『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥) |
〇この連載では、ゴータマ・ブッダの言葉や行動を通して、仏教がきわめて現実批判的な、そして神秘性を徹底して排除した宗教であることを示そうと思いました。[p.2]
〇ブッダは、現状認識を曇らせる甘い幻想を排除します。私たちと幻想との蜜月関係は存在しません。幻想の破壊者としてのゴータマ・ブッダにできるだけ迫りたいというのも、この本の目的です。「幻想」を破壊し、「希望」を与えるブッダです。[p.7]
〇「人々に自分が考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じていることが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上の自明性(簡単にいえば「常識」)が、批判し破壊することができるものだと示すこと」と、ミシェル・フーコーはかつて自らの使命を語りました(Dits et écrit, vol.4)。この言葉は、いつも私の胸にあります。[pp.10-11]
〇「痛み」を感じることなく、誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく、自分のやっていることを「善」と思う。これこそ、もっとも避けなければならない態度でしょう。[p.18]
〇ブッダが「超人的な力で病を治した」などとは書かれていない[p.49]
〇「人と違う意見を持った人を尊重する」という「回路」が無かったゆえに、日本は戦争に突入し、そしてそれだけではなく、戦後も変わらなかったのです。[p.75]
〇社会が「悪」のレッテルを張ったものが本当に「悪」なのかを、如実に知見するこころの力が必要ではないか、ということです。ブッダやナーガールジュナの姿勢はまさしくそうでした。[p.76]
〇まさにブッダのなそうとしていたことは、当時の社会にあった「慣習」や「常識」に対する挑戦であったということが分かります。だから友人であったパセーナディ王と対立することもあったのです。いや、それだけではなく、「当時の社会」に対してだけではなく、慣習や常識、「みんながしているから」「昔からの習わしだから」と、自らの行為を常に不問に付す態度や人間の精神の堕落に対する挑戦であったということが分かります。[p.81]
〇「宗教」が、自らの欲望を全面的に肯定し、その達成を目指す「祭祀」「祭り」「イベント」「行事」「スペクタクル」に堕落し、自らを磨き上げて行く「精神の労作業」になってゆかないこの国の未来を、世界はけっして羨まないでしょう。[p.86]
〇呪術的な儀式を行い奇跡を期待する信仰のシステム[p.110]
〇少し考えれば、少し実証的になれば、虚構だと分かるはずのものなのに、しかし、考えさせずに、感情に訴える。感情に訴えるが故に、一見それは、分かりやすく見え、多くの支持を得るのです。[p.116]
〇直接的暴力とは、力であり武器、兵器です。しかし、間接的暴力、組織的暴力、社会的暴力とは、物事の複雑性を見ることを嫌がり、すべて単純に善・悪などに分けて、人なり物事なりを、「悪」や「敵」としてレッテルを貼り、「一件落着」させようとする態度をいうのでしょう。[p.117]
〇つまり、智慧とは、単純化しないこと、常に排除されがちな「他者」「少数者」を思考の視野に入れ続けることであると思うのです。[p.117]
〇安易に、“魔術的に”、結論を出さず、いつも自分の出した結論を相対化し、さらに実相に迫ってゆく「精神の良心的な態度」[p.120]
〇智慧とはあくまで多様へと開かれ、単純化という暴力に抗する力なのです。[p.120]
〇今まで問わなかったことを問い続けることが、「思想」なのです。[p.128]
〇今まで問題でなかったものが問題になった時に、他の“問題なきもの”に逃走するのではなく、問い続けることが精神の働きなのです。[p.128]
〇社会がみとめたものを“善”とし、一列にならんでそれを目指す。そうでない人を異者として排除するようになる。ある集団に属し、“一人前に”生きることがもたらす「習慣」という名の「生命の変形」―なんと不気味なのでしょう。[p.156]
〇必要なのは、ある集団で通用する“一人前”という常識を常に検証する態度です。[p.157]
〇ブッダは何か、すばらしい、一つの固定的なものを知ったのではありません。すべてのものに対して、一切の偏見や先入観を排除した認識の態度を身に付けたのです。ブッダとは、「何かを覚った人」ではなく、すべてのものに対する「偏りのないものの見方を持ちえた人」のことだといえるでしょう。[p.164]
〇ブッダは、「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知ったのではなく、その固定的なもの“から”離れたのです。「何か」という固定的、実体的なものは「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」なのです。[p.165]
〇ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。「永遠の越境者」「永遠の突破者」が「目覚めた者」です。「今の自分に固執して生きること」という儚き夢から「常に目覚める者」がブッダなのです。[pp.166-167]
〇何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。[p.174]
〇永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築してしまったことの表れです。安らかな繭の中で、快適な惰眠を貪るのです。[p.175]
〇固定化、実体化した「悟り」こそ、ブッダが批判し、否定したものです。[p.179]
〇ブッダは絶対的な立場(サンカーラ)を虚構し、執着するということがなかったのです。常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづけることができたのです。[p.188]
〇業報因果論は、人間を過去に呪縛させて自由を奪うのです。もう一度繰り返します。仏教は安易な「因果論」を説いたのではないのです。「因果からの解放」を説いたのです。[p.200]
〇前世を持ち出し、他者を因果の牢獄に封じ込める輩は非難されるべきでしょう。[p.201]
〇安易にアジタたちをニヒリストと断定してはなりません。ブッダとアジタやプーラナの距離はそう遠いものではないのです。アジタやプーラナも業報輪廻思想の落とし穴を見抜いていたのです。[p.204]
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