フレームワークの神話(カール・ポパー)


 フレームワークの神話は、以下のようなひとつの文章で述べることができる。
 合理的で実りある討論は、その参加者が基本的な仮定にかんする共通のフレームワークを共有しなければ、あるいは少なくとも討論のためのそのようなフレームワークにかんして合意していなければ、不可能である。
 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、p. 72)


わたくしはこれに対して、真っ向から対立する次のようなテーゼを擁護したい。すなわち、多くの見解を共有している人びとの間の討論は、心地のよいものになるかもしれないとはいえ、実り多いものにはとてもなりそうになく、他方、非常に異なったフレームワーク間の討論は、時として非常に困難であり、()()()()とても快適とは言えない(われわれはこのような討論を楽しむことはできるが)かもしれないが、はなはだ実り多いものになりうる。
 討論というものは実り多ければ多いほど、討論の参加者が討論から学ぶことが多いといえると思う。つまり、投げかけられた問いがより興味深く、より困難であればあるほど、討論の参加者はより新しい解答を考案するように導かれ、みずからの意見がいっそう揺さぶられ、討論の後では物事をよりいっそう違ったふうに眺めることができるようになる。要するに、知的地平が拡大されるのである。
 この意味で、実り多さというものはほとんどつねに、討論参加者のもともとの意見にどれだけのギャップがあるかに依存することになろう。ギャップが大きければ大きいほど、討論はより実り多くなり()()

(同上、pp. 73-74)


さてここで再び、フレームワークの神話へと眼を転じよう。この神話がしばしばほとんど自明の真理とみなされているという事実があるが、それには数多くの原因となる風潮が存在しているのである。
 その風潮のひとつにわたくしはすでに言及した。これは、理性のもつ力にかんする過剰な楽観主義が裏切られたことから生じたものである。つまり、討論のもたらすものについての過度に楽観的な期待から生じているのである。わたくしが言いたいのは、討論の結果として、ある党派によって代表される真理が別の党派によって代表される誤りに対して決定的かつ当然の知的勝利をおさめるべきであるという期待のことである。これが討論によっていつも達成されるとはかぎらないことが見出されたとき、失望から、討論の実りにかんする過度に楽観的な期待が全般的な悲観主義に転じるのである。

(同上、pp. 89-90)


 フレームワークの神話は、()()()()ことがらについての合理的な討論はできない、あるいは()()についての合理的な討論は不可能だという教義と明らかに同じものである。
 この教義は論理的には、次のような誤った見解から生じている。すなわち、あらゆる合理的討論はなんらかの()()、もしくはしばしば()()と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進──原理や公理の妥当性を合理的に討論するさい、われわれは再び原理や公理に訴えねばならないという主張にみられるような背進──を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない、という見解である。
 通常、こういった状況を経験したことがある人は、原理または公理からなるフレームワークの真理性を独断的に主張するか、相対主義者になる。つまり、異なるフレームワークが存在し、それらの間の合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえないと言うのである。
 しかしこれは誤りである。というのはこの見解の背後には、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴をもたねばならないという暗黙の仮定が存在するからである。しかし自然科学においておこなわれている種類の討論は、われわれ哲学者に別の種類の合理的討論が存在することを教えてくれたと言えるかもしれない。それは批判的討論であり、そこでは、とりわけなんらかの高次の前提から導出することによって、ある理論を証明したり正当化したり確立したりしようとすることはなく、議論の対象である理論を、その()()()()()がすべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
 それゆえわれわれは、()()()()()()()()()()()()()とを論理的に区別することができる。()()()()()は、われわれがどうすればテーゼや理論を確立あるいは正当化できるかという問いから始める。これによって、独断論か無限背進、あるいは合理的には共約不可能なフレームワークという相対主義的教義のいずれかに導かれるのである。これと対照的に、批判的討論の()()()方法は、テーゼや理論の()()は何か、そしてその帰結は受け入れることができるものかどうかという問いから始めるのである。
 したがってこの方法は、異なった理論(あるいはお望みなら、異なったフレームワーク)の帰結を比較することにかかっている。この方法は、相争っている理論、もしくはフレームワークのどちらがわれわれに選択可能な帰結を生むかを調べようと試みるのである。それゆえ、この方法はわれわれのあらゆる理論をより良いものに取り替えようと試みるが、われわれの方法すべてがもつ可謬性を自覚している。明らかにこれは困難な課題であるが、決して不可能なことではないのである。

(同上、pp. 116-117)


文化衝突は、もし衝突している文化の一方がみずからを普遍的に優越したものとみなすとき、その大なる価値の幾分かを失う。そして他方の文化もそれを認めてしまうとき、いっそうその価値を失う。こういった事態は文化衝突のもつもっとも重要な価値を破壊するのである。というのは、文化衝突のもっている最大の価値は、その衝突が批判的態度を喚起できるという事実にあるからである。とくに、集団の一方がみずからの劣等性を確信した場合、他方から学ぶという批判的態度が、信仰主義哲学者や実存主義哲学者によってしばしば叙述されているようなある種の盲目的受容、新しい魔術サークルへの盲目的跳躍、回心といったものによって取って代わられてしまうであろう。

(同上、p. 101)


 ウォーフとその幾人かの後継者は、われわれがある種の知的牢獄、われわれの言語の構造的規則によって形作られた牢獄のなかに住んでいると示唆してきた。わたくしはこの比喩を受け入れる用意があるが、しかしわれわれは通常この牢獄に気づいていないというかぎりでは、これは奇妙な牢獄だということを付け加えねばならない。われわれは文化衝突を通じて牢獄に気づきうるのである。しかしそのとき、まさに気づくということによって、牢獄から脱出できるのである。十分に努力し、新しい言語を研究し、母語と比較することによって、われわれの牢獄を超越できるのである。
 その結果はまた新しい牢獄であろう。しかし、これははるかに大きく広い牢獄であろう。そして再び、われわれはこの牢獄に悩むこともないであろう。というよりむしろ、新しい牢獄に悩むことになれば、われわれにはつねにこの牢獄を批判的に検討し、いっそう広い牢獄へと脱出する自由があるのだ。
 この牢獄はフレームワークである。牢獄を好まぬ人びとはフレームワークの神話に反対するであろう。こういう人びとは、別の世界から来た相手との討論を歓迎するであろう。というのは、この討論によって、みずからがいままで気づいていなかった鎖を発見し、それを断ち切り、みずからを超越する機会が与えられるからである。

(同上、pp. 102-103)

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〔02.06.24 引用者付記〕
 ここに引用させて頂いた各文章は、その通りの順番で元の論文に登場するものではありませんのでご注意下さい。

 


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