊を三界の主とする神仏秩序体系を再建することが初期の立正安国思想の本意ではなかろうか。そのテーゼは、周知のごとく、次のように表現される。
世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て魔来り、鬼来り、災起り、難起る(13)

 法華経が捨てられる故に「四天王並に眷属此国を捨て、日本国守護の善神捨離し已る(14)」ことから災難が起こる。安国のためには諸天善神の守護が不可欠だという広義の神国思想が根底にある。次の一節も、この日蓮的「仏法為本」の立場を提示している。
釈迦如来は此等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。〔中略〕この親と師と主との仰せをそむかんもの、天神地祇にすてられたてまつらざらんや。不孝第一の者なり(15)

1.4 神仏体系の中の日蓮
 ここに、日蓮が初期から釈尊を此土有縁・主師親三徳具備の仏、「一切衆生の本師(16)」と見なしていることは明確である。そこで、『開目抄』の結論を思い起こせば、「日蓮は日本国の諸人にしたし父母なり(17)」と、三徳具備の仏に相当する者として宣言され、その資格において「日本国の親」として定位される。その背景には、佐藤が後の論文で指摘するように、コスモロジーとしての神・仏・王権の階層的秩序体系がある(18)
帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まほり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし(19)

 さらにもう一節挙げておく。
仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給いて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給う。須臾も相背かば梵王の高台もくづ(崩)れ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほ(冠)り落ち給うべし。神と申すは又国国の国主等の崩去し給えるを生身のごとくあがめ給う。此れ又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時もそむ(背)かば国安穏なるべからず。此れを崇むれば国は三災を消し七難を払い、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給うべし(20)

 ここに、久遠実成の教主釈尊を三界の主とする壮大な階層的支配関係を見るわけだが、 本稿立論の枠組みでは次の五点を指摘して強調しておきたい。

1. この神仏の秩序体系の各階層・領域ごとに主師親の三徳を具備した統領がいる。

2. それは十界の階層的主従の支配関係で、人界の王権は神仏に対しては従うべきものである。したがって、逆に、その主従関係に背くか、あるいはもっと根源的には教主釈尊の成仏の本因本果の妙法に背けば、三災七難が起こる。

3. この十界の階層関係の中で、法華経の行者は如来使として安国のための俗権を統括する宗教的権威として位置付けられ、日本国の主師親として定位される。それ故にこそ日蓮は国家の宗教政策の誤りを糾すべく国主に対して諌暁した(21)

4. 三災七難が起きている状況の中で、如来使としての日蓮を敬い、国主並びに臣民が妙法に帰依すれば、本来の宗教的支配関係が再建され、諸天善神が守護する。したがって、その解決策は謗法の「一凶を禁じ」、「実乗の一善に帰」すことであり、その時、神・仏・王権の階層的秩序体系としての「三界は皆仏国なり(22)」という状態になる。日蓮は本来の宗教的秩序の回復を目指したのであり、政治的・社会的変革を意図したわけではない。

5. 後生には無間地獄から仏界までの世界が想定されているが、上記 1.2 で指摘したように、この考え方は特に身延期になって「霊山浄土への往詣信仰」として定型化されたと見なしてよい。

 日蓮の立正安国思想にはきわめて中世的な神国思想が背景にあるが、他方、成仏につい ては内在化された仏陀観と娑婆即寂光の思想が根底にあり、霊山浄土も此土の延長線上で 考えられているという、極めて重層的な構成になっている。

