対話主義と可謬主義 |
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(1) 以下のようなポパーの言葉が思い出される。
人を愛するとは人を幸福にしたいという意味である(ついでながら、これはトマス・アクィナスの愛の定義であった)。しかし、すべての政治的諸理想のうちでも、人々を幸福にしようとする理想は、おそらく、最も危険な理想である。それは、われわれの「より高級な」価値尺度を他人に押し付け、そして彼らにわれわれにとって最大に意義を持っているものを彼らの幸福だと思わせ、そしていわば彼の魂を救済するという企てを不可避的に招くのである。それはユートピア主義とロマンチシズムとに至る。われわれのうちの誰れにせよ、あらゆる人がわれわれの夢の美しい完璧な共同体で幸福になるだろう、と確信しているのである。そして、疑いもなく、われわれのすべてが相互に愛しあえるならば、地上に天国が出現することになろう。だが、私が先に(第九章で)述べたように、地上に天国を作ろうとする企ては不可避的に地獄を産み出す。その企ては不寛容を導く。その企ては宗教戦争に至り、そして、魂の救済を異端審問を通じて行うに至る。そして、私見によれば、その企ては、われわれの道徳的義務の完全な誤解に基づいているのだ。われわれの義務はわれわれの救助を必要とする人々を助けることであって、他人を幸福にしようとすることはわれわれの義務ではありえない。なぜなら、他人を幸福にすることはわれわれには依存しないし、それはまたしばしば、われわれがそのような心やさしい意図を向ける人々のプライバシーを侵害することでしかないであろうからである。(K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』、未來社、1980年、p. 218)
友人の場合では、われわれはおそらく、われわれの価値尺度──たとえば、音楽に関するわれわれの嗜好──を押し付けるように努めてよる種の権利を持っているだろう(また、われわれは、彼らの幸福に大きく寄与しうるとわれわれが信じている価値の世界を、彼らに開示するのがわれわれの義務である、と感じるかもしれない)。このようなわれわれの権利は、彼らがわれわれとの絆を解除できる、つまり、友人関係を閉じることができる、という時にのみ、またその故に、存在するのである。(同上、p. 219)
(2) ポパーの弟子のバートリーは、釈尊とポパーとの間には思想的に親縁性が見られるとしている。小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』(未來社、1993年)の pp. 34-36 を参照。
(3) もしもこの私の願いがかなわない場合には、残念ながら、創価学会には、本当の意味での「対話拡大」など不可能だということになるだろう。なぜならば、「可謬主義」を放棄したすべての創価学会員は、必然的に「対話主義」をも放棄せざるを得なくなるからである。このことは、以下の論証から簡単に見てとれるであろう。
1、ある人が「可謬主義」を放棄して、自らが持っているある信念の「可謬性」を拒否することを決断したとしよう。その人は、自分のその信念に対して他人から批判的な議論が提出された時、十分な知的謙虚さを持ってそれを傾聴することができないであろう。表面上はどのように見えるにしても、また、それを本人が十分に自覚していないにしても、本質的には、そうであるにちがいない。なぜならば、相手が批判しているところの自分の信念が誤っていないということは、彼にとってはすでに決定済なのであり、従って、誤っているのはそれを批判している相手の方だということが最初から前提にされてしまっているからである。このような前提の下では、相手の議論の中身を吟味することなく「観念の遊戯」などと勝手に決め付けて、全く聞く耳を持とうとしないといったような、<自ら対話を拒否する態度>すら発生してしまうことになるだろう。
2.1.のような決断をした人は、いざ自分が他人に対して批判的議論を提出しようとする場面になった時には、自らの議論を十分な知的謙虚さを持って他人に聴いてもらう権利を、すでに本質的に喪失しているであろう。なぜなら、当然、彼は、他人にも「可謬主義」を放棄する権利を認めざるを得ないからである(自分はすでに「可謬主義」を放棄しているにも関わらず、相手にだけその権利を認めないなどという不公平は許されまい)。
3.以上のような状況においては、もはや合理的な相互批判(対話)は成立しえない。よって、「可謬主義」を自ら放棄してしまった人は、「対話主義」をも放棄せざるを得ないことになる。
2002.06.04
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〔02.06.08 付記〕
本日、註3を補った。