2 霊山浄土と釈尊の二重性
2.1 挫折による絶望からの彼岸信仰か
 次に、佐藤は「仏陀観の旋回」と題して、迫害・流罪の厳しい状況に直面する佐渡期前後に、「彼を受け容れることを拒む現世を超出し此岸的価値を相対化する、初期以来の此土即浄土という思弁とは明らかに異質な他界的浄土の観念を導入し(23)」、教主釈尊は「現実世界に君臨する外在的・人格的仏陀(24)」として表象される。つまり、浄土と仏陀については内在性と外在性という二つの異質な観念が同居するに至った、と指摘する。佐藤は後の論考でも「現世を超克する理想世界の存在を示し、そこから現実を相対化し批判する視座を打ち立てた(25)」ことを重視するが、この「三界に君臨しあらゆる地上の権威を凌駕する釈尊の観念(26)」については、「実体的な人格神というよりは、仏法の権威の偉大さを比喩的に表現するためのロジックととるべきかも(27)」と、若干の修正を施している。
 日蓮の挫折と現世からの逃避という視点については、すでに戸頃重基が「折伏活動の旺盛だった佐前には、他界表象のかげが薄く、権力の前に挫折して、甲州身延に隠遁してから、とくにそれが顕著になった(28)」、「霊山浄土の信仰は、立正安国思想の挫折の代償として、日蓮の信仰のうちにパラドックスの実を結んだものである(29)」と理解している。
 望月歓厚は内在性を強調する立場に立ち、「霊山」は現実の霊山でも身延山に限定されたものでも、また「指方立相的な常識的実在の浄土」でもない(30)。「凡夫所居の土に、仏の知見を透して実在するところの浄土」を意味し、結局、「大曼荼羅に表現された浄土であって、法華経行者の当処に顕現する悟界である」と言う(31)。そして、「往詣」とは即身成仏で決定している「本有寂光土への還帰」であり、「即身成仏のものが本処に帰るのであって、霊山に往詣して成仏するのではない」と理解している(32)
 この望月の理解に対して戸頃は批判的で、後生の霊山浄土はあくまでも他界表象であると見なし、娑婆即寂光の原理とはまったく別のものだと主張する(33)。他方、日蓮が此処を「今本時の娑婆世界」とよび、「三災を離れ、四劫を出でたる常住の浄土(34)」と規定したとして、娑婆即寂光の原理に「永遠の今」の考え方があることを指摘している(35)。しかし、永遠の今を認めるなら、娑婆即寂光の原理は三世にわたる原理と見なすべきで、戸頃自身が自家撞着に陥っている。
 このように対立する解釈が提示されているが、問題点を整理すれば、次の三点である。

1. 霊山浄土は此土即浄土とは異質な他界的浄土観か。

2. 日蓮は挫折感から霊山浄土信仰ヘと逃避したのか。

3. 釈尊御領観の関連で想定される教主釈尊は外在的・人格的仏陀か。

2.2 穢土と浄土との非連続的連続性
 最初の問題については、すでに上記 1.2 で「現世安穏・後生善処」の理念から示した通りであるが、さらに付け加えるとすれば、例えば佐渡以前1270年9月の『真間釈迦仏御供養逐状』で、富木常忍が「己心の一念三千の仏を造り顕し」たことに対し、その功徳としての霊山往詣が表明されている点である。
此度は大海のしほの満つるがごとく、月の満ずるが如く、福きたり命ながく、後生は霊山とおぼしめせ(36)

 ここでも日蓮は己心の仏界と後生の霊山往詣に対する信仰を互いに異質な観念として提示しているわけではなく、むしろ今世での題目受持や功徳善根の因が来世には仏国土で安住できるとする因果の連続性において捉えていると理解すべきであろう。
 また、霊山浄土の記述が晩年に頻繁になるのは、挫折から現世否定や世俗権力相対化へ傾いたというよりも、日蓮自身が死を意識するようになったり、弟子檀那の訃報に接する機会が多くなったためであろうと思われる。例えば上野殿と呼ばれた南条兵衛七郎は1265年3月に逝去したが、その後の1280年9月には息子の七郎五郎が亡くなっている。まず、夫を亡くした後家尼への手紙には、「霊山浄土」信仰について興味深い視点が提示されている。
 上野殿が死んだ後で「をとづれ冥途より候やらん」と訊ねる中で、娑婆と霊山浄土を「一所とをぼしめせ」と、その非連続的連続性が描かれる(37)。その理由として、法華経の行者として即身成仏しているのであるから、「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏なり(38)」とされる。その場合、「夫れ浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず。ただ我等がむねの間にあり(39)」と己心の十界互具が説かれ、「法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ(40)」と、法華経の行者たる日蓮の檀那であれば今世でも来世でも即身成仏の相を示す。そのためには、「心地を九識にもち修行をば六識にせよ(41)」と教示している。ここで重要な視点を整理すれば、

1. 「心地を九識に持つ」ということは、内在的原理と理解された仏界も九界に対しては本質的に超越性を意味し、それが法華経の行者の「超世俗性(42)」を意味する。この娑婆(九界)にありながら寂光土(仏界)に住するという二重構造が、日蓮における宗教性の意味である。

2. それは即身成仏とも表現される。

3. 仏界は今世の娑婆を寂光土へと開会する内在的原理であるが、後生はその延長線上に、いわば仏界の世界としての霊山浄土へ往詣するという構造になる。

4. ただし、「地獄即寂光」ということからは、十界のどんな世界にいても、原理的には常に仏界に住するのであるから、死後の場所を限定する必要もない。

 死と直接関係しなくとも、修行の姿勢として娑婆にありながら寂光土に住するという超世俗性の二重構造は、阿仏房を佐渡から身延に遣わした千日尼に対する手紙にも指摘されている。
御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり。仏に成る道も此くの如し。我等は穢土に候へども心は霊山に住べし。御面を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん(43)

2.3 聖霊信仰
 後生の霊山浄土が「他界表象」であることは当然であるが、その他界も此土有縁としての非連続的連続性の範囲で想定されており、決して娑婆を遠く離れた極楽浄土を意味しているわけではない。「冥途から便りがあったか」とか「霊山浄土で娑婆のことを見聞きしているだろう」というように、この娑婆世界のどこかに、霊的なものとして、ごく身近な、ある意味では非常に日本的な霊魂信仰だったと思われる。1280年の『上野殿母尼御前御返事』でも同様である。
を(老)いたる母はとどまりて、わかきこはさりぬ。なさけなかりける無常かな無常かな。かかるなさけなき国をばいと(厭)いすてさせ給いて、故五郎殿の御信用ありし法華経につかせ給いて、常住不壊のりやう山浄土へまいらせ給う。ちちはりやうぜんにまします。母は娑婆にとどまれり。二人の中間にをはします故五郎殿の心こそをもひやられてあわれにをぼへ候へ(44)

 佐藤はこの文が「現世を厭悪しての霊山への往詣(45)」を説いていると解釈するが、単に無常な娑婆世界と常住不壊の霊山浄土とを対比しているに過ぎないのではないだろうか。むしろ問題にすべき点は、日蓮が故人を「聖霊」と呼び、死後の四十九日はまだ中間にあるという死後の霊魂の存続を想定する風習を踏襲していることである。
2.4 謗法の帰結としての蒙古来襲
 そこで、日蓮における神祇・聖霊信仰の背景を重視すると、そもそも日蓮の立正安国思想には政治体制変革を目指す論理は内包されていない。蒙古来襲についても、日本国の謗法の帰結としての罰であると観ていた。佐前では
今一国挙りて仏神の敵となれり。我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起るとみへたり(46)

と言い、身延に入ってからも
前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり。是は梵王・帝釈・日 月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり。日蓮は愚なれども、 釈迦仏の御使・法華経の行者なりとなのり候を、用いざらんだにも不思議なるべし。 其の失に依つて国破れなんとす(47)

と、達観していた。したがって、第二の問題については、国主諌暁の挫折や迫害の故に世俗権力の相対化を計ったり、霊山浄土信仰ヘと逃避しなければならない必然性は論理的にも実践的にもまったくなかったと言わねばならない。
2.5 教主釈尊の二重性
2.5.1 在世の釈尊と末法のための教主釈尊
 次に、三番目の教主釈尊の外在的性格の問題について考察しよう。身延に入った直後1274年5月の『法華取要抄』では、寿量品に説かれる「五百塵点劫已来妙覚果満の仏」が「我等が本師教主釈尊」であり(48)、如来滅後二千余年の末法に弘通すべき法が「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」、すなわち「本門の本尊と戒壇と題目の五字」であることが強調されている(49)。その場合、日蓮は上行再誕としてこの「久遠実成の釈尊」から妙法を伝授されているという自覚であるが、その教主釈尊と末法の衆生の関係については次のように述べている。
此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。〔中略〕有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮ぶが如く(50)

 同様の主旨は1277年6月の『下山御消息』にも見える。
我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり(51)

 つまり、十界互具・一念三千の原理からは、釈迦も衆生も同じ九界即仏界・仏界即九界の存在構造を持っているはずで、ただ一応、仏は天月として仏界を表に、衆生はその影として仏界を裏にする九界が表になると理解してよいであろう。
 ただし、同抄では松葉ヶ谷で法華経第五巻で頭を打たれた事件に触れる中、「教主釈尊より大事なる行者(52)」という観点が強調されている。この問題は法華経の行者と教主釈尊との関係に関わるが、本質的には仏と法の関係が根底にある。
2.5.2 諸仏所生の妙法
 仏と法の関係は、何を本尊とするのかという根本的な問題設定の中で考察されている。1287年9月の『本尊問答抄』では、末代悪世の凡夫は法華経の題目を本尊とするが(53)、その理由は「仏は所生・法華経は能生(54)」だからである。その限りでは、一切諸仏に対する妙法の優越性が主張され、普遍的な法を根本にする「法勝人劣」の立場に立つと言える。しかし、法を根本とすると言いながらも、さらに続けて、
今日本国の王より民までも教主釈尊の御子なり。〔中略〕法華第一と申すは法に依るなり(55)

と、いわゆる三界の主としての釈尊観と仏法至上主義の立場が同じものとして表現されている。つまり、「一切衆生の本師・教主釈尊」とは超越的・外在的実在としての仏ではなく、「法」やその超越性・至上性を意味するのではないのか(56)。典拠を幾つか挙げる。
 此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世の諸仏の恩師、一切の女人の成仏の印文なり(57)

 此の妙法は諸仏の師なり。今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非らず(58)

 至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之れあり。之を名けて妙法蓮華となす。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば、妙因・妙果・倶時に感得し給う。故に妙覚果満の如来と成り給いしなり(59)

 其れ法華経と申すは八万法蔵の肝心、十二部教の骨髄なり。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成り、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ(60)

 ここに、先に 2.4.1 で引用した「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏」とは、本因即本果・因果倶時の妙法を師としているという関連が明らかにされる。つまり、一応は「法勝人劣」の立場に立っているのだが、妙法が九界即仏界という因果倶時の存在構造を表すことから、仏と法は理として一如となる。この理論的枠組みの中では、天月としての釈迦は仏界即九界を、その影としての衆生は九界即仏界と表現できる。そして、事として存在するのは妙法を受持する末法の衆生であり、その自己同一性が地涌の菩薩として表現される。したがって、『下山御消息』の「教主釈尊より大事なる行者」という観点は、理に対する事の優越性を物語っており、久遠仏・教主釈尊は凡夫即仏の普遍的・内在的原理を顕わす象徴的表現と理解してよい。
 つまり、日蓮は法華経教相上の本来超越的・外在的な教主釈尊に人法一如を観る中で、むしろ法を表にして普遍化・内在化の方向ヘと変質させていった。同様に、法華経の虚空会の儀式が時空を超えた永遠の儀式として表象され、今の娑婆世界における妙法実践の中で顕現するものとして此土化された。今ここに永遠の霊山会が顕現し、霊山浄土にあるという娑婆即寂光の原理は、曼荼羅本尊の建立によって完結することになるのである。
2.6 十界互具の重層的世界観
 したがって、霊山浄土や釈尊の外在的性格はむしろ法華経の教相に由来するものであり、また日蓮が踏襲した十界の伝統的生命観・世界観が重層的に並存しているためである。十界については、妙法の因果倶時の十界互具の他に、次のような意味がある。

1. 伝統的な十界の世界観。それは現世でも来世にも存在する因果応報の世界であり、上記 1.4 で引用した『神国王御書』に「後生には人天と三乗と仏となり給うべし」と表現されている通りである。

2. 十界の中の人界。現世で人間として生まれたことは、十界の世界観の中での人界に生きているということで、上記 1.2 で引用した『持妙法華問答抄』に「今生人界の思出なるべき」と表現されている通りである。

3. 各界の中の十界互具。これは「瞋るは地獄、貪るは餓鬼(61)」と言われるように、己心に備わる十界の生命状態のことで、浄土も地獄も「ただ我等がむねの間にあり」という内在化された原理である。

4. しかも、その実在性は六道輪廻の娑婆世界に限られ、六道三界を離れた場所に方便土・実報土・寂光土という他土を想定する思考を「影現による仮立(62)」として否定する。六道輪廻の娑婆世界が本覚本有の十界互具の世界であり、「実の凡夫が即身成仏する」寂光土なのである(63)

 そして、この娑婆即寂光の思想は佐渡期にも維持されている。
今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり(64)

 こうして、日蓮の十界互具は伝統的な十界論の外在的世界観と天台の十界互具論を踏襲しながら、独自の内在化・此土化を意図している。

3 十界互具の非連続的連続性
3.1 如来使の本地
 佐藤は「後期における仏陀観念の二重性」の矛盾を「上行菩薩=如来使」の自己規定か ら解明し、次のような結論を導いている。

日蓮のいわゆる上行ないし地涌の菩薩とは、()()()()()において釈尊より題目の五字弘通を委託されたが故に、()()には()()()()において『法華経』の題目流布による()()()の顕現と安国達成に挺身し、その使命を終えた時、()()には再び()()への往詣とそこでの永遠の享楽を保証されるものであった(65)

 卓見である。ただし、これは霊山浄土と立正安国という二つの異質な、互いに矛盾する思想を媒介するというよりは、むしろ法華経の教相に則した理解である。上行菩薩の再誕という自己規定は、「日蓮といいし者は死んでその魂魄が佐渡に至った(66)」ことから始まるわけだが、この宗教的自覚は、もう一つ別の、上記 2.2 で指摘した「心地を九識に持つ」超世俗性であり、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず(67)」という不服従の精神と関わっている。
 そして、佐後、まさにこの上行再誕という自覚において確立された本尊建立において、日蓮の現世への関わり方が変化していった。「詮ずるところは天もすて給え(68)」とは、本来の神仏秩序体系の実現と無関係に、末法の法華経の行者として自己定位し、したがって教義の内在化・此土化の完結を意図している宣言と理解できる。現世での即身成仏がそのまま来世における霊山浄土への往詣となることはこれまで指摘した通りだが、日蓮といいし者は今や世俗にありながら世俗を超越した境地に立っている。娑婆即寂光を自身の上で実現し、穢土で霊山浄土へ往詣している(69)。久遠仏即妙法が現成している。それが「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊(70)」を行じることに他ならない。本尊の建立によって法華経の外在的教主釈尊の法界一元論的世界は完全に此土化され、娑婆即寂光の内在化された世界観が確立された。その意味では、むしろ佐渡期以後の晩年にこそ、法華経の教相を本門観心の立場から内在化・此土化ヘと徹底させる方向が自然な流れであるように思える(71)。したがって、佐渡期以降、逆に立正安国思想の積極的実現は、部分的にしろ放棄されることになる。
 佐藤は日蓮思想に世俗的権威や現世的価値の相対化の論理を見ようとするあまり、「理想の仏国土(霊山浄土)並びに外的超越者(釈尊)を彼岸に想定」したとし、その論理をかえって法然から学んだと理解する(72)。しかし、それは佐藤自身が俗権相対化のためには超越的仏陀観が不可欠だと思い込んでいるからに他ならない。世法に対する仏法の絶対的優位を主張するだけなら、一往は法華経教相上の久遠仏とその御領観で、再往はその教主釈尊所生の妙法の至上性を主張することで足りる。むしろ、日蓮が具体的に世俗的権威に挑戦できた宗教的主体性の面からは、教相上では如来使としての自覚とか上行再誕の自己同一性、現代的にはその妙法を受持する凡夫即仏としての超世俗性、即ち内面化された信仰の確信に他ならない。
3.2 信徒における法華信仰
 この問題は、佐藤が別の論考で1279年の「熱原の法難」における日蓮仏教の民衆レベルでの受容・継承を重視し、法華信徒の農民20名がなぜ拷問に耐えて信仰を捨てなかったのかという問題とも関連している(73)。佐藤は、その理由として、平等の救済を説いた日蓮の教え、民衆の側に立とうとする日興など僧侶指導者の姿勢、領主の圧力に対抗する信仰共同体の形成、謗法者に対する正信者の対決等と分析している。しかし、奇妙にも、彼岸に想定された理想の仏国土(霊山浄土)並びに外的超越者(釈尊)への信仰がその原動力であったとは述べていない。荘園体制化の支配イデオロギーの呪縛から農民を解放し、自立し、権威に抵抗する論理は、専修念仏者の場合には唯一の救済者と見なされた超越的・彼岸的阿弥陀仏によって提供されるとしても、その構図を「法華経の行者」に通用することはできない。日蓮の日興から農民への指導は、佐藤が引用して指摘しているように、その法難を信心の試練と見なして退転しないこと、変毒為薬の原理を実践すること、また謗法者には天の罰が下るということである(74)。他方、この事件の関連で上野殿に当てた手紙でも、成仏するためには不退転の覚悟が必要であると強調し、「法華経のゆへに命をすてよ(75)」と指導している。同じ頃、四条金吾は主君に信仰を反対され、同僚からは敵視されて命を狙われていたような状況にあったが、「法華経の行者」を諸天善神が守護するはずだが、「ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶ふべらず候(76)」と激励している。
 このように、日蓮が弘教の前線を退いて身延に入ってからは、僧俗の弟子たちが運動を展開し、迫害の中で日蓮の思想を追体験していくことになった。「法華経の行者=如来使」として勇気を奮い起こし、困難に立ち向かい、変毒為薬し、不退転の信心を貫き通すことが、一貫して強調されている。これは「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし(77)」と訴えていた佐渡の日蓮自身の態度である。佐渡でも身延でも、教主釈尊や釈尊御領観を担ぎ出すことによって世俗権力を相対化するという形で、法華信仰が展開されているわけではない。むしろ、日蓮の精神を継承するためには、弟子檀那も「竜のロ」を追体験しなければならなかったのである。
3.3 娑婆と浄土の境界で
 最後に、日蓮の竜のロと佐渡流罪の状況は極めて宗教的な意味を持っているが、ファン・へネップの通過儀礼論を発展させたターナーの「境界性」(リミナリティ)と「反構造的共同体」(コムニタス)いう観点から考察を加えておきたい(78)。(成人式などのイニシエーションやカーニバルの)宗教儀式・祭典では日常生活から離れ、その隔離された空間では原初的な境界状態に置かれる。そこでは世界創造や民族の由来を語る神話が再現されたり、世俗の秩序を止揚するか転倒するような状態が表現されたりする。そうした儀式を通過した後、再び世俗の生活に帰るのだが、その時、古い自我は死んで、新たな自我(自己同一性)が生まれる。死と再生のドラマである。そうした宗教儀式は年に一度とかの周期性を持つが、創唱宗教はその境界性を恒常化したものと見なすことができる。
 この神話的要素を重視すると、日蓮は死んで佐渡に渡っており、佐渡の境界域で法華経の神話を再現し、佐渡から帰った時には「この世の人」というよりは、「あの世からきて、あの世に帰る人」への転換がなされたのではなかったか。
悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ(79)

つまり、日蓮は娑婆にいながら本質的には霊山会にいた。ここに、娑婆即寂光とは娑婆と浄土の境界状態を恒常化した原理である。現世の社会との境界で信仰共同体を形成し、後生には「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん(80)」と表現されるように、信者が再び集まる霊的共同体の場が想定される。ここに、身延期の日蓮にはこの二重の意味の超世俗性が顕著になったと理解できる。そして、本尊は霊山会を此土化し、本尊への唱題が世俗的時間の中に宗教的永遠の時を実現する修行形態であると見なせるのであれば、その本尊が確立された段階で日蓮の使命は終わっており、現世への積極的な関わりは放棄されていたのではないのだろうか。
 後は弟子の使命として託したのであろうが、まさにそれ故にこそ問題を多く残すことになった。一つには日蓮滅後の教団化の過程における解釈の相違と分流の問題であるが、その淵源は、日蓮自身が伝統的なコスモロジー、神仏習合思想、聖霊信仰、天皇制、神国思想を是認する中で独自の法華本門観心の立場を樹立していったこと、そしてその重層的な習合思想を未整理のままにしておいたことにあると言えよう。それ故にこそ、日蓮思想の歴史的・仏教学的研究と並んで、今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択する作業も要請されているように思えてならない。


(1) 松戸行雄、「日蓮と本覚思想」、『東洋哲学研究所紀要』第十三号(1997年)所収、(77)頁参照。

(2) 佐藤弘夫、「鎌倉仏教における仏の観念 ─ 日蓮を中心として」、東北大学文学部日本文化研究所編『神観念の比較文化論的研究』所収、講談社1981年。佐藤の論文の中では古い論考に属するが、重要な示唆を受け、立論からも興味深いので、この論文を中心に考察する。

(3) 佐藤、前掲書249頁。この天台教学的な娑婆即寂光とは、田村芳朗が現状肯定と理解した天台本覚思想の意味である(「初期日蓮の国家観 ─ 鎌倉旧仏教との比較において」(東北大学『日本思想史研究』第十号、東北大学文学部日本思想史学研究室、1978年、24頁並びに27頁の注を参照)。

(4) 『題目弥陀名号勝劣事』296(112)。以下、最初の数字は「昭和定本」の、括弧内は「御書全集」の頁数を示す。「f.」は「以下」の意。また、できるだけ平易な文章に書き直した。さらに、真蹟でないものでも、思想的に日蓮思想と整合性を持つと見なせるものは利用した。

(5) 『法華初心成仏抄』1426(553)

(6) 『守護国家論』129(71f.)

(7) 『立正安国論』226(33)

(8) 『持妙法華問答抄』282(466)

(9) 同712(467)

(10) 『開目抄』604f.(234)

(11) 同250頁

(12) 同上

(13) 『立正安国論』209f.(17)

(14) 『守護国家論』117(61)

(15) 『南条兵衛七郎殿御書』320(1494)

(16) 同319(1493)

(17) 『開目抄』608(237)

(18) 佐藤弘夫、『神・仏・王権の中世』、法蔵館1998年、26頁参照。

(19) 『法門可被申様之事』448(1268)

(20) 『神国王御書』881f.(1518f.)

(21) 日蓮は「国王=天皇、国主=北条政権」という二重構造を理解し、晩年においては諌暁の対象を鎌倉幕府から京都の朝廷へ移行させた点については佐藤弘夫、『神・仏・王権の中世』の第三章「日蓮の天皇観」、253-304頁参照。その意味では、『三大秘法禀承事』(226(1023))で「時勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ」という表現には、整合性がある。

(22) 同226(32)

(23) 佐藤「鎌倉仏教における仏の観念」、251頁

(24) 同253頁

(25) 佐藤他、『日蓮大聖人の思想と生涯』、第三文明社1997年、228頁

(26) 同222頁

(27) 同221頁

(28) 戸頃重基『日蓮の思想と鎌倉仏教』、富山房1965年、176頁

(29) 同177頁

(30) 望月歓厚、『日蓮教学の研究』、平楽寺書店1959年、241頁参照。

(31) 望月歓厚、前掲書、242頁参照。望月はその典拠として『御義口伝』「時我及衆僧倶出霊鷲山の事」(2668(756))を挙げている。

(32) 同243頁参照。

(33) 戸頃、前掲書、176頁

(34) 『観心本尊抄』712(247)

(35) 戸頃、『日蓮教学の思想史的研究』、富山房1971年、746頁参照。

(36) 『真間釈迦仏御供養逐状』457(950)

(37) 『上野殿後家尼御返事』同328(1504)参照。当抄の真蹟はなく、御書全集では文永十一年(1274)、昭和定本では文永二年(1265)の7月となっている。書き出しの「御供養の物種種給畢んぬ(328(1504))という表現から、身延期の御書であろうと思われるが、他方、九年後の消息文にしては奇妙な点も残る。いずれにせよ、内容的に日蓮の思想を伝えていると判断して良いと思う。

(38) 同328f.(1504)

(39) 同329(1504)

(40) 同上

(41) 同331f.(1506)

(42) 「超世俗性」とは「世俗にありながら世俗を超えるという意味」である(松戸、「仏教プロテスタンティズムの系譜(1)」、『東洋哲学研究所紀要』第9号、1993年、(8)頁参照。

(43) 『千日尼御前御返事』1599(1316)

(44) 『上野殿母尼御前御返事』1817(1573)

(45) 佐藤弘夫、『鎌倉仏教における仏の観念』、252頁

(46) 『法門可被申様之事』454f.(1272)

(47) 『一谷入道御書』996(1330)

(48) 『法華取要抄』812(332)参照。

(49) 同815(336)参照。

(50) 同上

(51) 『下山御消息』1337(359)

(52) 同1343(363)

(53) 『本尊問答抄』1573(365)

(54) 同1574f.(366)

(55) 同1576(367)

(56) この視点はすでに拙著『日蓮思想の革新』(論創社1994年)第4章「能生をもって本尊とする」(171頁以下)『平成の教義論争』(みくに書房1995年)第3章「妙法は三世諸仏の恩師」(57頁以下)で展開している。

(57) 『妙法曼陀羅供養事』698(1305)

(58) 『立正観抄』848(531)

(59) 『当体義抄』760(513)

(60) 『兄弟抄』1079(918)

(61) 『観心本尊抄』705(241)

(62) 『十法界事』142(421)参照。

(63) 『一代聖教大意』73(402)参照。

(64) 『観心本尊抄』712(247)

(65) 佐藤、前掲書、256頁

(66) 『開目抄』590(223)参照。

(67) 『撰時抄』1052(287)参照。

(68) 同601(232)

(69) 片岡邦雄は同様の主旨のことを述べ、『最蓮房御返事』の「我等が居住して一乗を修行する処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩も行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給う(623(1343))を引用している(「日蓮聖人と地獄・浄土」、『日蓮聖人大事典』、国書刊行会1988年、4121頁参照)。

(70) 『観心本尊抄』719(253)頁

(71) 『御義口伝』の真偽問題は別にしても、その内容は日蓮思想を伝えていると見なせる。また、用語の類似性から、それが天台本覚思想系であるとするのは短絡的である。

(72) 佐藤、前掲書、258頁以下参照。

(73) 佐藤、『鎌倉仏教』、第三文明社1994年、189-215頁

(74) 同、200頁以下参照。引用御書は『変毒為薬御書(聖人等御返事)』、1683f.(1455)

(75) 『上野殿御返事』、1709(1561)

(76) 『四条金吾殿御返事』、1868(1193)

(77) 『佐渡御書』、612(957)

(78) Victor Turner, “The Ritual Process − Structure and Anti-Structure”, Walter de Gruyter, 1995(11969).

(79) 『松野殿御返事』、1273(1386)

(80) 『観心本尊抄送状』、721(255)

(まつどゆきお・欧州研究部長、ハイデルベルク大学講師)


(松戸行雄「日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相」、『東洋哲学研究所紀要』第14号〔1998年〕所収)


〔02.08.25 引用者付記〕
 本論文の全文をここに引用することを快く許可して下さった松戸行雄先生に心から感謝の意を表します。なお、明らかに誤植であると思われる部分が2、3箇所ありましたので、その部分だけは訂正させて頂きました。


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